UA-92533382-1 映画・テレビ: よつば農場便り

2020年5月25日 (月)

京マチ子さん

家で自粛中なので映画を見る機会多くなっています。「芸」の技事も人の世の大切なもののうちの一つです。

京マチ子さんといえば、黒澤明監督の「羅生門」、溝口健二監督の「雨月物語」を見てました。これを見て「恐ろしい」女優さんだなと思っていました。「異様な」迫力があります。そして、同じく外国映画祭でグランプリをとった作品でも、「地獄門」を見て、また別の京マチ子さんの面も見れたと思いました。

「愛染かつら」はいろいろな女優さんで何度も撮られた映画で、この映画で使われた歌も大ヒットしました。京マチ子さんと鶴田浩二さんの主役で撮られた「愛染かつら」でみせた、また別の可憐で素敵な京マチ子さんもまた魅力的でした。

そして、小津安二郎監督の「浮草」。この中で、雨中の道を挟んでの中村雁治郎との対決シーンは、日本映画の中でも屈指の名場面だと思う。「用心棒」の三船敏郎の対決シーンに匹敵すると思う。この映画での、京マチ子さんは、若いころとまた違って何ともいえない魅力を見せている。

 

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2020年3月28日 (土)

全共闘VS三島由紀夫

一般的に「全共闘」は左翼だ。そして三島由紀夫は右翼だ。左翼と右翼では考えが違う、話が通じない、対立する、憎みあうと考えるのが自然だろう。70年代安保で全共闘の学生たちが東大の安田講堂に立てこもったとき、三島由紀夫が、東大全共闘に呼ばれて、1000人の学生と対話をしに行った。その時の記録映像をTBSがとっていて、その貴重なフィルムをもとに、その時の全共闘側の学生や内田樹さんなどの現代の思想家たちの証言やコメントを入れながら作った映像作品が「全共闘VS三島由紀夫」だ。

 

ぼくは文学者としての三島ファンなので見に行ったのだが、三島の肉声やポーズを生身で見れた気がしてとてもうれしかった。それだけでなく、三島の「言葉」のすごさと、そして三島がこれほど敬意をもって学生たちに接している真摯な姿に感動した。そして、この三島さんの姿を見て、「言葉」をこれほど軽んじる安倍首相と彼に象徴される現体制は、絶対に許してはいけないと、改めて思った。三島さんが生きていれば、当然、安倍首相は軽蔑の対象であり、偽の「右翼」で、絶対に安倍首相と現体制を許さないと思う。まあ、こんな日本を見たくなくて、三島さんは自決してしまったのだろうけど。

 

三島さんは超一流の文学者だ。だから「言葉」がすごいのは当然だ。それを政治家の安倍さんの「言葉」と比べると、安倍さんもかわいそうだが、安倍さんは、本性なのか、それとも体制全体の策略なのか、相手の話を真摯に聞かない、同じことを何度も言い募り相手をあきらめさせ無力化する。そこには当然相手に対する敬意は感じられないし、「言葉」に対するものすごい冒瀆がある。安倍さんは、三島さんのように「右翼」でもなければ「保守」でもないし「愛国」でもない。

 

三島さんは左翼の全共闘学生に対して、きちんと話を聞き、自分のことをわかってもらおうとする。そこには学生に対する愛情すら感じさせる。討論しているうちに、共通の基盤も見えてきて「共闘」しようという話にすらなる。そう、全共闘と三島さんはつながっているのだ。どうつながっているのか映画を見て初めて分かったのだが、それは「自主・独立」で日本を守るというところだ。ただし、三島さんはその守るべき「日本」として「天皇」という言葉を使った。この「天皇」とは何だったのかということが、映画の中で平野啓一郎氏らが解き明かしてくれていたが、それは決して「ヒロヒト」というわけではない。もっと複雑な守るべき日本の文化というようなものだった。三島は、全共闘の学生に「天皇」と言ってくれれば一緒に闘えると呼び掛けたが、全共闘の学生たちは当然、拒否する。しかし、この決裂は決して悲しい物別れではなく、見ている私にはどこか心温まる情愛深いものに感じた。

 

全共闘も三島さんも、闘って勝ち取り守ろうとした「自主・独立」を、切り売りしているのがまさに安倍首相と現体制だ。安倍首相の祖父が60年安保を締結し、その安保を破棄しようという運動が70年安保だったというのもまさに象徴的で、現在アメリカに日本人の命まで差し出しているのが安倍さんと現体制だというのも、本当に象徴的だ。岸さんや佐藤さんに全共闘運動は「負けた」とことになっているが、この映画を見ると決して「負けた」わけではないということが分かる。全共闘世代が、引っ張ってきた自主・独立運動はまだまだ命脈を保っているし元気だ。本物の「右翼」や愛国者たち、文化防衛論者たちだって、安倍さんと現体制を決して許さないのだ。

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2020年3月 1日 (日)

寄生虫(パラサイト)

カンヌ映画祭のパルムドールを受賞した話題の韓国映画「寄生虫(パラサイト)」。

格差社会を描いたという社会的側面についても言われる映画であるが、ぼくには純粋にエンターテイメントとして面白かったし、優れた映画だと思った。よく言われるように脚本がとてもよく書けている。金持ち一家の家政婦さんを評して、その家の主人で会社の社長でもある人が「問題なくいい人なんだが、ひとつだけ欠点がある。二人分のご飯を食べる。」というのが、あとでとても重要な伏線だったということがわかる。でも、丸々太った家政婦役のアジュマ(おばさん)を見て、観客はなるほどと、ユウモラスに思ってしまう。

おそらく韓国の映画や音楽にせよ、すべては素晴らしいエンターテイメント性が含まれていて、観客を夢中にさせるのだろう。これが韓国の文化の今の強みでもあるし伝統にもなっていくのだろう。日本では、政治的な思惑なんて無視して、面白いから、いいからと言って韓国のテレビドラマ、歌、映画を、人々がどんどん受け入れてきている。とてもいいことじゃないかと思ったし、韓国の文化にはまって、言葉を習いたいと思う人たちの気持ちがわかった。

映画を見ていても登場人物は全員日本人そっくり。韓国語を話しているとは思えない。日本語を話していると錯覚してしまう。金持ち一家の若奥さん、確かこういう美人の女優さんが日本にもいたと、名前がのどまで出かかる。昔、韓半島から天孫降臨族を含めて人がたくさん日本列島に渡ってきた。日本が、このまま少子高齢化で人口が激減するのであれば、また民族の活力を注入するため、韓半島からたくさん来てもらわなければならない。そのためにも、隣国韓国は大事にしなければならない。韓国も、厳しい競争社会で若い人たちが結婚しにくく、子どもを持ちにくいとも聞く。日本・韓国ともに、人が暮らしやすく生きやすい国となるように知恵を出し合い協力すればよいと思う。

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2020年1月19日 (日)

スティング

スティングと言ってもロック歌手ではなくて映画である。

 

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演の「詐欺」を主題にした映画である。

 

「詐欺」は単純な嘘ではなく、仕掛ける方に相当の知能があり、人の心理が深くわかっていないと仕掛けることができない。

 

主演の二人が、標的である組織のボスを追い詰めていく過程は、とてもよく人間心理を突いている。例えば、組織のボスは、不正に競馬の勝ち馬を知らされ、一着の馬に賭けようとする。しかし、賭けの締切りに間に合わず、目の前でみすみす賞金を取り逃してしまう。そうなると人間はもう熱くなるもので、次は、50万ドルもの大金をつぎ込む。

 

見ている方も、どこまでが彼らの仕組んだ詐欺で、どこまでが本当の話だか分からなくなってくる。脚本の方も、良く人間心理を研究している。

 

私も騙されたと思ったのは、「殺し屋」というのは人相の悪そうな男が相場、と思い込んでいたからだ。ロバート・レッドフォードを狙う名うての殺し屋が女性だったのだ。こういう人間のステレオ・タイプや思い込みは、持たないように気を付けていても、人は知らず知らずのうちに固定観念に支配されている。そこを巧みにつくのが、小説家や脚本家、そして詐欺師という職業の人たちだろう。

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2019年12月17日 (火)

俺たちに明日はない

アメリカ映画「俺たちに明日はない」を見る。これは邦題で原題は「Bonniey and Clyde」で、主人公の二人の名前をただ冠したものだ。

 

ただ、この二人の主人公は実話に基づく有名人なので、名前だけの題でもアメリカ人には、相当インパクトがあるのだろう。

 

アメリカのヌーベル・バーグ風の映画だということだが、ヌーベル・バーグの本場フランス映画の方が新しくて革新的だと思う。だが、この映画が大ヒットしたのは、当時としては映画技法の斬新さもあったのだろうし、悪事を働く二人を見ていてカタルシスを感じる通快感などもあったのだろう。

 

ストーリー自体は救いのないものだと思う。貧しいものからは金をとらない「義賊」という噂を勝手に書きたてられたものの、殺人や強盗をして州を渡り歩いていく一行に「救い」はない。ボニーとライドが、結婚しようとなって、「明日もし目が覚めて今までのことが何にも無いことになったら…」と話しているが、果たして翌日2人は、マシンガンでハチの巣にされる。

 

デジタルリマスター版で、映像が大変綺麗で、登場人物の顔色が変わるのまでくっきり見える。だから、この話の舞台自体は、大恐慌時代が背景なのだということをつい忘れてしまう。銀行に破産させられる農家や、銀行自体の破産がさりげなく描かれているし、ロマのように持ち物を積み込んだ車で家族たちがぼろをまとって移動していくが、これはスタインベックの「怒りの葡萄」に描かれた、農地を奪われた農民たちが仕事を求めて大移動していく様を描いたのだろう。こういう時代背景もあって、実在のボニーとクライドももてはやされたのだろう。

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2019年12月 5日 (木)

マノン

メトロポリタン歌劇場のライブ・ビューイングで「マノン」を見る。

フランスの作曲家マスネの音楽が美しい。文学作品を題材としたところ、享楽的な女を主人公とするところなど『椿姫』にも相通じるところがある作品かなと思った。

第5幕のマノンとデ・グュリーが抱擁して、ついにマノンが息絶えるところは、メロドラマと思いながらも、官能的な音楽の美しさに胸が熱くなった。

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2019年11月28日 (木)

第3夫人の髪飾り

ベトナムの映画。

 

映像がきれいで静かな映画。

 

セリフはほとんどない。あったとしてもそれは美しいベトナム語の調べが音楽のように私たちに響いてくるだけ。

 

実は、ハラハラ、ドキドキしていて見ていた。私は、血や暴力や殺し合いシーンを見るのが好きではないからだ。だがそういう予感を孕ませながらも、直接的な暴力は見せない静かな映画。

 

テーマは何だろう。

 

19世紀のベトナムの農村が舞台だから、封建的な社会における女性の置かれた状況とか苦しみということになるのだろうか。でも、映画はそれを声高に主張したりしない静かな映画だ。

 

象徴と暗喩に満ちた豊かな映画だ。

 

生と死と女性と生殖を象徴する「血」の赤がたくさん用いられている。

 

川と川が流れる低い岩屋を行き来する船は、胎内くぐりと生と死の往来。

 

毒草である黄色い花。そして、口と舌をしきりに動かして吸うことを求める赤ちゃん。

 

「男になる」と仏にお願いする幼女。そしてその子の断髪された黒髪が川を流れていくシーン。

 

特に、物語的な筋やクライマックスはないが、目に見えない豊穣の世界とそこにひそめく人間の、そしてその思いも、時間や記憶の中に積み重なっていくという映画。

 

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2019年6月30日 (日)

地獄門

女優の京マチ子さんが亡くなった。晩年は、私生活を明かさないミステリアスな生活を送っていたという。その京マチ子さんを追悼して、主演映画の特集が、仙台フォーラムで行われた。

 

京マチ子さんの映画と言えば、黒澤明監督の「羅生門」、そして溝口健二監督の「雨月物語」だ。私はこの2作品だけを見ていて、京マチ子さんと言えば、時代劇の印象が強い。この2作品、ともに外国の映画祭で高く評価され、そこには、京マチ子さんの、ヨーロッパの人が思う、典型的な東洋美の不思議な日本女性が描かれているのかなと思う。

 

追悼作品が連日上映された中で、私が見たのは衣笠貞之助監督の「地獄門」。題材は平家物語からとられている。清盛一行が厳島参詣しているあいだに、都では反・平氏の反乱がおこる。都に残り警備していた平家方の武士は、上皇や上皇后を何とか難を逃れさせようと、身代わりを牛車に載せ、反乱した源氏方の武士を追わせて、時間を稼ぐ。身代わりに立った女官が、京マチ子さん演じる「袈裟御前」。警固していた盛遠が、何とか袈裟を救い、盛遠は袈裟を見初める。清盛ら兵士一行は、急いで都に帰り、反乱を鎮圧する。論功行賞の中で、盛遠は清盛に、恩賞として「袈裟」を所望する。しかし、今朝は実は人妻だった…という話で、最後は袈裟が死んでしまうという悲劇なのだ。

 

この映画、光の使い方や演出など、京マチ子さんを美しく見せる趣向が際立っている大変美的な映画だ。それに、京さんは、不思議な東洋美の女優さんというだけでなく、表情、仕草など、一流なのだなと改めて感じる。それにしても、盛遠が、一方的に袈裟に恋慕して、思い込みから最後に殺めてしまうのは、現代のストーカーによる悲劇と何ら変わらず、暗然たる気持ちになる。しかし、最後は平家物語らしく、無常を感じた盛遠が出家して終わる、ということになるのだが、出家して済まされる話ではなかろうと、もし本当にあったとしたらこの理不尽な「死」をどう割り切ればいいのかと、そんなことを考えた映画だった。

 

 

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2018年12月31日 (月)

ボヘミアンラプソディー

評判のクイーンの伝記映画を見た。若いころ、クイーンの音楽がラジオで流れていた時代を生きてきた自分には、彼らの音楽そのものが懐かしくて嬉しくてそれだけで満足だったけれど、でも改めて彼らの音楽は今聞いても素晴らしく、この映画をきっかけに、クイーンを知らない若い人たちもクイーンの音楽を聞き始めているというのも納得だ。

 


この映画は、クイーンの残りの3人のメンバーがフレディ・マーキュリーを今でも愛しているからこそ実現した映画なのだと私は直感的に思った。もちろんバンド内のいざこざや反目・対立はあった。映画に描かれているトラブルなんて、きっと表面的なものだろう。しかし、残りのメンバーがフレディのことをこれほどまでに思っていなければ、こんな詳しいドキュメンタリーと言っていいほどの映画はできなかっただろう。フレディーに対する思いが伝わってくるのだ。

 


フレディーは、難民の子供だったということをこの映画で知った。差別される描写も出てくる。だが、メンバーがフレディーをボーカルに迎え入れ、彼らが作った音楽は、もう彼らを超えて世界全体の文化の今でも愛され続ける大きな財産となった。自分だけが特殊で優れているなんて一人よがりの思い上がりでは、決して世界全体のものになる文化は生まれないのだというふうに映画を見て思った。

 

フレディーの父親の「良き思い、よき行い」を、フレディーが実行するシーンには泣けてしまった。


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2018年12月18日 (火)

ラスト エンペラー

蔦屋にビデオを返却していって、また手ぶらで帰ってこず、映画を借りてきてしまった。ベルトリッチ監督が死去したというニュースを聞いていたこともあって、「ラスト エンペラー」を見た。

 

そして、これは偶然なのだが、返しに行ったビデオ「アラビアのロレンス」の主役として出ていたピーター・オトウェルが溥儀の家庭教師役で「紫禁城の黄昏」を書いたジョンストン役で出ていた。2つの映画が撮られた間の年月も感じた。

 

この映画は創作も多いのだそうだが、おおむね史実や実在の人物が描かれていて具体的に歴史を理解し想像するにはいい映画だと感じた。1900年初めのころから日中戦争が終わり文化大革命までの時代が描かれ、この時代、日本は深く中国の歴史に関わり、多くの人の運命を翻弄した。

 

アメリカが日本に対して非人道的な無差別都市攻撃をする前に、日本もすでに中国に対して、国際戦争法違反の、無差別爆弾攻撃を行っていたりということも描かれている。同じように国際法違反の細菌実験を中国の捕虜に対して行っていたことも描かれている。日本が、アメリカに対してなぜ、その非人道的行為を告発することができないかといえば、日本が中国に対して行った戦争犯罪をアメリカから見逃してもらう取引があったのだろう、ということが推測される。


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