2019年7月11日 (木)

国民を代表するとは?

国会議員は国民を代表するとは言うけど、本当にそうか?ある意味ではそうだろう。参議院の比例代表などは、医師会や連合など業界団体の代表が一人選ばれて名簿の中に入っている。業会及びその背後にいる人たちの多さを考えれば、こうやってある国民の一部が代表されているともいえる。

 

しかし、私が言っているのはこういう形での「代表」というわけではない。これを考えるきっかけとなったのは、国民=有権者側の投票率の低さ、そして訳あって今勉強している「統計」。神林博史先生の「一歩前から始める「統計」の読み方・考え方」という本が面白かった。勘が也氏先生のあとがきを読むと、何と先生は東北学院大学で教えていると言うことで、自宅から見える学院大のあの校舎のどこかで、こんな面白い授業が展開されているなんて、学生さんがうらやましい、と思ったところだ。さて、これから書くことは神林先生とは一切無関係で、私自身の考えである。

 

まず、投票率の低さ。いま国政選挙の投票率は5割前後で、おそらく今回の参院選もそのようなものだろう。しかし、今の選挙制度では、5割の投票率のうち3割を獲得している自民党が全議席の3分の2を確保している。これで、堂々と、わが党は民意を反映していると言えるのだろうか。(もちろん、「立派に反映している」という反論もあるだろう)

 

そこで、よく統計の教科書に書いてある「世論調査」だ。「世論調査」は本当に国民全体の意見を反映しているのか?理論上、「反映している」のだそうだ。それは、「スープ」の理論だそうで、スープの味見をする時に、全部飲み干して味見する必要はなく、よくかき混ぜで、スプーン1杯分取り出してみれば、全体の味の加減もわかるというのと同じことだという。つまり、うまく国民全体を代表するように人を選んできて、その人たちに意見を聞いてまとめれば、それはほぼ国民全体の意見を集約したことになり、その真の意見とのずれは、誤差の範囲なのだ。

 

ということは、「世論調査」で意見を集約してそれを、選挙に反映するようにすれば、うまく国民全体の意見を反映させることができ、そうなれば国会議員は多様な国民の意見を代表する真の代議制民主主義に近づくのではないだろうか。

 

各社の世論調査で少し違いが出るのは、読売新聞が、有権者が「よくわからない」と答えた時は、重ねて質問して自民党や安倍さんに有利になるようにしているといった多少の差はあるそうだが、今の世論調査で支持第1党は、自民党ではなく「無党」だ。有権者が、自分の意見が政治に反映されないからと、無力感を抱き選挙を棄権させないためにも、世論調査で5割を占める無党派の議員を国会の議席の半数近く配してはどうだろうか。この議員たちは無党派なので、当然、どの政党にも所属しない。何かの議題ごとに、例えば「憲法を改正しますか」「消費税を上げますか」「NHKの予算を承認しますか」と問われるごとに、いいと思う方に、あっちについたりこっちについたりして決めていけばいいのではないだろうか。その国会での投票行動は、自分たちを選んでくれた「無党派」の思いや心情を忖度して代表するようにするが、もしかしたら生身の人間に議員さんをやってもらわなくてもいいかもしれない。無党派の考えや気持ちがわかるようにAIを訓練して代表させてもいいかもしれない。

 

このように政治改革をすれば、低投票率も改善されるし、望ましい民主主義にも近づくのではないだろうか。今回は、まじめな提案と受け入れられてもらえないような内容になってしまったが、次回(があれば)、また「統計」と関連させて考察してみたい。

 

 

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2019年7月 1日 (月)

日米安保は破棄すべきだ

アメリカのトランプ大統領から、日米安保は破棄すべきだという提案があった。日本の支配層は、トランプさんは変人なので彼の発言は一端脇に置いといて、日米安保は不変だと、政府間では確認しているなどと極めて冷静を装わないで、いい提案をしてもらったいい機会だと捉えたらいいのではないだろうか。

 

トランプさんが破棄すべきという真意は、日米安保が片務的で、一方的にアメリカが日本を守ってやっているからで、その逆がないという意味だ。日本政府が、いや、そんなことはない、という反論の内容としてあげるのは、基地を差し出しているし、滞在費まで負担してやっている、今後はアメリカの要望に従って、中東などでアメリカが戦争を始める時は、自衛隊が先兵となるというものだろう。

 

私のトランプさんに対する反論はこうだ。アメリカは時代時代に合わせて自国の利益のためだけにやっているのであって、日本は片務的だとかという義務感を感じる必要性はない、ということだ。安保条約を日本に押し付けた時は、アメリカは自国お国益のために、共産主義諸国への防災壁のために日本を軍事利用しただけで、しかも極めて有利に利用している。時代が変わった今も、自国の利益のために日本は利用価値があるし、地位を保証してやっている支配層からの貢ぎ物も入る。中東で、イスラエルの利益を守ってやるためにアメリカが戦争を始める時、日本の自衛隊を先兵にすれば、自国の損害は少なくなる。決して片務的ではなく、一方的にアメリカの国益のために行動しているだけで、そういう意味では、世界には「理想」なんてものはなく冷徹な国益最優先の国際政治があるだけだ。

 

私は、せっかくトランプさんがそう言ってくれるのなら、日米安保はやめた方がいいと思う。国民の立場から言えば、空から米軍の飛行機が落ちてきたり部品が落ちてきたり、米兵の犯罪があれば、安心・安全な暮らしが脅かされる。中国・韓国・北朝鮮の脅威を言い立てる意図がいるが、それを言い立てている、本人がその脅威を作り出しているのであって、私は、周辺国が脅威だと思わないし、多くの人が戦争を望んでいないのは、隣国も日本も同じだろう。もちろん問題もあるが、戦争の脅威は、国民に自由な考えを表明させない、独裁的な政治・政策プロセス、報道管制によって国民に情報が伝わらないと言った非・民主的なことから生まれるのであって、非・民主的なことにかけては、日本社会にだって戦争を推し進める脅威は周辺国と同じくらいある。兵器をそろえて安全を作り出すのでなく、相互理解と民主的なプロセスの広まりで、東アジアが平和的に安定すれば、に日米安保は不要だろう。もちろんそれを望まないのは、アメリカとアメリカによって支配層の地位についていられる日本の人たちだろう。安倍さんが、せっかくイランに行っている間に、日本のタンカーを攻撃する動機と利益が一番ある国と言ったら、アメリカだろう。

 

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2019年1月 7日 (月)

1930年代と重なることはないだろうが…

「わが国独自の文化が認められない…」と言って、国際団体から脱退し孤立的で独善的な政策を推し進める。政府の我が国の文化・歴史が一番という強気な姿勢に国民が鼓舞され、熱狂する。というところまでは、日本国民も行っておらず、冷静な、というよりは無関心な気がするが、政府の強気な姿勢は、中国大陸での画策を環椎するために、1930年代、国際協調から脱した時の日本の姿と重なる気がする。もし、歴史に繰り返しがあるとすれば、今度は大陸の国家との泥沼の戦争に突入ということになる。

 

韓国にも中国にも一切妥協せず、アメリカにはすべて譲るという安倍さんの姿勢は、今、日本国民から支持が高いが、私は安倍さんやその支持者の極右的な考えや姿勢こそが、問題をまったく解決しない一番の根本問題だと思う。そして、そういう人たちを、高く支持している、国民ももう少し勉強して、彼らこそが問題をこじらせている元なのだという自覚をもって、政治的な投票行動などをすべきと思う。

 

原爆を投下した側のアメリカ国の大統領が、広島を訪問して、被爆者と語りあった。被害者である被爆者の方々は、アメリカを憎んでもおかしくないと思うが、大統領の訪問と語り合いは、彼らの心の傷を癒す行為であったし、被害者が望んでいることはそういうことであったと思う。韓国で人権を踏みにじられた人たちが望んでいることもそういうことであり、なぜ、アメリカ国の大統領のように、彼らの心の傷を癒しに行かないのだろうか。

 

私企業が過去に行った不法行為にたいして、私企業としての補償を中国では行い、それはある程度うまくいった。韓国でも同じように行おうとしたときに、そういうことは絶対にするなといったのは、安倍さんたちだ。私企業は、私なんかと違って、政治的なことに興味があって活動しているのではない。経済合理性に基づいてだけ行動している。だから、「良い政府」とは、私企業が一番活動しやすい政府だ。もう、安倍さんたち極右には、経済的な合理性はない。経団連も、もう安倍さんたちを見限ってもいいのではないか。


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2018年12月 6日 (木)

福島第一の事故 津波予測の甘さ

12月5日付の『河北新報』を見て、おやっと思った記事があった。

 

見出しが「福島第一の事故 津波予測の甘さ 東電副会長が、英で講演」とある。ついに、あの天下の東京電力が、自らの罪を認めたのか?これは、犯罪として刑事告訴された事案や、まだ未解決の多数の民事裁判にも大きな影響があるのでは?と思ったら、内容は反対だった。

 

東京電力の副会長がロンドンで講演し核発電所の事故について言及したことは事実であり、「想定する津波の高さが低すぎた」「非常用電源はもっと高いところに置くことができた」ことは認めたものの、安全策の向上を絶えず追求し、どんどん対策していけば、核発電は安全であり、さらには核事故以降の日本政府の規制対策は十分で、これで事故は起こらなくなった、という核発電再開と輸出に向けての、アピールというのがどうやら本音であったらしいというのが、私の記事に対する深読みだ。

 

ちょっと、待ってくれと言いたい。核発電は「安い、安い」というのが政府、自民党、官僚・財界の言い分のはずだが、どんどん安全策を施していけば、安くなくなるのではないか?まあ、いくら経費がかかってもどうせ、国民に転嫁するのだから、自分達の懐は痛まないし、そういう意味で「安い」ということなのだろうか?

 

まともに考えればおかしい気がするが、「朝、パンは食べだが、ご飯は食べてないので朝ご飯は食べてない」という論法を毎日聞かされ、そしてそれを拡張・伝達する国営・国策放送網のせいで、頭がおかしいのは自分の方なのだ、という気がしてくるから不思議だ。


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2018年11月15日 (木)

外国人労働者受け入れ

いよいよ日本は外国人労働者受け入れ政策へと、公式にかじを切ることになった。実は今までも、隠然と、外国人労働者を受け入れてきたが、知らんぷりをしてきただけだ。

現代の「人身売買」とも称される「実習生制度」などがあり、建前上、彼らは「労働者」でないから、人権や保護に値しないとして見捨てられてきた。しかし、多くの人が外国人が身近に働いていると実感してきているのではないだろうか。外国人労働者は、私たちの社会に確実に増えている。

外国人に接する機会がある私は、この時代の証言として、思ったことをここに書いておくのも価値があることではないかと思う。労働者の隠れ蓑は「実習生」だけでなく「留学生」もだ。

私たち多くの日本人にとっては「海外留学」は夢をかなえるもので、外国の大学で学び、より良いキャリアを切り開くものだ。ノーベル賞を受賞した科学者も、多くが若い時に海外留学を経験している。しかし、ここで言う「留学」は、「出稼ぎ」のことだ。日本で正式に「労働ビザ」が出ないから、「留学生」というビザを取得して、日本で働くのだ。

「実習生」ほどではないのかもしれないが、「留学生」の境遇も大変だ。搾取もあるし、日本語もわからないし、日本での生活を支援してくれる人たちもいない。企業ももちろんしない。企業は、利益を上げることが目的であって、福祉やボランティアで、彼らに接しているわけではないからだ。かくいう私も、彼らの力に十分なってやることもできない。住む場所ひとつとって見ても、外国人お断りのところも多いし、日本独特の「保証人」という制度もある。

今度、公式に「外国人労働者」を受け入れるにあたって、受け入れ企業に日本語教育などの外国人への支援を義務付けるということだが、私は、そんなことやる企業などいないと思う。まず、企業は、労働者を利益を上げるために使うのであって、労働者の福祉を増進するために彼らを雇うのではないから、おのずから彼らに接する態度は決まってくる。

さらには、人手不足で外国人労働者が欲しいのは中小企業だ。中小企業に、労働者支援などやるほどの財政的余裕や人材的余裕があると、制度立案者の人たちは、本当に思っているのだろうか?現場のことを知らなすぎるのではと思う。

国連難民高等弁務官フィリッポ・グランディ氏のコメントが配信され11月14日付の『河北新報』で読むことができた。彼のコメントを引用する。「外国人が増大する状況に付け込み、不安をあおる政治家は欧米にもいる。だが、国境を閉じたり、壁を作ったりするのは法的にも道義的にも間違っている。目先の選挙の票になるかもしれないが、結局は密入国などの犯罪を生むだけで、問題解決には役立たない」

「外国人の増加自体が摩擦の要因ではない。彼らが社会に溶け込めず、隅に追いやられ、排除されたと感じるときに問題が生じる。職業や語学訓練を通じ、社会の一員として定着すれば、日本の発展にも寄与できる」


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2018年11月 1日 (木)

知らずしてわれも撃ちしや

歌人の永田 和宏氏が今上天皇の御製を解説してくれている。私の場合、『河北新報』に配信されている新聞記事を読んでいる。永田氏の意図のひとつは、今上天皇の御製を通じて平成という時代を振り返ろうとしていることであろう。

 

10月16日付の記事は美智子妃の「知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず」という御製の解説だ。

 

この歌の背景を簡単に要約する。バーミアンの石窟仏教遺跡はアフガニスタンにある。偶像崇拝を否定するイスラム教徒により顔をそがれた大仏像が残っていた。昭和46年皇太子・皇太子妃はアフガニスタンを訪問しこの顔のそがれた仏様を見て、歌を残されている。

 

そしてそれから30年後の平成13年に、タリバンによる大仏の爆破は私自身も記憶している、世界中に衝撃を与えた事件であった。

 

表出の美智子妃の歌は、この事件直後に読まれたものと思われるという。

 

永田氏のこの歌の解釈が大変優れていて、私は教えられること大であった。

 

「タリバンを批判することはたやすい。しかし、一方で自分たちはアフガニスタンの民のために何をしてきたのだろう。子どもを含め飢えに苦しみ命を落とした大勢の人々がいるが、世界はそれらに対して十分な援助をしてきたと言えない。仏像破壊に世界は騒いでいるが、その破壊に手を貸したのは、一人一人の「無関心」ではあるまいか、と美智子皇后はこの歌で自問されたのではないか」

 

 

政府主催の明治150年記念式典に出席しなかったのは、天皇ご夫妻と共産党の志位委員長だったというのは、この時代の象徴的な出来事だと思う。靖国神社の宮司もくしくも今上天皇を批判して、「天皇が慰霊の旅を続ければ続けるほど、靖国はダメになるんだよ」といったのは本当に的を射ていると思う。

 

 

戦争で亡くなった人たちというのは、アジアで日本軍の犠牲になった人、そして沖縄で日米両軍の犠牲になった人も含めて、こういう人たちが「お国のために犠牲になった人たち」だ。無謀な作戦を命じて、部下や民間人を死に追いやった人ではあるまい。「寄り添う」ことを考えている今上陛下と、安倍さんや自民党政治のやり方は、まったく正反対のところにいると思う。安倍さんや菅さんが押し進める強権を押し付ける政治に反対の声を上げ続けなければいけないと思う。

 


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2018年10月14日 (日)

性急すぎる「反原発」

2018年10月7日付の『河北新報』に東北大名誉教授の宮崎正俊氏の投稿が掲載された。宮崎氏は、核発電所擁護派だが、河北新報は擁護派・反対派の別なく、公正に議論を掲載してくれるので、民主的な議論を盛んにし、そして情報に基づいた決定と行動を主権者=決定者である私たちがするためにも、河北新報のジャーナリズムの態度は尊重に値する。

 

宮崎氏は核発電の4つの論点に対してすべて的外れだとする。以下に氏の意見を要約してみる。

 

①災害に多い日本で原発の事故をゼロのすることはできない。

 

→科学技術が生み出したものは災害に関係なくリスクがある。設計時にリスクを最小にするようにしているが、ゼロにはならない。リスクを承知の上でモノの利便性を享受しているのだから、ゼロリスクでないといかんというのであればこの世に利用できるものなどない。


②核発電から出るプルトニウムは核兵器に使われる。


→核兵器を作るかつくらないかは政治判断。核発電と核兵器を結び付けてはダメ。

 

③核発電所から排出される冷却水が海を温め環境を破壊する。


→火力発電所も冷却水を流しているのだから同じことだ。

 

④使用済み核燃料を保管する場所がない。

 

→核発電所を持つ世界の国々共通の問題。日本が解決すべき問題ではなく、そのような他の国々と協力して解決する問題。

 

以上のように述べて、宮崎氏は「脱原発」運動は性急すぎ、核発電技術を失うのは惜しいとの心情を漏らす。

 

さて、宮崎氏の主張に対しては、核発電廃棄を願う私たちの方でも、また議論を起こし反論を考え、核発電擁護の人たちを説得していかなければならない。

 

宮城県の女川核発電所の存否は、そこに住む人たちがリスクを引き受けるのだから、国でも、時の政権でも、専門家でもなく、私達の意思表示で決めようではないか、という住民投票運動がある。住民投票の実現のためには、まず有権者の署名が必要だ。私は署名を集める受任者になっているので、女川発電所の是非住民投票にご興味のある方は、連絡をいただければと思う。

 


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2018年10月11日 (木)

ノーベル平和賞のメッセージ

今年のノーベル平和賞は、女性に対する性暴力に取り組むコンゴ人医師と女性活動家の2氏に授与された。ノーベル賞は権威ある賞だ。それは積み重ねてきた歴史だったり、創設された経緯だったり、高邁な理想に多くの人が共感する力だったりする。権威があるからこそそれを欲しがっている宗教団体の指導者もいる。

 


しかし私が特に平和賞に注目するのは、その政治的なメッセージ性の強さだ。過去の核廃絶キャンペーンの受賞にせよ、その時々の最重要課題に対して人々の目を向け行動へと促すメッセージだ。今年の受賞はだから、女性への性暴力は許されない、女性に対する性暴力や人権侵害がこの世に存在することに人々の目を向け、それは許されないことだというメッセージを発しているのだ。

 


政治というのは、だからこのように何かメッセージを発するとか、逆にメッセージを発しないということで、非常に大きな効果や機能を果たしているわけだ。だから安倍さんの自民党政権である日本政府の沈黙は、やはりこれはこれで強力なメッセージを発していると思う。そして、人権問題、女性に対する性暴力にメッセージを発しないことが、安倍さんや政権の態度や性格をうかがわせるものになっている。

 

メッセージを発してくれる人を、私は私たちの代表に選びたいと思っている。


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2018年9月30日 (日)

科研費・反日

前回わたしは、杉田さんが執筆した「生産性がない人々」論文について書いた。国会議員の杉田さんについては、古い記事ではあるが、2018年7月2日に『河北新報』に掲載された国立天文台名誉教授 海部宣男氏の意見記事についても関連があるので、紹介したいと思う。

 

杉田さんの活動はこうだ。日本によるアジア植民地支配に関した研究者を名指し、講演や論文で反日的主張や研究成果を世界に向けて発表するような研究者に多額の研究費を出すことについて、文科省を批判したり、ネットや産経新聞などで研究者に「反日」のレッテルを貼り、攻撃を繰り返したというものだ。要は、国家の税金を使うのであれば、国家を礼賛する研究でなければならず、日本の悪口を言う研究には税金を投入すべきでないというものだ。

 

杉田さんの主張や考えは、安倍首相の考えに近いものであり、今の日本では杉田さんが主張した「生産性のない人々」論文と同じように、一定レベルの、いや多くの支持を得ている考えだ。

 

杉田さんの考えに対して、反論する側は、例えば法政大学の田中学長の「専門的知見に基づき社会的発言を行うものに対する恫喝や圧力であり、互いの自由を認め合い、十全に貢献をなしうる言論・表現空間を求める」主旨が記事には紹介されていた。


 

海部氏の反論のポイントは、「政権は国そのものではない」ということだ。「国」は国民全体のもの、民意で運営してゆくもの。時々の政権は一時的なもの。だから現政権が推し進める政策にたまたま合致しない発言・研究でも「反日」ではない。現政権が野に下って、与党を批判したら「反日」になるのか?ということだ。

 

そして海部氏は民主主義の根幹を考えるように求める。そもそも政権の批判が保障され民意による政権交代が可能なことが民主主義の基本。民主主義を掲げるのであれば、時の政権=「国」と同一視することはできない。政権に批判的なものを「反日」と呼ぶのであれば、安倍さんや杉田さんが大好きな独裁国家の中国や北朝鮮と同じになる、というものだ。

 

私自身は、海部さんの考えに賛成する。私自身は、日本の過去の悪いことは、いい面と同様に客観的に伝えるべきものだと思っているし、戦争のことも子供たちに隠したりしないで率直に見せたり教えたりすべきだと考えている。そうすることで結局は日本が国際関係の中でうまくやっていけることになり国益にかなうと考えているからだ。杉田さんから見れば私も「反日」だろうが、「国」を思う『愛国心』は同等かそれ以上だと思っている。


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2018年9月27日 (木)

新潮45の休刊を考える

杉田議員の投稿をきっかけに新潮45が休刊するということになったとの報を聞いて、残念に思うことがある。1つはこれが、左翼の言論弾圧ということで、左翼やリベラルを憎悪し、杉田さんたちを支援したり共感する多くの人たちを勢いづけてしまうことだ。

 

もう一つは、議論したり考えを深めたりする場や機会そのものが失われたのではないかということだ。杉田さんのような人は、考えを改めもしないだろうし、インターネットがあるので発言の機会そのものはあるのだろうが、杉田さんや氏に共感する人々の思想があって発表されるからこそ、それを乗り越えようとして、そのどこが違っていて、事実誤認があったりという指摘ができたり、それをきっかけに考えを深めていけたりできると、私は思うのだ。

 

私自身の思想や信条の自由が保障されていてほしいように、杉田さんでも安倍首相個人でも、自由に考え、基本的にはどんな思想でも持っていて良いと私は考える。問題は、若い人たちや態度保留の人たちそしてこれからこの社会にやってくる人たちに、どの思想が受け入れられていくかということだ。思想や主義・信条の問題は決して小さくはないと思う。社会全体の雰囲気や住みやすさそのものを決定する。少数者や異質なものを排除する思想が力を得れば、そのまま社会もそういう社会になる。

 

思想も政治も人気投票だから、暴力的でない手段で、支持者を多く獲得していき、その結果多数者が社会の雰囲気を決める。押し付けられる思想でなく、その人が選び取り勝ち取った思想こそが、行動のもととなるという点から言うと、すべての思想に発表の機会があり、それを基に議論が出来て、支持者を獲得していく思想というのが、健全な社会には必要かと思う。


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