UA-92533382-1 よつば農場便り: 2021年1月

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2021年1月25日 (月)

ムソルグスキー作曲・歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1954年映画版 ネボルシン&ボリショイ劇場管弦楽団)

ムソルグスキーの音楽と、そして映像表現と、さらには劇作のすばらしさが味わえる総合芸術だ。

 

ムソルグスキーは劇の台本には苦労したそうだ。劇場から上演拒否されたのを受けて、台本を書き直して上演されるように持って行った。その結果、劇に深みと幅が出てすばらしくなったと私は思う。

 

ボリス・ゴドノフは実在のロシアの皇帝で、皇室の跡継ぎの子どもを殺して帝位を簒奪した男。彼は、殺した子供の幻に苦しめられ追い詰められていく。そのシェークスピア劇のような闇の深さを、この映画版ではとてもうまく表現している。

 

シェークスピア劇のなぞりにとどまらずに、ロシアらしい作品になっていると思ったのは、2点。

 

1つは、「民衆」の登場。「民衆」が劇中でたくさん登場してくるし、役割所が大きい。民衆の合唱もロシアの大地らしくよい。この劇を見ていると、皇帝専制政治でも、常に「民衆」の意向を気にしていなければならないということ。「政治」が人間の営みである限り、どんなに独裁的、専制的に見える政治であろうとも、他の人間の思い・思惑を無視できる政治などこの世に(歴史的にも)ないのだということ。現在のロシアのツァーリ、プーチン氏もすっかり裸の皇帝だということがよくわかる。ロシアは常に民衆の国なのだ。そして、常に民衆が苦難を味わってきた国だ。民衆の悲哀がとてもよく表現されていて胸を打つ。

 

もう一つは「白痴」(fool)の役割。彼の言は常に許される。たとえ、権力者に不遜なことを言ったとしても。「白痴」(fool)ゆえに、常人には持つことのできない、未来への予言能力が備わっているということ。彼の純粋さと悲しみにも心動かされる。

 

シェークスピアとドストエフスキーが合わさったすばらしい作劇。そして、国民学派と呼ばれたムソルグスキーのロシアに根差した音楽。これを堪能できるのは、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1954年映画版)だ。

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2021年1月21日 (木)

2.5流の人間の幸せを考える

どこの会社、どんな分野でも、1流の技能を持ち1流の仕事をする人がいる。そして、どこの会社、どんな分野でも、それ以外の大勢の人がいる。

プロ野球は、プロになれるだけでも、野球という競技の分野では抜きんでたエリートで1流だが、しかし、プロの世界に入ったならば、その世界でまた1流となるのはほんの一握りの人だ。打者でいえば3割の確率でヒットを打つ選手だが、去年のパリーグでは、それは10人もいなかった。そういう一握りの選手はとてつもない高額の年俸をもらう。そうでない2軍の選手や、レギュラーとベンチを行ったり来たりと言った選手は、それなりの金額の年俸しかもらえない。(もちろん、それでも、一般の会社員よりは高額なのは、彼らがすでに、この分野ではエリートで選ばれた才能のある人たちだからであろう)

恐らくどこの会社、どんな分野でも、同じ風潮が強まっていると思うのだが、今、1流の人だけが、利益を総取りして、2流以下への分配は少なくしようとしている。自由競争経済を考えた時、1流の仕事人が仕事をする方が、2流以下に仕事をさせるよりも、1流の結果が出るし、効率もよいし、最大限の利潤が生み出せる。

ある会社やある分野では、そのようなやり方もよいのだろうが、(それでも、長い目で見たら、そういうやり方は持続的なやり方ではない)、社会全体がそのような流れに向かっているとしたら、一握り才能や技能の優れた人以外の、いわゆる普通の人たちの居場所がなくなる。普通の平均的な人たちこそが、まじめに働いて世の中を支えていると思うのだが、こういう大多数の人たちの幸せが、だんだん浸食されているのではないかと思うのだ。ただ、まじめに働いているだけでは報われてはだめなのだろうか。

 

こんなことを考えたのは、私が、特に、結果重視で1流の人が総取りをする傾向が強い業界とかかわっているからだ。もちろん、1流の人が1流を維持しているその努力や豊かな才能には十分敬意を払いたいと思うし、素晴らしい。それにしても、私のような2流どころか、2.5流の人間には、居心地が悪い。

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2021年1月19日 (火)

現代アラブ小説全集1「不幸の樹」(ターハー・フセイン)・河出書房新社

エジプトのターハー・フセインが書いた「不幸の樹」という小説は、1800年代の末から1900年代の初めころのエジプトを舞台として、3代にわたる家族の物語だ。ちょうどこの時代は、日本でいえば明治から大正にかけて、いわゆる「近代化」が進んだ時期だ。だが、日本がそうであったように、「近代化」が一直線に続くものではなく、そこには古い因習も残り、「近代」と摩擦や齟齬を引き起こすのだ。

 

日本では、この「近代」の西洋化の時代にあって、夏目漱石のような知識人が苦悩した。ターハー・フセインの「不幸の樹」で苦悩するのは知識人ではない。変貌を遂げつつある近代的な大都市カイロではなく、ナイル川沿いの小都市・農村に暮らす普通の家族だ。

 

エジプトでは、近代化の波の中にあって、イスラム教とその因習に縛られた生活が問題となる。「不幸の樹」に象徴される不幸が体現するのは、主人公ハーレドの妻ネヒーサだ。ネヒーサは、抑圧された結婚生活の中で、精神に変調をきたしてしまう。男女関係、結婚生活が、あまりにも抑圧的なのだ。

 

作者ターハー・フセインは、誰かや何かを批判するような筆致では決してない。ゆったりと平明な記述の中で、時が過ぎていく。苦悩するのはネヒーサだけではない。精神に不調をきたさないとしても、多くの女たち、男たちが、進んでゆく時代の中で、流れに乗ろうとして、あるいは流れに取り残されて苦悩する。

 

西欧人が、西洋紀元1500年ごろから世界に進出して、どれほどの不幸がこれまで世界にまき散らされてきたことだろう。日本の明治以降の現代にまで続く歴史の苦悩・不幸についても、その多くが西欧との接触によってもたらされたものだ。ただ、西欧人も人間である。だから、西欧人の活動によって世界にもたらされた苦悩は、人間種が人間種にもたらした不幸である。だから、西欧人を排斥して済むものではなく、人間種全体で苦悩し、克服しなければならない。

 

西洋文明は、すぐ明日にも終わらないとしても、100年、200年後になれば、必ず振り返られて大いに否定される。自然破壊・環境破壊・温暖化・資本主義・核兵器など、あらゆる害悪をもたらした。その西洋文明が否定されるときに、日本は自分自身を持っていて、西洋文明にとって代われるものを提出できるのだろうか。西洋文明にただ追随していて、最もできの良い生徒のうちのひとりという今のままでは、新たな価値観創造には参加できないだろう。

 

アラブ世界の苦悩も深い。その苦悩を知るいい手掛かりは、このターハー・フセイン著の「不幸の樹」だ。

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2021年1月 9日 (土)

「失われた時を求めて」(岩波文庫・全14巻)

プルーストの「失われた時を求めて」全14巻を読んだ。

改めて、 吉川 一義氏の訳業に感謝と敬意をささげたいと思う。「失われた時を求めて」はこれまでにも、訳本が刊行されていた。先達の偉大な訳業の上に、吉川氏は新訳に取り組んだ。これは、氏の学問人生やプルースト研究の一大成果が詰まった訳業だった。このような素晴らしいものを私たちは、(自分が何も大した努力をしていないにもかかわらず)、(安価に)享受できる。申訳のないほどのありがたさだ。

翻訳の難しさは、ちょっとはわかっているつもりだ。だから、大変難しいであろう原文のフランス語の解釈が、訳者としてはとても大変だったのであろうが、吉川氏の学識や研鑽、そして実際、その滑らかな日本語を見て、十分信頼できる訳者だということはわかる。顔をしかめたくなるような訳本も多く出回っていることを考えると、こういう信頼できる語学研究家・訳者に出会えることは本当にありがたい。

さらに、各巻ごとに着けられている行き届いた吉川氏の解説が、私のプルーストに対する理解を深めてくれた。一人だけで読んだのであれば、こういう理解には決して到達はできなかったであろう。そういう意味でも吉川氏に感謝する。

さて、肝心の「失われた時を求めて」そのものの、私の評価や感想であるが、ところどころ読むのがつらくなる個所もあり、挫折しそうになったけれど、傑作であり、世界文学といえるのかと思う。

読むのがつらくなったところは、一つの出来事をめぐってあれや、これやと主人公が考察する場面が延々と出てくるところだ。そんなに優柔不断で、何も行動しないのではなく、さっさと行動して決着をつけてくれと思いたくなるが、しかし、これは行動小説ではなく、過去の膨大な記憶の中に分け入っていく小説なのだ。

「大聖堂」や「大伽藍」のような小説だと思うが、ちょうど、ガウディの「聖家族教会」が未完のままであるように、「失われた時を求めて」も、未完のままで、膨大な書き込みがなされたメモやノートが残された。この、メモやノートからの分を含めて、完成した「失われた時を求めて」という形の本が、プルーストの死後刊行された。作者の推敲が十分行き届いてていないので、死んだはずの登場人物が、生きていたり、その逆も、まま出てくる。しかし、そのような矛盾は全く気にならない。人々の記憶の中の出来事は、そもそもあいまいだったり、容易に変形したりするからだ。

この小説は、一種の「成長小説」ともいえる。主人公の幼い時の記憶の中の出来事から始まり、成長してからの友情や恋人との出会いや別れや肉親との死別がつづられ、最後に老年になる。文学者になるという気持ちは持っているものの、何も書かない無為の日を送り、時に、自分の文才に疑惑を覚えたり、文学そのものへの懐疑に陥り、ようやく最後(14巻目)になり、自分が書くべき文学はどのようなものかがわかり、それを書こうという決意するところで終わる。

今まで延々とつづられてきた主人公の生涯の出来事が、主人公が決意して書こうと思った文学そのものかと、私は思ったが、訳者の吉川氏によると、「それは違う」という。では、結局、主人公の文学は書かれなかったのか?このように多様な解釈もできる問題作でもあるというところが、おもしろかった。

 

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2021年1月 8日 (金)

ナワル・エル・サーダウィ著「イヴの隠れた顔」

ナワル・エル・サーダウィはエジプトの女性作家だ。彼女の著作「イヴの隠れた顔」は、アラブ社会における女性の抑圧を告発している。私がこの著作を読んで、斬新だと思ったのは、女性の地位が低いことを、主に西洋のフェミニストは、イスラム教のせいにしているが、サーダウィは、イスラム教は女性に対して抑圧的な宗教というわけではなく、コーランに登場してくる女たちは、むしろ生き生きと自分のやりたいことを追求していたということだ。

 

では、何が女性を抑圧しているかということだが、それは、資本主義的生産様式と父系制社会だ。

 

もう一つ斬新だと思ったことは、題名にも登場してくる「イブ」の考察だ。イスラムはユダヤ、キリストと宗教の根源を一つにするが、ユダヤの天地創造説と失楽園伝説も共有する。この神話の通常の解釈は、アダムのあばら骨から創造されたイブは、アダムをそそのかして、神に禁じられた知恵のみを食べさせた、悪ということになっているが、サーダウィの解釈は、そうではなく、愚鈍でのろ間なアダム(=男)は、賢く行動力のあるイブ(=女)に、唯々諾々と従うしかなかった、ということだ。

 

このように、知恵にも勝り、様々な面で、男性を凌駕する女を心底恐れたがゆえに、父系制社会を取るようになった社会の男たちは、激しく女性を抑圧するようになったというのだ。「恐れ」と「憎しみ」は、同一の人間心理の両面だということだ。

 

「イヴの隠れた顔」は、1988年に、日本語への訳書が刊行された。取り扱われている内容の1800年代から1960年代くらいと、今となっては、かなり昔のことに属することを取り扱っているのだが、しかし、その内容は色あせない。むしろ、現在の日本社会の女性の置かれた状況を考察するのに、良く当てはまるようなことがたくさん出ている。家族の一体感が壊れるので、夫婦別姓は許さない、という与党政治家は、本書に書かれた女性を抑圧するあらゆる保守的な男性たちと、発想が全く同じだ。

 

女性が不幸であれば、結局は男性も不幸になる。日本社会は、女性に抑圧をかけ続けて、資本主義的生産・消費・分配制度と父権主義的社会を維持しようとしているが、女性が子供を産むことを拒否するという反応で、女性がそれにこたえていることにより、社会そのもの維持も危うくなっている。そう、女性の抑圧と社会の維持は決して同時に行うことはできないのだ。女性の性の解放こそが、新しい社会への道だ、というのが、サーダウィの主張だ。

 

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2021年1月 6日 (水)

貧困な言葉のつけが来た

三島由紀夫が生きていて、安倍さん、菅さんの「貧困な言葉」を聞いたらどのように思っただろう。もちろん彼は、世界的な文豪だ。彼の言葉が豊饒なのは当然だ。その彼と、政治家を、言葉の点で比べたら、それは政治家が可哀想だ。しかし、政治も、言葉にかかわる職業だ。その言葉が、安倍さん、菅さんによって、涸らされてしまった。

 

だから、三島由紀夫が今生きていたらと思うのだ。この二人の貧困な言葉を聞いて、怒り心頭に達し、再び、自衛隊にクーデターを呼びかけるのか、それとも、怒り心頭の余り、割腹自殺を企てるのか。しかし、そもそも、こんな時代を見たくなかったから、三島さんは、若くして果てたのだろう。偽の愛国や、偽の右翼など見たくもなかったろう。

 

新聞記者の質問に対して「当たらない」の一言で、真剣に対峙することなく木で鼻をくくってきた菅さんの言葉は涸れていて、もう国民に説明し、訴える言葉は発出できない。言葉を軽んじてきた人は、言葉に復讐されるのだ。

 

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