UA-92533382-1 文化・芸術: よつば農場便り

2021年3月 1日 (月)

仙台フィル 特別演奏会

2月28日に行われた仙台フィルの特別演奏会を聴きに行った。

人気の指揮者山田和樹さんが仙台にやってくるし、ラフマニノフの人気曲が演奏されるということもあるのだろう、会場に来ている聴衆は多かった。

ソロのピアニストを萩原麻未さんが勤めて、ラフマニノフのピアノ協奏曲の第2番が前半のプログラム。出だしのソロのところから「ああ、生で聞く演奏は素晴らしい」とぞくぞくする。何度もラジオやユーチューブで聞いている曲でも、やはり演奏家によって雰囲気はだいぶ違うし、弾き方も随分違う。

萩原さんは、おなかに赤ちゃんがいる中での演奏だ。おなかの中の子どもも、お母さんと一緒に演奏会に来て、音楽を聴いているなんて素敵だ。妊娠をしている女性でも出産の直前まで演奏会に出るというのは、今、かなり普通のことになっているそうだ。もちろん母体はしっかり守られなければいけないと思うが、女性がいろいろなライフステージで、無理なく働ける社会はいい社会だと思う。妊娠した女性に対して、会社を辞めさせるとか、そういう命を大事にしない社会は、命からしっぺ返しを食う。

後半は、チャイコフスキーの第4番。ぼくのド素人的な考えでは、1~3番までの民族的な交響曲がひとくくり、4~6番までの後期のロマンチックなものがひとくくりと考えていて、時にひとくくりの中では、同じようなメロディーとして聞こえてきたりしていたが、会場で聞くと、やはりニュアンスが違うのだということに気づいた。ひとくくりの中では、5番と6番が、有名だし好きなので4番は軽視していたのだが、でも4番もチャイコフスキー節が炸裂。4番の良さがとてもよく分かった。

聴いていると「雪の夜のおばあさんの夜語り」があったり「氷の上で楽しく滑る子供たち」がいたり、情景が思い浮かぶ。これを聞くとチャイコフスキーは子供が好きだったのではと思う。最後は、イタリアの狂騒が爆発する。

指揮者の山田さんが引き出す音楽はもちろん素晴らしいが、山田さん自身のエンターテイメント性にも、大いに楽しませていただいたコンサートだった。

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2021年1月25日 (月)

ムソルグスキー作曲・歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1954年映画版 ネボルシン&ボリショイ劇場管弦楽団)

ムソルグスキーの音楽と、そして映像表現と、さらには劇作のすばらしさが味わえる総合芸術だ。

 

ムソルグスキーは劇の台本には苦労したそうだ。劇場から上演拒否されたのを受けて、台本を書き直して上演されるように持って行った。その結果、劇に深みと幅が出てすばらしくなったと私は思う。

 

ボリス・ゴドノフは実在のロシアの皇帝で、皇室の跡継ぎの子どもを殺して帝位を簒奪した男。彼は、殺した子供の幻に苦しめられ追い詰められていく。そのシェークスピア劇のような闇の深さを、この映画版ではとてもうまく表現している。

 

シェークスピア劇のなぞりにとどまらずに、ロシアらしい作品になっていると思ったのは、2点。

 

1つは、「民衆」の登場。「民衆」が劇中でたくさん登場してくるし、役割所が大きい。民衆の合唱もロシアの大地らしくよい。この劇を見ていると、皇帝専制政治でも、常に「民衆」の意向を気にしていなければならないということ。「政治」が人間の営みである限り、どんなに独裁的、専制的に見える政治であろうとも、他の人間の思い・思惑を無視できる政治などこの世に(歴史的にも)ないのだということ。現在のロシアのツァーリ、プーチン氏もすっかり裸の皇帝だということがよくわかる。ロシアは常に民衆の国なのだ。そして、常に民衆が苦難を味わってきた国だ。民衆の悲哀がとてもよく表現されていて胸を打つ。

 

もう一つは「白痴」(fool)の役割。彼の言は常に許される。たとえ、権力者に不遜なことを言ったとしても。「白痴」(fool)ゆえに、常人には持つことのできない、未来への予言能力が備わっているということ。彼の純粋さと悲しみにも心動かされる。

 

シェークスピアとドストエフスキーが合わさったすばらしい作劇。そして、国民学派と呼ばれたムソルグスキーのロシアに根差した音楽。これを堪能できるのは、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1954年映画版)だ。

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2021年1月 9日 (土)

「失われた時を求めて」(岩波文庫・全14巻)

プルーストの「失われた時を求めて」全14巻を読んだ。

改めて、 吉川 一義氏の訳業に感謝と敬意をささげたいと思う。「失われた時を求めて」はこれまでにも、訳本が刊行されていた。先達の偉大な訳業の上に、吉川氏は新訳に取り組んだ。これは、氏の学問人生やプルースト研究の一大成果が詰まった訳業だった。このような素晴らしいものを私たちは、(自分が何も大した努力をしていないにもかかわらず)、(安価に)享受できる。申訳のないほどのありがたさだ。

翻訳の難しさは、ちょっとはわかっているつもりだ。だから、大変難しいであろう原文のフランス語の解釈が、訳者としてはとても大変だったのであろうが、吉川氏の学識や研鑽、そして実際、その滑らかな日本語を見て、十分信頼できる訳者だということはわかる。顔をしかめたくなるような訳本も多く出回っていることを考えると、こういう信頼できる語学研究家・訳者に出会えることは本当にありがたい。

さらに、各巻ごとに着けられている行き届いた吉川氏の解説が、私のプルーストに対する理解を深めてくれた。一人だけで読んだのであれば、こういう理解には決して到達はできなかったであろう。そういう意味でも吉川氏に感謝する。

さて、肝心の「失われた時を求めて」そのものの、私の評価や感想であるが、ところどころ読むのがつらくなる個所もあり、挫折しそうになったけれど、傑作であり、世界文学といえるのかと思う。

読むのがつらくなったところは、一つの出来事をめぐってあれや、これやと主人公が考察する場面が延々と出てくるところだ。そんなに優柔不断で、何も行動しないのではなく、さっさと行動して決着をつけてくれと思いたくなるが、しかし、これは行動小説ではなく、過去の膨大な記憶の中に分け入っていく小説なのだ。

「大聖堂」や「大伽藍」のような小説だと思うが、ちょうど、ガウディの「聖家族教会」が未完のままであるように、「失われた時を求めて」も、未完のままで、膨大な書き込みがなされたメモやノートが残された。この、メモやノートからの分を含めて、完成した「失われた時を求めて」という形の本が、プルーストの死後刊行された。作者の推敲が十分行き届いてていないので、死んだはずの登場人物が、生きていたり、その逆も、まま出てくる。しかし、そのような矛盾は全く気にならない。人々の記憶の中の出来事は、そもそもあいまいだったり、容易に変形したりするからだ。

この小説は、一種の「成長小説」ともいえる。主人公の幼い時の記憶の中の出来事から始まり、成長してからの友情や恋人との出会いや別れや肉親との死別がつづられ、最後に老年になる。文学者になるという気持ちは持っているものの、何も書かない無為の日を送り、時に、自分の文才に疑惑を覚えたり、文学そのものへの懐疑に陥り、ようやく最後(14巻目)になり、自分が書くべき文学はどのようなものかがわかり、それを書こうという決意するところで終わる。

今まで延々とつづられてきた主人公の生涯の出来事が、主人公が決意して書こうと思った文学そのものかと、私は思ったが、訳者の吉川氏によると、「それは違う」という。では、結局、主人公の文学は書かれなかったのか?このように多様な解釈もできる問題作でもあるというところが、おもしろかった。

 

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2020年8月11日 (火)

見たい映画

河北新報、2020年7月23日付の記事を見て、見てみたい映画だなと思ったものがある。

 

河北新報では、東京オリンピックにまつわる特集記事を連載している。その中で、1964年の東京オリンピックについての市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」が紹介されていた。この映画は国内だけで約2000万人の人が見て、カンヌ映画祭などでも賞を取り、国外でも評価か高かったという。しかし、この映画は「問題作」なのだという。

 

なぜ「問題作」かというと、国家は威信と国威発揚を目指して、記録映画を撮るようにと予算を渡して市川監督に映画を作らせた。ところが、市川監督は、日本選手の活躍を網羅することもせず、競技の結果を詳しく伝えることもなく、ボクシングをモノクロ映像で撮りジャズを流し、東京の街の喧騒を映し出すなど、前衛的な芸術作品に仕上げてしまったのである。

 

河野さんという大臣は当然「記録性を全く無視したひどい映画」と批判する。それに対して、高峰秀子さんは、個性の強い市川監督を指名したのに批判するのは不勉強であり、映画監督は単なる編集者ではないと擁護したという。「芸術か?記録か?」ということが論争となり、それもあって、映画館に多くの人が見に訪れたという。

 

私が面白いと思ったのは、これらのことを現代の視点から見て何が言えるかを考察したところだ。多くの人が映画を見に行ったというのは、自分はどう思うのか、自分の目で確かめようとしたことであり、それはとても健全なことであり、もし今なら、映画を見に行きもしないで、税金を使ったのにそんな映画を作るのはけしからんという炎上が起こっただろうというくだりだ。

 

以下は、記事を引用。とてもいい言葉だ。
「表現されたものがそのまま観客に届けられ、見た人が自分自身の感想を言う―。作り手と受け手のそんな関係は今、ゆがめられていないだろうか」

 

わたしも自分の目で確かめるためにぜひ見てみたい映画だ。

 

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2020年7月27日 (月)

プラド美術館

いま、「プラド美術館」に行くことはできないが、「プラド美術館」という映画を見に行くことはできる。

 

この映画は、名画をたっぷり見させてくれるわけではない。

 

美術館の設立された経緯や、スペイン王室のコレクションとの関係、スペイン王室の庇護を受けたティッツアーノら歴代の画家たち、内戦中の美術品の疎開、共和国政府の教育政策と美術館との協力関係、修復作業員たちの丁寧な仕事や情熱、館長や学芸員たちのコレクションや美術館に対する熱い語り、美術館にそれぞれ思い出やかかりわりを持つスペインの女優さん、フラメンコの踊り手、写真家などの語り、などで構成された映画だ。

 

映画の中では、コレクションの名画は、じっくり見ることはできないが、ぜひともじっくり名画を見にプラドまで行きたいと思わせる映画だ。映画中で、ちらちらと名画の断片を見せてくれるのだが、それだけでも名画は本当にすごいし、これだけの名画の集積ということが信じられないことだ。

 

画家たちの生き方や個性もすごい。なんていってもゴヤはすごい「変人」だ。これだけの絵を残した人は、ちょっと尋常じゃないところがあったのだろうと思うのは私だけではないだろう。ゴヤのお墓には頭蓋骨が残ってないそうだ。熱心な骨相学者が、持ち去ったのではないかということだ。その気持ち、わからなくもない。ああ、プラドのすべての名画、目の前で見てみたい。

 

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2020年7月26日 (日)

仙台フィル特別演奏会

コロナ感染症拡大の影響で、演奏会が中止されていた仙台フィルが、4か月ぶりに特別演奏会を開催した。山形交響楽団との合同演奏会で、指揮は飯森範親さん。

 

地元の芸術活動を応援したいという気持ちと、チャイコフスキーの第5番が聞けるというお目当て演奏会に行った。

 

演奏会自粛を受けて、再開ということで今回の演奏会は特別なものがあった。それは、プログラムに表れていた。「祈り」「未来」「希望」と3部に分かれたプログラム。

 

「祈り」では、地元プロサッカーチームで用いられているファンファーレ曲が演奏された。そしてブルックナーの宗教曲。この「祈り」部門は、金管のみの演奏だ。

 

「未来」部門は、エルガーの弦楽曲が演奏された。これは、なかなか聞く機会のない曲だが、飯森さんが「いい曲で、聴きどころが多い」と事前に解説してくれて、本当にその通りで盛り上がった。これは、弦楽器のみで演奏された。

 

どうしてこういうプログラム編成なのだろうと思ったが、金管と弦楽器が見事に融合、爆発したのが「希望」部門のチャイコフスキーの交響曲第5番だった。金管セクション、弦楽セクション、それぞれが音出しをして、今日の会場や天候具合に慣れたところで、このチャイコフスキーの交響曲が来た。そういうねらいだったのか。

 

チャイコフスキーの第5番は、どんなメレディーで、次はどんな展開になるというところまで知っているほど聞き込んだ曲だ。でも、生の演奏はCDやインターネットで聞くのと全然違って、いい。チャイコフスキーの素晴らしいオーケストレーションの妙がよくわかる。いま、オーケストラのどの位置の楽器の人たちが演奏しているのか、どこから音が出てくるのかというのが視覚でも聴覚でもわかるから、主題がここからここへ引き継がれているということや、主題がこことこことで違った形で繰り返されているとか、きれいなメロディーを今、ここが奏でているということがとてもよくわかり、本当にオーケストラのだいご味が味わえる。

 

楽団員の方々もとてもいい音を出してくれて本当に熱演だった。わたしたち聴衆も目いっぱい楽しませてもらい、惜しみない拍手を送った。

 

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2020年4月21日 (火)

歌舞伎鑑賞

外出自粛と人の集まりを避けるため、コンサートや舞台公演が軒並み中止となっている。演劇関係者の方の苦悩はいかばかりかと思う。文化的営みが今後も続いていくことを祈る。文学や芸能などは、このような感染症爆発的拡散の緊急事態時には、優先順位が低く考えられようが、しかしこのような分野も深く人間の本性に根差したもので、人が生きるために必要なこと、再び、芸能鑑賞ができる時がやってきてほしいものだし、きっとその時は来る。

国立劇場で行われるはずだった「義経千本桜」の通し狂言も、公演が中止となった。稽古を積まれていた役者さんたちも、準備をしていた関係者の方々もさぞかし残念なことだろう。

緊急事態宣言が発出され、自宅にいる人も多かろうと配慮もあったと思うが、国立劇場の方で、「義経千本桜」の公演の映像を期間限定で、公開してくれている。観客がいない劇場で通しの演目を収録したものだ。歌舞伎は、観客が役者に声をかけたり、その声掛けで、役者の見えが決まったりする。もともとは、弁当やお茶を飲みながら見ていたようなちょっと猥雑した力強さが魅力なのだから、無観客というのは何とも寂しいが、歌舞伎役者さんたちの芸事の凄さは伝わってくる。ぜひ、多くの人に見ていただきたい。

それに歌舞伎というのは、そもそも筋を全部知ってから見た方が、役者の演技の妙やほかの演者や演出の違いに集中できてよい。だから、公開されたこの名高い古典作品を見て筋書きをしておくのもよいと思う。

脚本は江戸時代に書かれたので、荒唐無稽なところや、江戸時代の人々の生活実感にはとても訴えたのだろうけど、現在の観客には果たしてというところもある。しかし、平家の公達が落人となって生きていたというのは、改めて平家滅亡の悲劇を強調するし、やはり幼い安徳帝の入水前の無邪気さや辞世の句には涙が誘われる。

立役の尾上菊之助が見事だ。佐藤忠信を演じ、一方で狐となれば親を慕う無邪気な子狐にしか見えないし、一方で武士を演じれば実直な武士にしか見えない。内面からも醸し出される演技だが、それが見るものが全くいない劇場で行われているとは。

 

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2020年2月14日 (金)

歌舞伎「阿弖流為(アテルイ)」

歌舞伎の舞台を映像に編集し、全国の映画館で見れるようにしてくれるシネマ歌舞伎で「阿弖流為(アテルイ)」を見た。

これは前から気になっていて見たいと思っていた作品だ。まずは、私自身が「まつろわぬ民」として東北に住んでおり、その東北のヤマトからの侵略の歴史が描かれ、民族の英雄である「阿弖流為(アテルイ)」が描かれるこの作品に、私たち「まつろわぬ民」がどのように描かれているのかがとても気になった。

私たちは、2回ヤマトに征服された。まずは、坂の上田村麻呂征夷大将軍が、東北の蝦夷(えみし)を打ち従え、阿弖流為が破れた時。もう一つは、会津藩が、薩長藩閥明治政府に蹂躙された時。そのような歴史を持つ東北の民として、阿弖流為や蝦夷がどう描かれるのか、侵略する側のヤマトがどう描かれるのかがとても気になった。

脚本は複雑で深く考えさせる内容で、かつきわどかった。朝鮮半島から渡ってきた天孫降臨族のヤマト朝廷が、この日本列島は1民族1国家だとして全国の統一を図る。皇軍は雪深いえみしの地へと兵を進める。皇軍は、勝つためであればどのようなことでもする。食料に毒を入れわざと蝦夷に渡したり、川に毒を流し、無辜の女性や子供を殺す。そして、1945年には、アメリカに対して物量で皇軍が敗北したように、皇軍は物量で圧倒して蝦夷を破る。(こういうきわどい内容が、「言論の自由」がいつまでも保障されて上演可能であることを願う)

蝦夷の魂は、この東北の地の山川草木そのもの。そして蝦夷の悲しみもまたこの東北の地の山川草木そのものだ。東北の山川草木が踏みにじられるから、神が怒り、神が死んだのだ。東北の地は、核発電所からの放射能をばらまかれることにより、ヤマト政権によって3度目、踏みにじられたが、私には、そのような悲しみと、阿弖流為や蝦夷と蝦夷の神の悲しみが重なった。

こんなふうに、脚本はとても深いと思うのだが、歌舞伎というのは、本来理屈なしに、面白いもの。もちろんその面白さの裏には、芸事の精進が隠されているのだが、そういうこと抜きで本当に面白い。

今回は特に若い役者さんの力をとても感じた。それに歌舞伎役者はどうして皆あんなにも、ほれぼれするくらい「顔」がよいのだろう。見とれてしまう。阿弖流為役の染五郎、坂の上田村麻呂役の勘九郎。染五郎を見ていると、宝塚のファンはみなこんな感じではまっていくんだろうなと気持ちがわかる。勘九郎は、だんだんお父さんに声も似てきた。彼の出演作品を見てきたが、どんどんうまくなっていく。七之助は、一人二役。女形として本当に良くなってきてほれぼれしてしまう。女形と言えば御霊御前役の市村萬次郎さんは、どう見ても憎々しい老婆にしか見えない。すごい。こんなふうに、主人公たちも脇役たちもすべてすごい演技で、理屈なしに歌舞伎の凄さと楽しさが味わえる。

 

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2019年12月19日 (木)

『老子―もう一つの道』 八十一 まとめ

【自由訳】
まことある言動は美しくないかもしれない。善き人は詳しく弁じたりしない。ほんとうの智者は博識とは違う。聖人は自分のためには蓄えない。すべてを人に与えて、こうすることでますます豊かになる。天の道は万物を利して害を与えない。聖人の道は為すだけ為して人と争わない。


【解説】
老子は最後に、本当の信、本当の知のありかたを説く。与えて与えて与えても貧しくならず、ますます豊かになるもの、それが天の道、聖人の道。

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2019年12月14日 (土)

『老子 ― もう一つの道』 八十 小国寡民

【自由訳】
小さい国で人民の数が少ない。軍隊がなく、人々は死を恐れ慎み、遠くへ行こうとしない。だから、舟も車も武器も必要ない。自分たちの質素な衣食住と素朴な習俗に満足し、近くの国とは行き来もしない。

 

【解説】
小国寡民は、老子の理想。このグローバル化の時代に、世界から隔絶された小国寡民の存在は可能なのだろうか。

 

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