UA-92533382-1 書籍・雑誌: よつば農場便り

2022年5月 8日 (日)

『夜と霧』(V.フランクル・池田香代子・新訳)

心理学者のフランクルが、ナチスの強制収容所での体験を、自らの心理学者という立場で分析した著作。本題は、『心理学者、強制収容所を体験する』というものだそうだが、日本でも、霜山徳爾氏の旧訳がたくさん読み継がれてきた。本屋さんでは、旧訳版と新訳版が並んでいたが、私は池田香代子氏の新訳版を手に取った。

フランクルは、自分を被験者としながら、被収容者が、突然日常生活から切り離され、収容所へ集められ、これまで背負ってきた名前、職業などすべてを捨てて番号で管理される初期の心理、そして、強制労働に従事しながら碌な食べ物も与えられず飢餓に苦しむ、過酷な生活を送る心理、そして、ついに解放されることになる心理、などを分析している。

分析や描写はどれも斬新だが、私は特に、収容所生活の苦しみにどんな意味があるのかを考察している後半部分からの叙述に考えさせられることがあった。生きるか死ぬかの常にギリギリのところで、暮らしていた被収容者たちの過酷な生には、もちろん私のような生ぬるい生き方は当てはまらない。しかし、苦しみの中に意味を見つけることという、フランクルの考え方は、普遍的だと思う。つまり、収容所の中にいても、他の世界にいても人の生に共通のことだと思う。

それに、収容所は、遠い過去にあるのではない。私は自分の過去の言動から言っても、政府が推し進める戦争に反対した非・愛国者として収容所に収容されるそんな近未来がこの日本にもすぐそこにせまっているという感じがする。そして、現にこの日本には、外国人を収容する収容所がある。今も、入管職員の恣意のままに拘留されている人たちがいるのに、今後、戦争便乗で、外国人排斥の機運がますます高まり「外国人だから」という理由で、収容所に収容される人も増えるのではないか?

フランクルは、監視者側の人間の心理や、そして被収容者の中で取り立てられて、被収容者を監視する側へと協力するようになった人間の心理も分析している。もちろん、自分が絶対的に有利な立場にあるとわかっていて、相手が無力であれば、いくらでも人間はむごい仕打ちができるようになる。日本の入国管理所で収監されたスリランカ人女性をむごく取り扱った職員の人たちもそうだろう。しかし、それは個人を責めることはできない。人間の性、人間のむごさだ。

だが、限界状況の収容所の中でそこを踏みとどまった人が少数だがいるという証言をフランクルはしている。そういう人間性の気高さを聞かされると鼓舞される。私も勇気をもって踏みとどまりたい。そんなことを思わせてくれるこの本は、フランクルという人がこの記録を書いてとどめなかったなら、この世には存在しなかったはずだ。そう考えると、運命や偶然の尊さに頭が下がる思いがする。

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2022年5月 3日 (火)

『変容の象徴』(C.G.ユング / ちくま学芸文庫)

『変容の象徴』は、不思議なタイトルの本だが、心理学者の泰斗C.G.ユングの著作を野村美紀子氏が訳出された労作だ。この著作は何やらいわくがあるらしい。

ユングは、ウイーンでフロイトのもとで心理学を学び、そして彼の弟子としてそして協力者として研究をしていたのだが、この『変容の象徴』によりフロイトとはたもとを分かつことになったという。フロイトは『変容の象徴』で主張されていることを認めなかったし、ユングはフロイトの理論を否定的に扱った。

フロイトもユングも生の衝動としての「リビド」を扱っているのだが、フロイトの方はより性欲に近い形で考えていて、ユングは、「リビド」が性欲であるはずがない、というようなことをこの著書で主張している。私としては、その様な学説の論争にはそれほど興味があるわけでなく、フロイトとユングという精神分析の2代巨頭が心理学を応用して論じる人間社会や歴史に関する「文化論」がおもしろい。

『変容の象徴』は文庫版の大部2冊でその内容はまことに茫洋としている。もともとは、(のちに精神分裂病を患うことになる)アメリカ人女性の手記を入手したユングが、その内容を分析していくものというのが骨子なのだろうが、手記とはおよそ関係ないのではと思われる世界各地の神話や宗教、その宗教のシンボルなどの紹介や考察が、(脈絡がまるでなさそうに)延々と続く。

だが、こうした混沌や脈絡のなさや豊饒な連想の網の目と言ったこと自体が、人間のこころの奥深さを象徴しているように感じられる。人間の心は、両親に固着している幼児期へと退行していく。だが、その退行に逆らって現実と向き合い自分自身にならなければならない。その過程において象徴的に親を殺したり、逆に親に殺されたりする。こういう精神過程の反映が、宗教だったり、世界各地に伝わる英雄伝説なのだ。そういう意味で、人間の精神の奥底には、全人類に共通した「元型」がある。

キリスト教は、それを信じている人にとっては進んだ崇高な宗教なのだろうが、よく知られているように、キリストが生まれたとされる日と死んで復活するという話は、キリスト教以前の古代宗教や全世界の宗教に共通する、太陽の勢いが一番弱まる冬至と、そして勢いが強まり大地に豊穣をもたらす春への移行を反映しているのだ。キリストが、精霊を吹き込まれて母親のみから生まれたとする話や、生命を象徴する十字架にかけられて死ぬという話も、多くの宗教や英雄伝説に共通のことで、そこには人間の心理の葛藤とその解決法とが潜んでいる。

 

だから、神話や宗教には、そしてすぐれた文学作品などの芸術作品にも、葛藤を癒やす心理療法の働きがあるのだ。そのことをユングはこの著作で述べている。ということは、科学を重んじ経済的利益をあげることのみを追及し、芸術活動を軽視する国家や、国家の威信を高めるために国民を戦争に動員し文学を支配者の翼賛に膝まづかせるような国家は、人々の心が癒されることのない、不毛な索漠とした国家だということがわかる。

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2022年1月29日 (土)

食糧人類

荒唐無稽な漫画ではあるが、隠喩に満ちたこの漫画の世界に引き込まれてしまう。

ある「工場」が登場する。だが、その工場の外観はどう見ても「フクイチ」なのだ、というか、見るものが見れば「フクイチ」をモデルに絵を描いたとわかるプラントなのだ。そこでは、秘密裏に、あることが行われている。それは、「食糧生産」なのだ。

食糧生産と言っても、人間が食べるためのものではない。逆だ。人間を食べるある至高の存在のために、人類が「食糧」として生産されているのだ。政府は、その至高の存在と、国民には知らせずに、同意を交わしている。その同意により、日本国民はある程度損害を受けるが、絶滅することはない。宇宙から来た至高の存在は、その生存のために、人類を欲するが、人類が途絶えてしまえば、その存在も成立しないので、双方の利害が一致して、一定数の「食糧」をコンスタントに提供することになっているのだ。

こうして、日本人なんかよりも、はるかに強力な存在に、生殺の与奪を握られてはいるものの、日本を支配する政府は安泰であるし、何も知らない国民も幸せなのである。もちろん、この生産工場は、人里離れた森の中にあって、一般人は近寄ることは禁止されている。

どうやって「食糧」を調達するのか。それは、通勤や通学の途中、適当に人々を拉致してくるのだが、そのまま至高の存在様に与えても美味しくない。そこで、たっぷりと脂肪がつくまで太らせるのだが、その時に使うのが特殊なドリンクだ。これは栄養が配合されていることはもちろん中毒性があり、いったん飲めば止められなくなる。飲めば思考停止になり、「どうでもいいんだよな」という気分になる。これなどは、テレビの娯楽番組を与えられて満足して思考停止に陥っている国民の状況を思い起こさせる。

太らせた食糧は、屠殺し、冷凍し、解体し、至高の存在様に召し上がっていただくわけなのだが、その食料を生産し、その至高の存在様の世話をし給餌をするのがこの「フクイチ」のような外観の工場なのだ。この工場の従業員も、いろいろな事情があって連れてこられる。大体は、失業しているような人たちを、どんな仕事かわからないが、「知識・経験なし」でOK、しかも福利厚生給与がすごく良いというような条件で、職業安定所などからリクルートしてくる。

仕事を始めてみると、驚くようなことが待っているが、ここでは「疑問を持つこと」は禁止だ。「考えないことにする」というのが大事なのだ。仕事の不満を口に出したり、何か疑問を口にしたものは、いつの間にか姿が見えなくなる。至高の存在様の糧食になってしまうのだ。

日本社会の如く、「何も考えない」「何も疑問を持たない」で、この工場は完璧に運用されているように思えたが、(まあ、途中いろいろな事があって)ついに至高の存在様の存在が暴露される。いわば、「パンドラの箱」が開いた、という状況になるのだ。食糧に餓えたおびただしい数の至高の存在様は、これまで工場の地下深くに隠れていたのだが、工場が爆発して、周辺の空に飛び散っていく。

彼らは、人間が好みなので周辺地域の人間に襲い掛かり、むさぼるように食べつくす。恐怖にかられた人間たちは、工場周辺の地域から列をなして逃避し始める。その場面では、背景を細かく描き込んでいる作者の創意に目を見張った。避難民が押し寄せる他地区の描写なのだが、道路の壁に「避難してくるな」とか「故郷を捨てるな」などの地元住民が書いた落書きを書き込んであるのだ。

こうやってきちんと国民が分断してくれるので、この国の政治や核発電政策は、支配政党に本当にやりやすいようになっている。また次の核発電所事故が起こっても、自分たち自らが「逃げるな」と言ってくれるのだ。まさに、至高の存在に食糧としてささげられるにふさわしい。

というような様々な暗喩にも満ちた恐ろしい漫画が「食糧人類」だ。

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2021年9月26日 (日)

現代アラブ小説全集『アヘンと鞭』(マムリ)・河出書房新社

マムリが書いた『アヘンと鞭』は、アルジェリア独立戦争が舞台だ。アルジェリア独立戦争が舞台ではあるが、そこに描かれた断片的な人間の姿から、全体的な人間の姿を浮かび上がらせているために、すぐれた文学に昇華していると私は思う。

マムリは、アルジェリアの作家だ。であれば、独立なり革命戦争の勝利を大々的に祝福してもよいはずだが、しかし、そのような政治的なプロパガンダ小説が優れた文学になりうるはずがない。そのような政治的な宣伝からは遠く離れていることで、文学的傑作の位置を保つことができている。

この小説を読んで感じることがいくつかある。

ひとつは、侵略者、抑圧者、植民宗主国は残酷だということだ。この場合は、フランス軍だ。独立運動に投じる者たちに「テロリスト」のレッテルを張り、拷問、殺害、そしてあぶり出しを行う。マムリは、それを淡々とした描写で描く。フランス軍の行為を声高に告発するのではない。だから、あらゆる歴史的な時間において、侵略者、抑圧者、植民宗主国は酷薄で卑劣で情け容赦がないということがわかる。そして、私には日本軍の中国や朝鮮半島での行為に思いをはせる。

被支配層の人民にも、植民地支配はむごさをもたらす。現地の人の中には、支配者層におもねり、取り入って、抑圧側に加わり、独立遊撃隊との連絡員を暴き出し密告するものも出る。ここではタイエブという人物がそうだ。しかし、タイエブは、村の中の最底辺として村人たちから馬鹿にされていた者だ。そういうタイエブが、フランス軍の権威を盾に、村人たちとの立場を逆転し、村人たちを抑圧しむごたらしい暴力を振るうようになる。彼のような人は、独立後に、祖国への裏切り者として、人民裁判でリンチされることになるはずだ。しかし、アムリはそのような結末を描かず、この裏切り者のタイエブの苦悩を描く。そこがこの小説の優れた文学たるゆえんだ。現代の日本でも、宗主国の意向を汲んで宗主国の方に顔を向けて政治をしているものは祖国を裏切っているのに、タイエブが感じた苦悩を彼らが感じているとは思えない。

苦悩は、この小説の主要人物と言ってもよいバシールを通しても描かれる。宗主国のパリで医学を学んだアルジェリア人という設定のバシールには、作者の体験が投影されているのかもしれない。バシールは、パリや「文明」が好きだ。しかし、彼は祖国に戻り、いきさつから独立運動に巻き込まれ、ゲリラ隊の軍医として活動するようになる。彼にはフランス人の恋人がいる。バシールが、独立や革命の大義を信じて行動しているかどうかはわからない。インテリらしく、抽象的に何かに悩んでいる。

そのバシールには、独立運動の闘士アリという弟がいる。アリは、フランス軍との戦闘中に捕らえられ、故郷の村で、村人たち全員の前で銃殺される。アリを思うサダディトという娘が、彼の死体を抱いて、彼は独立の日を見ることができなかったが、彼の思いは、皆の中に受け継がれていくと涙する。個を超えた生命の連続をここに見ることができ、感動する場面だ。

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2021年9月23日 (木)

なぜ科学を学ぶのか

池内了氏の「なぜ科学を学ぶのか」(筑摩書房)を読む。科学の基礎知識を学ぶ理科の重要性を指摘している。

著書は、科学がもたらしてくれる恩恵を受け、さらに豊かに実らせるには、誰もが科学の基礎知識を正しく保つ必要があり、科学・技術文明の時代を生きるために、誰もが学校で理科を学ぶことが現代人の常識だ、と述べている。

しかし、「科学」は「理科」と同じではない。「理科」が、自然物そのものを対象とするのに対して、「科学」は、社会的な事象や人間の生き方に関連し、生じている自然現象に対する考え方(判断・予測)や社会との関係までを問う。

理科と科学の違いを踏まえて、著者は、「科学的判断」や「科学的予測」が「理科的判断」や「理科的予測」とはニュアンスが大きく異なると主張する。

直面する問題の解決のために、科学の立場からどう考えるかは、人間の生き方への重要なヒントとなる。科学には自然と人間が関係して繰り広げられる現象を全分野から論じるという意味がある。

科学の考え方を応用することを通じて、「知ることが生きる力に変えられる」ということにつながる、と池内氏は言う。

・「科学する」ことの3つの条件 ①なぜそのことが起こったか仮説を持ち ②それが事実であるか・ないか様々な証拠によって検証し ③その事柄の背景にある、紛れもない1つの確かな「真実」を発見する こと。

科学の精神は何に対しても適用でき、「科学する」ことを、様々な問題に応用して、私たちの生き方に反映させることが大事と言う。

池内氏の主張には、啓発される。科学者や専門家の知見が、社会の政策に生かされる必要があると思うが、専門家や学術団体の意見は無視されたままだ。科学的精神を軽視するものは、その代償をいつかは支払わなければならない。

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2021年8月14日 (土)

河出書房新社・現代アラブ小説選『海に帰る鳥』バラカート

これは、小説的技法を用いた断片的な小説だ。時代背景は、1967年の第3次中東戦争だ。この戦争では、圧倒的な武力を誇るイスラエルが、エジプト、シリア、イラクなどアラブ諸国を圧倒し、エルサレムを占領し、パレスチナ人たちは祖国を失い、再び難民となる。

この時代を、バラカートは、切れ切れの断片で描き出す。おそらく読者で、登場人物や人間関係など読んで把握できるものはいないだろう。しかし、この小説技法が、この時、各地であり得たであろう、そして様々なアラブ人たちが被ったであろう、被害、悲劇を現実描写よりも却って現実的に、普遍的に描き出す。空爆により家のがれきの下から、素手で掘り出される母子、ナパーム弾で全身大やけどを負わされ、目の前で子供を焼かれる男の苦悩、徒手空拳に近い形でイスラエル兵に報復を仕掛けようと執拗に付きまとう男。このような断片がきれぎれに書かれていてストーリー的なものはないが、かえってこの手法により全体が描かれる。

滑稽なのは、こういうときにも男と女の営みはある。そして、アラブが敗北したのは、アラブ自身の頑迷さや因習もあるのではないか、そう小説は所々で示唆する。

さて、この小説を読み、やはり日本は、パレスチナの側に立つべきではないか、と私は思った。イスラエルの人たちも、ヨーロッパでは、さんざん、差別・虐待・虐殺の憂き目を受けてきた。そのような人々が、今度は強者となり、抑圧する側に回る。それはなぜなのだろうか?この謎の答えを私は知らない。しかし、イスラエルは、アメリカやイギリスなどの力も背景に圧倒的な強者として、抑圧する側になってしまった。もし、強い者と弱い者がいれば、迷いなく、弱い者の方の立場に立つべきだ。空爆や原子爆弾の被害を知っている日本であれば、パレスチナ人の苦しみは、私たちの苦しみと同じものだと分かるだろう。

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2021年5月26日 (水)

バイナル・カスライン

河出書房新社から出版されている現代アラブ小説全集。そこからマフフーズ作の『バイナル・カスライン』を読む。マフフーズ1911年、エジプト生まれの作家で、1988年にノーベル賞を受賞したという。アラブ人にとっての民族的作家ということだ。非常に多作な作家ということだが、ここで紹介されていた小説は、第1次世界大戦前後のエジプト・カイロが舞台の小説だ。

カイロの富裕な商人、アフマド・アブドル=ガワードを中心とした彼の一家が紹介されている。まず、主人公の彼は、家父長的な一家の独裁者だ。誰も彼には逆らえない。厳格で恐れられている彼が、実は家の外では、酒を飲み、音楽と女を愛しという放蕩な生活を送っている。でも、おそらく彼は、自分がそういう放蕩な生活を送っているという思いはないだろう。何でも自分の意のままになり、妻や子供は自分の意思に服さねばならないと思っているから。

彼は、奥さんのアミーナが外出することを許さない。それは、当然、女は男の意思に服し、外に出ないということで女は庇護されていると思っているからだ。その妻が、夫の許可なしに、寺院に参詣するというところから、事件が起こったりする。

彼には子供が5人いる。男子3人と女子2人だ。この長い小説の中で、子どもたちもいろいろ苦労もし、成長もし、結婚したり離婚したりする。そのようないきさつが大河小説のように語られ、読み物としては大変面白く、先を読みたいという気をとてもそそられた。

時代背景としては、エジプトがイギリスから独立する波乱の時代状況があり、エジプト人の熱狂的な愛国運動が盛り上がる。その中で、個人も一家も翻弄される。大部の長編小説である『バイナル・カスライン』そのものが、3部作の一つなのだという。作者の筆力に驚きながらも、カイロ市街の猥雑な雰囲気を感じることのできるこの3部作、全部読んでみたい気もする。




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2021年3月21日 (日)

シャルカーウィ『大地』

河出書房新社から出版されている現代アラブ小説全集よりシャルカーウィ著『大地』を読む。エジプトの農村を舞台にした小説で、とても面白かった。新聞に掲載された連載小説だったそうだが、掲載後出版されるとエジプトでベストセラーになったとのことだが、それも納得できる。社会問題を主軸に取り扱っているのだろうが、恋愛小説の要素もあって、果たして村の子町娘のワシーファの意中の人は誰で、誰と結婚するのだろうか、とか、次々と降りかかってくる難題を農民たちはどうやって跳ね返して解決してくのだろうか、とか、先を楽しみにさせる展開が飽きさせない。

 

エジプト国内の批評家たちの中には、小説的技巧の未熟や欠点を指摘する向きもあるとのことだが、私は、1人称が突如3人称の語りになったり、人物の描かれ方が途中で変わったりとか、謎の答えが小説の中ですべて語られなかったとかいうようなことは気にならなかった。むしろ、陳腐な小説的構造を乗り越えるような前衛的な手法と考えれば、斬新な小説ともいえる。

 

『大地』が出版されたのは1955年ごろの、エジプトのナセル革命の昂揚期ごろということだが、『大地』の舞台となったのは1930年代のエジプト農村だ。私が特別に興味深かったのは、農民たちの会話が活写されているところだ。会話部分は、地の文のアラビア語と違う言葉で書かれているので、訳者である奴田原氏はわざわざエジプトの農村に行って彼らの言葉を学んできたり、教えてもらってきたりしたそうだ。そのような訳者のご苦労もあって、「スエイリムのとっつあんよ…」なんて言うセリフが、生き生きと農村の人々の姿を思い描かせる。

 

1930年代のエジプトは、イギリスの力を背景としたシドキー政権が、憲法を捻じ曲げ都合のいいような選挙を行い、ナイル川の灌漑権を制限したり、畑を奪ったり、農民を虐げる。外国の勢力に迎合して、自国民を虐げ、憲法を蔑ろにするという状況は、現代の日本の読者にも状況は分かりやすいのではないだろうか。そのようなやり方に、農民たちはおびえながらも、1919年のイギリスを撤退させた革命を経験した世代であるシャイフ・ハッソウナやムハンマド・アブ・スエイリムなど指導的人物の鼓舞で、政府に対峙していく。

 

しかし、農民たちの勝利が、簡単に手に入るわけではない。団結しないといけない彼らが、農民であるがゆえに、大事な水を自分の畑にひこうと、仲間割れして、大乱闘になってしまうのだ。そのほか、隙あらば、やはり自分だけの利益を得ようとするものや権力側にすり寄って地位を高く引き上げてもらいたいものなどもいて、彼らの抵抗が成功するのかどうかはわからないのだ。

 

エジプト農村の活写として、決まり文句ばかりを並べて皆から軽んじられている宗教家(コーラン読み)も出てくるし、村の中では農民よりも最下層として扱われるベトウイン人や女たちも出てくる。農民たちの口さがない会話体では、そういった人たちに差別意識丸出しの言葉が機関銃の連射のように勢いよく出てくる。しかし、これが当時の「意識」を正確に引き写したものなのだろう。また、弟が兄を異常に敬ったり、その兄が叔父を敬ったり、慣習や道徳観念に縛られた年長者崇拝の在り方なども、エジプト農村社会のありようとして本当に興味深く描写されている。

 

このように見てくると、これは白戸三平が江戸の農村社会を描いた『カムイ伝』のような重層的な厚みを持った読み物に匹敵する小説と言えるのではないか。その90パーセント以上のご先祖様が農民だった現代の日本人が読んでも、共感できるはずだし、「わかる」という実感が持てるのではないか。それが、エジプト農村社会を舞台にした傑作小説『大地』だ。

 

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2021年1月19日 (火)

現代アラブ小説全集1「不幸の樹」(ターハー・フセイン)・河出書房新社

エジプトのターハー・フセインが書いた「不幸の樹」という小説は、1800年代の末から1900年代の初めころのエジプトを舞台として、3代にわたる家族の物語だ。ちょうどこの時代は、日本でいえば明治から大正にかけて、いわゆる「近代化」が進んだ時期だ。だが、日本がそうであったように、「近代化」が一直線に続くものではなく、そこには古い因習も残り、「近代」と摩擦や齟齬を引き起こすのだ。

 

日本では、この「近代」の西洋化の時代にあって、夏目漱石のような知識人が苦悩した。ターハー・フセインの「不幸の樹」で苦悩するのは知識人ではない。変貌を遂げつつある近代的な大都市カイロではなく、ナイル川沿いの小都市・農村に暮らす普通の家族だ。

 

エジプトでは、近代化の波の中にあって、イスラム教とその因習に縛られた生活が問題となる。「不幸の樹」に象徴される不幸が体現するのは、主人公ハーレドの妻ネヒーサだ。ネヒーサは、抑圧された結婚生活の中で、精神に変調をきたしてしまう。男女関係、結婚生活が、あまりにも抑圧的なのだ。

 

作者ターハー・フセインは、誰かや何かを批判するような筆致では決してない。ゆったりと平明な記述の中で、時が過ぎていく。苦悩するのはネヒーサだけではない。精神に不調をきたさないとしても、多くの女たち、男たちが、進んでゆく時代の中で、流れに乗ろうとして、あるいは流れに取り残されて苦悩する。

 

西欧人が、西洋紀元1500年ごろから世界に進出して、どれほどの不幸がこれまで世界にまき散らされてきたことだろう。日本の明治以降の現代にまで続く歴史の苦悩・不幸についても、その多くが西欧との接触によってもたらされたものだ。ただ、西欧人も人間である。だから、西欧人の活動によって世界にもたらされた苦悩は、人間種が人間種にもたらした不幸である。だから、西欧人を排斥して済むものではなく、人間種全体で苦悩し、克服しなければならない。

 

西洋文明は、すぐ明日にも終わらないとしても、100年、200年後になれば、必ず振り返られて大いに否定される。自然破壊・環境破壊・温暖化・資本主義・核兵器など、あらゆる害悪をもたらした。その西洋文明が否定されるときに、日本は自分自身を持っていて、西洋文明にとって代われるものを提出できるのだろうか。西洋文明にただ追随していて、最もできの良い生徒のうちのひとりという今のままでは、新たな価値観創造には参加できないだろう。

 

アラブ世界の苦悩も深い。その苦悩を知るいい手掛かりは、このターハー・フセイン著の「不幸の樹」だ。

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2021年1月 8日 (金)

ナワル・エル・サーダウィ著「イヴの隠れた顔」

ナワル・エル・サーダウィはエジプトの女性作家だ。彼女の著作「イヴの隠れた顔」は、アラブ社会における女性の抑圧を告発している。私がこの著作を読んで、斬新だと思ったのは、女性の地位が低いことを、主に西洋のフェミニストは、イスラム教のせいにしているが、サーダウィは、イスラム教は女性に対して抑圧的な宗教というわけではなく、コーランに登場してくる女たちは、むしろ生き生きと自分のやりたいことを追求していたということだ。

 

では、何が女性を抑圧しているかということだが、それは、資本主義的生産様式と父系制社会だ。

 

もう一つ斬新だと思ったことは、題名にも登場してくる「イブ」の考察だ。イスラムはユダヤ、キリストと宗教の根源を一つにするが、ユダヤの天地創造説と失楽園伝説も共有する。この神話の通常の解釈は、アダムのあばら骨から創造されたイブは、アダムをそそのかして、神に禁じられた知恵のみを食べさせた、悪ということになっているが、サーダウィの解釈は、そうではなく、愚鈍でのろ間なアダム(=男)は、賢く行動力のあるイブ(=女)に、唯々諾々と従うしかなかった、ということだ。

 

このように、知恵にも勝り、様々な面で、男性を凌駕する女を心底恐れたがゆえに、父系制社会を取るようになった社会の男たちは、激しく女性を抑圧するようになったというのだ。「恐れ」と「憎しみ」は、同一の人間心理の両面だということだ。

 

「イヴの隠れた顔」は、1988年に、日本語への訳書が刊行された。取り扱われている内容の1800年代から1960年代くらいと、今となっては、かなり昔のことに属することを取り扱っているのだが、しかし、その内容は色あせない。むしろ、現在の日本社会の女性の置かれた状況を考察するのに、良く当てはまるようなことがたくさん出ている。家族の一体感が壊れるので、夫婦別姓は許さない、という与党政治家は、本書に書かれた女性を抑圧するあらゆる保守的な男性たちと、発想が全く同じだ。

 

女性が不幸であれば、結局は男性も不幸になる。日本社会は、女性に抑圧をかけ続けて、資本主義的生産・消費・分配制度と父権主義的社会を維持しようとしているが、女性が子供を産むことを拒否するという反応で、女性がそれにこたえていることにより、社会そのもの維持も危うくなっている。そう、女性の抑圧と社会の維持は決して同時に行うことはできないのだ。女性の性の解放こそが、新しい社会への道だ、というのが、サーダウィの主張だ。

 

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