UA-92533382-1 映画・テレビ: よつば農場便り

2022年4月10日 (日)

「ひまわり」

ロシアの侵略に苦しむウクライナを支援するため「ひまわり」のチャリティ上映が実行されている。このような企画を立てた映画人に感謝したい。

「ひまわり」が選ばれたのは、あの有名な一面の揺れるひまわり畑の撮影がウクライナで行われたから、ということだ。

ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが主演の「ひまわり」を見るのは2回目だ。初めて見たときは、あの情緒的な音楽やひまわり畑や鉄道の美しくも切ない場面に感情を流されてしまったが、今回は冷静に見ることができたので、前回気づかなかったこともいろいろ気づくこともできた。(だがそれにしても、ソフィア・ローレンのきつめの強い表情は美しくも印象的だった)

この映画はイタリアだけでなくソ連も含めた合作映画なのである。第2次世界大戦中、ロシア戦線で行方不明になってしまったマルチェロ・マストロヤンニ演じるアントニオを、ソフィア・ローレン演じる妻ジョアンナが、ソ連に探しに行く。そのモスクワの場面などが、大変活気のあるまるで西側の都市のようなのだ。そして、エスカレーターや地下鉄、労働者のための住宅がそろっていて、イメージの中の落ちぶれた社会主義とは全く違うのだ。おそらく、こういう場面を撮らせることを許可してそれをソビエトはプロパガンダにも使ったのだろう。

そして、ジョアンナがソ連に行ける理由が「スターリンが死んだから」というのも驚きだった。スターリンが死んで、鉄のカーテンが少し開いて、人の行き来もできるようになったという意味なのだろうが、よくソ連がこういうセリフを許可したなとも思った。これは例えると、「安部元首相が亡くなったので、日本がよくなった」というようなセリフを映画にさしはさむようなもので、自国誇り一色の政府なら許可しないだろうと思うからだ。

とはあれ、ジョアンナとアントニオは、もう変えようのない事情や運命に翻弄されて、結ばれることはない。そこは本当に切ない映画で、ヘンリーマンシーニの音楽とひまわり畑のシーンは何度も頭の中を駆け巡る。とにかく、戦争はいけないということだ。

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2022年3月 7日 (月)

「ウエスト・サイド・ストーリー」

スピルバーグ監督が「ウエスト・サイド・ストーリー」を撮り直した。知っている話の筋、知っているあのおなじみのバーンスタイン作曲の音楽であるが、とても見ごたえがあり、よかった。

 

この新「ウエスト・サイド・ストーリー」では、より人種的対立やアメリカの人種問題や差別があらわになった。オリジナル「ウエスト・サイド・ストーリー」では、ジェッツ団とシャーク団が人種的対立も背景にあるということが意識できなかったが、新「ウエスト・サイド・ストーリー」では、配役であったり、言葉づかいであったりでそれがはっきりわかる。特に、マリア役の女優さんが、マリアはプエルトリコ出身なのだというリアリティがあった。そして、背の高いポーランドが出自だというトニー役の俳優さんにもリアリティがあった。

 

その他話題になったのは、ジェッツ団でLGBTのメンバーが登場することだ。より社会問題と絡めての脚本だ。

 

「マンボ」「アメリカ」の曲で踊られるダンスは、とにかく切れ切れで素晴らしかった。シャーク団のリーダー、ベルナルドの恋人役アニータが魅力的だ。

 

「ウエスト・サイド・ストーリー」の更なるオリジナルの話はシェークスピアの「ロメオとジュリエット」なのだが、「ウエスト・サイド・ストーリー」のマリアとトニーの悲劇も、誤解から生じる。その誤解から生じる悲劇的な死が、オリジナル「ウエスト・サイド・ストーリー」よりも、この新「ウエスト・サイド・ストーリー」の方が納得できる脚本で描かれていたと思う。恋人を殺されたアニータは、マリアからトニーへ伝言を頼まれるが、こういう状況であれば、その伝言の内容が変わり、それが誤解を生み、悲劇を生むのだと納得がいく筋書きになっているのだ。

 


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2022年1月20日 (木)

ハウス・オブ・グッチ

名門一族のスキャンダルを実話をもとに描いた映画だという。

アル・パチーノも出ると言うので見たくなった。あの、ゴッド・ファーザーだった彼が、どんな役をやるのか、というのにも興味を持った。そして、あのガガ様が、主演を演じるという新聞記事を見て、見たいという気持ちに拍車がかかった。

ガガ様がどこに出ているのかが分からなかった。それくらい、ガガ様は、イタリア人の主人公、パトリツィアを演じ切っていた。イタリアなまりの英語がうますぎる。そして風貌もまったくイタリア人。どうメイクしたのだろう。

アル・パチーノも、駄目ぶりが際立つアルド・グッチを巧みに演じていた。アダム・ドライバーが演じる、ガガ様が落とすボンボン役のグッチ家当主の、お坊ちゃんぶりも名演だ。事業に関わらないで、まじめに勉強して弁護士になっていれば、悲劇は起きなかったろうにと、脇から眺めている観客の私は思う。

「金があるからと言って、人生必ずしも幸せだとは限らない」というような凡庸な教訓を引き出す映画ではなかった。3時間立つのもあっという間だった。

最後に、ガガ様、パトリツィアは逮捕され、法廷に呼ばれる。裁判長から起立を求められるが、裁判長が正しい名前を呼ばないので起立しない。「私を、パトリツィア・グッチと呼びなさい」が最後のセリフだ。

家、家名に対するこだわりが悲劇を生んだと思える。ヨーロッパでも、女性が嫁に入りその家系の一員となり姓を変えるというのが一般的な結婚の在り方だ(在り方だった)ということを示している。特に中世に連なるイタリアでは、そうなのだろうし、あの名門「グッチ家」に嫁いでその一員となったのである。だが、もちろんその名門というのは張りぼてだったりするのだ。

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2022年1月10日 (月)

素晴らしき哉、人生

1946年公開のアメリカ映画。クリスマス映画の典型で傑作なのだろう。 昨年末にDVDで鑑賞した。

西洋キリスト教文明圏では、クリスマスは主要な行事だが、クリスマスと言えば、ディケンズの「クリスマス・キャロル」も思い出される。ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、嫌われ者の守銭奴の男の物語だが、「素晴らしき哉、人生」の方は、町の中でまじめに生きてきて陰徳を施してきた男の物語。少しドジな天使の出現に笑ってしまうが、少しハラハラしてハッピーエンドで終わるこの映画は、家族で見るのもいいと思う。

1946年と言えば、日中戦争、太平洋戦争が日本の敗戦で終わった翌年。この映画を見て、当時のアメリカ社会と日本とを比べた場合のとんでもない豊かさも気になって仕方がない。日本では、焼野原、バラック建ての都市で闇市が広がっていたのに、当時のアメリカでは、郊外の開発と住宅建設が始まっていて、庶民だって住宅ローンを組んで夢の住宅を次々と購入していたのだ。

なんでこんな国を相手に戦争をしたのだろうと、映画を見ていてそこも気になってしまった。日本の指導層・支配層の判断ミスや、国民の誤った熱狂など、済んだことを悔いても仕方ないが、せめて事実は事実として失敗の教訓として留め置くことをしておくべきだと思うのだ。

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2021年11月30日 (火)

梅切らぬバカ

加賀まりこさんが、自閉症の息子の母親役をやる映画。

加賀まりこさん、長く拝見しているけど、いまだかわいらしい女優さん。でもかわいらしいと言っては失礼か。自分の亡き後、息子はどうなるのだろうとちょっと切実に心配する母親役。でも、珠子さんという占い師で、物言いがずばずばしていて、意見を聞きに来た女の子たちを泣かしてしまう。

息子をグループホームに入れるが、そのグループホームが周辺住民に理解されず排斥に合う。でも障害って何だろうと思う。障害を作っているのは社会の方であって、社会が障害を生み出さなければ、障害は障害でなくなる。自閉症の人は、音に敏感で決まりごとに沿って行動するのが得意だ。こんなに耳障りな騒音が発せられ、予想もできないことが突発する社会に、よくも「普通」の人は生きていけるものだ。と考えれば、社会の方がよほど「異常」だとも考えられなくもない。

映画は1時間ちょっとの短編映画。何も大きな進展は示されないし、結論も示されない。でもいい映画見たなという静かな余韻が残る。加賀まりこのお母さんが、もしかしたら何か行動を起こすかもという予感も無きにしも非ずで終わる。

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2021年10月25日 (月)

トーベ・ヤンソンの半生記

トーベ・ヤンソンというよりも「ムーミン」の作者、という方が圧倒的に多くの人が理解できるだろう。私自身も「ムーミン」の作者だからこの映画を見たいと思った。

子ども時代にアニメで見た「ムーミン」。なんだか不思議な話だったけど、でも子供の時は全く不思議に思わず、そういう幻想が幻想と思えず、ムーミン谷の登場人物全員が身近に感じられて大好きなお話だった。当然、その作者がフィンランドの女性だなんてことは全く分からず、ずっとずっと後になって知識として知ったのだった。

トーベ・ヤンソンの父と母も芸術家だった。特に父とトーベの関係が微妙で複雑でねじれていて、トーベは、イラストや漫画は「芸術」でないと卑下していて、画家という芸術家になりたいと葛藤している。

ムーミン谷の登場人物のイラストを発見して世に出るきっかけを作ったのは、ヴィヴィカという女性だ。(イラストは、あの日本のアニメで描かれていたようなほのぼのとしたものでなく、もっと、魔的で線が細くて何とも言えず引き込まれるような魅惑的なものだ)そして、ヴィヴィカとトーベはやがて恋仲になるが、ヴィヴィカに翻弄されてトーベは苦悩する。

それにしても、こういうことが起こったのが、第二次世界大戦後すぐの時代だということだ。日本でも、敗戦により軍国主義・ファシズムの呪縛から解放されて民主主義が息を吹き返していたが、フィンランドとは民主主義や自由の歴史や積み重ねの重みが違うのだろうか。トーベが最初に恋したのは男性だが、既婚男性だ。そして彼に妻と別れさせて結婚するのだが、その彼に、トーベは女と寝たと告白し、彼女のことが忘れられないという。当然、彼は苦しむが、こんなふうに、皆が個人の意思や自由を尊重し、誰も慣習だからというような理由でこういうことを拒否したりしない。トーベの周りがそういう芸術家の集団だから許されたことなのだろうか、それとも、フィンランドという民主主義が根付く国だからそうであったのか。

映画には、政治的な背景もちょっと描かれる。第二次世界大戦からその戦後にかけて、フィンランドはドイツとソビエトという野蛮で強権的な国家から圧迫を受ける。その中で、苦しみながら独立を維持していく様子が、ほんのちょっとした演出で語られている。同じく、野蛮で強権的な国々に囲まれている日本が、大国にべったりと従属している姿とは対照的だと感じた。

自由と立憲民主主義と共産主義との取り合わせはおかしいものではない。むしろ自由と民主主義と宗教の取り合わせの方がおかしい。自派の勢力拡大だけを願いどのような権謀術数でも行使する宗教は、自由と民主主義をむしばんでいると思うのだが。

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2021年4月17日 (土)

すばらしき世界

殺人事件で服役していた人が出所するが、出所した世間でも、一本気な性格からなかなか対応できない。その主人公を役所広司さんが演じた映画が「すばらしき世界」。

当然、メイクの力もあるとは思うのだが、役所広司さんが演じた主人公の造形が素晴らしかった。硬直気味の性格など内面や喜怒哀楽が本当によく表現できていた。若い役者には時代の花があるが、本当の花は、役所さんのように長年演者を続けてきて培った真実の花だ。役所さんの好演には本当に感動して嬉しかった。

そういう意味で脇役たちも素晴らしい映画だった。身元引受人の弁護士さん、その奥さん、スーパーのオーナー、区役所の生活保護課の人、九州のやくざの親分、その姐さん、ソープ嬢のリリーさんなど脇を固める人たちが素晴らしいと映画に一層リアリティが出る。美男美女だけでは映画は成り立たないし、真実味に欠ける。

監督の演出も光っているし、細部にこそ真実が宿っていた。特に、最後に主人公が雨中にアパートに戻ってきて、洗濯物を取り込むが、一枚だけが取り込まれないで残っている場面。象徴的で映画に現実味を与えていた。要は安っぽい作り物と感じさせないいい映画だったし、社会的な問題提起もしっかりしている映画だった。

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2021年3月 9日 (火)

『あの子は貴族』

静かな映画で悪くはない作品だったと思う。

これは、一種の女性の自立を描いた作品だと思う。「人形の家」の住んでいた華子が自立に目覚めていくところを描いたものだと。

逸子役の女優さんがよかった。女性の自立を主張する人物だが、女性同士を分断するのではなく橋渡しをするという考えや力量を持った人物。彼女は、美紀を責めない。だから、男をめぐって対立するはずの華子と美紀もつながることができた。こういう人物をぴったりと演じることができる素敵な女優さんだった。

地方出身の美紀と理英の2人の友人が、起業していくという生き方もいい。既存の企業は男が作った世界だから、彼女たちの世界はない、だったら新しい世界を作っていった方が楽しいし夢がある。そんな希望が見えた。

この映画を撮った監督さんも女性だということが、この映画にずいぶん大きな影響を与えているのだろう。

何しろ世界の半分は女性なのだから、政治の世界、原子力行政の世界、安全保障の世界、こういう世界にも、女性が半分関わり、女性の考えや意見が反映されれば、ずいぶん世界はいい方に、楽しい方に変わると思う。そういう世界を私は望む。勇ましいことを言う人は、言うだけで、責任も取らないし、最初に持ち場を放棄して逃げ出すのだから。

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2020年5月25日 (月)

京マチ子さん

家で自粛中なので映画を見る機会多くなっています。「芸」の技事も人の世の大切なもののうちの一つです。

京マチ子さんといえば、黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」を見てました。これを見て「恐ろしい」女優さんだなと思っていました。「異様な」迫力があります。そして、同じく外国映画祭でグランプリをとった作品でも、「地獄門」を見て、また別の京マチ子さんの面も見れたと思いました。

「愛染かつら」はいろいろな女優さんで何度も撮られた映画で、この映画で使われた歌も大ヒットしました。京マチ子さんと鶴田浩二さんの主役で撮られた「愛染かつら」でみせた、また別の可憐で素敵な京マチ子さんもまた魅力的でした。

そして、小津安二郎監督の「浮草」。この中で、雨中の道を挟んでの中村雁治郎との対決シーンは、日本映画の中でも屈指の名場面だと思う。「用心棒」の三船敏郎の対決シーンに匹敵すると思う。この映画での、京マチ子さんは、若いころとまた違って何ともいえない魅力を見せている。

 

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2020年3月28日 (土)

全共闘VS三島由紀夫

一般的に「全共闘」は左翼だ。そして三島由紀夫は右翼だ。左翼と右翼では考えが違う、話が通じない、対立する、憎みあうと考えるのが自然だろう。70年代安保で全共闘の学生たちが東大の安田講堂に立てこもったとき、三島由紀夫が、東大全共闘に呼ばれて、1000人の学生と対話をしに行った。その時の記録映像をTBSがとっていて、その貴重なフィルムをもとに、その時の全共闘側の学生や内田樹さんなどの現代の思想家たちの証言やコメントを入れながら作った映像作品が「全共闘VS三島由紀夫」だ。

 

ぼくは文学者としての三島ファンなので見に行ったのだが、三島の肉声やポーズを生身で見れた気がしてとてもうれしかった。それだけでなく、三島の「言葉」のすごさと、そして三島がこれほど敬意をもって学生たちに接している真摯な姿に感動した。そして、この三島さんの姿を見て、「言葉」をこれほど軽んじる安倍首相と彼に象徴される現体制は、絶対に許してはいけないと、改めて思った。三島さんが生きていれば、当然、安倍首相は軽蔑の対象であり、偽の「右翼」で、絶対に安倍首相と現体制を許さないと思う。まあ、こんな日本を見たくなくて、三島さんは自決してしまったのだろうけど。

 

三島さんは超一流の文学者だ。だから「言葉」がすごいのは当然だ。それを政治家の安倍さんの「言葉」と比べると、安倍さんもかわいそうだが、安倍さんは、本性なのか、それとも体制全体の策略なのか、相手の話を真摯に聞かない、同じことを何度も言い募り相手をあきらめさせ無力化する。そこには当然相手に対する敬意は感じられないし、「言葉」に対するものすごい冒瀆がある。安倍さんは、三島さんのように「右翼」でもなければ「保守」でもないし「愛国」でもない。

 

三島さんは左翼の全共闘学生に対して、きちんと話を聞き、自分のことをわかってもらおうとする。そこには学生に対する愛情すら感じさせる。討論しているうちに、共通の基盤も見えてきて「共闘」しようという話にすらなる。そう、全共闘と三島さんはつながっているのだ。どうつながっているのか映画を見て初めて分かったのだが、それは「自主・独立」で日本を守るというところだ。ただし、三島さんはその守るべき「日本」として「天皇」という言葉を使った。この「天皇」とは何だったのかということが、映画の中で平野啓一郎氏らが解き明かしてくれていたが、それは決して「ヒロヒト」というわけではない。もっと複雑な守るべき日本の文化というようなものだった。三島は、全共闘の学生に「天皇」と言ってくれれば一緒に闘えると呼び掛けたが、全共闘の学生たちは当然、拒否する。しかし、この決裂は決して悲しい物別れではなく、見ている私にはどこか心温まる情愛深いものに感じた。

 

全共闘も三島さんも、闘って勝ち取り守ろうとした「自主・独立」を、切り売りしているのがまさに安倍首相と現体制だ。安倍首相の祖父が60年安保を締結し、その安保を破棄しようという運動が70年安保だったというのもまさに象徴的で、現在アメリカに日本人の命まで差し出しているのが安倍さんと現体制だというのも、本当に象徴的だ。岸さんや佐藤さんに全共闘運動は「負けた」とことになっているが、この映画を見ると決して「負けた」わけではないということが分かる。全共闘世代が、引っ張ってきた自主・独立運動はまだまだ命脈を保っているし元気だ。本物の「右翼」や愛国者たち、文化防衛論者たちだって、安倍さんと現体制を決して許さないのだ。

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