UA-92533382-1 よつば農場便り: 2022年2月

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2022年2月20日 (日)

ドボルザーク作曲・歌劇『ルサルカ』

ドボルザークが作曲した歌劇『ルサルカ』は、民話をもとにしている。狩りに来た王子に憧れた水の精が、人間になって王子と愛を結びたいと願う話だ。歌劇は、ドボルザークの優しい音楽に包まれた傑作だ。

 

水の精は人間の娘になるため、魔法使いのおばあさんに頼むが、その際に代償としなければならないものは「声」だ。「声」を失って人間になった娘だが、人間社会の移ろいやすさ、人間の気まぐれな情熱により、普遍の愛が得られなかった娘は、水の精に戻ることもできず、人間の世にもとどまることもできず彷徨し続けるという悲劇だ。

 

私がここで注目したのは、何かを得るために何かを失うという、民話やおとぎ話にある共通のパターンだ。アンデルセンが書いた「人魚姫」は創作童話であるが、「人魚姫」も、声という代償を払って人間の姿になる。

 

こんなことを考えたのは今ちょうどユングの『変容の象徴』を読んでいた途中で思い至るところがあったからだ。ユングによると、現代に生きている私たちの心の奥底にも、DNAにより古代からの人類の系統発生の痕跡が伝えられているように、古い時代からの人々の経験や思いが繋がってきているというのだ。ユングはそれを「元型」と呼んだり「イマーゴ」と呼んだりした。たとえ現代の文学作品だとしても、そういう「元型」に触れ、人々に「元型」を呼び覚ますような作品が、人々に言い知れぬ感動だったり、おそれや恐怖を引き起こす、そう、人々の集合的無意識へと働きかける傑作なのだ。

 

人々の集合的無意識は、民族に関係なく、さらに人類全体に広がっていると思う。昔、昔の人々が畏れたり、喜んだりしたこと、そういう根源に触れることが出来たり、呼び醒まされたりするのは、民話だったりする。それを題材にしたのが、ドボルザーク作曲・歌劇『ルサルカ』だ。

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2022年2月 4日 (金)

石原慎太郎さん

石原慎太郎さんがお亡くなりになった。

文学の上でも偉大な業績を残された方だったし、政治の世界での足跡も大きい。逝去を伝える新聞記事の扱いは大きかった。そんな石原さんの評伝記事を読んでいて考えたことがある。

石原さんは、中国と日本が互いに領有を主張する尖閣諸島を国有化する運動を起こした。それまでは、お互いにその部分には立ち入らないでうまくやっていきましょうという知恵のある付き合い方をしていたのだが、国有化運動で一挙に情勢が悪化した。こんなふうに、歴史というのは先人が起こした厄介ごとを、後人が処理していくものなのだ。かくいう現代人の私も、ぬくぬくとこの地球上で生存を続け、地球温暖化の付けを残し、後を生きる若者や生まれてく人々を絶望させているのだが。

石原さんの、中国に対するコンプレックスは何が原因なのだろうか。コンプレックスという言葉は「劣等感」と結びつけて考えられる語であるが、心理的には「劣等感」を感じていればいるほど、その逆に自分を強く見せないと、心理的安定は保てないのではないか。たとえ、強がって体を大きく見せたところでその中身は空虚なものであっても。

中国に対する石原さんの侮蔑感情は、何か劣等感と結びついたのであろうか。例えば、本居宣長のような国粋的な国学者のように、中国の優れた文明が日本文化に圧倒的な影響を与えてきたことが許せなかったのであろうか。

また、日本軍が中国に戦争に負けたことが許せなかったのだろうか。そして、とくに中共、および共産主義は許せなかったのだろうか。共産主義は、高貴なものに対する反感(ルサンチマン)だから許せないと、エリート階層出自の石原さんは考えたのだろうか。

マッチョを標榜する石原さんも、晩年には弱音を吐いていたようだ。老いは醜いという三島由紀夫的な生き方を貫くべきだったのだろうか。

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