UA-92533382-1 よつば農場便り: 2022年5月

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2022年5月26日 (木)

国を守る

戦争や「国を守る」という視点に立てば、私たちが同一視するのは、侵略を受けているウクライナではなくて、侵略をしているロシアだ。私たちとロシアとを同一視して、どうやって「戦争」を防ぐかを考えた方が有効ではないかと思う。戦争は、必ず「国家を守る」という口実から始まる。そうだとすれば、私たちはロシアを自身の鏡として、私たちを戦争から守るということを考えた方がよさそうだ。

日本で、ウクライナ侵攻の報道を見ていると、なぜロシア国民はあのようにやすやすと指導者のプロパガンダに乗って、熱狂的に戦争を支持してしまうのかという疑問がわくが、社会や政治の民主主義度、報道の自由度が、ロシアとそう変わらない日本も「戦争」へと国民が熱狂的にやすやすと動員されて行かないという保証は何もない。まして、私たちが支持している政府は、政策に反対する学者などを平気で排斥し、多様性を許さず、自分にとって耳が痛いことを聞こうとはしない政府だ。戦争を抑止するには「民主主義」や「自由」がやはり重要だということが分かる。

次に、日本にいると、なぜロシアの兵士は、不正義の戦争命令に従い、かつ、非人道的な戦争犯罪までも犯すのか、さっさと戦闘をボイコットをしたり、上官の命令を拒否したり、はたまた相手側に投降して、早く戦争をやめればいいのにと思うが、もちろん、そんなことはできないから戦争が継続しているのだ。この点についても、同調圧力が強かったり、上からの命令には逆らえない、個人の倫理よりも集団の論理が圧力となる日本人が戦争に動員されれば、ロシア軍兵士と似たような状況になる。

では、どうすれば戦争を抑止できるのか。私たちは普段から、戦争で投降するのは恥ずかしいことではない、投降した兵士は国際法の下に保護される、ということを知って周知しておくべきだ。そのためにも、普段から、国際法を順守をということを国際社会に向かって訴えておく必要がある。そうすることで、私たち自身が安心して投降し国際法の下で保護され、不正義の戦争に対してはボイコットができるのだ。さらには、私たち自身が戦争犯罪を犯さないためにも、過去の戦争犯罪の歴史を知っておく必要がある。私たちは無謬で、過去に戦争犯罪など犯したことがないと思っていれば、私たちは戦場に動員された時、判断がつかず、非戦闘員の殺害といったような戦争犯罪を犯すことになるかもしれない。たとえ上官の命令であろうとも、戦争犯罪になる行為はできないと、多くの兵士が戦線から投降して離脱すれば、戦争は継続できなくなる。

「民主主義」「自由」「国際法の順守」「戦争犯罪についての知識」これが、わがくにを戦争をから守る有力な手段だ。

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2022年5月 9日 (月)

戦争の危機

独裁者の頭の中はこうなっているのかもしれない。「ヨーロッパやアメリカは、どんどん東へと防衛圏を拡大していて、我が国の生存は危機にさらされている。我が国の隣国にはヨーロッパやアメリカに後押しされたナチスを翼賛する政権まで誕生した。隣国を敵の影響下から解放し我が国の生存を防衛するためには、攻められる前に先制攻撃を仕掛けなければならない」

こういう独裁者の頭の中ではまたこうも幻影がひらめくかもしれない。「我が国の大事な東の方の領土の主権は、アメリカ、およびアメリカに従属する政府によって脅かされている。我が国の生存権を守るためには、我が国の脅威となる東方の脅威を早めに取り除かなければならない」

日本という国もロシアと親和性が高い。お上の考えには従順に従うという国民性だし、多様な意見や少数意見を重んじるという民主主義度は、先進国のノルウェー、ニュージーランド、台湾よりも下であるし、マスコミの自由報道度も先進国の台湾や韓国よりもずっと下だ。つまりは、典型的な独裁者は出ないにしても、一つの考えが世間の意見となれば、誰もそれにおかしいと異議を唱えたり、そういう意見を詳しく検討してみようという下地は少ないのだ。

こういう中で、妄想に囚われた指導者が「隣国のCが我が国の主権を脅かそうと画策している。隣国のRは、我が国を攻撃しようと準備をしている。生存権を守るためには先制攻撃しかない」となった時に、ロシア国民のように、日本人は政府やマスコミのプロパガンダを信じて、戦争に協力し始めるのではないか。いくら世界のほかの国の人から見れば、世界は違って見えるとしても、そしてそのことを我々に語ってくれたとしても、日本人には、日本人の世界の見え方しかできず、どうして世界のほかの国の人たちはこうも頭がおかしいのだろうとなる。

戦争を煽るだけ煽った人たちは、いざ戦争が始まれば先頭に立つことはないだろう。満州の歴史、水俣の歴史、フクシマの歴史を見れば、「国民を守る」というのは彼らにとって第一義でないことは明らかだ。観桜会の収支報告で嘘をつくような人が、いざ危機に立った時に、先頭に立って国民を守るに信があるとは思えない。歴史上、「国家主義」が長い間続いてきたが、「国家主義」の終焉が始まりはじめた。国家によらない、人間の安全保障を模索し始める時代が来ている。

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2022年5月 8日 (日)

『夜と霧』(V.フランクル・池田香代子・新訳)

心理学者のフランクルが、ナチスの強制収容所での体験を、自らの心理学者という立場で分析した著作。本題は、『心理学者、強制収容所を体験する』というものだそうだが、日本でも、霜山徳爾氏の旧訳がたくさん読み継がれてきた。本屋さんでは、旧訳版と新訳版が並んでいたが、私は池田香代子氏の新訳版を手に取った。

フランクルは、自分を被験者としながら、被収容者が、突然日常生活から切り離され、収容所へ集められ、これまで背負ってきた名前、職業などすべてを捨てて番号で管理される初期の心理、そして、強制労働に従事しながら碌な食べ物も与えられず飢餓に苦しむ、過酷な生活を送る心理、そして、ついに解放されることになる心理、などを分析している。

分析や描写はどれも斬新だが、私は特に、収容所生活の苦しみにどんな意味があるのかを考察している後半部分からの叙述に考えさせられることがあった。生きるか死ぬかの常にギリギリのところで、暮らしていた被収容者たちの過酷な生には、もちろん私のような生ぬるい生き方は当てはまらない。しかし、苦しみの中に意味を見つけることという、フランクルの考え方は、普遍的だと思う。つまり、収容所の中にいても、他の世界にいても人の生に共通のことだと思う。

それに、収容所は、遠い過去にあるのではない。私は自分の過去の言動から言っても、政府が推し進める戦争に反対した非・愛国者として収容所に収容されるそんな近未来がこの日本にもすぐそこにせまっているという感じがする。そして、現にこの日本には、外国人を収容する収容所がある。今も、入管職員の恣意のままに拘留されている人たちがいるのに、今後、戦争便乗で、外国人排斥の機運がますます高まり「外国人だから」という理由で、収容所に収容される人も増えるのではないか?

フランクルは、監視者側の人間の心理や、そして被収容者の中で取り立てられて、被収容者を監視する側へと協力するようになった人間の心理も分析している。もちろん、自分が絶対的に有利な立場にあるとわかっていて、相手が無力であれば、いくらでも人間はむごい仕打ちができるようになる。日本の入国管理所で収監されたスリランカ人女性をむごく取り扱った職員の人たちもそうだろう。しかし、それは個人を責めることはできない。人間の性、人間のむごさだ。

だが、限界状況の収容所の中でそこを踏みとどまった人が少数だがいるという証言をフランクルはしている。そういう人間性の気高さを聞かされると鼓舞される。私も勇気をもって踏みとどまりたい。そんなことを思わせてくれるこの本は、フランクルという人がこの記録を書いてとどめなかったなら、この世には存在しなかったはずだ。そう考えると、運命や偶然の尊さに頭が下がる思いがする。

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2022年5月 3日 (火)

『変容の象徴』(C.G.ユング / ちくま学芸文庫)

『変容の象徴』は、不思議なタイトルの本だが、心理学者の泰斗C.G.ユングの著作を野村美紀子氏が訳出された労作だ。この著作は何やらいわくがあるらしい。

ユングは、ウイーンでフロイトのもとで心理学を学び、そして彼の弟子としてそして協力者として研究をしていたのだが、この『変容の象徴』によりフロイトとはたもとを分かつことになったという。フロイトは『変容の象徴』で主張されていることを認めなかったし、ユングはフロイトの理論を否定的に扱った。

フロイトもユングも生の衝動としての「リビド」を扱っているのだが、フロイトの方はより性欲に近い形で考えていて、ユングは、「リビド」が性欲であるはずがない、というようなことをこの著書で主張している。私としては、その様な学説の論争にはそれほど興味があるわけでなく、フロイトとユングという精神分析の2代巨頭が心理学を応用して論じる人間社会や歴史に関する「文化論」がおもしろい。

『変容の象徴』は文庫版の大部2冊でその内容はまことに茫洋としている。もともとは、(のちに精神分裂病を患うことになる)アメリカ人女性の手記を入手したユングが、その内容を分析していくものというのが骨子なのだろうが、手記とはおよそ関係ないのではと思われる世界各地の神話や宗教、その宗教のシンボルなどの紹介や考察が、(脈絡がまるでなさそうに)延々と続く。

だが、こうした混沌や脈絡のなさや豊饒な連想の網の目と言ったこと自体が、人間のこころの奥深さを象徴しているように感じられる。人間の心は、両親に固着している幼児期へと退行していく。だが、その退行に逆らって現実と向き合い自分自身にならなければならない。その過程において象徴的に親を殺したり、逆に親に殺されたりする。こういう精神過程の反映が、宗教だったり、世界各地に伝わる英雄伝説なのだ。そういう意味で、人間の精神の奥底には、全人類に共通した「元型」がある。

キリスト教は、それを信じている人にとっては進んだ崇高な宗教なのだろうが、よく知られているように、キリストが生まれたとされる日と死んで復活するという話は、キリスト教以前の古代宗教や全世界の宗教に共通する、太陽の勢いが一番弱まる冬至と、そして勢いが強まり大地に豊穣をもたらす春への移行を反映しているのだ。キリストが、精霊を吹き込まれて母親のみから生まれたとする話や、生命を象徴する十字架にかけられて死ぬという話も、多くの宗教や英雄伝説に共通のことで、そこには人間の心理の葛藤とその解決法とが潜んでいる。

 

だから、神話や宗教には、そしてすぐれた文学作品などの芸術作品にも、葛藤を癒やす心理療法の働きがあるのだ。そのことをユングはこの著作で述べている。ということは、科学を重んじ経済的利益をあげることのみを追及し、芸術活動を軽視する国家や、国家の威信を高めるために国民を戦争に動員し文学を支配者の翼賛に膝まづかせるような国家は、人々の心が癒されることのない、不毛な索漠とした国家だということがわかる。

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