UA-92533382-1 「失われた時を求めて」(岩波文庫・全14巻): よつば農場便り

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2021年1月 9日 (土)

「失われた時を求めて」(岩波文庫・全14巻)

プルーストの「失われた時を求めて」全14巻を読んだ。

改めて、 吉川 一義氏の訳業に感謝と敬意をささげたいと思う。「失われた時を求めて」はこれまでにも、訳本が刊行されていた。先達の偉大な訳業の上に、吉川氏は新訳に取り組んだ。これは、氏の学問人生やプルースト研究の一大成果が詰まった訳業だった。このような素晴らしいものを私たちは、(自分が何も大した努力をしていないにもかかわらず)、(安価に)享受できる。申訳のないほどのありがたさだ。

翻訳の難しさは、ちょっとはわかっているつもりだ。だから、大変難しいであろう原文のフランス語の解釈が、訳者としてはとても大変だったのであろうが、吉川氏の学識や研鑽、そして実際、その滑らかな日本語を見て、十分信頼できる訳者だということはわかる。顔をしかめたくなるような訳本も多く出回っていることを考えると、こういう信頼できる語学研究家・訳者に出会えることは本当にありがたい。

さらに、各巻ごとに着けられている行き届いた吉川氏の解説が、私のプルーストに対する理解を深めてくれた。一人だけで読んだのであれば、こういう理解には決して到達はできなかったであろう。そういう意味でも吉川氏に感謝する。

さて、肝心の「失われた時を求めて」そのものの、私の評価や感想であるが、ところどころ読むのがつらくなる個所もあり、挫折しそうになったけれど、傑作であり、世界文学といえるのかと思う。

読むのがつらくなったところは、一つの出来事をめぐってあれや、これやと主人公が考察する場面が延々と出てくるところだ。そんなに優柔不断で、何も行動しないのではなく、さっさと行動して決着をつけてくれと思いたくなるが、しかし、これは行動小説ではなく、過去の膨大な記憶の中に分け入っていく小説なのだ。

「大聖堂」や「大伽藍」のような小説だと思うが、ちょうど、ガウディの「聖家族教会」が未完のままであるように、「失われた時を求めて」も、未完のままで、膨大な書き込みがなされたメモやノートが残された。この、メモやノートからの分を含めて、完成した「失われた時を求めて」という形の本が、プルーストの死後刊行された。作者の推敲が十分行き届いてていないので、死んだはずの登場人物が、生きていたり、その逆も、まま出てくる。しかし、そのような矛盾は全く気にならない。人々の記憶の中の出来事は、そもそもあいまいだったり、容易に変形したりするからだ。

この小説は、一種の「成長小説」ともいえる。主人公の幼い時の記憶の中の出来事から始まり、成長してからの友情や恋人との出会いや別れや肉親との死別がつづられ、最後に老年になる。文学者になるという気持ちは持っているものの、何も書かない無為の日を送り、時に、自分の文才に疑惑を覚えたり、文学そのものへの懐疑に陥り、ようやく最後(14巻目)になり、自分が書くべき文学はどのようなものかがわかり、それを書こうという決意するところで終わる。

今まで延々とつづられてきた主人公の生涯の出来事が、主人公が決意して書こうと思った文学そのものかと、私は思ったが、訳者の吉川氏によると、「それは違う」という。では、結局、主人公の文学は書かれなかったのか?このように多様な解釈もできる問題作でもあるというところが、おもしろかった。

 

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