UA-92533382-1 よつば農場便り: 2021年9月

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2021年9月26日 (日)

現代アラブ小説全集『アヘンと鞭』(マムリ)・河出書房新社

マムリが書いた『アヘンと鞭』は、アルジェリア独立戦争が舞台だ。アルジェリア独立戦争が舞台ではあるが、そこに描かれた断片的な人間の姿から、全体的な人間の姿を浮かび上がらせているために、すぐれた文学に昇華していると私は思う。

マムリは、アルジェリアの作家だ。であれば、独立なり革命戦争の勝利を大々的に祝福してもよいはずだが、しかし、そのような政治的なプロパガンダ小説が優れた文学になりうるはずがない。そのような政治的な宣伝からは遠く離れていることで、文学的傑作の位置を保つことができている。

この小説を読んで感じることがいくつかある。

ひとつは、侵略者、抑圧者、植民宗主国は残酷だということだ。この場合は、フランス軍だ。独立運動に投じる者たちに「テロリスト」のレッテルを張り、拷問、殺害、そしてあぶり出しを行う。マムリは、それを淡々とした描写で描く。フランス軍の行為を声高に告発するのではない。だから、あらゆる歴史的な時間において、侵略者、抑圧者、植民宗主国は酷薄で卑劣で情け容赦がないということがわかる。そして、私には日本軍の中国や朝鮮半島での行為に思いをはせる。

被支配層の人民にも、植民地支配はむごさをもたらす。現地の人の中には、支配者層におもねり、取り入って、抑圧側に加わり、独立遊撃隊との連絡員を暴き出し密告するものも出る。ここではタイエブという人物がそうだ。しかし、タイエブは、村の中の最底辺として村人たちから馬鹿にされていた者だ。そういうタイエブが、フランス軍の権威を盾に、村人たちとの立場を逆転し、村人たちを抑圧しむごたらしい暴力を振るうようになる。彼のような人は、独立後に、祖国への裏切り者として、人民裁判でリンチされることになるはずだ。しかし、アムリはそのような結末を描かず、この裏切り者のタイエブの苦悩を描く。そこがこの小説の優れた文学たるゆえんだ。現代の日本でも、宗主国の意向を汲んで宗主国の方に顔を向けて政治をしているものは祖国を裏切っているのに、タイエブが感じた苦悩を彼らが感じているとは思えない。

苦悩は、この小説の主要人物と言ってもよいバシールを通しても描かれる。宗主国のパリで医学を学んだアルジェリア人という設定のバシールには、作者の体験が投影されているのかもしれない。バシールは、パリや「文明」が好きだ。しかし、彼は祖国に戻り、いきさつから独立運動に巻き込まれ、ゲリラ隊の軍医として活動するようになる。彼にはフランス人の恋人がいる。バシールが、独立や革命の大義を信じて行動しているかどうかはわからない。インテリらしく、抽象的に何かに悩んでいる。

そのバシールには、独立運動の闘士アリという弟がいる。アリは、フランス軍との戦闘中に捕らえられ、故郷の村で、村人たち全員の前で銃殺される。アリを思うサダディトという娘が、彼の死体を抱いて、彼は独立の日を見ることができなかったが、彼の思いは、皆の中に受け継がれていくと涙する。個を超えた生命の連続をここに見ることができ、感動する場面だ。

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2021年9月23日 (木)

なぜ科学を学ぶのか

池内了氏の「なぜ科学を学ぶのか」(筑摩書房)を読む。科学の基礎知識を学ぶ理科の重要性を指摘している。

著書は、科学がもたらしてくれる恩恵を受け、さらに豊かに実らせるには、誰もが科学の基礎知識を正しく保つ必要があり、科学・技術文明の時代を生きるために、誰もが学校で理科を学ぶことが現代人の常識だ、と述べている。

しかし、「科学」は「理科」と同じではない。「理科」が、自然物そのものを対象とするのに対して、「科学」は、社会的な事象や人間の生き方に関連し、生じている自然現象に対する考え方(判断・予測)や社会との関係までを問う。

理科と科学の違いを踏まえて、著者は、「科学的判断」や「科学的予測」が「理科的判断」や「理科的予測」とはニュアンスが大きく異なると主張する。

直面する問題の解決のために、科学の立場からどう考えるかは、人間の生き方への重要なヒントとなる。科学には自然と人間が関係して繰り広げられる現象を全分野から論じるという意味がある。

科学の考え方を応用することを通じて、「知ることが生きる力に変えられる」ということにつながる、と池内氏は言う。

・「科学する」ことの3つの条件 ①なぜそのことが起こったか仮説を持ち ②それが事実であるか・ないか様々な証拠によって検証し ③その事柄の背景にある、紛れもない1つの確かな「真実」を発見する こと。

科学の精神は何に対しても適用でき、「科学する」ことを、様々な問題に応用して、私たちの生き方に反映させることが大事と言う。

池内氏の主張には、啓発される。科学者や専門家の知見が、社会の政策に生かされる必要があると思うが、専門家や学術団体の意見は無視されたままだ。科学的精神を軽視するものは、その代償をいつかは支払わなければならない。

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2021年9月 2日 (木)

河出書房新社・現代アラブ小説選集『アフリカの夏』ディブ

この小説はアルジェリアが舞台だ。アルジェリアの近現代史では、1950年代に始まるアルジェリア独立闘争が、世界史的な影響も大きい。小説は、この独立闘争を、リアルに描くのではない。背景に恐らく不穏な紛争があるのだろうと、その影を引きずらせている。しかし、現実を現実的に描写するよりも、この小説のように超・現実的に描写することで、かえって事の本質を伝える。作家ディブの、文学技法はそのようなものだ。

この小説の中で象徴的なのは、役所に勤める中産階級の男の家族だ。彼はインテリでもあり、主婦の妻と自分の母親、娘と暮らしている。そして、アルジェリアの灼けつくような昼間のあともなお熱い夜に、家族が語らう。娘は大学まで行った。父親は、女性も社会に出るべきだと教職に就くことを進める。すると男の母親がとんでもないこと、女は結婚するものだと、口をはさむ。そのような家族の夕べの語りに、妻の兄、彼はインテリではなく、商売人で滑稽を言う―が訪ねてきて話に加わる。そんなさりげない場面が、同じように、かつ少しの変奏を奏でながら、小説中に全部で3回出てきて、しかも、次の場面では父親は、娘を結婚させることとし、娘がそれに絶望して嘆く。この3回の登場は、脈絡があるわけではなく、父親が心変わりしたということでもなく、この挿話が「象徴」だということだ。恐らく、それはアルジェリアの背景にあるアラブ社会の苦悩だったり停滞だったりの象徴なのだ。

この通奏低音の「繰り返し」の合間に、エピソードが挿入されていく。山(=独立運動)に入ってしまった子供を持つ、年老いた父親が、息子のことを知っている人を訪ねて、街なかをさ迷う、闘争で鍛えられ指導的な人柄へと鍛えられていく農民、だが、村人の中から裏切り者が出て、フランス軍への密告により村の抵抗者たちが捕らえられてしまう、闘争に加わるでもなく、仕事にもありつけず、妻と子供に責めさいなまれているようで苦悩する若い男、そのような断片を切り張りしていくと、やがて、大きな当時の状況が浮かびあがってくる。

「植民地主義」ということを考えさせられた。ディブという人は、植民地のアルジェリアで生まれ、フランスで教育を授けられた。だから当時の多くのアルジェリアのインテリがそうであったように、フランス語でしか表現できず、母国語では書くことができない。フランスはアルジェリアを150年近く支配した。その支配が過酷であるということは、この小説からもうかがわれる。独立を少しでも訴えようものなら、拷問され、殺されるということがうかがわれる。植民地にするとは言葉を奪うことだ。フランスほど長い植民地支配ではなかったが、韓国・台湾に対して日本もそれを行った。だが、アメリカの植民地になって70年になるが、日本語で考えて表現することは許されている。これは新しい植民地支配や植民地経営の在り方なのだろうか。そう考えるとこのアルジェリアの小説は、植民地支配の苦渋を感じるという点で、なんだか、日本人にもとても身近な感じがするのだ。

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