UA-92533382-1 文化・芸術: よつば農場便り

2020年4月21日 (火)

歌舞伎鑑賞

外出自粛と人の集まりを避けるため、コンサートや舞台公演が軒並み中止となっている。演劇関係者の方の苦悩はいかばかりかと思う。文化的営みが今後も続いていくことを祈る。文学や芸能などは、このような感染症爆発的拡散の緊急事態時には、優先順位が低く考えられようが、しかしこのような分野も深く人間の本性に根差したもので、人が生きるために必要なこと、再び、芸能鑑賞ができる時がやってきてほしいものだし、きっとその時は来る。

国立劇場で行われるはずだった「義経千本桜」の通し狂言も、公演が中止となった。稽古を積まれていた役者さんたちも、準備をしていた関係者の方々もさぞかし残念なことだろう。

緊急事態宣言が発出され、自宅にいる人も多かろうと配慮もあったと思うが、国立劇場の方で、「義経千本桜」の公演の映像を期間限定で、公開してくれている。観客がいない劇場で通しの演目を収録したものだ。歌舞伎は、観客が役者に声をかけたり、その声掛けで、役者の見えが決まったりする。もともとは、弁当やお茶を飲みながら見ていたようなちょっと猥雑した力強さが魅力なのだから、無観客というのは何とも寂しいが、歌舞伎役者さんたちの芸事の凄さは伝わってくる。ぜひ、多くの人に見ていただきたい。

それに歌舞伎というのは、そもそも筋を全部知ってから見た方が、役者の演技の妙やほかの演者や演出の違いに集中できてよい。だから、公開されたこの名高い古典作品を見て筋書きをしておくのもよいと思う。

脚本は江戸時代に書かれたので、荒唐無稽なところや、江戸時代の人々の生活実感にはとても訴えたのだろうけど、現在の観客には果たしてというところもある。しかし、平家の公達が落人となって生きていたというのは、改めて平家滅亡の悲劇を強調するし、やはり幼い安徳帝の入水前の無邪気さや辞世の句には涙が誘われる。

立役の尾上菊之助が見事だ。佐藤忠信を演じ、一方で狐となれば親を慕う無邪気な子狐にしか見えないし、一方で武士を演じれば実直な武士にしか見えない。内面からも醸し出される演技だが、それが見るものが全くいない劇場で行われているとは。

 

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2020年2月14日 (金)

歌舞伎「阿弖流為(アテルイ)」

歌舞伎の舞台を映像に編集し、全国の映画館で見れるようにしてくれるシネマ歌舞伎で「阿弖流為(アテルイ)」を見た。

これは前から気になっていて見たいと思っていた作品だ。まずは、私自身が「まつろわぬ民」として東北に住んでおり、その東北のヤマトからの侵略の歴史が描かれ、民族の英雄である「阿弖流為(アテルイ)」が描かれるこの作品に、私たち「まつろわぬ民」がどのように描かれているのかがとても気になった。

私たちは、2回ヤマトに征服された。まずは、坂の上田村麻呂征夷大将軍が、東北の蝦夷(えみし)を打ち従え、阿弖流為が破れた時。もう一つは、会津藩が、薩長藩閥明治政府に蹂躙された時。そのような歴史を持つ東北の民として、阿弖流為や蝦夷がどう描かれるのか、侵略する側のヤマトがどう描かれるのかがとても気になった。

脚本は複雑で深く考えさせる内容で、かつきわどかった。朝鮮半島から渡ってきた天孫降臨族のヤマト朝廷が、この日本列島は1民族1国家だとして全国の統一を図る。皇軍は雪深いえみしの地へと兵を進める。皇軍は、勝つためであればどのようなことでもする。食料に毒を入れわざと蝦夷に渡したり、川に毒を流し、無辜の女性や子供を殺す。そして、1945年には、アメリカに対して物量で皇軍が敗北したように、皇軍は物量で圧倒して蝦夷を破る。(こういうきわどい内容が、「言論の自由」がいつまでも保障されて上演可能であることを願う)

蝦夷の魂は、この東北の地の山川草木そのもの。そして蝦夷の悲しみもまたこの東北の地の山川草木そのものだ。東北の山川草木が踏みにじられるから、神が怒り、神が死んだのだ。東北の地は、核発電所からの放射能をばらまかれることにより、ヤマト政権によって3度目、踏みにじられたが、私には、そのような悲しみと、阿弖流為や蝦夷と蝦夷の神の悲しみが重なった。

こんなふうに、脚本はとても深いと思うのだが、歌舞伎というのは、本来理屈なしに、面白いもの。もちろんその面白さの裏には、芸事の精進が隠されているのだが、そういうこと抜きで本当に面白い。

今回は特に若い役者さんの力をとても感じた。それに歌舞伎役者はどうして皆あんなにも、ほれぼれするくらい「顔」がよいのだろう。見とれてしまう。阿弖流為役の染五郎、坂の上田村麻呂役の勘九郎。染五郎を見ていると、宝塚のファンはみなこんな感じではまっていくんだろうなと気持ちがわかる。勘九郎は、だんだんお父さんに声も似てきた。彼の出演作品を見てきたが、どんどんうまくなっていく。七之助は、一人二役。女形として本当に良くなってきてほれぼれしてしまう。女形と言えば御霊御前役の市村萬次郎さんは、どう見ても憎々しい老婆にしか見えない。すごい。こんなふうに、主人公たちも脇役たちもすべてすごい演技で、理屈なしに歌舞伎の凄さと楽しさが味わえる。

 

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2019年12月19日 (木)

『老子―もう一つの道』 八十一 まとめ

【自由訳】
まことある言動は美しくないかもしれない。善き人は詳しく弁じたりしない。ほんとうの智者は博識とは違う。聖人は自分のためには蓄えない。すべてを人に与えて、こうすることでますます豊かになる。天の道は万物を利して害を与えない。聖人の道は為すだけ為して人と争わない。


【解説】
老子は最後に、本当の信、本当の知のありかたを説く。与えて与えて与えても貧しくならず、ますます豊かになるもの、それが天の道、聖人の道。

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2019年12月14日 (土)

『老子 ― もう一つの道』 八十 小国寡民

【自由訳】
小さい国で人民の数が少ない。軍隊がなく、人々は死を恐れ慎み、遠くへ行こうとしない。だから、舟も車も武器も必要ない。自分たちの質素な衣食住と素朴な習俗に満足し、近くの国とは行き来もしない。

 

【解説】
小国寡民は、老子の理想。このグローバル化の時代に、世界から隔絶された小国寡民の存在は可能なのだろうか。

 

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2019年12月11日 (水)

『老子―もう一つの道』 七十九 怨みと天の道

【自由訳】
大きな怨みある当人どうしを取り持って、なお怨みが残るようでは、よい仲裁とは言えない。聖人は、他人に貸していても、その返却を求めない。それは天の道にも通じる。天には依怙贔屓はなく、常に善人の見方である。

【解説】
「天は常に善人に与(くみ)す」と聞くと、親鸞の善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、を思い出す。親鸞の方は、仏は悪人こそを導きたまうと言ったのであるが。


さて、怨みを消すことはできるのだろうか、争った人間どうしの和解はあり得るのだろうか。老子が提出している問題意識は、きわめて現代的でもある。そして、この人間社会ではいまだに解決されていない問題である。

 

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2019年12月 4日 (水)

『老子―もう一つの道』 七十八 水のたとえ

【自由訳】
水はこの世で一番柔弱なものだ。しかし、水に勝てる者はいない。弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが剛(つよ)いものに勝つ。これを知らない者はいないが、これを実行できるものはいないのである。国家の災いをすべて引き受ける人こそが全天下の主である。正しい言葉は、まるでその逆のように人の耳には聞こえる。

 

【解説】
柔よく剛を制すること、弱き者が強き者に勝つこと、このことを知ってはいるが、なかなか実践できない。一国を率いる真の指導者の心得やその姿とは?

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2019年12月 1日 (日)

『老子―もう一つの道』 七十七 天道の配慮

【自由訳】
天の道の為すことと言えば、高くに居るものを低め、低きに居るものを高めてやることである。また、餘(あま)りある者から取り、足りない者を補ってやることである。だが、人の世ではどうか。足りない者からますます奪い、餘(あま)りある者へと移っていく。餘(あま)ったものを自らすすんで天下に与えようとするものなどはいない。
それができるのは聖人だけである。理想の大人は自分が成し遂げたことを頼みとせず、功を遂げてもそこに長く居ない。愚に見えるようにする。

 

【解説】
天の道と人の世との対比。聖人のありかた。

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『老子―もう一つの道』 七十六 柔らかき者

【自由訳】人は生まれたときは柔弱で、死ぬときは体が固くなる。植物の一生とてそうである。そうしてみると、強くて固いものは死の輩で、柔らかで弱いものこそが生の輩ということになる。軍隊の強大さを誇っていてもその軍隊は必ずや挫折するし、強い木も折れる。結局、強く固いものは下に降り、柔らかく弱いものこそが上に登る。

 

【解説】柔弱なる者こそ真の強者であることを、老子は何度も説いてきた。

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2019年11月30日 (土)

『老子―もう一つの道』  七十五 生にとらわれない

【自由訳】
人民が飢えるのは、上に立つものの貪りが過ぎるからである。人民が治めがたいのは、統治者が干渉しすぎるからである。人民が死を軽んじるのは、統治者が生を貪欲に追い求めるからである。
何事も生に作為を持ち込まないことこそ大事であって、それは生に執着するよりも貴いことである。

【解説】
ここでも逆説が多用されている。生を追い求める統治者のもとで民は生を捨て、生にとらわれない生き方こそ貴いという。

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2019年11月29日 (金)

『老子―もう一つも道』 七十四 生死の事は天に任せよ

【自由訳】
もし私が、罪を犯した民を死刑に処することができたとしても、そんなことは行わない。死を司るものがいるからには、自分がそれに代わって行うのは、技の巧みな工人の代りに鑿(のみ)をふるおうとするようなものだ。かならず怪我をするのがおちだろう。

【解説】
領域は犯さない。分を守る。分限を踏み越えない。生死を司るのは天である。

 

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