2019年6月30日 (日)

地獄門

女優の京マチ子さんが亡くなった。晩年は、私生活を明かさないミステリアスな生活を送っていたという。その京マチ子さんを追悼して、主演映画の特集が、仙台フォーラムで行われた。

 

京マチ子さんの映画と言えば、黒澤明監督の「羅生門」、そして溝口健二監督の「雨月物語」だ。私はこの2作品だけを見ていて、京マチ子さんと言えば、時代劇の印象が強い。この2作品、ともに外国の映画祭で高く評価され、そこには、京マチ子さんの、ヨーロッパの人が思う、典型的な東洋美の不思議な日本女性が描かれているのかなと思う。

 

追悼作品が連日上映された中で、私が見たのは衣笠貞之助監督の「地獄門」。題材は平家物語からとられている。清盛一行が厳島参詣しているあいだに、都では反・平氏の反乱がおこる。都に残り警備していた平家方の武士は、上皇や上皇后を何とか難を逃れさせようと、身代わりを牛車に載せ、反乱した源氏方の武士を追わせて、時間を稼ぐ。身代わりに立った女官が、京マチ子さん演じる「袈裟御前」。警固していた盛遠が、何とか袈裟を救い、盛遠は袈裟を見初める。清盛ら兵士一行は、急いで都に帰り、反乱を鎮圧する。論功行賞の中で、盛遠は清盛に、恩賞として「袈裟」を所望する。しかし、今朝は実は人妻だった…という話で、最後は袈裟が死んでしまうという悲劇なのだ。

 

この映画、光の使い方や演出など、京マチ子さんを美しく見せる趣向が際立っている大変美的な映画だ。それに、京さんは、不思議な東洋美の女優さんというだけでなく、表情、仕草など、一流なのだなと改めて感じる。それにしても、盛遠が、一方的に袈裟に恋慕して、思い込みから最後に殺めてしまうのは、現代のストーカーによる悲劇と何ら変わらず、暗然たる気持ちになる。しかし、最後は平家物語らしく、無常を感じた盛遠が出家して終わる、ということになるのだが、出家して済まされる話ではなかろうと、もし本当にあったとしたらこの理不尽な「死」をどう割り切ればいいのかと、そんなことを考えた映画だった。

 

 

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2018年12月31日 (月)

ボヘミアンラプソディー

評判のクイーンの伝記映画を見た。若いころ、クイーンの音楽がラジオで流れていた時代を生きてきた自分には、彼らの音楽そのものが懐かしくて嬉しくてそれだけで満足だったけれど、でも改めて彼らの音楽は今聞いても素晴らしく、この映画をきっかけに、クイーンを知らない若い人たちもクイーンの音楽を聞き始めているというのも納得だ。

 


この映画は、クイーンの残りの3人のメンバーがフレディ・マーキュリーを今でも愛しているからこそ実現した映画なのだと私は直感的に思った。もちろんバンド内のいざこざや反目・対立はあった。映画に描かれているトラブルなんて、きっと表面的なものだろう。しかし、残りのメンバーがフレディのことをこれほどまでに思っていなければ、こんな詳しいドキュメンタリーと言っていいほどの映画はできなかっただろう。フレディーに対する思いが伝わってくるのだ。

 


フレディーは、難民の子供だったということをこの映画で知った。差別される描写も出てくる。だが、メンバーがフレディーをボーカルに迎え入れ、彼らが作った音楽は、もう彼らを超えて世界全体の文化の今でも愛され続ける大きな財産となった。自分だけが特殊で優れているなんて一人よがりの思い上がりでは、決して世界全体のものになる文化は生まれないのだというふうに映画を見て思った。

 

フレディーの父親の「良き思い、よき行い」を、フレディーが実行するシーンには泣けてしまった。


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2018年12月18日 (火)

ラスト エンペラー

蔦屋にビデオを返却していって、また手ぶらで帰ってこず、映画を借りてきてしまった。ベルトリッチ監督が死去したというニュースを聞いていたこともあって、「ラスト エンペラー」を見た。

 

そして、これは偶然なのだが、返しに行ったビデオ「アラビアのロレンス」の主役として出ていたピーター・オトウェルが溥儀の家庭教師役で「紫禁城の黄昏」を書いたジョンストン役で出ていた。2つの映画が撮られた間の年月も感じた。

 

この映画は創作も多いのだそうだが、おおむね史実や実在の人物が描かれていて具体的に歴史を理解し想像するにはいい映画だと感じた。1900年初めのころから日中戦争が終わり文化大革命までの時代が描かれ、この時代、日本は深く中国の歴史に関わり、多くの人の運命を翻弄した。

 

アメリカが日本に対して非人道的な無差別都市攻撃をする前に、日本もすでに中国に対して、国際戦争法違反の、無差別爆弾攻撃を行っていたりということも描かれている。同じように国際法違反の細菌実験を中国の捕虜に対して行っていたことも描かれている。日本が、アメリカに対してなぜ、その非人道的行為を告発することができないかといえば、日本が中国に対して行った戦争犯罪をアメリカから見逃してもらう取引があったのだろう、ということが推測される。


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2018年12月15日 (土)

アラビアのロレンス

蔦屋にビデオを返しに行くと、またその場で借りてきたくなってしまう。うまく蔦屋さんの商法にはまってしまい、「アラビアのロレンス」を借りてきてしまった。名前だけは知っていてストーリを知った気になっているものの、ずっと前からきちんと一度は見てみたいと思っていたものである。

 

監督のデビッド・リーン、彼は「戦場にかける橋」の大ヒットの後で「アラビアのロレンス」を作ったという。両作とも、自国のイギリス軍が大勝ちしているのを、無邪気に喜ぶような愛国映画ではない。イギリスの描き方が屈折しているようにも思えるが、どちらもいい映画だ。というのも、ロケから衣装から、とにかく本物を作っているというのは伝わってきて、「神は細部に宿る」の言葉の通りだ。

 

どこまでが史実かどうかはわからないが、ロレンス率いるアラブの反乱が描かれている。民族を超えた友情のようなものは、私も好きだが、結局アングロサクソン人の「サイクス・ピコ条約」が今の今まで中東の混乱や不幸を生んでいて、そして彼らはその責任を一切取らず、罪深いものだとも思う。

 

しかし、民族の独立のために団結できないアラブの人たちも描かれてていて、それもまた事実で残念なことだと思うし、大きな力に対して、団結できずにいる彼らの姿が、私たち日本人の姿にもつながるとも思った。アングロサクソン人の基地をいま日本国内に受け入れていることに、「愛国者」の私などは本当に情けないことだと思うのだが、「こんな情けない憲法はないですよ」と、独立を拒み話をすり替える人たちがこの国の政治を決めている。「アラビアのロレンス」を見ながらそんなことも考えた。


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2018年12月 8日 (土)

昼顔

レンタルビデオ店、ツタヤの戦略は、会員カードが1年更新だということだ。更新するのに金がかかる。でも、更新させる必要があるのは、返却しない客に逃げられるの防ぐための、住所確認とか言った、企業側の事情があるのだろう。更新すれば、1本ただでビデオを貸してやるという。更新が面倒くさいので、もうやめてもいいかと思う。でも、やめて再手続きをするのも面倒くさいので、更新して、ついでにビデオを借りてきてしまった。

 


何の背景知識もないのだが「昼顔」を借りた。なんでかと言ったら、Me too運動が盛り上がっていた時、カトリーヌ・ドヌーブさんが「男から声をかけられるのは名誉なこと」とかいう趣旨の発言をしていて、Me too運動からは一線を画していたように思ったからだ。そこで、彼女の主演映画を借りてきた。日本でも、焼き直しされて、近頃昼のテレビドラマではやったらしいということくらいは私も知っている。

 

だが、ウイキペディアも読んでないし、原作の文学作品も読んでないので、映像だけからは、ストーリーがよくわからないところがあった。でも、それがこの作品のねらいでもあろう。カトリーヌ・ドヌーブ演じる人妻は、精神的なトラウマがあり、しばしば現実と過去や、夢想との間を行き来するのだ。映画では、それが切れ目なく挿入されるので、どこまでが現実の話で、どこからか人妻のトラウマや隠されたフロイト的な欲望なのかがわからなくなる。おそらく、人妻は少女のころに性被害にあいそれがトラウマになっているのではないかと推測した。

 

だが、役者たちはみないい演技で、よい映画だと思う。印象に残るのは、娼館の女主人マダム・アナイスやカトリーヌ・ドヌーブに潜り営業の娼館の存在を知らせる夫の友人。そして、娼館の内外で繰り広げられる、様々な変態さんたちの業の深さというか人間の愛しさ。1年に1回ツタヤの戦略にはまって、傑作映画を見てしまうのだ。


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2013年3月26日 (火)

塀の中のジュリアス・シーザー

『塀の中のジュリアス・シーザー』、これはいい映画だ。ベルリン映画祭でも金熊賞を取った。出てくる人たちは、名役者ぞろいだ。しかも、長期刑を食らった重犯者ばかり。そう、これは刑務所の中で、服役囚が、シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を演目に選び、稽古し披露していくという話だ。というか、出てくる人たち、本物のマフィアだとか、犯罪者たちで服役している人たちなのだ。ものすごく存在感がある人たちなのだが、稽古しているうちに昔の裏切りのことを思い出したり、刑務所内での実際の人間関係のいざこざが顔を出し喧嘩しそうになったり、そのあたりもすごいのだ。

さて、この映画で考えさせられたこと。

まず一つは演劇が持つ人間を癒す力、ということだ。この演劇はワークショップではないが、おそらく実際の更生教育の一環として行われているのだろう。彼らは、役柄になり演じていることで、確実に再生しているし、目覚めているということが見ていて伝わってくる。実際、世の中には、演劇療法なるものもあり、日本でも学校教育の中で、演劇がもっと取り入れられてもいいと思う。演じることで、感情の葛藤なども解消することができるので、いじめなどの人間関係の改善などにも役立つと思うのだ。

そして、学校だけでなく、社会人や大人にこそ演劇が必要だと、この映画を見ていて思った。私たちは、普段よい社会人や、よい父親やよい母親などを演じているわけだが、この演技には人を再生させる力はない。そうではなくて、この「ジュリアス・シーザー』の演劇のように、その役柄の喜怒哀楽や運命を追体験し、その感情にひたりきり、その感情を通過することで、自分が再生され新しくなれるそういう演劇を演じることが必要なのだ。近代以前の社会では、例えば祭りや通過儀礼のような人を再生させ解放させる装置があったが、今はない。そういった装置に代わるものが演劇なのではないかと思った。

もう一つは、シェークスピア劇が持つ偉大な芸術性を改めて感じた。

偉大な芸術・良質な芸術にはカタルシスがあるが、「ジュリアス・シーザー」にも、見る者・演じる者の魂を浄化し、高みに導く力=カタルシスがある。ブルータスが、独裁者シーザ-を暗殺しようとする。ブルータスはシーザーの親友でもある。だから、友を裏切るブルータスは苦悩する。自由と民主主義を守るという崇高な目的のために、シーザーの暗殺を決行。有名なセリフ、『ブルータスおまえもか』と言われる。シーザーの後継者アントニーによる反撃。運命の転変によるブルータス一味の敗北と自害。ブルータスを演じる者、見る者、ともに、ブルータスの人生に自分を重ね合わせてさまざまな感情と苦悩を追体験し、最後はカタルシスに導かれる。

映画の最後は、演者たちのその後が紹介される。ブルータスの役の彼は出所後に俳優に転じた。ブルータスの仲間カシウス役の囚人は、どう見ても哲学者にしか見えない風貌をしている。その彼は、塀の中で著作をあらわしたそうだ。

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