2019年8月30日 (金)

余剰トウモロコシの購入

安倍さんが、トランプさんから、余ったトウモロコシを購入してあげるのだという。

 

保守的で「愛国」だと思っている私は、この政策には納得できない。

 

第1に、国富の流出である。余ったトウモロコシをわざわざ買ってあげるお金は、教育奨学金を充実させるなど国内でもっと有効に使えるのでないか。それに、安倍さんは、近隣諸国との対立をいたずらにあおることで、すでに経済交流がもたらす国富を失っている。とすれば、二重に国民の生活を犠牲にするものではないのか。

 

第2に、国民の命を差し出すことになるのではないか。このトウモロコシは、直接人間が口にすることはないとしても、農薬の基準などをどんどん日本よりも甘くするよう、も止まられるままに受け入れている阿部さんは、国民の命をないがしろに考えているのではないか。

 

私たち、国民も自己責任論の呪縛から解放されよう。生活が楽にならないのも、実質賃金が上がらないのも、決して自分の働きが悪いからでもないし、自分を責めるのをやめて、「政治」が悪いのではないのか、アメリカの代理人として統治することを許されている人たちが、国民を犠牲にしてでも自分たちの利益をはかっているのではないかと、声を上げても、それは決して罪深いことでも何でもない。

 

 

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2019年8月22日 (木)

日韓関係 少数意見でも絶やさずに

安倍自民党政権の国民の大きな支持が続く。それは、韓国への強硬な態度も支持されていることだとも思う。

 

安倍さんや自民党、そして国民の大多数の意見とは、例えば、読売新聞8月18日付の1面に掲載されていたように、

 

「いま日本にとって大事なのは、日米関係、日中関係であって、日韓関係は放っておいてもよいような小さな関係」

 

というようなことに代表されているのだろうし、

 

「戦後生まれで、戦前のことに一切責任がない、私たちがなぜ謝らないといけないのか」

 

というところだと思う。

 

多数意見が常に合っているとは限らない。そして、長い年月の先を見据えてという視点からも、多数意見が正しいとも限らない。

 

1920年代から始まった日中戦争・日米戦争のときに、「この戦争はおかしい」「この戦争は負けるよ」と命を賭していったごく少数の人が、結局は正しかったのであり、誰もが、核発電所は安全と信じていた時に、核発電の危険性を言い続けていたごく少数の勇気ある慧眼の人たちも、正しかったのである。

 

「どうでもいい関係」と言って見捨てていい関係はないと思うし、結局、日本自身にとっても、不幸なことだと思う。豊かで、実りある、隣人・地域関係を失い、日本国民の生活に負の影響が出るだろう。

 

そして、戦後生まれの人の責任論については、論点が違うと思う。問われているのは、戦時性暴力や労働条件が守られない非人道的な意思に反する強制労働に対して、「あなたは、どう思うか」と聞かれているのであって、私は、そう聞かれれば、「あっては、ならないことだと思うし、もし、それが過去にあれば、大変遺憾なことだと思うし、今後、世界のどこでもそのようなことがないようにしていきたい」と答える。そして、聞かれるたびに、何度でもそう答えればいいだけだ。

 

もし、そう答えないのであれば、日本の国内でも、女性や労働者の基本的権利は守られないし、声を上げた女性や労働者に対して、「抵抗できたのに、しなかったあんたが悪い」「いい会社で働こうと思えばできたのに、ブラック企業で働いたお前が悪い」といった、望ましくない、不幸な社会へ自縄自縛していくことになる。

 

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2019年8月19日 (月)

『老子―もう一つの道』 六十二 道の貴さ

【自由訳】
道は事物の最奥にあって善・不善を問わず、すべての人を貫き存在する。だから不善の人とて見捨てるべきでない。「道」こそすべての物に先立つ。「道」は求めれば得られるし、「道」によってすべての罪は許される。だから、この世で最も貴きもの、それは「道」である。

 

【解説】
「道」によって罪が除かれ、「道」が善人・悪人の分け隔てなくすべての人の罪を許すという思想。

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2019年8月16日 (金)

暴力を危惧する

表現の自由のような民主主義の根幹にかかわるようなことに対して、自分の考えと違うからと言って、脅迫や暴力を用いて、表現をとどめようとすることも、この国の民主主義が行くべき方向にとっては憂慮すべきことであるが、さらに憂慮すべきは、政府がそのような暴力に対して、反対することで暴力の抑止に走るのではなく、むしろ積極的に、暴力を容認することで、自分の気に入らない考えの人たちに対して、暴力や暴行を加えてでも、沈黙させて良いのだという積極的なメッセージを送っていることだ。これが、安倍さんの政権の本質的な性質なのだと思うし、改めて恐怖を感じる。

物理的な暴力だけでなく、こんなインターネットで書き込みをしただけでも、ものすごい攻撃が来るぞと委縮させること、それが安倍さんの政権の望むことでその本質だという方向に、この国の民主主義は向かっているのではないだろうか。それを憂慮する。

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2019年8月 4日 (日)

フクシマ・アクション・プロジェクト

フクシマ・アクション・プロジェクトは、フクシマの現状を正しく伝え、核発電所の事故による悲劇が今後繰り返されないことを願って作られた団体で、県外の人も含めて会員になることができる。

 

私も会員で、残念ながら総会に出席できなかったが、総会で催された2つの記念講演の資料を送ってもらった。どちらも大変優れた内容で、市民たちがこのような質の高い活動をしているということは、本当に素晴らしい。もちろん、核を推進する政府や大企業の前では、資金力など比べるべきもない規模の団体と活動なのであろうが、市民の協力と連帯で、今後も長く活動をつづけ、実績を確実に作っていけないものだろうか。

 

さて、講演の概略だけでもここに記し、多くの人がフクシマ・アクション・プロジェクトに興味を持ってもらえればと思う。

 

1つ目は、文科省が全国に配布している「放射線副読本」が2018年に改定版が出た。それがどのように「改定」されているのか、つまり削除されたところや新たに加わったところはどこかについて、丁寧に追跡したものだ。要は、「放射線は自然にありふれた存在なので、怖がることはなく、フクシマは今立派に復興中であり、放射線による健康被害はないのに、それを言う人はいじめなので、みんなで「いじめ」を克服しましょう」という内容になり、もちろん、事故を起こした政府や電力会社の責任については一切言及がない。(私の要約は、乱暴だが、講演した後藤さんはもっと実証的な研究なので、信頼できる)

 

2つ目は、1つ目とも大いに関連するが、福島県内の核発電所事故関連の記憶伝承館的な施設の内容を検討し、それとドイツのホロコーストの展示と比較していることだ。電力会社や自治体が設置している伝承館的なものが福島県内にはいくつかあるが、だいたい、事故を起こした加害者の責任は一切言及されず、今いかに復興していて、私たちは頑張っているのか、という内容になっている。これはもちろん、ナチスが行ったホロコーストの記憶を伝承する施設ややり方と鋭い対比をなす。国家や電力会社の「記憶」は、それがなかったというところが出発点だから、加害の反省もなければ記憶の伝承もない。戦争責任や水俣病などの公害事件に相通じるものが脈々と流れている。私たち市民が、記憶を伝承していかなければ、いつかこの国の核発電事故はなかったことになり、それが第2、第3の加害を引き起こす。

 

記憶の伝承を模索している、フクシマ・アクション・プログラムに興味を持っていただき、全国から少しでも助力が得られればありがたい。

 

フクシマ・アクション・プログラムのホームページ

 

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2019年8月 3日 (土)

基本的人権の問題

意に反して、低賃金で強制労働させる、または、意に反して、性行為に従事させる。これは、重大な人権侵害だ。もし、重大な人権侵害があった場合、どのように対処すべきなのだろうか。

 

まず、被害者は、どれくらい時間がたったとしても、その被害を訴えることができると、私は考える。侵害があった時点では、暴力的な力で、声を上げることができなかったという場合もあろうからだ。また、基本的な人権に対する侵害は、「時効」などはないと私は考える。それだけ、重大な懸案であるからだ。

 

被害者の救済と正義の回復はどのように行われるのか。被害者本人への謝罪と補償も必要だろうし、人権侵害の重要性にかんがみて、「記録・記憶・伝承」も特別に必要なことだと考える。そして、これが、現在の国際社会で基準になりつつあるのではないか。もちろん、数多くの人権侵害は、過去に、そして現在も行われつつあるのだろうが。

 

日本が加害者である人権侵害そのものを認めようとしないことが、韓国に対しての大きな問題点だと私は考える。日本政府の高圧的な態度を、支持する社会の雰囲気は、結局この国で、抵抗できたはずだからと言って女性の性被害を認めないとか、不正や不正義に対して声を上げる人自体をたたくという、結局窮屈な社会を生んでいるのではないだろうか。相互依存しある、日本と韓国との関係が、絶たれてもいいのだという日本の安倍さんの態度や、それをこんなにも多くの人が支持していることに対して、懸念の声をあげておきたいと思う。

 

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2019年7月28日 (日)

『老子―もう一つの道』 五十九 根本

【自由訳】
人民を治め天に仕えるには、倹約し無駄なものを使わないことである。そうすれば天の道理にしたがえる。天の道理に従えば行うこと行うことすべて徳を積んだに等しく、徳を積めば敗けることはない。負けなければ弱みは分からない。こうしてこそ一国を保持できる。根本を得れば、永遠を得ることができる。それは生きる道とて同じこと、根本を押さえれば長生できる。

 

【解説】
長く生きるための生の治め方、養い方、それは個人に当てはまることが、国や政治にも当てはまる。

 

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2019年7月27日 (土)

kutoo運動

職場でハイヒールを強制されるのが苦痛だと声を上げた女性がいる。声を上げた女性に強調する運動がある一方で、その女性を貶める声がある。

 

例えば、その声を上げた女性がアイドル活動をしていたこともあって、「女を売り物にしている人が、男の目を引き付ける仕事をしていたくせに」とか「いやなら職場をやめたらいい」というものだ。

 

声を上げた勇気ある女性に共感する人たちの行動は頼もしいが、彼女を批判し、貶める人たちに、今の日本らしい特徴を感じる。それは、例えば、性被害にあった人に対して、そんな誘うような恰好をしていたあんたが悪い、という声が日本では大きな声になるのと同じだと思う。

 

それはさらに、兵士の慰安所で働いていた人に、他の仕事もできただろうに、自分から希望してきたのだから売春である、とか、強制労働に徴発された人に対して、他の仕事もできたのに、高給にひかれて来たのだからお前が悪い、という考えが、いま日本では、政治勢力的にも大きくなっていて、喜んで国民がそれを喝采していることに表れてもいる。

 

生きる土台が壊されていたら、人間らしい判断も選択できない。でも、それは個人が決して悪いのではない。だが、今の日本では、すべて「自己責任」に引き付けて、みんな自分が悪いと思っている。だから、他人も自己責任で全部自分で行為を引き受けるべきなのだという、社会の土台の堀崩しが起きている。

 

しかし、希望は声を上げる人自体が出てきたことだ。特に女性で声を上げる人が出てきたことだ。男女平等教育で、自分で考える力は両性平等についてきているわけだ。しかし、声を上げる女性を一番嫌うのが、戦前のような権威主義がまかり通り、生意気な口をきく人などがいない社会にノスタルジーを感じ回帰を求めている人たちだ。そういう人たちの、土台こそを掘りくずのが、自分で考えたことを自分の声で語るという人たちの出現だ。

 

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2019年7月20日 (土)

選挙まであと1日

やはり安倍さんがすごいと思うのは、話をすり替えるのが巧みだということだ。

 

自民党と公明党を選べば「安定」で、それ以外は「混乱」だという話にいつの間にかなっている。そしていつの間にかNHKのニュースでも「今度の選挙は、有権者が「安定」を選ぶのか、そうでないかの選択になっています」という話になってしまっている。

 

心理学の実験で、こういうのがある。(概略で話はかなり端折っているが)「成功率90%の手術Aと、死亡率10%の手術Bがあるけど、あなたはどちらを選びますか」

 

医師のような専門家でさえ、手術Aを選択するのだそうだ。実は、AもBも同じ成功率と死亡率にもかかわらずだ。だとしたら、安倍さんの恐るべきすり替え理論と、それを垂れ流しにする国営放送は本当に罪深い。

 

安倍さんは、野党のことを「野合」と馬鹿にするけど、自民党と公明党の野合ほど野合なものはないはずだ。

 

自民党員や支持者の本当に保守主義の方々に訴えたい。心の中では、変な新興宗教だと思っているはずの人たちと組めますか。本物の保守主義の誇りに訴えたい。

 

逆に真の学会員の方々に訴えたい。教祖が治安維持法で捕まるような苦労をして運動をしてこられたあなた方が、安倍さんのようなカルトで固執した考えの人を支持するのですか。平和の党の誇りに訴えたい。

 

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2019年7月16日 (火)

国民は代表されているのか?をさらに考える

世帯当たりの平均貯蓄はいくらなのだろうか?

 

これはよく、統計の教科書に出てくる事例だ。平均値で言うと2000万円近くになる。そんなにあるのか、というというのが、私のようなものの感覚だが、この平均値という値で、国民を代表させるのには問題があるということが、教科書に書いてあって、なるほどと思った次第だ。

 

平均値は、高いほうの値に引っ張られる性質がある。だから、世帯別貯蓄では、とんでもないお金持ちがほんの一握りいれば、平均の値が高くなってしまう。平均値で国民を代表させるのは問題があるということだ。

 

そこで、国民を代表させる値として、もっと別の値がないかと言えば、最も度数の多い階級を代表させる「最頻値」というのもある。世帯別貯蓄で言えば、最頻値は100万円未満だ。これなら、私の感覚とも一致する。

 

こんなことから、日本の政党政治は本当に民主的なのか?つまり国民の姿をありのままに代表させているのか、という疑問がわく。この世帯別貯蓄の例のように、金持ちの値である上の方に引きずられているのではないのか?100万円未満だとか貯蓄ゼロのもっとも、国民を代表する値は、議員さんの割合に反映されているのか?

 

反映されているかどうかは、本当にそのような世帯の人たちが投票に行っているのか、行ったとして彼らの投票が死に票になっているのかどうかなど、実証的に調べて見ないことにはわからないだろう。しかし、投票率の低さや世界でもまれに見る供託金の高さや世襲制や選挙制度のゆがみによって、ある特定の階級の人の意見しか反映されていないのではないか、と疑う余地は大いにあると思う。

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