UA-92533382-1 よつば農場便り: 2020年6月

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2020年6月22日 (月)

オリンピックを考える

2020年5月5日付の『河北新報』に掲載された西谷修氏の論考に触発されて「オリンピック」を考えてみたい。

西谷氏はオリンピックの歴史やその性質を振り返って整理してくれているので、ここにそれを引用・要約する。

・オリンピックは西洋諸国が海外に手を広げるときの戦争の合わせ鏡の役割をし、1936年のベルリン大会がその頂点で、「第3帝国」の威容を内外に示す大会となり、「聖火」が初めて導入されたこの近代イベントであるオリンピックは神話化された。

・戦後は平和を象徴スポーツ大会になったが、開催国が西洋世界に認めてもらう「統合儀礼」でもあった。認めてもらう資格、つまりオリンピックをやる資格は「西側世界の価値を共有するか?」「文明国か?」ということである。

オリンピックの主役はアスリートだとされるが、実際は国家事業だと、西谷氏は喝破する。それは、国にとっては金メダル数が問題で、あらゆるスポーツがそこに向かって組織化していくからだという。

このような中での、開催国のメリットは何かというと、

1.経済効果

2.国民意識の高揚

3.公共投資、社会インフラ更新に伴う利権獲得の絶好機

ということだ。

近年の動向としては、先進国市民はオリンピックの自国招致を求めないが、それは、国威発揚は遅れた政策だし、社会の負担が大きいからだ。では、なぜオリンピックを招致したがるかといえば、民意よりも時の政権の意図だからというのが西谷氏の指摘だ。3度目の東京オリンピックは、原発事故からの復興を内外に大いに示すというのが、オリンピックの大義名分であった。

さて、当然、コロナウイルスが引き起こす感染症爆発で、オリンピックは開催延期となった。感染症を押さえるには、現代の社会経済システム、グローバル化した世界の要衝である交通・交流の機会を遮断しなければいけないが、そうすればオリンピックは開催できないというジレンマは、オリンピックを牽引車として経済社会を動かしてきた現政権のジレンマであるという。

西谷氏は、この機会にオリンピック至上の考えを改めるべきだと訴える。それが、すべての運動選手やスポーツ愛好家にとって重要なことだという。

 

 

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2020年6月11日 (木)

薬物依存症

少し古い新聞記事であるが、2019年8月30日の「河北新報」の記事を切り抜いて取ってある。埼玉県立精神医療センター副病院長の成瀬暢也氏の投稿だ。思い合わせることも多いので、成瀬氏の投稿の要点を紹介する。

薬物依存対策として「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」「ダメ・絶対にダメ」というCMポスターなどを見かけるが、それは「不寛容・厳罰主義」の表れであるという。これは、「薬物依存は病気」という視点と対極のものだという。

「不寛容・厳罰主義」の観点から、著名人の薬物事件は見せしめのようなバッシングが続く。それは、ルールを守る人は大事にしても、そこからはずれた人は排除し、社会的に抹殺するという、日本の村八分的制裁ルールが表れだと指摘する。

これを読んで私は「ギクリ」とする。2019年の8月の時点で、成瀬氏だって、今回のようなコロナ・ウイルスの爆発的感染大流行を予見していたわけではないだろうけど、成瀬氏の日本社会に対する考察は、今も有効だと思われる。

さて、薬物依存に関してのこのようなやり方、つまり「排除・制裁」のやり方は、薬物依存に対するスティグマ(烙印)を強固にし、それにより、薬物使用者が支援をますます受けづらくさせることが問題だという。

世の中が「犯罪者」を責め続け、反省しろ、我慢しろと押し付ける状況では、やめたいと思う人も自分で対処するしかなくなる。そもそも自分の意志でコントロールできないのが「依存症」であることを認識して、依存症の薬物使用は懲らしめるべき「悪」ではなく、ともに回復を目指すべき「症状」なのだととらえるべきだと氏は言う。

現場を見て実践してきたであろう方だけに、言葉の重みが違う、説得力があると私は思う。

 

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