UA-92533382-1 日記・コラム・つぶやき: よつば農場便り

2022年6月25日 (土)

えん戦

戦争の抑止力に「えん戦気分」がある。ロシアの兵士もウクライナの兵士も、本当はそんな苦しいことも怖いこともしたくなくて、サッカーの試合でも見ていたいはずだ。人々の暮らしが豊かになればなるほど、馬鹿げた戦争になんて行きたいとは思わない。理不尽な独裁者の野望になんて付き合っていられず、さっさと持ち場に割り当てられた戦場から、背中を向けて立ち去るはずだ。

だとすると戦争に近い国とは、貧しい国だ。格差があって、生活に苦しい人が多い国こそが、戦争に近く、そして苦しむ人が、その苦しみのはけ口に、政治指導者たちの扇動に乗り、戦争へと参加していく。そういう意味で日本は戦争に近い国なのではと憂慮する。いざ戦争になり動員された時に、「さんざん隣国への憎悪を煽り、今自分は安全なところにいて命令を下しているあの指導者の命令に従うなんて馬鹿げていますから、持ち場を放棄して帰りましょう、上官殿。私は、家に帰って好きなスポーツ番組を見たいんです」と言えるだろうか。いや、ぜひ言って「えん戦」を貫きたいが。

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2022年6月 9日 (木)

信なくんば立たず

「国を愛する」と称する人たちは、戦後教育の欠陥に、自由・民主主義・平和を広げた日教組を指弾するが、「孔子」や「孟子」など漢文を教えなくなったことをなぜ指摘しないなのだろうか。私などは、漢文教育は広く国民に浸透してしかるべきだと思うのだが。

そういう意味で戦後教育の欠陥を被ったのは安倍首相もそうであろう。お友達を優遇して獣医学部を創設したり、自区の選挙民を観桜会で饗応したり、そしてそのことについて虚偽を述べたりという行為は、もし漢文の素養があれば、「君は私の友人であるが、私が権力の座にいる間は会うのをやめよう。なんとなれば、人はあらぬ疑いをかけるからだ。李下に冠を正さずというからね」と、厳しく己を節することもできたであろう。

そして、敵対感情をあおり、勢いのよいことを言って戦争準備へと国民を駆り立てている時に、「あの人は、いざ戦争となったら、真っ先に逃げるよ」と、私のようなものから思われずに済んだであろうに。観桜会で小さな不正や虚偽を行う人が、大義を果たすとは思われないのだ。「信なくんば立たず」なのだ。

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2022年5月 9日 (月)

戦争の危機

独裁者の頭の中はこうなっているのかもしれない。「ヨーロッパやアメリカは、どんどん東へと防衛圏を拡大していて、我が国の生存は危機にさらされている。我が国の隣国にはヨーロッパやアメリカに後押しされたナチスを翼賛する政権まで誕生した。隣国を敵の影響下から解放し我が国の生存を防衛するためには、攻められる前に先制攻撃を仕掛けなければならない」

こういう独裁者の頭の中ではまたこうも幻影がひらめくかもしれない。「我が国の大事な東の方の領土の主権は、アメリカ、およびアメリカに従属する政府によって脅かされている。我が国の生存権を守るためには、我が国の脅威となる東方の脅威を早めに取り除かなければならない」

日本という国もロシアと親和性が高い。お上の考えには従順に従うという国民性だし、多様な意見や少数意見を重んじるという民主主義度は、先進国のノルウェー、ニュージーランド、台湾よりも下であるし、マスコミの自由報道度も先進国の台湾や韓国よりもずっと下だ。つまりは、典型的な独裁者は出ないにしても、一つの考えが世間の意見となれば、誰もそれにおかしいと異議を唱えたり、そういう意見を詳しく検討してみようという下地は少ないのだ。

こういう中で、妄想に囚われた指導者が「隣国のCが我が国の主権を脅かそうと画策している。隣国のRは、我が国を攻撃しようと準備をしている。生存権を守るためには先制攻撃しかない」となった時に、ロシア国民のように、日本人は政府やマスコミのプロパガンダを信じて、戦争に協力し始めるのではないか。いくら世界のほかの国の人から見れば、世界は違って見えるとしても、そしてそのことを我々に語ってくれたとしても、日本人には、日本人の世界の見え方しかできず、どうして世界のほかの国の人たちはこうも頭がおかしいのだろうとなる。

戦争を煽るだけ煽った人たちは、いざ戦争が始まれば先頭に立つことはないだろう。満州の歴史、水俣の歴史、フクシマの歴史を見れば、「国民を守る」というのは彼らにとって第一義でないことは明らかだ。観桜会の収支報告で嘘をつくような人が、いざ危機に立った時に、先頭に立って国民を守るに信があるとは思えない。歴史上、「国家主義」が長い間続いてきたが、「国家主義」の終焉が始まりはじめた。国家によらない、人間の安全保障を模索し始める時代が来ている。

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2022年4月16日 (土)

敵基地先制攻撃

自国を防衛するためには、敵の基地を先制して攻撃すべきだという考えが自民党や維新の政治家から出ている。私は思うのだが、この敵基地を先制して攻撃するというのは、例えば真珠湾攻撃とどのように違うのだろうか。戦争を防ぐどころか、宣戦を布告し全面的に戦争を開始することにつながるのではないだろうか。

戦争で苦しむのは庶民だ。普通の人たち、一般市民が被害にあうのであって、市民の願いは戦争がないことだ。威勢のよいことを言って戦争をあおる人たちが、いざ戦争になったら、その場にいてその戦争を引き受けるなんてことがあるだろうか。これまでの日本の歴史を振り返っても、そういうことはありえない、むしろ率先してその場から逃げるということを、わたしたちは知っている。

だから、政治に対して、私は不信に思うのだ。これまでも「守る、守る」というのは、戦争を仕掛ける口実であったし、何か大きな事故があれば、住民をなるべく現地にとどまらせようとして逃がさないようにしてきたし、桜のお花見に税金を使って選挙民を招待し、その後始末をごまかして公文書を書き換えさせるような人が、有事の危機的な状況で国にとどまり、国民を鼓舞するようなことをするだろうか。

戦争で苦しむのは絶対に庶民だ。一般市民は、戦争がないための努力と、もしおこったりすれば市民同士の連帯で助け合うことこそが必要だ。

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2022年4月 5日 (火)

ロシア虐殺報道

ロシアが、ウクライナ・キーウ州から撤退した後、市民の虐殺遺体が発見され、「ジェノサイド」「戦争犯罪」という批判が西側諸国から起こっている。日本の民間テレビ局のニュース報道番組を見たが、西側諸国のロシア避難の尻馬に乗ってロシアへの憎悪をあおるだけで、テレビでしか情報を得ない世代の人々に与える大きな影響を思うと気持ちは暗くなる。

ロシアは、ロシア軍が犯したとされる市民虐殺の戦争犯罪をフェイクニュースだと否定している。それを日本の民間テレビニュースが「見え透いた嘘」と煽り立てる。戦争犯罪は犯した方の国は、「ありえない」と必ず否定する。それは、どこの国の政府もそうだし、100年前の戦争でもそうだ。現・日本政府もそうだ。だから、大事なのは、戦争犯罪が客観的に行われたという証拠を、当事者全員が納得する形で集め、その証拠に基づいて犯罪が裁かれ、犯罪の罪に服し、犠牲者の被った被害を回復する手立てを見出すことだ。「ロシア憎し」の憎悪を煽り立てたって、戦争犯罪の犠牲者が浮かばれるわけでもないし、今後起こるであろう戦争による残虐行為も抑制できない。

さらには、ロシア軍のロシア兵だけが特別に悪人で、彼らを罵ればそれで事が済むというわけでもない。徴兵された普通の人がなぜ残虐行為を働いてしまうのか、そこを解明しないと戦争犯罪はなくならない。旧日本軍の招集されて軍隊に入った普通の人たちも残虐行為を行った。どういう心理でそうなるのか、戦争というものがどう人を変えてしまうのか、そこを解明してこそ、本当に「戦争」を根絶できる。

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2022年3月 8日 (火)

戦争と民主主義

戦争を抑止するのに有効なことは何であろうか。相手と同等の軍事力を持つことか。相手を上回る超・破壊兵器を所有することか。武力であればよりエスカレートし対立のサイクルは永遠に断ち切れないおそれがある。

何が有効であるかはわからないが、「民主主義」というのも一つ有効な戦争抑止手段であるということを思い至った。

まず、自国が戦争を仕掛けられるという場面を想定してみると、ロシアのような統制された権威主義国家でさえ、戦争反対の声が上がる。大義のない侵略であれば、戦争指導者の野望は、民主主義的な国民の要望とは異なる。民主主義的な国で、だれがすきこのんで、独裁的な指導者の命令で、戦地に赴こうとするだろうか。しからば、「民主主義」は、これが広まれば相手国が不法にも戦争を仕掛けてくるのを抑止する、結構有効な手段となる。

では、自国が相手に戦争を仕掛け侵略する立場を想定した場合はどうか。やはり「民主主義」は、戦争を抑止する有効な手段となりうる。民主主義的な報道の自由があれば、戦争を煽り立てる人たちが主張する都合の良い情報はそうたやすくは信じられないだろう。民主主義的な思想や信仰の自由があれば、指導者が煽り立てる敵国への憎悪に対して、自身の良心に従って行動できるだろう。

このように、「民主主義」は戦争や侵略を受ける方も仕掛ける方にとっても、有効な抑止力になりうる。

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2022年2月 4日 (金)

石原慎太郎さん

石原慎太郎さんがお亡くなりになった。

文学の上でも偉大な業績を残された方だったし、政治の世界での足跡も大きい。逝去を伝える新聞記事の扱いは大きかった。そんな石原さんの評伝記事を読んでいて考えたことがある。

石原さんは、中国と日本が互いに領有を主張する尖閣諸島を国有化する運動を起こした。それまでは、お互いにその部分には立ち入らないでうまくやっていきましょうという知恵のある付き合い方をしていたのだが、国有化運動で一挙に情勢が悪化した。こんなふうに、歴史というのは先人が起こした厄介ごとを、後人が処理していくものなのだ。かくいう現代人の私も、ぬくぬくとこの地球上で生存を続け、地球温暖化の付けを残し、後を生きる若者や生まれてく人々を絶望させているのだが。

石原さんの、中国に対するコンプレックスは何が原因なのだろうか。コンプレックスという言葉は「劣等感」と結びつけて考えられる語であるが、心理的には「劣等感」を感じていればいるほど、その逆に自分を強く見せないと、心理的安定は保てないのではないか。たとえ、強がって体を大きく見せたところでその中身は空虚なものであっても。

中国に対する石原さんの侮蔑感情は、何か劣等感と結びついたのであろうか。例えば、本居宣長のような国粋的な国学者のように、中国の優れた文明が日本文化に圧倒的な影響を与えてきたことが許せなかったのであろうか。

また、日本軍が中国に戦争に負けたことが許せなかったのだろうか。そして、とくに中共、および共産主義は許せなかったのだろうか。共産主義は、高貴なものに対する反感(ルサンチマン)だから許せないと、エリート階層出自の石原さんは考えたのだろうか。

マッチョを標榜する石原さんも、晩年には弱音を吐いていたようだ。老いは醜いという三島由紀夫的な生き方を貫くべきだったのだろうか。

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2021年12月25日 (土)

「事実」と「意見」

読解力を測るテストの中で「事実」と「意見」を分けて判断させるものが登場してきている。大学受験で課される「共通テスト」にも、そのような問題が出題される。

このようなことが問われるようになった背景には、「先進国」での文章読解の基準に「事実」と「意見」を、文章を読んだらそれを読み分けることができることというのが加わり、日本でも「世界標準」に合わせるために導入されたのだと思うのだが、しかし、こういう読解力そのものは、民主主義を根本から支える市民が持つべき力として重要なことだと私は思うので、「事実」と「意見」を読み分けられる力を持った市民が増えていくことは良いことだと思う。

だが、この「事実」と「意見」の読み分けは、実際生徒は苦手だ。将来の民主的な市民社会のことを考えると不安になってしまうが、実は「事実」と「意見」の判別はそう簡単なことではない。

例えば、 ①私は、安倍首相の安全保障政策は好きじゃない。 という文章があれば、これは、「安全保障政策」という賛否両論がありそうなトピックについて「私」の反対意見を表明したこの人の「考え=意見」と考えられる。

②私は、安倍首相が好きじゃない。 という文章は、「意見」とも考えられるが、「私」という人間についていえば、この人が嘘をついていないのであれば、私に関する「事実」とも思える。

さらに、 ③私は、ブロッコリーが好きじゃない。 という文章になれば、これは私の食べ物に関する好き嫌いを表した「事実」ととらえることがより許容できるようになるだろう。だが、②と③の違いは何だろうか、そして①と③の違いは。微妙ではないか。

また、読解試験では、次のような文章は「事実」の方へ解答としては分類される。

「調査によれば、国民の80パーセントは、原子力発電所の再稼働に賛成している」 しかし、これが、「国民」と言っても自民党支持者や安倍首相の支持者だけを調査した結果であればどうだろうか。このように「事実」は「事実」でなくなることもあるのだから、そもそも「事実」と言えるものとは何なのか、ということも大変悩ましいことだ。

このような根本的な議論はあまり行われないままに、「共通テスト」のような読解力テストが行われている。生徒たちが混乱するのも無理はない。

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2021年12月24日 (金)

「おじさん」的なるものの考察

河北新報2021年12月23日付の論考記事が面白かった。

「ティラノ部長」なる漫画が人気を博しているというところから記事は始まる。この漫画の主人公のティラノ部長は、若いころ、仕事も飲み会も大好きだった猛烈社員だったが、しかし今は、時代から遅れ、何の展望もなく会社にしがみつくそんな中高年男性を恐竜に擬して書いた作品なのだそうだが、ティラノ部長の哀感漂う姿が人気を呼んでいるのだそうだ。

そう、世の中「おじさん」は揶揄や攻撃の的となっている。中高年男性を「おじさん」というのであれば、私もまぎれもなく「おじさん」であるが、批判の的となっているのは「おじさん的なもの」なのではないか。

その代表を今年を振り返る形で見てみると、森喜朗さんや河村たかしさんの言動だ。記事では、田中俊之氏の「おじさんたたきの背景に、MeToo運動やジェンダー平等を求める世相があり、男性の論理が支配する男性だけの社会そのものが異議申し立ての対象となっており、その象徴としての「おじさん」が叩かれている」という分析を載せている。田中氏は、男社会の競争原理に乗っ取って勝ち抜いてきたために女性や若者の思いに鈍感で、ないがしろにする「権力者」は多く、そういう人が批判の対象となるのは当然だとしても、中高年男性を十把一絡げに「仮想敵」の仕立て、スケープゴートにする風潮はいかがなものかと、異議を申し立てている。これを見ると「おじさん」の私もちょっとほっとする。田中氏は、「普通」に手が届かず生きづらさを抱える中高年男性も実は少なくないが、より厳しい現実に直面している若者や女性からは、「おじさん」世代全体が「特権」を享受しているように見えるのかもしれないという。

ジェンダー研究の第一人者である江原由美子氏の見立ては少し手厳しいが、「おじさん」世代は、素直に耳を傾けるべきだと思う。江原氏は、「男らしさ」から抜け出せない中高年男性が、自らバッシングを呼び込んでいる、「男性特権」に居座り続け得るためにおじさん世代みんなで共謀しているように見える。もし、生きづらさが分かるのであれば、権力の側につくのではなく、同じように悩む女性や若者に寄り添うべきだ、と。

最後に再び、田中氏が、「おじさん」にアドバイスしてくれる。これには共感した。自分が「おじさん」であることが、自分の考え方や行動、生き方を規定しているという視点を持つことが大事。(つまり、自分で、堂々と自分の考えを述べ、自分で考えて振舞っているつもりでも、それは、自分から出たものじゃ全然なくて、「おじさん」であるという外的な規定からもたらされたもの)、日本国籍があり、心と体の性が一致している異性愛者といったような「おじさん」は、自分が考えずに生きていける存在だと自覚する必要がある、というのだ。私も考えてみれば、日本社会で男性として生まれて生きてきたというだけで、相当特権的な地位を享受してきた。もし、こういう自覚がなければ、俺様こそが正しくて、女子供は黙ってろ、という指弾されるべき「おじさん的なおじさん」になり、そして指弾されているということすらも気づかないようになってしまうのだろう。

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2021年12月17日 (金)

人権問題を考える

私たちが、世界で起きている人権問題に積極的に関与したり、発言できなかったりする背景の一つには、私たちが過去に犯した人権問題に対して向き合っていない、謝罪していない、解決していないという後ろめたさがあるのではないだろうか。

現在の中国の人権問題を取り上げるとすれば、中国の側から、では日中戦争時の非戦闘員への虐殺行為や、細菌兵器への人体実験、化学兵器の遺棄などを持ち出されたらどうなるのかという遠慮もあって取り上げられないのではないだろうか。

日本は無謬で過去に人権侵害など犯したことはないという人は、中国の人権侵害を非難するだろうが、しかし、それはそれで説得力がない。自国の人権侵害は棚に上げ見ようともしないで、他国の非難をしてみたところで、それは他人が憎いのであってその他人がすることは何でも憎いといった、単なる他人のあら捜しをしているやのように映るからだ。

現在の日本政府も、自国の過去に人権侵害はないとする立場だが、中国で行われている人権侵害に何も申し立てないのは、また別の思惑があるのだろう。

とにかく、自国のであれ、他国のであれ、人権侵害は断固としていけない、侵害されている人たちに援助、救出をというのは、国を超えて市民の立場でとか、非政府組織の立場でとかで申し立て協力していく必要があるのではないだろうか。

そんなことを思ったのは、12月16日付の「河北新報」で安田浩一氏の論考「コリアンガード」を読んだからだ。「コリアンガード」とは、戦前の朝鮮半島出身の方々が、日本皇国民として戦争に取られ、捕虜の監視に当たらされたりした人たちののことだ。欧米人の捕虜などを動員して過酷な工事を行った泰緬鉄道の監視所で働いていた方は、日本敗戦後に捕虜虐待の罪で戦争裁判にかけられ、有罪となった。11年におよぶ監獄生活の後で出所したこの方に、日本政府は冷たかった。日本軍の軍人であれば、政府は恩給や遺族年金などを出し、生活を支えたが、この方は、日本人として戦争に参加し、裁かれたのであるが、戦争が終わってみれば、外国人として放り出され、何の補償も日本からは受けられなかったのだ。

このような不条理があるのだ。まさにこういう不条理は、今ウイグル人の方々が味わっているだろう不条理なのだ。こういう不条理が解決され、世界中で人権が守られてほしい。そこには、国や民族の別はない。

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