菅首相就任・原発再稼働
宮城県の女川核発電所の再稼働に向けての準備が着々と進んでいる。
女川市や石巻市の住民や団体に、「お願いだから再稼働してください」という請願を提出させるという形式を踏み、それを市議会が賛同し、次いで県議会が賛同し、そして村井県知事が賛同するという儀式を経て、「そんなに望まれているのであれば、仕方がないなあ」という方式で再稼働が決まっていく。
東北電力の方でも、核発電がいかに二酸化炭素を放出しないか、そして核発電が停止しているせいで、いかに天然ガスや石油、石炭発電のような「汚染」をまき散らす発電がおこなわれているのか、「科学を装った」統計を大きな広告に載せて住民を説得しようとする。再生可能エネルギーの普及を何としても妨害し、核発電に国民のお金が永遠に流れ続ける仕組みを作ってしまった、そういう仕組みを作り、その中にいるものが勝つというのが、世の中だ。
核発電を行う地元の経済は長い目で見れば絶対に発展せず、衰退する。核発電の事故が起きれば、人間が恩恵をそこから受けている自然も破壊され、そこに立脚する人間の生活も破壊される。核発電は平時運転中も、放射性物質を排出し、人々の病気になる確率は有意に高くなる。人を幸せにしないのが核発電なのだが。
こういう事実を抹殺するのは手の込んだところでは、「因果関係が証明されない」という水俣の有機水銀汚染以来使われた手だし、数と金の力で民意なるものを取ることだし、あとは平然と「当たらない」「そのような事実はない」と菅首相のように無視することだ。
菅首相は、竹中さんをまた起用したようだが、これでまたどれだけの働く人が不幸になるのだろう。利権がある方のあちら側の人は安泰で、そうでない方の人は、生活がどのようになろうと、はなはだしきは死んだって構わない。しょせん、「権力」「政治」というものはそういうもので、「力」と「金」をとらなければ、こんなつぶやきなどはたわごとだ。しかも、今、苦しめられている方の人たちは、なかなか声を上げようとしないし、積極的に苦しめている人の方を支持するという、不思議ではあるが、この国の今の政治学を代表するようなことが起こっている。
こういう時代に立ち会えたことは、興味深いと言えるし、そこで何かをするという意義もあるのだろう。
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