2013年3月26日 (火)

塀の中のジュリアス・シーザー

『塀の中のジュリアス・シーザー』、これはいい映画だ。ベルリン映画祭でも金熊賞を取った。出てくる人たちは、名役者ぞろいだ。しかも、長期刑を食らった重犯者ばかり。そう、これは刑務所の中で、服役囚が、シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」を演目に選び、稽古し披露していくという話だ。というか、出てくる人たち、本物のマフィアだとか、犯罪者たちで服役している人たちなのだ。ものすごく存在感がある人たちなのだが、稽古しているうちに昔の裏切りのことを思い出したり、刑務所内での実際の人間関係のいざこざが顔を出し喧嘩しそうになったり、そのあたりもすごいのだ。

さて、この映画で考えさせられたこと。

まず一つは演劇が持つ人間を癒す力、ということだ。この演劇はワークショップではないが、おそらく実際の更生教育の一環として行われているのだろう。彼らは、役柄になり演じていることで、確実に再生しているし、目覚めているということが見ていて伝わってくる。実際、世の中には、演劇療法なるものもあり、日本でも学校教育の中で、演劇がもっと取り入れられてもいいと思う。演じることで、感情の葛藤なども解消することができるので、いじめなどの人間関係の改善などにも役立つと思うのだ。

そして、学校だけでなく、社会人や大人にこそ演劇が必要だと、この映画を見ていて思った。私たちは、普段よい社会人や、よい父親やよい母親などを演じているわけだが、この演技には人を再生させる力はない。そうではなくて、この「ジュリアス・シーザー』の演劇のように、その役柄の喜怒哀楽や運命を追体験し、その感情にひたりきり、その感情を通過することで、自分が再生され新しくなれるそういう演劇を演じることが必要なのだ。近代以前の社会では、例えば祭りや通過儀礼のような人を再生させ解放させる装置があったが、今はない。そういった装置に代わるものが演劇なのではないかと思った。

もう一つは、シェークスピア劇が持つ偉大な芸術性を改めて感じた。

偉大な芸術・良質な芸術にはカタルシスがあるが、「ジュリアス・シーザー」にも、見る者・演じる者の魂を浄化し、高みに導く力=カタルシスがある。ブルータスが、独裁者シーザ-を暗殺しようとする。ブルータスはシーザーの親友でもある。だから、友を裏切るブルータスは苦悩する。自由と民主主義を守るという崇高な目的のために、シーザーの暗殺を決行。有名なセリフ、『ブルータスおまえもか』と言われる。シーザーの後継者アントニーによる反撃。運命の転変によるブルータス一味の敗北と自害。ブルータスを演じる者、見る者、ともに、ブルータスの人生に自分を重ね合わせてさまざまな感情と苦悩を追体験し、最後はカタルシスに導かれる。

映画の最後は、演者たちのその後が紹介される。ブルータスの役の彼は出所後に俳優に転じた。ブルータスの仲間カシウス役の囚人は、どう見ても哲学者にしか見えない風貌をしている。その彼は、塀の中で著作をあらわしたそうだ。

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