UA-92533382-1 よつば農場便り: 2021年3月

« 2021年2月 | トップページ

2021年3月21日 (日)

シャルカーウィ『大地』

河出書房新社から出版されている現代アラブ小説全集よりシャルカーウィ著『大地』を読む。エジプトの農村を舞台にした小説で、とても面白かった。新聞に掲載された連載小説だったそうだが、掲載後出版されるとエジプトでベストセラーになったとのことだが、それも納得できる。社会問題を主軸に取り扱っているのだろうが、恋愛小説の要素もあって、果たして村の子町娘のワシーファの意中の人は誰で、誰と結婚するのだろうか、とか、次々と降りかかってくる難題を農民たちはどうやって跳ね返して解決してくのだろうか、とか、先を楽しみにさせる展開が飽きさせない。

 

エジプト国内の批評家たちの中には、小説的技巧の未熟や欠点を指摘する向きもあるとのことだが、私は、1人称が突如3人称の語りになったり、人物の描かれ方が途中で変わったりとか、謎の答えが小説の中ですべて語られなかったとかいうようなことは気にならなかった。むしろ、陳腐な小説的構造を乗り越えるような前衛的な手法と考えれば、斬新な小説ともいえる。

 

『大地』が出版されたのは1955年ごろの、エジプトのナセル革命の昂揚期ごろということだが、『大地』の舞台となったのは1930年代のエジプト農村だ。私が特別に興味深かったのは、農民たちの会話が活写されているところだ。会話部分は、地の文のアラビア語と違う言葉で書かれているので、訳者である奴田原氏はわざわざエジプトの農村に行って彼らの言葉を学んできたり、教えてもらってきたりしたそうだ。そのような訳者のご苦労もあって、「スエイリムのとっつあんよ…」なんて言うセリフが、生き生きと農村の人々の姿を思い描かせる。

 

1930年代のエジプトは、イギリスの力を背景としたシドキー政権が、憲法を捻じ曲げ都合のいいような選挙を行い、ナイル川の灌漑権を制限したり、畑を奪ったり、農民を虐げる。外国の勢力に迎合して、自国民を虐げ、憲法を蔑ろにするという状況は、現代の日本の読者にも状況は分かりやすいのではないだろうか。そのようなやり方に、農民たちはおびえながらも、1919年のイギリスを撤退させた革命を経験した世代であるシャイフ・ハッソウナやムハンマド・アブ・スエイリムなど指導的人物の鼓舞で、政府に対峙していく。

 

しかし、農民たちの勝利が、簡単に手に入るわけではない。団結しないといけない彼らが、農民であるがゆえに、大事な水を自分の畑にひこうと、仲間割れして、大乱闘になってしまうのだ。そのほか、隙あらば、やはり自分だけの利益を得ようとするものや権力側にすり寄って地位を高く引き上げてもらいたいものなどもいて、彼らの抵抗が成功するのかどうかはわからないのだ。

 

エジプト農村の活写として、決まり文句ばかりを並べて皆から軽んじられている宗教家(コーラン読み)も出てくるし、村の中では農民よりも最下層として扱われるベトウイン人や女たちも出てくる。農民たちの口さがない会話体では、そういった人たちに差別意識丸出しの言葉が機関銃の連射のように勢いよく出てくる。しかし、これが当時の「意識」を正確に引き写したものなのだろう。また、弟が兄を異常に敬ったり、その兄が叔父を敬ったり、慣習や道徳観念に縛られた年長者崇拝の在り方なども、エジプト農村社会のありようとして本当に興味深く描写されている。

 

このように見てくると、これは白戸三平が江戸の農村社会を描いた『カムイ伝』のような重層的な厚みを持った読み物に匹敵する小説と言えるのではないか。その90パーセント以上のご先祖様が農民だった現代の日本人が読んでも、共感できるはずだし、「わかる」という実感が持てるのではないか。それが、エジプト農村社会を舞台にした傑作小説『大地』だ。

 

にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2021年3月20日 (土)

日本人に忖度能力がなかったとしたら

日本人に忖度能力がなかったとしたらと想像してみる。

 

これはどういうことかと言えば、今は、「進化論」的議論で万事が説明できる(とされていて、そしてそれが最も科学的で権威がある説明とみなされている)ので、例えば、日本列島で暮らし生き延びていくうえで、忖度しない性質が、生き残りと子孫を残すことに有利に働き、集団内に徐々に忖度しない遺伝子が受け継がれ優位になり、集団的な特徴として忖度しない性質を獲得したら、と想像することだ。

 

例えば、中国や朝鮮半島から先進的な文化が、日本列島にはもたらされず、人々は米作に頼って生きるのではなく、「松茸」を主食にしたり、「松茸」が経済的な重要な役割を果たし「松茸」を中心に経済が回っていたらと想像するのだ。マツタケは人工栽培が難しく、山のある場所にしか生えず、その場所は、たとえ親や兄弟にも秘密にすると言われている。そうなると、横にらみで常に相手の出方を伺ったり、過度に相手の気持ちを汲んだり推し量ったりするという忖度能力は、淘汰され、遺伝的形質からは姿を消すというわけだ。

 

そうなったときの、ある日の総務省事務次官室の電話を想像してみよう。

 

「次官、東北新社のスガさんという方からお電話です」
「はい、お電話代わりました」
「はじめまして、東北新社のスガと申します」
「はい、初めまして。ところでどのようなご用件ですか」
「はい、電波の割り当ての件で…」
「それなら、ちゃんと担当部署にかけてください。いきなりは失礼ですよ」
「はあ、それは重々承知なのですが…。ところで「スガ」という苗字、どこかで聞き覚えはございませんか」
「さあ、存じません。それほど珍しい苗字でもないでしょう」
「そうですか。ところで次官の御上司に当たる方のご苗字は?」
「そんなの、初めて話をしてるあんたに言うようなことじゃないだろう」
「ご上司が、あなたの御出世だったり、ご移動先について決定的なお力を持っていたとしても」
「失礼な、私は宮仕えの身なんだから、どこかに移動しろと言われれば行くだけだ」
「そうですか…。ところで、今度ご一緒に食事でも行きませんか?」
「断る。なんで、見も知らぬあんたと一緒に食事に行かなくちゃならないんだ」
「私がスガでも?」
「スガ、スガって、いったいどんな漢字を書くんだ」
「あの、草冠の」
「あのね、あなた、その漢字なら「カン」と読む首相だっていたんだ。「スガ」だろうが「カン」だろうが私には一切関係ない。私は忙しいんだ。電話を切ります。(ガチャン)」
「はあ~。アプローチに失敗した。このこと、おやじに言いつけちゃおうかなあ?でもな、昔から日本は「親、兄弟にも教えるな」と言われて来てるし、うちの親父は一切、忖度しない人だからなあ…。どうしよう、社長に怒られる…」

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2021年3月 9日 (火)

『あの子は貴族』

静かな映画で悪くはない作品だったと思う。

これは、一種の女性の自立を描いた作品だと思う。「人形の家」の住んでいた華子が自立に目覚めていくところを描いたものだと。

逸子役の女優さんがよかった。女性の自立を主張する人物だが、女性同士を分断するのではなく橋渡しをするという考えや力量を持った人物。彼女は、美紀を責めない。だから、男をめぐって対立するはずの華子と美紀もつながることができた。こういう人物をぴったりと演じることができる素敵な女優さんだった。

地方出身の美紀と理英の2人の友人が、起業していくという生き方もいい。既存の企業は男が作った世界だから、彼女たちの世界はない、だったら新しい世界を作っていった方が楽しいし夢がある。そんな希望が見えた。

この映画を撮った監督さんも女性だということが、この映画にずいぶん大きな影響を与えているのだろう。

何しろ世界の半分は女性なのだから、政治の世界、原子力行政の世界、安全保障の世界、こういう世界にも、女性が半分関わり、女性の考えや意見が反映されれば、ずいぶん世界はいい方に、楽しい方に変わると思う。そういう世界を私は望む。勇ましいことを言う人は、言うだけで、責任も取らないし、最初に持ち場を放棄して逃げ出すのだから。

にほんブログ村 政治ブログ 社会制度へ
にほんブログ村 follow us in feedly

| | コメント (0)

2021年3月 1日 (月)

仙台フィル 特別演奏会

2月28日に行われた仙台フィルの特別演奏会を聴きに行った。

人気の指揮者山田和樹さんが仙台にやってくるし、ラフマニノフの人気曲が演奏されるということもあるのだろう、会場に来ている聴衆は多かった。

ソロのピアニストを萩原麻未さんが勤めて、ラフマニノフのピアノ協奏曲の第2番が前半のプログラム。出だしのソロのところから「ああ、生で聞く演奏は素晴らしい」とぞくぞくする。何度もラジオやユーチューブで聞いている曲でも、やはり演奏家によって雰囲気はだいぶ違うし、弾き方も随分違う。

萩原さんは、おなかに赤ちゃんがいる中での演奏だ。おなかの中の子どもも、お母さんと一緒に演奏会に来て、音楽を聴いているなんて素敵だ。妊娠をしている女性でも出産の直前まで演奏会に出るというのは、今、かなり普通のことになっているそうだ。もちろん母体はしっかり守られなければいけないと思うが、女性がいろいろなライフステージで、無理なく働ける社会はいい社会だと思う。妊娠した女性に対して、会社を辞めさせるとか、そういう命を大事にしない社会は、命からしっぺ返しを食う。

後半は、チャイコフスキーの第4番。ぼくのド素人的な考えでは、1~3番までの民族的な交響曲がひとくくり、4~6番までの後期のロマンチックなものがひとくくりと考えていて、時にひとくくりの中では、同じようなメロディーとして聞こえてきたりしていたが、会場で聞くと、やはりニュアンスが違うのだということに気づいた。ひとくくりの中では、5番と6番が、有名だし好きなので4番は軽視していたのだが、でも4番もチャイコフスキー節が炸裂。4番の良さがとてもよく分かった。

聴いていると「雪の夜のおばあさんの夜語り」があったり「氷の上で楽しく滑る子供たち」がいたり、情景が思い浮かぶ。これを聞くとチャイコフスキーは子供が好きだったのではと思う。最後は、イタリアの狂騒が爆発する。

指揮者の山田さんが引き出す音楽はもちろん素晴らしいが、山田さん自身のエンターテイメント性にも、大いに楽しませていただいたコンサートだった。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

| | コメント (0)

« 2021年2月 | トップページ