UA-92533382-1 よつば農場便り: 2021年12月

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2021年12月25日 (土)

「事実」と「意見」

読解力を測るテストの中で「事実」と「意見」を分けて判断させるものが登場してきている。大学受験で課される「共通テスト」にも、そのような問題が出題される。

このようなことが問われるようになった背景には、「先進国」での文章読解の基準に「事実」と「意見」を、文章を読んだらそれを読み分けることができることというのが加わり、日本でも「世界標準」に合わせるために導入されたのだと思うのだが、しかし、こういう読解力そのものは、民主主義を根本から支える市民が持つべき力として重要なことだと私は思うので、「事実」と「意見」を読み分けられる力を持った市民が増えていくことは良いことだと思う。

だが、この「事実」と「意見」の読み分けは、実際生徒は苦手だ。将来の民主的な市民社会のことを考えると不安になってしまうが、実は「事実」と「意見」の判別はそう簡単なことではない。

例えば、 ①私は、安倍首相の安全保障政策は好きじゃない。 という文章があれば、これは、「安全保障政策」という賛否両論がありそうなトピックについて「私」の反対意見を表明したこの人の「考え=意見」と考えられる。

②私は、安倍首相が好きじゃない。 という文章は、「意見」とも考えられるが、「私」という人間についていえば、この人が嘘をついていないのであれば、私に関する「事実」とも思える。

さらに、 ③私は、ブロッコリーが好きじゃない。 という文章になれば、これは私の食べ物に関する好き嫌いを表した「事実」ととらえることがより許容できるようになるだろう。だが、②と③の違いは何だろうか、そして①と③の違いは。微妙ではないか。

また、読解試験では、次のような文章は「事実」の方へ解答としては分類される。

「調査によれば、国民の80パーセントは、原子力発電所の再稼働に賛成している」 しかし、これが、「国民」と言っても自民党支持者や安倍首相の支持者だけを調査した結果であればどうだろうか。このように「事実」は「事実」でなくなることもあるのだから、そもそも「事実」と言えるものとは何なのか、ということも大変悩ましいことだ。

このような根本的な議論はあまり行われないままに、「共通テスト」のような読解力テストが行われている。生徒たちが混乱するのも無理はない。

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2021年12月24日 (金)

「おじさん」的なるものの考察

河北新報2021年12月23日付の論考記事が面白かった。

「ティラノ部長」なる漫画が人気を博しているというところから記事は始まる。この漫画の主人公のティラノ部長は、若いころ、仕事も飲み会も大好きだった猛烈社員だったが、しかし今は、時代から遅れ、何の展望もなく会社にしがみつくそんな中高年男性を恐竜に擬して書いた作品なのだそうだが、ティラノ部長の哀感漂う姿が人気を呼んでいるのだそうだ。

そう、世の中「おじさん」は揶揄や攻撃の的となっている。中高年男性を「おじさん」というのであれば、私もまぎれもなく「おじさん」であるが、批判の的となっているのは「おじさん的なもの」なのではないか。

その代表を今年を振り返る形で見てみると、森喜朗さんや河村たかしさんの言動だ。記事では、田中俊之氏の「おじさんたたきの背景に、MeToo運動やジェンダー平等を求める世相があり、男性の論理が支配する男性だけの社会そのものが異議申し立ての対象となっており、その象徴としての「おじさん」が叩かれている」という分析を載せている。田中氏は、男社会の競争原理に乗っ取って勝ち抜いてきたために女性や若者の思いに鈍感で、ないがしろにする「権力者」は多く、そういう人が批判の対象となるのは当然だとしても、中高年男性を十把一絡げに「仮想敵」の仕立て、スケープゴートにする風潮はいかがなものかと、異議を申し立てている。これを見ると「おじさん」の私もちょっとほっとする。田中氏は、「普通」に手が届かず生きづらさを抱える中高年男性も実は少なくないが、より厳しい現実に直面している若者や女性からは、「おじさん」世代全体が「特権」を享受しているように見えるのかもしれないという。

ジェンダー研究の第一人者である江原由美子氏の見立ては少し手厳しいが、「おじさん」世代は、素直に耳を傾けるべきだと思う。江原氏は、「男らしさ」から抜け出せない中高年男性が、自らバッシングを呼び込んでいる、「男性特権」に居座り続け得るためにおじさん世代みんなで共謀しているように見える。もし、生きづらさが分かるのであれば、権力の側につくのではなく、同じように悩む女性や若者に寄り添うべきだ、と。

最後に再び、田中氏が、「おじさん」にアドバイスしてくれる。これには共感した。自分が「おじさん」であることが、自分の考え方や行動、生き方を規定しているという視点を持つことが大事。(つまり、自分で、堂々と自分の考えを述べ、自分で考えて振舞っているつもりでも、それは、自分から出たものじゃ全然なくて、「おじさん」であるという外的な規定からもたらされたもの)、日本国籍があり、心と体の性が一致している異性愛者といったような「おじさん」は、自分が考えずに生きていける存在だと自覚する必要がある、というのだ。私も考えてみれば、日本社会で男性として生まれて生きてきたというだけで、相当特権的な地位を享受してきた。もし、こういう自覚がなければ、俺様こそが正しくて、女子供は黙ってろ、という指弾されるべき「おじさん的なおじさん」になり、そして指弾されているということすらも気づかないようになってしまうのだろう。

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2021年12月17日 (金)

人権問題を考える

私たちが、世界で起きている人権問題に積極的に関与したり、発言できなかったりする背景の一つには、私たちが過去に犯した人権問題に対して向き合っていない、謝罪していない、解決していないという後ろめたさがあるのではないだろうか。

現在の中国の人権問題を取り上げるとすれば、中国の側から、では日中戦争時の非戦闘員への虐殺行為や、細菌兵器への人体実験、化学兵器の遺棄などを持ち出されたらどうなるのかという遠慮もあって取り上げられないのではないだろうか。

日本は無謬で過去に人権侵害など犯したことはないという人は、中国の人権侵害を非難するだろうが、しかし、それはそれで説得力がない。自国の人権侵害は棚に上げ見ようともしないで、他国の非難をしてみたところで、それは他人が憎いのであってその他人がすることは何でも憎いといった、単なる他人のあら捜しをしているやのように映るからだ。

現在の日本政府も、自国の過去に人権侵害はないとする立場だが、中国で行われている人権侵害に何も申し立てないのは、また別の思惑があるのだろう。

とにかく、自国のであれ、他国のであれ、人権侵害は断固としていけない、侵害されている人たちに援助、救出をというのは、国を超えて市民の立場でとか、非政府組織の立場でとかで申し立て協力していく必要があるのではないだろうか。

そんなことを思ったのは、12月16日付の「河北新報」で安田浩一氏の論考「コリアンガード」を読んだからだ。「コリアンガード」とは、戦前の朝鮮半島出身の方々が、日本皇国民として戦争に取られ、捕虜の監視に当たらされたりした人たちののことだ。欧米人の捕虜などを動員して過酷な工事を行った泰緬鉄道の監視所で働いていた方は、日本敗戦後に捕虜虐待の罪で戦争裁判にかけられ、有罪となった。11年におよぶ監獄生活の後で出所したこの方に、日本政府は冷たかった。日本軍の軍人であれば、政府は恩給や遺族年金などを出し、生活を支えたが、この方は、日本人として戦争に参加し、裁かれたのであるが、戦争が終わってみれば、外国人として放り出され、何の補償も日本からは受けられなかったのだ。

このような不条理があるのだ。まさにこういう不条理は、今ウイグル人の方々が味わっているだろう不条理なのだ。こういう不条理が解決され、世界中で人権が守られてほしい。そこには、国や民族の別はない。

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2021年12月15日 (水)

失敗の本質

福島核発電所爆発事故の後から、失敗の本質を見極めよう、そして失敗の教訓から次の事故を防ごうという動きや機運が高まったことは良いことだと思う。「失敗学」は、核発電所事故以前から奇特な方々が行い切り開いてきた分野だ。例えば、日中戦争や太平洋戦争の失敗の本質はどこにあるのかというような振り返りが行われてきた。私たちにとって重要なのは、さまざまな失敗の本質をつかんでそれを生かし、「失敗」の苦しみを繰り返さない、味あわないということだろう。しかし、「失敗」は繰り返される恐れはある。「女川核発電所」再稼働を始め、全国の核発電所、さらには、威勢の良いことをいう人が戦争・紛争をあおり、自分は特権を利用していち早く安全なところを退避することなど。

「外環道建設のための大深度トンネル工事」でも、失敗の本質が繰り返されている。工事は「絶対に安全」という喧伝のもと行われたが、実際は、調布市の住宅街で陥没事故が目に見える形で起きてしまったので「失敗」が露呈し、もはや覆い隠せなくなっている。この件で、「失敗の本質」が繰り返されているなと思うことは、「計画や工事は、理想の形でのみ想定されていて、そこに齟齬や、行き違い、想定外のことは起こらない」ということになっている点だ。政府や事業者がこうなってほしいという願望のみに基づくシナリオしか存在しない。計画や想定に、「それは違うのではないか」というクレームは、ありえないことなので聞く必要もないし、そもそも批判ばかりしている奴は生産的でないので、対案を出さない限り相手にしない。

この「大深度トンネル工事」では、さすがに道路に穴が開いてしまったので、事業主体の高速道路会社が、調査をしたが、その調査結果は、「トンネル工事の真上ではその影響はあったが、真上から離れたところには影響はない」というものだ。これも見事に「失敗の本質」が繰り返されている。

核発電所事故と同じく、事故は本来あり得ないという政府と事業者のシナリオなので、事故の被害はなるべく小さく想定する。事故を小さく想定するかもしくは「ない」とすることで、避難する住民を少なくし、住民を逃さない。じっさいこの「大深度トンネル工事」の真上から15メートル離れたお宅でも、家のひび割れ等は起こっているが、事故を少なく見積もれば「補償金」も節約できるし、「事故」を騒ぎ立てる人を減らし「風評被害」も防げる。

真上から15メートル離れたお宅の人々の苦悩と、「事故」を認めさせる闘いが、フクシマ核発電事故の場合と同じように続くだろう。裁判という手段で司法へ訴えるというような動きへとなっていくだろう。もちろん、司法の対応は、政府の後押しなので、住民に有利な判決や判断が出ることは少ないだろう。

しかし、「失敗の本質」は学ばれていないようでいて、少しずつ市民側の力が伸びている。フクシマ核発電事故後の住民訴訟もはかばかしくないが、それでも1000分の1ミリずつくらいは、司法を動かしている。フクシマ核発電事故後の住民や市民たちの運動や行動の蓄積は、「大深度工事」で苦しんでいる人たちの学べる教訓や力になることがいっぱいある。そして、手を取り合って「失敗」をなくす方向に進むことができる。

市民や住民が、少しずつ「失敗の本質」を学んでいる間に、私たちの大好きな政府・自民党だって、1000分の1ミリずつくらいは変わっていくかもしれない。私たちの大好きな大企業さんも、変わっていくかもしれない。

今後も「辺野古の米軍基地建設」「リニア新幹線」など、「失敗の本質」がもう露呈されつつある政府や大企業の事業・計画が目白おしだ。フクシマで「プルサーマル計画」受け入れを拒否した佐藤知事が冤罪をかぶせられたという「失敗の本質」から学ぶ事例がある。静岡県の知事の「リニア新幹線」に慎重な姿勢を住民・市民が後押ししないと、また大規模に「失敗」が繰り返されるかもしれない。

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2021年12月13日 (月)

県民の命を守る

県民の命を守るという点での、宮城県知事村井嘉浩氏の突出した消極的な姿勢は、女川核発電所の再稼働の問題にも表れている。

女川核発電所を再稼働するにあたって、東日本大震災であわやの差で破局を免れた被災原発である女川核発電所は、技術的な安全対策を施すということで再稼働に突き進んでいる。

県民や住民にとって核発電から身を守る最後の砦は、核事故が起こった時にどのように安全に安全なところまで退避するかということだが、この事故想定時の「避難計画」が、電力会社、国、地方自治体ともに、一番力を入れていないところだ。

理由を忖度すれば、第1に「事故は起こりっこない」、第2に「事故が起きて住民が逃げたら、事故が大きいという印象を与えて、核発電の維持に悪影響を及ぼすから」というところだろう。

宮城県知事の村井嘉浩氏も「避難計画の実効性を判断する立場にない」という責任逃れで、避難計画がどうなっていようと、たとえ実効性がなく、事故時に住民が避難できようができまいが、関係ないという立場をとり、再稼働に合意してしまった。

この「避難計画」に実効性がないということは、有志の住民が計画通りに実際避難訓練をして、想定された避難ルートを通ってみたりして、証明している。そして、避難計画に実効性がないということを根拠にこれまで、県や国の説明会で問題提起をし、説明を求めて来たし、女川核発電所の再稼働差し止め訴訟を提起している。

国も県も、避難計画に対する問題提起に対して、まともに答えようとはしていない。避難計画が万全であるならば、問題提起に対してこのような理由で安全ですときちんと答えればよいではないか。それを応えないというのは、やはり「避難計画」は、机上の空論であって、「そもそも事故は起きない」「もし、起きたとしても住民は逃がさない」というのが国策で、県もそれに従っているということを明らかにしているようなものではないのか。

もちろん、このような棄民政策は許されないし、一部の人だけが金銭的に潤い、多くの人が不幸になる核発電所を、一部の人の利益のために行うのは倫理的にも許されない。

そこで、私は女川核発電所差し止め訴訟に共感し応援している。裁判支援カンパは、以下の口座に「再稼働差し止め訴訟カンパ」と記入して振り込むつもりだ。

郵便振替口座:02250=6=118564 口座名義:門間 弘

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2021年12月12日 (日)

命の水が民間に売り渡された

宮城県の水道事業が民間に売却された。全国に先駆けて行われた水道事業の民営化を推進した宮城県知事の村井嘉浩氏と議会で同意・推進した自民党と公明党の名前は、後の歴史的検証と責任の所在を問うためにも記録されてしかるべきだろう。

公営はすべて効率が悪く無駄が多い悪で、すべてを民間に委ねれば効率よく運営され経済ばかりでなく行政サービスもよく行われるという「新・自由主義」の信奉者が村井さんだ。村井さんばかりでなく多くの政治家・経済学者がこの「新・自由主義」的経済を支持指示・推進している。

しかし、この「新・自由主義」経済が、どれほど国民の生活をむしばみ、格差が拡大し、対立・分断・排除・差別を生み出しているかには、信奉者の方々は都合よく目を向けない。というよりは、自分の目に入らないことは、この世の中に存在しないのかもしれない。

5年後、10年後に、水という命にかかわることで宮城県民の生活や幸福が損なわれても、もうその時にはこの政策を進めた人たちは安全な場所にいて、また一切は免責され、だれも責任を問われないという不思議な事態になるのだろうか。

苦しめられる私たちの中にも、「新・自由主義」を跳ね返し、自分たち実は多数派の意見が届き反映される力や仕組みを手に入れたい。

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2021年12月 8日 (水)

アヘン戦争

中国が人権問題に対して欧米諸国にかたくなな態度をとる理由というものを、歴史的経緯を考慮に入れて考えてみてもよいのではないかと考える。

中国近代史に大きな事件はイギリスが中国に仕掛けて『アヘン戦争』だ。

世界の海洋帝国として覇権を握っていたイギリスが中国との貿易で利益を上げようともくろんだ。ところが、中国の製品である茶や陶器が売れることから、イギリスは貿易赤字が重なり、国家から銀が流出することとなった。

そこで、中国に対して売れるような製品を持ち合わせていなかった当時のイギリスが、中国へ製品を売って貿易赤字を解消するために思い付いたことが、「アヘン」を中国へ販売することだった。ちょうど、イギリスの植民地にケシ栽培の好適地を持っていたこともあり、製造して中国へ持ち込んだアヘンは、思惑通りどんどん売れた。

今度は、中国政府が国内からの銀の流出に気づき、アヘンの輸入を禁ずる。港湾へ役人を派遣して、イギリス商人の持ち物である倉庫にあるアヘンを没収・廃棄した。

これは国家として当然のことではないか。自国の国民がアヘンによって冒されていくのをみすみす手をこまぬいてみている政府があるだろうか。あるとしたら、国民は他国に売り飛ばしてもいいが、政府とそれにまつわる要人たちだけが繁栄できていればよいと考える政府を持つ国家だけだろう。

ところがイギリスは、財産権や自由貿易の侵害をたてに中国に戦争を仕掛けた。そしてイギリスの思惑通りに事が進んだ。何しろ当時は、自分の主張を通すには、理屈や論理ではなく、力づくという時代だったからだ。

こういうイギリスをはじめとする、欧米諸国のような文明のルールを守らない野蛮な国に人権を語る資格があるのか。そして、こういう欧米、そしてその尻馬に乗った日本などの侵略から国家と人民を守った愛国的行為を成し遂げたのが中国共産党なのだというのが、中国が見ている世界なのだ。

いずれ、人権というのは普遍的な価値があるものだと思う。他国や他民族に対して人権を守らない国家や政府は、その国民の人権も守らない。そういう政府を国民が選択しているとしたら、その国民の人権意識もそれなりのものだ。

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