UA-92533382-1 文化・芸術: よつば農場便り

2022年3月13日 (日)

英国ロイヤル・オペラ・ハウス『トスカ』

英国ロイヤル・オペラ・ハウスで公演されたオペラ作品を映像で堪能できる。仙台では「フォーラム」で上演されている。3月のこの週は、プッチーニの『トスカ』が上演されている。

プッチーニの音楽は、なんと劇的に人の感情を動かすのだろうか。『トスカ』は、序曲もなく第1幕が上がり、嵐のように音楽も劇も進行していく。プッチーニの音楽を本当に堪能できる作品だ。

トスカの役をロシア出身のエレナ・スティヒナが演じている。肉感的な見事なトスカの役がすばらしかった。この公演が撮影されたのは昨年の12月。ロシアのウクライナの侵攻前だ。今、西側の芸術・芸能関係のロシア出身者は、侵攻とプーチンへの反対の信仰告白をしないと、降板させられたりしている。それを考えると複雑な思いだ。ロシアの侵攻後に、この公演が行われていたらどうなっていたであろうかと。

こういうライブ・ビューイングの良いところは、公演だけを中継するのではなくて、作品の解説をつけてくれたり、リハーサルの様子を映してくれたり、芸術監督や指揮者のインタビューなども伝えてくれて、全体として作品や公演の理解が深まるという点だ。

その様な公演以外の映像を見ていて感じたのは、ここでは男女共同参画が進んでいるのだということだ。日本であれば、男性しか出てこないであろう世界に、ちょうど半分くらい女性がいる。さらには、男性・女性という性別に分類をすることに意味がない人なども登場してきて、逆に、男性ばかりの日本のことを思うと、日本の光景が、異様に思えてくる。そういうことも強烈に感じさせるライブ・ビューイングの作品になっている。

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2022年2月20日 (日)

ドボルザーク作曲・歌劇『ルサルカ』

ドボルザークが作曲した歌劇『ルサルカ』は、民話をもとにしている。狩りに来た王子に憧れた水の精が、人間になって王子と愛を結びたいと願う話だ。歌劇は、ドボルザークの優しい音楽に包まれた傑作だ。

 

水の精は人間の娘になるため、魔法使いのおばあさんに頼むが、その際に代償としなければならないものは「声」だ。「声」を失って人間になった娘だが、人間社会の移ろいやすさ、人間の気まぐれな情熱により、普遍の愛が得られなかった娘は、水の精に戻ることもできず、人間の世にもとどまることもできず彷徨し続けるという悲劇だ。

 

私がここで注目したのは、何かを得るために何かを失うという、民話やおとぎ話にある共通のパターンだ。アンデルセンが書いた「人魚姫」は創作童話であるが、「人魚姫」も、声という代償を払って人間の姿になる。

 

こんなことを考えたのは今ちょうどユングの『変容の象徴』を読んでいた途中で思い至るところがあったからだ。ユングによると、現代に生きている私たちの心の奥底にも、DNAにより古代からの人類の系統発生の痕跡が伝えられているように、古い時代からの人々の経験や思いが繋がってきているというのだ。ユングはそれを「元型」と呼んだり「イマーゴ」と呼んだりした。たとえ現代の文学作品だとしても、そういう「元型」に触れ、人々に「元型」を呼び覚ますような作品が、人々に言い知れぬ感動だったり、おそれや恐怖を引き起こす、そう、人々の集合的無意識へと働きかける傑作なのだ。

 

人々の集合的無意識は、民族に関係なく、さらに人類全体に広がっていると思う。昔、昔の人々が畏れたり、喜んだりしたこと、そういう根源に触れることが出来たり、呼び醒まされたりするのは、民話だったりする。それを題材にしたのが、ドボルザーク作曲・歌劇『ルサルカ』だ。

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2021年9月 2日 (木)

河出書房新社・現代アラブ小説選集『アフリカの夏』ディブ

この小説はアルジェリアが舞台だ。アルジェリアの近現代史では、1950年代に始まるアルジェリア独立闘争が、世界史的な影響も大きい。小説は、この独立闘争を、リアルに描くのではない。背景に恐らく不穏な紛争があるのだろうと、その影を引きずらせている。しかし、現実を現実的に描写するよりも、この小説のように超・現実的に描写することで、かえって事の本質を伝える。作家ディブの、文学技法はそのようなものだ。

この小説の中で象徴的なのは、役所に勤める中産階級の男の家族だ。彼はインテリでもあり、主婦の妻と自分の母親、娘と暮らしている。そして、アルジェリアの灼けつくような昼間のあともなお熱い夜に、家族が語らう。娘は大学まで行った。父親は、女性も社会に出るべきだと教職に就くことを進める。すると男の母親がとんでもないこと、女は結婚するものだと、口をはさむ。そのような家族の夕べの語りに、妻の兄、彼はインテリではなく、商売人で滑稽を言う―が訪ねてきて話に加わる。そんなさりげない場面が、同じように、かつ少しの変奏を奏でながら、小説中に全部で3回出てきて、しかも、次の場面では父親は、娘を結婚させることとし、娘がそれに絶望して嘆く。この3回の登場は、脈絡があるわけではなく、父親が心変わりしたということでもなく、この挿話が「象徴」だということだ。恐らく、それはアルジェリアの背景にあるアラブ社会の苦悩だったり停滞だったりの象徴なのだ。

この通奏低音の「繰り返し」の合間に、エピソードが挿入されていく。山(=独立運動)に入ってしまった子供を持つ、年老いた父親が、息子のことを知っている人を訪ねて、街なかをさ迷う、闘争で鍛えられ指導的な人柄へと鍛えられていく農民、だが、村人の中から裏切り者が出て、フランス軍への密告により村の抵抗者たちが捕らえられてしまう、闘争に加わるでもなく、仕事にもありつけず、妻と子供に責めさいなまれているようで苦悩する若い男、そのような断片を切り張りしていくと、やがて、大きな当時の状況が浮かびあがってくる。

「植民地主義」ということを考えさせられた。ディブという人は、植民地のアルジェリアで生まれ、フランスで教育を授けられた。だから当時の多くのアルジェリアのインテリがそうであったように、フランス語でしか表現できず、母国語では書くことができない。フランスはアルジェリアを150年近く支配した。その支配が過酷であるということは、この小説からもうかがわれる。独立を少しでも訴えようものなら、拷問され、殺されるということがうかがわれる。植民地にするとは言葉を奪うことだ。フランスほど長い植民地支配ではなかったが、韓国・台湾に対して日本もそれを行った。だが、アメリカの植民地になって70年になるが、日本語で考えて表現することは許されている。これは新しい植民地支配や植民地経営の在り方なのだろうか。そう考えるとこのアルジェリアの小説は、植民地支配の苦渋を感じるという点で、なんだか、日本人にもとても身近な感じがするのだ。

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2021年8月24日 (火)

河出書房新社・現代アラブ小説選よりカナファーニー『太陽の男たち / ハイファに戻って』

カナファーニーは、パレスチナ出身の作家で、パレスチナ抵抗運動の象徴のような作家だという。彼は、30数歳という若さで、何者かが仕掛けた爆弾により車を吹き飛ばされ死亡したという。

カナファーニーの小説が上質の文学に昇華していると思うのは、生硬な抵抗思想をただ書きつのるだけの作家ではないからだ。人間の矛盾は不条理を描いて普遍的だ。イスラエルの悪を声高に言うのではなく、アラブ自身の弱さ、卑劣、矛盾も述べるところに普遍性を感じる。だが、その描写にこそ、パレスチナの人々がおかれた状況―住んでいる土地を追われて難民になるということがどのようなことであるかが、とてもよく描かれている。

『太陽の男たち』は、パレスチナ難民が、少しでも良い仕事を得て家族を支えようとするために、クウエートに密入国する話だ。水補給車のタンクに潜んで国境の検問を超えていく話であるが、熱砂漠の中を走るトッラクの鋼鉄製の窯の中で密入国者のそれぞれ境遇の違う3人は悲劇的な死を迎えてしまう。どうしてここに「アラブの連帯」はなかったのだろうか。

『ハイファに戻って』は、不条理文学で、これほどの不条理に直面して、人は精神の安定を果たして保っていられるのだろうかと思った。1948年のイスラエルの侵攻で、若き主人公夫妻は、混乱に陥ったハイファから、人々の奔流に押されて逃げだしてくる。その時生後5か月の乳飲み子をアパートに置き去りにせざるを得なかった。町を占領したイスラエルは、ユダヤ人に、アラブ人の居住地を分け与えて入植と事実上の占領・奪取を行う。残された乳飲み子は、ユダヤ人夫婦に育てられる。20年後にハイファに戻ってきた夫婦は、イスラエル軍の兵士になった自分の息子と対峙することになる。これほどの不条理、悲劇はあるだろうか。

ユダヤの人々も、ヨーロッパで迫害と虐殺を重ねて受けてきて、自分たちの安住の地、自分たちを守ってくれる自分たちの国家が欲しいということは、私もその気持ち、理解できる。しかし、パレスチナは、2000年もの間、ユダヤ人、アラブ人、そしてキリスト教徒が平和に共存する麗しい土地ではなかったのか。アラブ人は、隣人であるユダヤ教徒を受け入れ共存してきたところではないのか。それがなぜ、イスラエルは、アラブ人を一方的に武力で追い払い、その土地を奪い、占拠しなければいけないのだろうか。イスラエルに対する、カナファーニーの告発はこうだ。「人間の犯しうる罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼らの犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることです」

平和的共存を願い、パレスチナ問題の解決を切に願う。

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2021年8月22日 (日)

リヒャルト・シュトラウス『歌劇・薔薇の騎士』

リヒャルト・シュトラウスの『歌劇・薔薇の騎士』は、音楽が素敵だ。リヒャルト・シュトラウスの色彩豊かな音楽が満ち満ちている。そして、舞台がウイーンだけに、ウインナ・ワルツの香りが漂っている。

マリア・テレーズの女性としての諦め、諦念、それはなんだか気高く表現され、配役に当てられた歌い手がどんな風にその役どころを表現するかが、製作された舞台ごとに変わるのだろうから、見る方の楽しみは尽きない。

この劇の見どころは、マリア・テレーズの若き愛人オクタビアンが、男装の麗人役で、ソプラノがやることになっているところだ。台本ではオクタビアンが17歳で、そしてマリア・テレーズの小間使いの娘と間違われるということが筋書き上の重要な点になっているので、中性的な役どころということなのだろうが、オクタビアンとマリア・テレーズの愛の場面や、オクタビアンと新しい若い結婚相手の愛情を取り交わす場面など、なぜか、ありきたりの男女の場面よりも惹かれるものがある。宝塚歌劇が人気なのも、何かこの高揚感と関係しているのではないかと思って見入ってしまう。

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2021年7月 4日 (日)

現代アラブ小説全集「北へ遷りゆく時 / ゼーンの結婚」サーレフ

サーレフはスーダン出身の作家だという。アフリカ出身の作家の作品を読む機会に恵まれたこと、出版に尽力してくれた出版社や訳者、その他の関係者に感謝したい。

さて、「北へ遷りゆく時」は、アフリカ出身の主人公が、イギリスに留学し、そこで引き起こした事件が、物語中の秘密の出来事となっている。スーダンとイギリスとの出会いは、地理の関係から言えば、「南北」の出会いである。このような異文化・異民族の出会いで常に重要な役割をするのは「女性」だと思う。異文化間や異民族間で結婚が起こるとき、「異」を受け入れるのは女性というケースが多いように私は思う。

生物学的に惹かれてしまう相手というのは、自分とはもっとも遺伝子が違っている相手だということを聞いたことがある。遺伝子の違いを一瞬にしてどのように判別するのか、それはとても神秘的だが、生物である人間には、そういう力が備わっているに違いないと思う。かくして、人類は「融合」し、遺伝子の多様性を維持してきたのだろうし、この物語の主人公は、それを武器に女性を征服する。そして、それは当然、「報い」を受けるように思えた。

「ゼーンの結婚」は、アフリカの農村のおとぎ話だ。日本や世界と同じように、「愚者」が実は「聖者」なのだという、民衆の経験や知恵や伝承が、アフリカの農村にも存在するのだということを確認することができた。しかし、この物語は、単なる「おとぎ話」ではない。村の様子を描いた社会主義的リアリズムでもある。村の実務や実験を担う男たちの様子が描かれるとともに、女性たちや村人たちの様子や関係も生き生きとそして簡潔に描かれている。著作は、社会主義がもっとも生き生きと輝いていた1960年代に出版されているのだ。

あとがきの解説は、亡くなった小田実さんが書いている。小田さんの文章を読む貴重な機会だし、小田さんのアメリカでの体験談が興味深い。この体験談は、「北へ遷りゆく時」を、理解する格好の手がかりを提供してくれる。

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2021年5月 2日 (日)

戦場のメリークリスマス

大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」4K修復版の全国劇場公開はこれで最後、という文句に引かれて見てきたが、いい映画は何度見てもいい。


 


改めてみても、たけしの演じた原軍曹の存在感はすごいと思った。たけしにせよ坂本龍一にせよ、役者としては素人で、当時、本人たちはその演技のぎこちなさをとても気にしていたという。しかし、演技のうまいヘタではなく、役者が持っている存在感や役者が背負って持っているそのものが大事なんだということをこの映画は示してくれている。それを分かっていてか狙っていてか、こういう配役にした大島監督が素晴らしい映画監督だと言えばそれまでなんだろう。


 


映画の中で、日本軍敗戦後、たけし演じる原軍曹は、戦犯として裁かれることになる。刑の執行日の前日を演じたたけしは、すっかり浄化されてしまったかのような雰囲気を出す。捕虜収容所で、暴力をふるっていた野卑なたけしから、どうしたらこんなふうに石鹸で洗い立ててみたいに、浄化された人間が立ち現れてくるのだろう。それをカメラにとらえたこの映画は、やはり見るべき価値のある名画だ。


 



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2021年3月 1日 (月)

仙台フィル 特別演奏会

2月28日に行われた仙台フィルの特別演奏会を聴きに行った。

人気の指揮者山田和樹さんが仙台にやってくるし、ラフマニノフの人気曲が演奏されるということもあるのだろう、会場に来ている聴衆は多かった。

ソロのピアニストを萩原麻未さんが勤めて、ラフマニノフのピアノ協奏曲の第2番が前半のプログラム。出だしのソロのところから「ああ、生で聞く演奏は素晴らしい」とぞくぞくする。何度もラジオやユーチューブで聞いている曲でも、やはり演奏家によって雰囲気はだいぶ違うし、弾き方も随分違う。

萩原さんは、おなかに赤ちゃんがいる中での演奏だ。おなかの中の子どもも、お母さんと一緒に演奏会に来て、音楽を聴いているなんて素敵だ。妊娠をしている女性でも出産の直前まで演奏会に出るというのは、今、かなり普通のことになっているそうだ。もちろん母体はしっかり守られなければいけないと思うが、女性がいろいろなライフステージで、無理なく働ける社会はいい社会だと思う。妊娠した女性に対して、会社を辞めさせるとか、そういう命を大事にしない社会は、命からしっぺ返しを食う。

後半は、チャイコフスキーの第4番。ぼくのド素人的な考えでは、1~3番までの民族的な交響曲がひとくくり、4~6番までの後期のロマンチックなものがひとくくりと考えていて、時にひとくくりの中では、同じようなメロディーとして聞こえてきたりしていたが、会場で聞くと、やはりニュアンスが違うのだということに気づいた。ひとくくりの中では、5番と6番が、有名だし好きなので4番は軽視していたのだが、でも4番もチャイコフスキー節が炸裂。4番の良さがとてもよく分かった。

聴いていると「雪の夜のおばあさんの夜語り」があったり「氷の上で楽しく滑る子供たち」がいたり、情景が思い浮かぶ。これを聞くとチャイコフスキーは子供が好きだったのではと思う。最後は、イタリアの狂騒が爆発する。

指揮者の山田さんが引き出す音楽はもちろん素晴らしいが、山田さん自身のエンターテイメント性にも、大いに楽しませていただいたコンサートだった。

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2021年1月25日 (月)

ムソルグスキー作曲・歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1954年映画版 ネボルシン&ボリショイ劇場管弦楽団)

ムソルグスキーの音楽と、そして映像表現と、さらには劇作のすばらしさが味わえる総合芸術だ。

 

ムソルグスキーは劇の台本には苦労したそうだ。劇場から上演拒否されたのを受けて、台本を書き直して上演されるように持って行った。その結果、劇に深みと幅が出てすばらしくなったと私は思う。

 

ボリス・ゴドノフは実在のロシアの皇帝で、皇室の跡継ぎの子どもを殺して帝位を簒奪した男。彼は、殺した子供の幻に苦しめられ追い詰められていく。そのシェークスピア劇のような闇の深さを、この映画版ではとてもうまく表現している。

 

シェークスピア劇のなぞりにとどまらずに、ロシアらしい作品になっていると思ったのは、2点。

 

1つは、「民衆」の登場。「民衆」が劇中でたくさん登場してくるし、役割所が大きい。民衆の合唱もロシアの大地らしくよい。この劇を見ていると、皇帝専制政治でも、常に「民衆」の意向を気にしていなければならないということ。「政治」が人間の営みである限り、どんなに独裁的、専制的に見える政治であろうとも、他の人間の思い・思惑を無視できる政治などこの世に(歴史的にも)ないのだということ。現在のロシアのツァーリ、プーチン氏もすっかり裸の皇帝だということがよくわかる。ロシアは常に民衆の国なのだ。そして、常に民衆が苦難を味わってきた国だ。民衆の悲哀がとてもよく表現されていて胸を打つ。

 

もう一つは「白痴」(fool)の役割。彼の言は常に許される。たとえ、権力者に不遜なことを言ったとしても。「白痴」(fool)ゆえに、常人には持つことのできない、未来への予言能力が備わっているということ。彼の純粋さと悲しみにも心動かされる。

 

シェークスピアとドストエフスキーが合わさったすばらしい作劇。そして、国民学派と呼ばれたムソルグスキーのロシアに根差した音楽。これを堪能できるのは、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1954年映画版)だ。

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2021年1月 9日 (土)

「失われた時を求めて」(岩波文庫・全14巻)

プルーストの「失われた時を求めて」全14巻を読んだ。

改めて、 吉川 一義氏の訳業に感謝と敬意をささげたいと思う。「失われた時を求めて」はこれまでにも、訳本が刊行されていた。先達の偉大な訳業の上に、吉川氏は新訳に取り組んだ。これは、氏の学問人生やプルースト研究の一大成果が詰まった訳業だった。このような素晴らしいものを私たちは、(自分が何も大した努力をしていないにもかかわらず)、(安価に)享受できる。申訳のないほどのありがたさだ。

翻訳の難しさは、ちょっとはわかっているつもりだ。だから、大変難しいであろう原文のフランス語の解釈が、訳者としてはとても大変だったのであろうが、吉川氏の学識や研鑽、そして実際、その滑らかな日本語を見て、十分信頼できる訳者だということはわかる。顔をしかめたくなるような訳本も多く出回っていることを考えると、こういう信頼できる語学研究家・訳者に出会えることは本当にありがたい。

さらに、各巻ごとに着けられている行き届いた吉川氏の解説が、私のプルーストに対する理解を深めてくれた。一人だけで読んだのであれば、こういう理解には決して到達はできなかったであろう。そういう意味でも吉川氏に感謝する。

さて、肝心の「失われた時を求めて」そのものの、私の評価や感想であるが、ところどころ読むのがつらくなる個所もあり、挫折しそうになったけれど、傑作であり、世界文学といえるのかと思う。

読むのがつらくなったところは、一つの出来事をめぐってあれや、これやと主人公が考察する場面が延々と出てくるところだ。そんなに優柔不断で、何も行動しないのではなく、さっさと行動して決着をつけてくれと思いたくなるが、しかし、これは行動小説ではなく、過去の膨大な記憶の中に分け入っていく小説なのだ。

「大聖堂」や「大伽藍」のような小説だと思うが、ちょうど、ガウディの「聖家族教会」が未完のままであるように、「失われた時を求めて」も、未完のままで、膨大な書き込みがなされたメモやノートが残された。この、メモやノートからの分を含めて、完成した「失われた時を求めて」という形の本が、プルーストの死後刊行された。作者の推敲が十分行き届いてていないので、死んだはずの登場人物が、生きていたり、その逆も、まま出てくる。しかし、そのような矛盾は全く気にならない。人々の記憶の中の出来事は、そもそもあいまいだったり、容易に変形したりするからだ。

この小説は、一種の「成長小説」ともいえる。主人公の幼い時の記憶の中の出来事から始まり、成長してからの友情や恋人との出会いや別れや肉親との死別がつづられ、最後に老年になる。文学者になるという気持ちは持っているものの、何も書かない無為の日を送り、時に、自分の文才に疑惑を覚えたり、文学そのものへの懐疑に陥り、ようやく最後(14巻目)になり、自分が書くべき文学はどのようなものかがわかり、それを書こうという決意するところで終わる。

今まで延々とつづられてきた主人公の生涯の出来事が、主人公が決意して書こうと思った文学そのものかと、私は思ったが、訳者の吉川氏によると、「それは違う」という。では、結局、主人公の文学は書かれなかったのか?このように多様な解釈もできる問題作でもあるというところが、おもしろかった。

 

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