UA-92533382-1 日記・コラム・つぶやき: よつば農場便り

2021年2月23日 (火)

天罰・油断・慢心

天は無心なので、人に天罰など下さないと思う。事故や不祥事が起こるのは、人の方に油断や慢心があるからだ。

それを思わせたのは、1週間前の震度6強の揺れを感じた福島県沖で起きた地震だ。

私が、その時に思ったのは、「油断していた」。

宮城県に住んでいて、10年前の大地震を経験していて、大自然災害は想定を超えてくると分かっていても、その後安閑と暮らし日々の生活に慣れた私には「不意を突かれた」という感が否めなかった。10年前の揺れとはまた違った揺れで、以前あまり倒れなかった家の中が、今度は倒れて物がめちゃくちゃになった。

人間というのは慢心するのだ。だから天が罰するように見えるのだ。

核発電所は、日本人の優れた技術力でどんなことがあっても壊れないし、事故など起こさない、たとえ起きたとしてもごくごく軽微なものだというのも、人間の慢心と油断だろう。

福島の核発電所は、果たして今回の地震で大丈夫なのだろうか。人間の技術はあの地震を回避して壊れた発電所を安全に保つことができているのだろうか。慢心した人間の目を逃れて、見えないところにひび割れができて、窯から水が漏れだしているのではないだろうか。それを知っていながら、想定外だから報告しませんでしたと、管理者は高をくくっていないのだろうか。

宮城の女川核発電は、この10年の間に補修工事をして、もうどんな地震にも大丈夫と油断や慢心はしていないのだろうか。「自動車事故があったからと言って、自動車に乗らない人はいない。核事故があったからと言って、核発電を止めるわけにもいかない」という、宮城県民を代表する責任者に慢心はないのだろうか。「国が作った避難計画なので、万が一の事故の時は絶対安全」という、宮城県民を代表する責任者に油断はないのだろうか。

慢心や油断は罰せられる。人間の痛いところを必ず突かれる。

虚偽を言い立てスポーツ大会を誘致し、自分に連なる人たちだけに利益を与え、大衆に熱狂心理をもたらし、自派の政治勢力を維持拡大しようとする、無私からほど遠いそんな企みには、おのずから慢心や油断が生じる。偶然にも天が疫病の蔓延でそれを罰したように見えても、それは偶然起こったことではないだろう。彼らの油断や慢心がそれを生んだのだ。運動選手たちも、スポーツ大会は、自分たちのためのものではないと、うすうす感じ始めている。

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2021年2月18日 (木)

読捨新聞社説『森氏の会長辞任は不適切』

(空想上の新聞社の社説ですので、ご注意ください)

 

森氏の女性蔑視発言を、いわゆる「世論」が批判して、森氏はオリンピック実行委員会の会長を辞任することとなった。このような事態が起こったことは遺憾だ。「正義」の暴論が猛威を振るう風潮を、私たちは気を付けなければならない。森氏は辞任する必要はない。

 

まず第一に、森氏の発言が「差別」という指弾であるが、森氏のような「差別主義者」を「差別」することは許されない。五輪の理念は、多様性を認め、あらゆる差別を許さない、ということであるから、「差別主義者を差別する」ことも、五輪の理念に違反するのである。これでいかに「正義を標榜する」いわゆるリベラルな思想の持ち主たちが差別主義的であることかがよくわかる。

 

次に、世論との乖離だ。読捨新聞社の独自の世論調査によると、森氏の発言を支持すると答えた人に、森氏は会長を続けるべきかと尋ねたところ、98パーセントの人が「続けるべき」と答えている。その他、「わからない」と答えた回答者を、「森氏を支持する」に参入した独自の世論調査でも、森を支持する人の割合は際立っている。しかし、それがあたかも、森氏が辞めるべきだとの世論が強まっているとした根拠浮薄な暴論で、森氏を辞任に追い込むのは、あまりに世論に乖離したやり方としか言いようがない。菅総理様が常々述べているように「専門家の意見を聞いて科学的に」事は運ぶべきである。社会科学者の開発した世論調査や統計処理の仕方を無視して、あいまいな「世論」を背景にするのは、民主主義の自壊ともいえる。

 

よって、読捨新聞社は、森氏の会長続投を強く主張するものである。

 

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2021年2月 8日 (月)

『オリエントからの小鳥』(ハキーム著)・河出書房新社

現代アラブ小説全集からエジプト人作家ハキームの『オリエントからの小鳥』を読む。

この小説は、作者の実体験であるパリへの留学が色濃く反映されている。時代は、第1次世界大戦と第二次世界大戦の間にあたる時期だが、やがて欧州の平和が乱される、その暗雲が立ち込めようとする1940年代に近づいていく頃だ。

オリエントからの小鳥、というのは作者の投影である小説の主人公モホセンが、パリの友人から呼ばれているあだ名だ。小鳥というかわいらしい愛称とは裏腹に、主人公のモホセンは、鈍重でしばしば思考にふける。しかし、そんなモホセンのパリでの実を結ばなかったつかの間の恋愛が描かれていたりする。

小説の主題は、やはり、ヨーロッパに対峙するオリエント、すなわち東洋の苦悩だ。しかし、1930年代の時代背景であると、ヨーロッパ人の間でも「西欧の没落」の予感は感じられていた。象徴的なのは、亡命ロシア人のイワンだ。彼はキリスト教にもマルキシズムにも絶望して、オリエントに回帰することを唯一の望みとして語る。しかし、モホセンは、ヨーロッパという娘に気前よく財産を渡してやったオリエントは、既に汚染されていて清らかなところは何も残ってないのだと告げる。これでイワンの絶望は極まる。

清澄なオリエントはもうない。それはヨーロッパのせいでもあるし、オリエント自身のせいでもある。アラブ人作家の苦悩は、私たち日本人の苦悩でもあると感じた。無反省に「東洋」を失っていく日本にこれでいいのかと再考を促す。

 

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2021年2月 5日 (金)

寓話

「寓話」にも、本当に意味があるのだと改めて思っている。「寓話」には、人間の智慧が込められている。

 

「寓話」とは、例えばこんなものだ。

 

ある欲深の男が、神様にお願いをして、神様も願いを1つかなえてやろうという。そこで男は、私が触れるものは何でも黄金にしてくださいと頼む。これで金持ちになれると思ってのことだ。神は、後悔しないなと念を押したうえで、男がなお願うので、その願いをかなえてやった。願いがかなった男は、得意になってあらゆるものを黄金に変えていったが、やがて、彼が触れる食べ物も黄金に代わってしまうので、食べることができなくなってしまった。挙句の果てには、彼の愛する家人も、彼に触れると、黄金に変わってしまい、彼は深い嘆きと悲しみの中で孤独に死んでいった。

 

この話の寓意は何だろう。人間の欲深さか?愚かさか?

 

現代の寓話はこうだ。

 

説得術や弁論術など「言葉」が重んじられる「政治」という世界のなかで、あらゆる相手を打ち負かす究極の強い言葉を手に入れたいと願った男が手に入れた「言葉」は、相手の言葉の魂を奪う「それは当たらない」とか「質問は承った」という、言葉に見せかけただけの木を鼻でくくる戦術だった。これで、当初は、どのような問いかけも粉砕し、政治の世界では最強の勝者として君臨することになったが、実は、彼自身の言葉の魂をも殺す強い毒薬だったのだ。やがて、本当の言葉で語り掛けねばならない危機的な状況がやってきたとき、いざ、彼が、「言葉」でもって語り掛けようとすると、言葉は彼の口からはついに出てこなかった。言葉はやせ細り、死んでしまっていたのだ。

 

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2021年1月21日 (木)

2.5流の人間の幸せを考える

どこの会社、どんな分野でも、1流の技能を持ち1流の仕事をする人がいる。そして、どこの会社、どんな分野でも、それ以外の大勢の人がいる。

プロ野球は、プロになれるだけでも、野球という競技の分野では抜きんでたエリートで1流だが、しかし、プロの世界に入ったならば、その世界でまた1流となるのはほんの一握りの人だ。打者でいえば3割の確率でヒットを打つ選手だが、去年のパリーグでは、それは10人もいなかった。そういう一握りの選手はとてつもない高額の年俸をもらう。そうでない2軍の選手や、レギュラーとベンチを行ったり来たりと言った選手は、それなりの金額の年俸しかもらえない。(もちろん、それでも、一般の会社員よりは高額なのは、彼らがすでに、この分野ではエリートで選ばれた才能のある人たちだからであろう)

恐らくどこの会社、どんな分野でも、同じ風潮が強まっていると思うのだが、今、1流の人だけが、利益を総取りして、2流以下への分配は少なくしようとしている。自由競争経済を考えた時、1流の仕事人が仕事をする方が、2流以下に仕事をさせるよりも、1流の結果が出るし、効率もよいし、最大限の利潤が生み出せる。

ある会社やある分野では、そのようなやり方もよいのだろうが、(それでも、長い目で見たら、そういうやり方は持続的なやり方ではない)、社会全体がそのような流れに向かっているとしたら、一握り才能や技能の優れた人以外の、いわゆる普通の人たちの居場所がなくなる。普通の平均的な人たちこそが、まじめに働いて世の中を支えていると思うのだが、こういう大多数の人たちの幸せが、だんだん浸食されているのではないかと思うのだ。ただ、まじめに働いているだけでは報われてはだめなのだろうか。

 

こんなことを考えたのは、私が、特に、結果重視で1流の人が総取りをする傾向が強い業界とかかわっているからだ。もちろん、1流の人が1流を維持しているその努力や豊かな才能には十分敬意を払いたいと思うし、素晴らしい。それにしても、私のような2流どころか、2.5流の人間には、居心地が悪い。

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2021年1月 6日 (水)

貧困な言葉のつけが来た

三島由紀夫が生きていて、安倍さん、菅さんの「貧困な言葉」を聞いたらどのように思っただろう。もちろん彼は、世界的な文豪だ。彼の言葉が豊饒なのは当然だ。その彼と、政治家を、言葉の点で比べたら、それは政治家が可哀想だ。しかし、政治も、言葉にかかわる職業だ。その言葉が、安倍さん、菅さんによって、涸らされてしまった。

 

だから、三島由紀夫が今生きていたらと思うのだ。この二人の貧困な言葉を聞いて、怒り心頭に達し、再び、自衛隊にクーデターを呼びかけるのか、それとも、怒り心頭の余り、割腹自殺を企てるのか。しかし、そもそも、こんな時代を見たくなかったから、三島さんは、若くして果てたのだろう。偽の愛国や、偽の右翼など見たくもなかったろう。

 

新聞記者の質問に対して「当たらない」の一言で、真剣に対峙することなく木で鼻をくくってきた菅さんの言葉は涸れていて、もう国民に説明し、訴える言葉は発出できない。言葉を軽んじてきた人は、言葉に復讐されるのだ。

 

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2020年12月31日 (木)

核発電に脅かされず暮らす権利

今年、一番残念だったことは、宮城県の村井知事と宮城県議会とが、女川核発電所再稼働に同意を与えてしまったことだ。県民の願いは、もっと違ったところにあるはずだが、現在の議会制民主主義制度のもとでは、県民の思いとは別に、自民党の勢力は強いのだから、自民党の政策が粛々と実現されていく。民意が反映されないと言って、制度の欠陥を嘆いても、しかたがない。民意を実現する方の政治勢力は確かに劣勢で、自民党の強い政治力に対抗するほどには全く育っていないからだ。

 

村井知事はこのように発言したと、報道されている。
「核発電所の再稼働は必要だ。核発電がある以上、事故が起こる可能性はある。事故があったからダメとなると、すべての乗り物を否定することになる。技術革新をして人類は発展してきた。フクシマの事故を教訓として、さらに高みを目指す」

 

車の事故や飛行機の事故と核発電所を比較するのは、核推進派が用いる論法の常套手段だ。車の事故や飛行機の事故が起きないように、そして事故による不幸な人が増えないように、事故の原因を究明し、事故防止策を必死に考えてきた。核発電事故は、まだ原因も究明されてもいないし、事故を収束できるかも判明していない。それなのに、もう、次の事故の可能性ある施設を早々に再開するのだろうか。

 

そもそも、核発電を続けるためには、(そして今まで続けてきたことは)データのごまかしだったり、一部の人に被ばくを押し付けたり、過疎地の人だけに被害を押し付けたりと、人倫に関する不正義や社会に対する不正の上でしか成り立たない。これを車や飛行機の事例と一緒にすることなどはできないはずだ。

 

300年前には、人が何の制限もなく、自分の考えを述べたり、一般人が政治に関して投票権を持ったり、女性が男性と同じ権利を有するなどとは考えられもしなかった。しかし、人々の努力によって、そのような権利は、今日、当然のものとみなされて、誰も不思議に思うものはない。核発電に脅かされず暮らす権利も、これからの努力によって、5年、10年後には、そしてもっとのちの時代には、誰も当然に思って疑わない、基本的な人間の権利になる。

 

核発電所がなくなることが、一番、安心して、幸せになれることだ。核発電がある限り、常に私たちの生活は脅かされ、平穏は訪れない。

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2020年12月13日 (日)

外からの目

外国語を習うことは、もう一つの物の見方を与えてくれる。自国や自国の文化を相対化してくれる。つまり、自分の考えやモノの見方は、絶対ではないのだということを教えてくれる。自分や自国に囚われることから解放されたいのであれば、外国語を習ってみるというのはお勧めだ。

 

そういうわけで、私はインターネットのホームページを外国語のホームページにしていて、時に、世界の様子は、外国語でどのように報じられているのかなんてということを見ている。

 

日本のことを伝えた記事があったので要約してみる。

 

 

日本の草津町というところで、女性議員が町民投票によって解職された。町長や解職の先頭に立った町会議員の男性たちは、「これで町の名誉が守られた」と言っている。事の起こりは、解職された女性議員によるとこうだ。町長室に呼ばれた女性議員は、そこで、性暴力を受けた。女性は、そのことを訴え出たことにより、逆に、町長や町議会を侮辱していると激しく抗議され、ついには、冒頭で述べたように、男性町会議員が中心になった解職請求を起こされ、町民投票で解職されたというわけだ。

 

この経緯の考察として、これは、日本で性被害にあった女性が置かれる立場の典型的なものであるということ、つまり性被害にあった方の女性が激しい攻撃にさらされることは、伊藤詩織さんの例とも重なることや、そもそも、町政のトップや議会に男しかいないということの問題点が指摘されていた。全男性町議会議員たちが、結束して一人の女性に対し「トラブルを引き起こした」かどで糾弾したのは、本当はもっと深刻なこと、すなわち町政のトップによる性暴力があったかもしれないという可能性を調査することを放棄してしまった、ということを、識者の言葉を印象深く引用している。

 

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2020年11月23日 (月)

女川原発再稼働承認

宮城県美術館移転問題では、村井知事の自論と自政策の勇気ある撤回を称賛したいが、女川原発再稼働承認に関しては、民主的プロセスを装ってはいるものの、その偽りの民主主義を批判したいと思う。

 

民主主義が県民の多数決というのであれば、宮城県民の民意は、女川原発再稼働に反対が、民意だ。しかし、県民多数の願いも、県議会では、自民党と公明党が多数のため、再稼働が承認されてしまった。県民投票で再稼働の意思を表明しようという住民投票の請願は、自民党と公明党により、趣旨説明も行わせてもらえず、否決されてしまった。

 

では、女川原発の事故が起きた時、民意を無視して、再稼働に合意した議員さんたち、村井知事、石巻市長、女川町長が、何か責任をとり、例えば罰せられるとか損害賠償の責を負うかと言えば、決してそうではない。核発電については、法律上、責任を負う人はおらず、現在の日本の法律では罰することはできない。人倫上・人道上・天道上の罪を負うばかりで、現に、福島核発電所事故では、安倍元首相、東京電力の経営責任者をはじめ、誰一人責任を認め、負った人はいない。

 

県民の多数の意思を、議会の議員構成に反映できず、自民党・公明党議員ばかりが多く当選させてしまうのは、私たちの民主主義が弱いからだ。そういう意味では、事故があれば一番多く、痛みを負わなければいけない、私たちそのものも、責を負わなければいけない。ただし、民主主義といえば、政治上だけのものではなく、購買民主主義というのもある。この民主主義は、1票の差は無限に不平等で、お金持ちと貧乏人の1票の格差はとてつもなく大きいが、それでも「民主主義」の名の通り、数が集まればそれなりの効果はある。

 

自分たちだけの利権にこだわる、東北電力の電気を購買したくなければ、他の会社からも購買することができる。この購買権を「清き1票」だと考えれば、多く「票」を集めたものが、民の代表で力を持つ。我が家では、東北電力に「投票」することをやめて、「パルシステム電力」に投票している。再生可能エネルギーで作った電気を中心に販売している会社だ。購買民主主義には、まだ、公職選挙法は適用されておらず、そこで、多くの人に「パルシステム電力」への「投票」を私は呼び掛けたいと思う。東北電力や東京電力など、政府と利権が一致し、少数の者のためだけの電力会社から、多くの人のための電力会社へ投票先を変えるのはとても簡単だ。パルシステム電気のこのホームページを見てください。

 

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2020年11月21日 (土)

宮城県美術館移転問題

村井知事が提起した「宮城県美術館」の移転問題は、村井知事が提案を引っ込めるという形で、現地での存続ということとなった。村井知事としては、施設をまとめて敷地を有効活用するという狙いや、建設費が国から引き出せるというタイミングを見計らっての提案だったと思うが、この提案により、思ってみなかったほどの広範な反対運動や意見が出た。

 

村井知事の提案は、このような提案は反論を掻き立てるという面で、有益だったと私は思う。もしこの村井知事の提案がなかったとしたら、多くの県民は県立美術館の美術的価値や、建築物としての価値を知ることなく、見向きもせずに終わっていただろう。そして、取り壊された後になって、それがいかに重要なものであったかに気づくということになっっていたと思う。

 

村井知事の提案に対して、多くの人が反対し、いかに現在の美術館がそこにあるということが価値ある事かということを、こんこんと訴えた。こういう議論があって、私たちもその価値にあらためて気づくことができたわけだ。初めから「決まったことには口を出させない」「決めたことに対して説明は不要」という非民主主義的な態度を取らず、事を進めたことがよかったのではないかと、私は思う。

 

民主的に物事を進めてもらいたいことは、他にもあるのだが、民主的に物事がすべて運ばれているというわけではないことももちろんある。それは、また別の機会に。

 

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