オリンピックを考える
2020年5月5日付の『河北新報』に掲載された西谷修氏の論考に触発されて「オリンピック」を考えてみたい。
西谷氏はオリンピックの歴史やその性質を振り返って整理してくれているので、ここにそれを引用・要約する。
・オリンピックは西洋諸国が海外に手を広げるときの戦争の合わせ鏡の役割をし、1936年のベルリン大会がその頂点で、「第3帝国」の威容を内外に示す大会となり、「聖火」が初めて導入されたこの近代イベントであるオリンピックは神話化された。
・戦後は平和を象徴スポーツ大会になったが、開催国が西洋世界に認めてもらう「統合儀礼」でもあった。認めてもらう資格、つまりオリンピックをやる資格は「西側世界の価値を共有するか?」「文明国か?」ということである。
オリンピックの主役はアスリートだとされるが、実際は国家事業だと、西谷氏は喝破する。それは、国にとっては金メダル数が問題で、あらゆるスポーツがそこに向かって組織化していくからだという。
このような中での、開催国のメリットは何かというと、
1.経済効果
2.国民意識の高揚
3.公共投資、社会インフラ更新に伴う利権獲得の絶好機
ということだ。
近年の動向としては、先進国市民はオリンピックの自国招致を求めないが、それは、国威発揚は遅れた政策だし、社会の負担が大きいからだ。では、なぜオリンピックを招致したがるかといえば、民意よりも時の政権の意図だからというのが西谷氏の指摘だ。3度目の東京オリンピックは、原発事故からの復興を内外に大いに示すというのが、オリンピックの大義名分であった。
さて、当然、コロナウイルスが引き起こす感染症爆発で、オリンピックは開催延期となった。感染症を押さえるには、現代の社会経済システム、グローバル化した世界の要衝である交通・交流の機会を遮断しなければいけないが、そうすればオリンピックは開催できないというジレンマは、オリンピックを牽引車として経済社会を動かしてきた現政権のジレンマであるという。
西谷氏は、この機会にオリンピック至上の考えを改めるべきだと訴える。それが、すべての運動選手やスポーツ愛好家にとって重要なことだという。
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