2019年6月15日 (土)

失われた時を求めて

プルーストの『失われた時を求めて』。傑作の誉れ高く、いつかは読んでみたいと思っていた。フランスの哲学者、フーコーやデリダ、ドゥルーズの著作を見ても、何かしらプルーストを論じていたり、引用したりしている。ということは読むべき価値があるのだろうし、引用だけでなく、元を知らなければ哲学者が論じていることも分からないだろうから、いつか読みたいと思っていて、遂に、その一歩を踏み出した。

日本の翻訳では、筑摩で出しているものが有名だが、岩波書店でも新しい訳を出したので、私は岩波文庫を読み始めた。あの有名な、紅茶を飲みながらマドレーヌを食べていると思い出がよみがえってきて…という第1巻は読み終わり、そして第2巻の「スワンの恋」まで読み終わった。でも、この先十何巻まである。しかも1冊が文庫本で400ページずつくらいある。いつ、読み終えるのだろう。死ぬ時までには?いや、死ぬまでに終わらないかもしれない。でも、焦る旅でもないし、「読んだ」という達成感や「読んだことがある」という見栄のためではないので、プルーストの延々と続く、心理描写のように、じっくりと味わいながら、読む時間があり、読む気分の時に、この先も読んでいこうと思う。

しかし、この岩波の新訳、訳者の後書きを読むと、訳者のこれまでのフランス語やフランス文学の研究の心血のすべてを注ぎ込んだものということだ。外国語に習熟することの難しさの一端を知っているものにとって、この訳業は本当に頭が下がる。背筋を正して読まなくては、申し訳ないという気もするし、各巻ごとの解説も大変優れている。訳者から受ける、恩に感謝したいと思う。

それにしても、文学なんて何に役立つのだろうか。これは、永遠の疑問だ。特にプルーストの精緻な心理描写の遠大な小説のようなものは。現代のような風潮では、短期的に利益を生むようなものが重視される。世の中を豊かにしているのは、科学技術だと、圧倒的に多くの人が思っているだろうし、文学好きでも、特に、自分の人生が恵まれているという自覚は自分自身にもない。しかし、役に立たないようなことが、実は一番役に立つのだ。人間は、物語なしでは、これまでやってこられなかったし、今もそうだし、これからもそうだろう。小説を読む至福の時間を味合わせてくれる、「失われた時を求めて」、いまやっと2巻の「スワンの恋」を読み上げることができた。

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2019年4月25日 (木)

読書ノート『脳死・臓器移植・がん告知』波平恵美子

私が波平氏の研究を知るきっかけになったのは、「質的研究」法を勉強する過程でのことであった。現在の学問研究は、データを数字としてとり、それを統計的に解析して結論を得るものが主流で、このような「量的研究」は人間の恣意や直感が入りにくく、学問的厳密を極め、より「科学的である」と主張するのもなるほどとうなずけるものがあるが、数理的統計処理に疎い私のようなものにはなじみにくい。

学問の受け手としても、数字が並んだ論文を読みこなすのは、私だけでなく一般の人にも難しく、これが学問と一般の人が乖離してしまう原因なのではないかとも思う。数字ではなく、「言葉」を解釈して方法が「質的研究」で、これは、医療現場における人間同士の関係の研究でよく用いられるのだという。波平氏がそうした「質的研究」の教科書を書いていたものだから、氏の名前を知り、氏の仕事に興味を持ったのだ。

氏の専門は「文化人類学」だ。それを医療の現場に適用する。大変興味深い方法だし、その成果もユニークなものに違いなく、得るものも多いと思う。この『脳死・臓器移植・がん告知』は、専門的な論文ではなく、一般の人向けにとても分かりやすく書かれたものだ。出版年は1988年で、もう30年前のことで少々古い。そのころは、『脳死』は人の死であるかどうかをめぐって、大いに議論されていた。波平氏は、この本の中で、今後脳死や臓器移植に関する日本人の意識は、変わるかもしれないと予想しながら、(そして、実際、脳死と臓器移植に関する意識や法律は大きく前進して変わった)、日本人の死生観を、医師の言説等も分析しながら考察している。

実際、私も自分が体験して思うのだが、ふだんは合理的に考えているつもりでも、人の死に向き合うと、合理的に考えることはできず、日本人独特の死生観が無意識に身についていたのだなと思う。

さて、私が本書で一番興味深く感じた点は、現在の医療は科学的に進歩して、病気の治癒率も上がっているのだろうが、そもそも、どの民族にも、昔から病とその癒しの過程や制度があって、祈祷師、霊媒師、巫女などがその役割を担っていた。そういうものも、単に「非科学的」と言って切り捨てることはできない。というのも、現在の西洋から来た臨床医学は、病気を治癒することを目指して、一定の(いや、かなりの)成果を上げているが、病と癒しの過程は担っていないのだ。ただでさえ、忙しい現在の医療従事者に、そこまで求めるのは、彼らをオーバーワークさせてしまう。だから、現在でも「病とその癒し」は必要で、それは新興宗教が担ったりしているが、しかし、本来は誰かが担い手になってやらなければいけないことなのだろう。そういう視点は、「文化人類学」だからこそ得られた視点だと思い、その点が大変興味深かった。

 

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2019年3月18日 (月)

『千年の愉楽』 中上健次

中上健次の最高傑作との誉れ高い『千年の愉楽』を読む。この傑作を日本語で読めた幸せをかみしめている。近代的な意味での直進的に進む時間概念が、この物語にはない。過去も・現在も・未来もすべてが同時に存在し、かつ円環していく時間を背景に、生と死も別々に分かたれているのではなく、生き、死に、生き、死にの境がなく、生者と魂の境もなく、人間と自然との境もない。

 


象徴的な人物は、「路地」の赤んぼすべてを取りあげた、取り上げばばであり語り手である「オリュウノオバ」とその夫で、路地の死者を見送るその夫であり毛坊主である礼如さん。生と死の象徴なのだが、この物語では圧倒的に生が強い。

 


しかし、主人公の男たち中本の血を継ぐ若き男たちが皆若くして死んでしまう。それは、何代か前の祖先が犯した罪の償いをしているようでもあり、姿かたちにどこか高貴なものを漂わせたものが非業の死を遂げていく姿は、どこか「貴種流離譚」のような趣を感じさせる。

 

「路地」とは被差別部落を背景としているのであり、この物語は、朝鮮人たちやアイヌの人たちも色濃く登場してくる。皆、この日本では差別を受けている人たちだ。しかし、差別を受けているということが、かえって彼らの高貴で、美しい姿態を証しするようで、この物語は得も言われぬ読みごたえを与えてくれるのだ。

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2019年3月14日 (木)

「いのちの文化人類学」波平恵美子

波平恵美子さんの「いのちの文化人類学」を読む。きっかけは、質的研究の入門書を読んでいた時に、波平さんの著作が紹介されていたのをきっかけに、波平さんが研究しておられることに興味を持ったからだ。

「質的研究」とは「量的研究」の対になる言葉だ。現在の研究はデータを取りそれを数値で表現し、数値を統計処理して客観的な事実の裏付けとなす。それに対して、「質的研究」とは、数値にするデータが集めにくい分野の研究で、主に人間の言説などを対象にする。「質的研究」は歴史的経緯からして医療現場における、人間の振る舞いなどを多く研究対象としてきた。波平さんも、日本の医療の現場における「穢れ」の概念の研究など、大変興味深い研究をされているのを知り、その著作を読んでみたいと思って購入したのだ。

波平さんは文化人類学者だ。文化人類学的視点から、日本人の死生観を研究している。文化人類学的ということは、現地の置ける聞き書きやインタビューなどがその学問上の根底にあるということだ。「命の文化人類学」の後書きを読むと、これは新聞に連載されたエッセイをもとに書籍にまとめたということだそうだが、だから大変読みやすくとっつきやすいのだが、しかしその裏にはきちんとした学問的な裏付けがあるのだろうなと感じさせた。

生と死とは一体だ。だから日本人の「いのち」感は日本人の「死」に対する考え方である。命や死に対する考え方がどのようなときに現れてくるのかを、医療問題と絡めて説明してくれる。出版されたのが1996年だから、医療の進歩を考えると、もうずいぶん前という感覚を受ける。というのも、「体外受精」や「脳死」を人の死と認めるかという議論が盛んにおこなわれていた時だからだ。しかし、波平さんも言っているが、科学技術はどんどん進歩するが、それと同じように人の考えも変わるかと言ったら、もちろんそうではない。日本人の死生観が、なぜ脳死を死として認めがたくしているのかなどを波平さんは考察する。

私が印象に残ったのは、日本人の死生観では、死んだ人はカミであり、死んだ人が子孫である私たちを守ってくれるという素朴でもあり連綿と私たちに根付いている観念だ。だから、中日戦争、太平洋戦争で若くして死んだ人たちはカミなのであり、子孫である私たち繁栄の礎となったという考えが何の違和感もなく日本人に抱かれてしまうということだ。日本人の軍事行動が他国民に対してどれくらい被害をもたらしたかということとは別次元の話となってしまい、他国との関係を難してしまうのが、この死生観だ。だが文化人類学の学問としてのすばらしさは、すべての民族の考え方を相対化できるということだ。日本人の死生観は文化人類学的には、特別なものでもないし、なにか優・劣をつけるべきものでもない。学問的に、日本人の死生観を客観視していく試みはとても興味深く、面白くこの本を読んだ。

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2019年1月26日 (土)

「アンダークラス」の筆者・橋本 健二氏のインタビュー記事

本をゆっくり読む時間がなく、新聞の書評欄を見て、ああ、あの本を読みたい、この本も読んでみたいと、思いを巡らしている。1月20日付の河北新報に「アンダークラス」(ちくま新書)を上梓した橋本健二氏のインタビュー記事が載っていた。

 

キーワードは「クラス」つまり「階級」なのだ。社会主義国家のほとんどが滅んだ今時、マルクスの用語の「階級」は時代遅れだろうと思われる方もいるかもしれないが、そこを橋本氏はデータ分析から明らかにしたとのことだ。

 

今、日本では「下層階級」が存在するという。非正規労働者を中心としてその数は約930万人。平均年収は186万円で、貧困率は4割。4人に一人は健康状態がよくないと自覚し、2割の人が心の病気を経験している、とのことだ。

 

930万人と言えば、おおざっぱに日本の人口の10分の1、これは立派な「階層」であるし、「階級」と言いなせないこともない。橋本氏は「階級」の視点から日本社会の格差の研究を続けていると言う。そして、研究をする時、いまさら階級かと変人扱いをされたとのことだが、データからは、1980年代から格差が広がり始め、この30年で巨大な「アンダークラス」が形成されたという。

 

「アンダークラス」が一大「階級」になれば、この階級に働きかければ巨大な政治勢力になるはずなのに、日本はそうなっていない。私が、橋本氏の研究で興味を持ったところは、アンダークラスは、生活に不満を感じても「支持政党なし」になる傾向が強く、政治に対して期待できないため関心を失っているという。

 

ここまでインタビュー記事を読んで、これが安倍政権や自民党の強さなのかと、1つまた合点がいった。安倍政権が、安倍さんや側近の優れた手腕による強さという面もあるのだろうが、大いに幸運や運も味方している。福島核発電で、自分達が仕込んでいた時限爆弾が、たまたま民主党政権のときに破裂して全部罪を彼らになすり付けたこともそうだが、国民の間に格差と貧困が広まれば広まるほど、安倍さんや自民党政権は政治勢力を増すのだ。橋本氏の研究の通り、一大階級である貧困層は政治に関心を持たず、苦しい生活は自分たちのせいだと思い込んでいるのだ。幸運な選挙制度のおかげで、政治無関心層が増えれば、自民党議員は選挙でどんどん当選する。

 

貧困や格差については、もっと国民全体も意識を変えなくてはダメだ。彼らは、「政治に関心がない」のではなく、「関心を持つ機会」すら奪われているのだ。自己責任としてこの階級に属する人を責めるのではなく、貧困はあらゆる機会を奪い、人間としての尊厳が破壊されるということと捉え、貧困や格差是正に取り組む政治勢力が強くならなければならない。貧困を放置して、そこから最大の利得を得る政治勢力は弱くなるよう、私達は未来に向けての選択権を行使すべきと思う。


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2018年12月25日 (火)

自動人形の城

これは、川添愛さんの作品。読んで思ったことは、「後生、畏るべし」。どういうことかというと、自然言語処理という学問の専門分野でも、そして小説・文学作品である本作と言い、これほど知識や才能ある人に感心せざるを得ないということだ。私は、川添さんよりも年上だが、でもそれが何?長く生きているだけで、何も取り柄がないと、若くて才能がある人が本当にすごいと思う。でも、若い人が活躍してくれれば、日本も心配ないのかなとも思う。年長者がすべきなのは、無駄な口をさしはさまないということだろうか。

 

本作の中で読んでドキッとした言葉あった。川添さんが登場人物の口を借りてこう言わせている。

 

「私は大人になってから、ある程度の地位を確立した大人の中に、新しいことを一切学ぼうとしないものがいることに気づいた。彼らは自らの権威を振りかざして新しい知識の価値を貶め、徹底的に拒否する。彼らは学ばないことを正当化する。それは他人に対する弁明のみならず、自分に対する弁明でもある。つまり他人にも自分自身にも、自分がなぜ学ばないのか、なぜそれが許されるのかを言い聞かせるのだ。しかし彼らが何を言おうと、彼らが学ばない本当の理由は一つしかない。今いる場所から逸脱したくないという「恐怖」だ。つまり、安全な、居心地のいい場所から出たくないのだ」

 

これは、作者の川添さんが自分の研究生活や社会人としての経験の中で自ら感じたことではあるまいか。権威なき大人としての私は、せめて死ぬまで新しいことを学ぼうと思う。というわけで、自然言語処理を学ぼうと思い、川添さんの書籍にお世話になっているのだ。

 

「自動人形の城」は物語になっている。自然言語処理研究がもとになっているということに読んで気付かないだろうし、それに興味がなくても、作品として楽しく読める。というか、伏線やどんでん返し、犯人捜し的な面白さでやめられなくなって、最後がどうなるのか読まずに寝るには惜しくなり、夜更かしして読んでしまった。

 

舞台は、中世のヨーロッパ風の物語。王族や魔法使いや宗教指導者たちが登場する。自動人形がお城に満ちるおどろおどろしさ。表紙のデザインは、いかにも黒魔術やその手の本のようで、大のおじさんが手に持って闊歩するような本でない。この見た目で、これが「東京大学出版会」の本というのも驚きだ。きっと「出版会」にも、若き感性を持ち、変わることを恐れない優秀な編集者がいるのだろう。やはり「後生、畏るべし」


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2018年12月12日 (水)

働きたくないイタチと言葉がわかるロボット

この衝撃的ともいえるタイトルからこの本が、人工知能やコンピューターの自然言語処理を扱った本だとわかる人がどれだけいるだろうか。「なんの本?」と手に取って見たくなる気にさせるうまいタイトルだ。実際、自然言語処理という本当は専門的な内容を扱っているにもかかわらず、2017年に1刷りが出たと思ったらすぐに3刷りと、人が手にとって売れているのだ。

 

作者の川添愛さんは、研究者だ。略歴を拝見すると文学部から入り、言語学へと造形を深めていき、現在は人工知能に関連する自然言語処理を研究しているようだ。文学から入ったというところが、人にわかりやすく、興味を持ってもらえるような筆運びとなって、この本を楽しく読めるようにしているのだろう。

 

自然言語処理をめぐる問題を、一般の人にわかりやすく伝えるために、イタチたちが、言葉が何でもわかって、自分達の命令通りに何でもやってくれるロボットを作ろうとするという寓話に託してお話してくれる。イタチたちが、目標を達成するために、他の動物たちの村をあちこち行って面白おかしくロボット作りをするという話が飽きさせない。

 

私自身は、第2言語を人はどのように処理するのかというまじめな興味からこの自然言語処理の概要を教えてくれるこの本を読んだ。そして、人間が自然に何気なくできているようなことが、実はコンピューターに教え込もうとすると大変なことであるという点に興味を持った。私自身、グーグルの音声認識入力や自動翻訳を使っていて、以前と比べて精度の向上に目を見張っている。しかし、完全に人間の言葉や意図を理解する機械を作るのは大変そうだということが分かった。

 

しかし、母語以外の言葉を学習している人間も、人間から言葉を習っているコンピューターと似ているのではないだろうか。知らない言葉の意味である、辞書をなるべく多く脳内に持ってないと外国語は読めないし、母語でない言葉の羅列でできた文は、どこで区切ったら良いのか?そして、区切るところにより意味が何重にも生じるので、いったい何を基準に意味を特定すればよいのか?これは、イタチたちが言葉がわかるロボットを作ろうとして四苦八苦している様に似ている。

 

川添さんの解説は具体例がわかりやすくていきいきとしている。曖昧な言葉の例としてこういう言葉を挙げている。「皆さんが生き生きと活躍できる社会を目指します」。ぼんやりしているけどよさそうな言葉が多くて、聞いた人が自分にとって良いことばだという印象を持ってしまう言葉の例だ。本当は、「皆さん」というのが「一部のお金持ち」だったり、「生き生きと活躍できる」が「国から何のサービスも受けずに自力で」という意味だったり、「目指します」が「実現できるかどうかはわからない」という意味だったりするかもしれないが、真偽を問えない形にしてしまえば都合がよいというのだ。しかし、コンピュータには、全部真偽が問える形で教えてやらねばならない。そもそも、そういう言葉の真偽が読めない国民が多いということ自体が問題ではないだろうか。人工知能の研究は、結局人に返ってくるというところが面白い。


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