UA-92533382-1 よつば農場便り: 2021年8月

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2021年8月24日 (火)

河出書房新社・現代アラブ小説選よりカナファーニー『太陽の男たち / ハイファに戻って』

カナファーニーは、パレスチナ出身の作家で、パレスチナ抵抗運動の象徴のような作家だという。彼は、30数歳という若さで、何者かが仕掛けた爆弾により車を吹き飛ばされ死亡したという。

カナファーニーの小説が上質の文学に昇華していると思うのは、生硬な抵抗思想をただ書きつのるだけの作家ではないからだ。人間の矛盾は不条理を描いて普遍的だ。イスラエルの悪を声高に言うのではなく、アラブ自身の弱さ、卑劣、矛盾も述べるところに普遍性を感じる。だが、その描写にこそ、パレスチナの人々がおかれた状況―住んでいる土地を追われて難民になるということがどのようなことであるかが、とてもよく描かれている。

『太陽の男たち』は、パレスチナ難民が、少しでも良い仕事を得て家族を支えようとするために、クウエートに密入国する話だ。水補給車のタンクに潜んで国境の検問を超えていく話であるが、熱砂漠の中を走るトッラクの鋼鉄製の窯の中で密入国者のそれぞれ境遇の違う3人は悲劇的な死を迎えてしまう。どうしてここに「アラブの連帯」はなかったのだろうか。

『ハイファに戻って』は、不条理文学で、これほどの不条理に直面して、人は精神の安定を果たして保っていられるのだろうかと思った。1948年のイスラエルの侵攻で、若き主人公夫妻は、混乱に陥ったハイファから、人々の奔流に押されて逃げだしてくる。その時生後5か月の乳飲み子をアパートに置き去りにせざるを得なかった。町を占領したイスラエルは、ユダヤ人に、アラブ人の居住地を分け与えて入植と事実上の占領・奪取を行う。残された乳飲み子は、ユダヤ人夫婦に育てられる。20年後にハイファに戻ってきた夫婦は、イスラエル軍の兵士になった自分の息子と対峙することになる。これほどの不条理、悲劇はあるだろうか。

ユダヤの人々も、ヨーロッパで迫害と虐殺を重ねて受けてきて、自分たちの安住の地、自分たちを守ってくれる自分たちの国家が欲しいということは、私もその気持ち、理解できる。しかし、パレスチナは、2000年もの間、ユダヤ人、アラブ人、そしてキリスト教徒が平和に共存する麗しい土地ではなかったのか。アラブ人は、隣人であるユダヤ教徒を受け入れ共存してきたところではないのか。それがなぜ、イスラエルは、アラブ人を一方的に武力で追い払い、その土地を奪い、占拠しなければいけないのだろうか。イスラエルに対する、カナファーニーの告発はこうだ。「人間の犯しうる罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼らの犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることです」

平和的共存を願い、パレスチナ問題の解決を切に願う。

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2021年8月22日 (日)

リヒャルト・シュトラウス『歌劇・薔薇の騎士』

リヒャルト・シュトラウスの『歌劇・薔薇の騎士』は、音楽が素敵だ。リヒャルト・シュトラウスの色彩豊かな音楽が満ち満ちている。そして、舞台がウイーンだけに、ウインナ・ワルツの香りが漂っている。

マリア・テレーズの女性としての諦め、諦念、それはなんだか気高く表現され、配役に当てられた歌い手がどんな風にその役どころを表現するかが、製作された舞台ごとに変わるのだろうから、見る方の楽しみは尽きない。

この劇の見どころは、マリア・テレーズの若き愛人オクタビアンが、男装の麗人役で、ソプラノがやることになっているところだ。台本ではオクタビアンが17歳で、そしてマリア・テレーズの小間使いの娘と間違われるということが筋書き上の重要な点になっているので、中性的な役どころということなのだろうが、オクタビアンとマリア・テレーズの愛の場面や、オクタビアンと新しい若い結婚相手の愛情を取り交わす場面など、なぜか、ありきたりの男女の場面よりも惹かれるものがある。宝塚歌劇が人気なのも、何かこの高揚感と関係しているのではないかと思って見入ってしまう。

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2021年8月14日 (土)

河出書房新社・現代アラブ小説選『海に帰る鳥』バラカート

これは、小説的技法を用いた断片的な小説だ。時代背景は、1967年の第3次中東戦争だ。この戦争では、圧倒的な武力を誇るイスラエルが、エジプト、シリア、イラクなどアラブ諸国を圧倒し、エルサレムを占領し、パレスチナ人たちは祖国を失い、再び難民となる。

この時代を、バラカートは、切れ切れの断片で描き出す。おそらく読者で、登場人物や人間関係など読んで把握できるものはいないだろう。しかし、この小説技法が、この時、各地であり得たであろう、そして様々なアラブ人たちが被ったであろう、被害、悲劇を現実描写よりも却って現実的に、普遍的に描き出す。空爆により家のがれきの下から、素手で掘り出される母子、ナパーム弾で全身大やけどを負わされ、目の前で子供を焼かれる男の苦悩、徒手空拳に近い形でイスラエル兵に報復を仕掛けようと執拗に付きまとう男。このような断片がきれぎれに書かれていてストーリー的なものはないが、かえってこの手法により全体が描かれる。

滑稽なのは、こういうときにも男と女の営みはある。そして、アラブが敗北したのは、アラブ自身の頑迷さや因習もあるのではないか、そう小説は所々で示唆する。

さて、この小説を読み、やはり日本は、パレスチナの側に立つべきではないか、と私は思った。イスラエルの人たちも、ヨーロッパでは、さんざん、差別・虐待・虐殺の憂き目を受けてきた。そのような人々が、今度は強者となり、抑圧する側に回る。それはなぜなのだろうか?この謎の答えを私は知らない。しかし、イスラエルは、アメリカやイギリスなどの力も背景に圧倒的な強者として、抑圧する側になってしまった。もし、強い者と弱い者がいれば、迷いなく、弱い者の方の立場に立つべきだ。空爆や原子爆弾の被害を知っている日本であれば、パレスチナ人の苦しみは、私たちの苦しみと同じものだと分かるだろう。

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2021年8月13日 (金)

東京オリンピックの総括

作家の高村薫氏が、オリンピックを観戦し、その都度感じたことを執筆し、その記事が地方紙で配信されてきた。私もその文章を楽しみに読ませてもらい、最後の配信である8月10日付のものは特に、今回のオリンピックの総括でもあるので一層興味深かった。

まずは、氏の総括のいくつかを紹介する。

オリンピックの存在について

・莫大な開催費用に対して、生活の厳しい国民の感情的な拒否感が強く、加えて五輪貴族である金満IOC体質や、スポンサー企業に牛耳られた商業主義などにより、市民のオリンピックに向ける目は怨嗟に満ちている。 ・こうしてオリンピックはもはや神聖不可侵なものではなくなった。 ・オリンピックの意味は自明でない。 ・「復興五輪」も「コロナに打ち勝った証しの五輪」もどこへやら、何のために誰のために開催するのか誰も説明できない。

選手の間に起こった変化を氏は捉えている。 ・様々な選手たちが周囲の期待の重圧を口にして共感を得ていたように、アスリートが自由に個人の思いを吐露できる場となっているのが印象的。

私も、スポーツ選手が引き起こした変化や感動には共感した。もはや彼らは国を背負ってお国のために戦う戦士ではなく、弱さも見せられる人間なのだ。そして、競技が終わった後に、互いの敬意を見せ合い、健闘をたたえ合う姿には私も感動した。彼らが示してくれた模範を見ると、政治家が彼らを国威発揚や選挙のために利用する姿が一層怪奇に見える。祖国愛を高揚し、敵国を貶めたいと願う政治的要素が、スポーツにはもうまとわりつかないでほしいと思う。そういう政治の思惑を一掃する力を、今回、スポーツ選手は示してくれたのではないかと思うし、スポーツの在り方は良い方に変わってきていると私は感じた。

さて、高村氏はいくつかの不実を指摘する。 ・招致のために多額の賄賂が交わされた不実。 ・コンパクトな大会を謳いながらその公約を真摯に完遂する意思を持たなかった不実。 ・コロナ禍にあえぐ国民の切実な不安を顧みなかった政治の不実。

高村氏は、意義を失ったオリンピックそのものや、上記の不実から、日本にはもう、3回目のオリンピックは来ず、巨費をつぎ込んだ今回の検証を徹底的にしなければならないと説く。

安倍さんの虚偽から始まった今回のオリンピックの検証はぜひ必要という点で、高村氏の考えに私は共感するが、「3回目のオリンピックはもう日本に来ない」という点に関しては、少し不安が残る。

なぜなら、歴史は書き換えることが可能であるからだ。今回のオリンピックは、「国内外に力強く日本及び東北の被災地の復興の姿を見せつけることができ、人類未曽有の感染症を科学の力で完璧に抑え込み、国内外で感動と絶賛の嵐と渦を巻き起こした稀有なオリンピック」と記憶と歴史と公文章と記録が書き換えられ、伝承され、記憶がすり替えられ、宣伝され、信じられ、やがては、過去の栄光と成功をもう一度よみがえらせるための3回目の誘致が、また、未来の安倍さんや自民党政権や利権企業から開始され、それを国民がやすやすと受け入れないとも限らないからだ。

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2021年8月 9日 (月)

エッセンシャルワーク

2021・7・24付の「河北新報」の記事で、宮城学院女子大・田中史郎氏の論説を拝見した。まず、この新聞のコーナーは、宮城女子大学が新聞と連携しているようで、大学の学問や研究と関連することと社会問題とをうまく絡めて話題を提供してくれたり、問題を提起したりくれたりする。良い試みだと思って、毎週読むのを楽しみにしているコーナーだ。

それに、田中先生は、朝の東北放送のらラジオ番組でわかりやすくニュースの紹介や解説をしてくれ、私の好きな信頼できるコメンテータでもある。

さて、記事の要約は以下の通り。

・エッセンシャルワークとは…新型コロナウイルス禍で外出自粛やロックダウン(=町全体の閉鎖)がある中で、そんな緊急事態宣言下でも必要不可欠な仕事である医療・介護・福祉・保育などに携わる仕事。エッセンシャルは英語で「必要不可欠な」、ワークは「仕事」という意味。

・エッセンシャルワークの問題点…医療・介護・福祉・保育などの分野では、かなりの割合で非正規労働者や女性が従事している。賃金などの処遇が必ずしも良くない。雇用主や世間により、エッセンシャルワークの「やりがい」が強調されることで、従事している労働者も低賃金や長時間労働を受け入れざるを得なくなるなど「やりがい搾取」が行われている。

・エッセンシャルワークと対極にあるブルシット・ジョブ…ブルシット・ジョブは英語。直訳すると「くそどうでもいい仕事」。これらの仕事は場合によっては高級だが、本人でさえ実は無意味で不必要だと思っている。

・コロナ禍がもたらした意義…エッセンシャルワークに注目が集まり、エッセンシャルワークにまっとうな評価が与えられる可能性がある。

職業に貴賤はないとは言うけれど、資本主義化の仕事の欠点は、その仕事が何に役立つのか、どんな意味があるのか、等を企業にも人にも考えさせず、ただ利潤、という尺度だけから人や企業の行動を駆り立てることだと思う。もちろん、環境や野生動物の住処等を破壊して利潤をが得ることは許されることでないが、ようやく少しずつ、そういうことが人々に意識され始めてきている。人々の意識が変わるから社会の構造が変わるのか、それとも、社会構造が変わるから人々の意識が変わるのか、どちらであろうか。いずれにせよ、変わる、変わらなければいけない時期に来ている。

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