UA-92533382-1 よつば農場便り: 2022年1月

« 2021年12月 | トップページ | 2022年2月 »

2022年1月29日 (土)

食糧人類

荒唐無稽な漫画ではあるが、隠喩に満ちたこの漫画の世界に引き込まれてしまう。

ある「工場」が登場する。だが、その工場の外観はどう見ても「フクイチ」なのだ、というか、見るものが見れば「フクイチ」をモデルに絵を描いたとわかるプラントなのだ。そこでは、秘密裏に、あることが行われている。それは、「食糧生産」なのだ。

食糧生産と言っても、人間が食べるためのものではない。逆だ。人間を食べるある至高の存在のために、人類が「食糧」として生産されているのだ。政府は、その至高の存在と、国民には知らせずに、同意を交わしている。その同意により、日本国民はある程度損害を受けるが、絶滅することはない。宇宙から来た至高の存在は、その生存のために、人類を欲するが、人類が途絶えてしまえば、その存在も成立しないので、双方の利害が一致して、一定数の「食糧」をコンスタントに提供することになっているのだ。

こうして、日本人なんかよりも、はるかに強力な存在に、生殺の与奪を握られてはいるものの、日本を支配する政府は安泰であるし、何も知らない国民も幸せなのである。もちろん、この生産工場は、人里離れた森の中にあって、一般人は近寄ることは禁止されている。

どうやって「食糧」を調達するのか。それは、通勤や通学の途中、適当に人々を拉致してくるのだが、そのまま至高の存在様に与えても美味しくない。そこで、たっぷりと脂肪がつくまで太らせるのだが、その時に使うのが特殊なドリンクだ。これは栄養が配合されていることはもちろん中毒性があり、いったん飲めば止められなくなる。飲めば思考停止になり、「どうでもいいんだよな」という気分になる。これなどは、テレビの娯楽番組を与えられて満足して思考停止に陥っている国民の状況を思い起こさせる。

太らせた食糧は、屠殺し、冷凍し、解体し、至高の存在様に召し上がっていただくわけなのだが、その食料を生産し、その至高の存在様の世話をし給餌をするのがこの「フクイチ」のような外観の工場なのだ。この工場の従業員も、いろいろな事情があって連れてこられる。大体は、失業しているような人たちを、どんな仕事かわからないが、「知識・経験なし」でOK、しかも福利厚生給与がすごく良いというような条件で、職業安定所などからリクルートしてくる。

仕事を始めてみると、驚くようなことが待っているが、ここでは「疑問を持つこと」は禁止だ。「考えないことにする」というのが大事なのだ。仕事の不満を口に出したり、何か疑問を口にしたものは、いつの間にか姿が見えなくなる。至高の存在様の糧食になってしまうのだ。

日本社会の如く、「何も考えない」「何も疑問を持たない」で、この工場は完璧に運用されているように思えたが、(まあ、途中いろいろな事があって)ついに至高の存在様の存在が暴露される。いわば、「パンドラの箱」が開いた、という状況になるのだ。食糧に餓えたおびただしい数の至高の存在様は、これまで工場の地下深くに隠れていたのだが、工場が爆発して、周辺の空に飛び散っていく。

彼らは、人間が好みなので周辺地域の人間に襲い掛かり、むさぼるように食べつくす。恐怖にかられた人間たちは、工場周辺の地域から列をなして逃避し始める。その場面では、背景を細かく描き込んでいる作者の創意に目を見張った。避難民が押し寄せる他地区の描写なのだが、道路の壁に「避難してくるな」とか「故郷を捨てるな」などの地元住民が書いた落書きを書き込んであるのだ。

こうやってきちんと国民が分断してくれるので、この国の政治や核発電政策は、支配政党に本当にやりやすいようになっている。また次の核発電所事故が起こっても、自分たち自らが「逃げるな」と言ってくれるのだ。まさに、至高の存在に食糧としてささげられるにふさわしい。

というような様々な暗喩にも満ちた恐ろしい漫画が「食糧人類」だ。

にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2022年1月28日 (金)

アメリカ公民権運動

アメリカの公民権運動の英文を読む機会がこのごろ多い。読むたびに、私たちはこの運動から学ぶべきものがあると感じる。抑圧され差別されてきた人たちが、白人と同じ人権上の扱いを求めた勇気ある行動や闘いは、同じように、差別され抑圧されている私たちが、本国の人たち並みの公民権を要求し、さらには独立を勝ち取るために学ぶべきことが多いと思う。

アメリカの公民権運動は1950年から1960年にかけて起こったものが有名だ。特に公民権運動のリーダーのキング牧師の活動や感動的なWe have a dream演説は日本でも知られている。日本であまり知られていない活動家にローザ・パークという女性がいる。

彼女は、当時、白人と有色人種が分かれて座らなければいけないバスで白人席に座り、「どいてくれ」という要求を断り逮捕された。これがきっかけに、平等の権利を求める運動が盛んになった。黒人たちは、連帯してこのバス会社のバスをボイコットするなどして自分たちの要求を通用させようとした。

このローザ・パークが白人席に座った理由は、イメージとして彼女が一日中仕事をしていて疲れていたから、そして、そういうところから彼女は割と高齢なのかなという印象を与えるが、実はそうではなく、彼女は人権運動の活動をしている祖父に育てられ、意図的に逮捕されたということだ。当時、アメリカで公民権運動などをするのは命がけで、ローザ・パークの家にはいつも脅迫電話がかかってきたということだし、彼女の祖父は、家に銃器を備えて白人からのテロに対抗しようとしていたという。

このように、平等な権利を求めて活動し、そして現在でも活動しているアメリカ本国の公民権運動は、私たち、アメリカ本土並みの権利を与えられておらず、本土の住民が享受している安全な暮らしが拒まれている植民地状態の私たちも、そこから学び、本土人並みの平等な権利と、そして独立を獲る糧としたいものだ。

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2022年1月20日 (木)

ハウス・オブ・グッチ

名門一族のスキャンダルを実話をもとに描いた映画だという。

アル・パチーノも出ると言うので見たくなった。あの、ゴッド・ファーザーだった彼が、どんな役をやるのか、というのにも興味を持った。そして、あのガガ様が、主演を演じるという新聞記事を見て、見たいという気持ちに拍車がかかった。

ガガ様がどこに出ているのかが分からなかった。それくらい、ガガ様は、イタリア人の主人公、パトリツィアを演じ切っていた。イタリアなまりの英語がうますぎる。そして風貌もまったくイタリア人。どうメイクしたのだろう。

アル・パチーノも、駄目ぶりが際立つアルド・グッチを巧みに演じていた。アダム・ドライバーが演じる、ガガ様が落とすボンボン役のグッチ家当主の、お坊ちゃんぶりも名演だ。事業に関わらないで、まじめに勉強して弁護士になっていれば、悲劇は起きなかったろうにと、脇から眺めている観客の私は思う。

「金があるからと言って、人生必ずしも幸せだとは限らない」というような凡庸な教訓を引き出す映画ではなかった。3時間立つのもあっという間だった。

最後に、ガガ様、パトリツィアは逮捕され、法廷に呼ばれる。裁判長から起立を求められるが、裁判長が正しい名前を呼ばないので起立しない。「私を、パトリツィア・グッチと呼びなさい」が最後のセリフだ。

家、家名に対するこだわりが悲劇を生んだと思える。ヨーロッパでも、女性が嫁に入りその家系の一員となり姓を変えるというのが一般的な結婚の在り方だ(在り方だった)ということを示している。特に中世に連なるイタリアでは、そうなのだろうし、あの名門「グッチ家」に嫁いでその一員となったのである。だが、もちろんその名門というのは張りぼてだったりするのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2022年1月10日 (月)

素晴らしき哉、人生

1946年公開のアメリカ映画。クリスマス映画の典型で傑作なのだろう。 昨年末にDVDで鑑賞した。

西洋キリスト教文明圏では、クリスマスは主要な行事だが、クリスマスと言えば、ディケンズの「クリスマス・キャロル」も思い出される。ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、嫌われ者の守銭奴の男の物語だが、「素晴らしき哉、人生」の方は、町の中でまじめに生きてきて陰徳を施してきた男の物語。少しドジな天使の出現に笑ってしまうが、少しハラハラしてハッピーエンドで終わるこの映画は、家族で見るのもいいと思う。

1946年と言えば、日中戦争、太平洋戦争が日本の敗戦で終わった翌年。この映画を見て、当時のアメリカ社会と日本とを比べた場合のとんでもない豊かさも気になって仕方がない。日本では、焼野原、バラック建ての都市で闇市が広がっていたのに、当時のアメリカでは、郊外の開発と住宅建設が始まっていて、庶民だって住宅ローンを組んで夢の住宅を次々と購入していたのだ。

なんでこんな国を相手に戦争をしたのだろうと、映画を見ていてそこも気になってしまった。日本の指導層・支配層の判断ミスや、国民の誤った熱狂など、済んだことを悔いても仕方ないが、せめて事実は事実として失敗の教訓として留め置くことをしておくべきだと思うのだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (0)

« 2021年12月 | トップページ | 2022年2月 »