UA-92533382-1 よつば農場便り: 2019年11月

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2019年11月30日 (土)

『老子―もう一つの道』  七十五 生にとらわれない

【自由訳】
人民が飢えるのは、上に立つものの貪りが過ぎるからである。人民が治めがたいのは、統治者が干渉しすぎるからである。人民が死を軽んじるのは、統治者が生を貪欲に追い求めるからである。
何事も生に作為を持ち込まないことこそ大事であって、それは生に執着するよりも貴いことである。

【解説】
ここでも逆説が多用されている。生を追い求める統治者のもとで民は生を捨て、生にとらわれない生き方こそ貴いという。

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2019年11月29日 (金)

『老子―もう一つも道』 七十四 生死の事は天に任せよ

【自由訳】
もし私が、罪を犯した民を死刑に処することができたとしても、そんなことは行わない。死を司るものがいるからには、自分がそれに代わって行うのは、技の巧みな工人の代りに鑿(のみ)をふるおうとするようなものだ。かならず怪我をするのがおちだろう。

【解説】
領域は犯さない。分を守る。分限を踏み越えない。生死を司るのは天である。

 

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2019年11月28日 (木)

第3夫人の髪飾り

ベトナムの映画。

 

映像がきれいで静かな映画。

 

セリフはほとんどない。あったとしてもそれは美しいベトナム語の調べが音楽のように私たちに響いてくるだけ。

 

実は、ハラハラ、ドキドキしていて見ていた。私は、血や暴力や殺し合いシーンを見るのが好きではないからだ。だがそういう予感を孕ませながらも、直接的な暴力は見せない静かな映画。

 

テーマは何だろう。

 

19世紀のベトナムの農村が舞台だから、封建的な社会における女性の置かれた状況とか苦しみということになるのだろうか。でも、映画はそれを声高に主張したりしない静かな映画だ。

 

象徴と暗喩に満ちた豊かな映画だ。

 

生と死と女性と生殖を象徴する「血」の赤がたくさん用いられている。

 

川と川が流れる低い岩屋を行き来する船は、胎内くぐりと生と死の往来。

 

毒草である黄色い花。そして、口と舌をしきりに動かして吸うことを求める赤ちゃん。

 

「男になる」と仏にお願いする幼女。そしてその子の断髪された黒髪が川を流れていくシーン。

 

特に、物語的な筋やクライマックスはないが、目に見えない豊穣の世界とそこにひそめく人間の、そしてその思いも、時間や記憶の中に積み重なっていくという映画。

 

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2019年11月27日 (水)

東電・福島第一原発事故「見える化」プロジェクト

この世の中にあったことがなかったことになってしまう、丹念に記録されていたことがいとも簡単にシュレッダーで裁断されてしまう。これは「民主主義」の危機というよりか、「史記」や「三国志」など読んでいると、記録をしようという人類の本能にも逆らう愚挙が、今この日本で行われていることに暗澹たる気持ちになる。

 

無かったことにされようとしているものとして私が懸念していることは、福島の発電所で起こった核爆発事故の被害だ。この事故を防ぐこともできその地位にもいた安倍首相が、事故の責任を問われないのだから、当然それ以下の人の罪は問われない人災であるのみならず、その被害や事故そのものはなかったということにされようとしている。

 

それどころか、プロパガンダ手法を洗練させてきている核発電推進派は、核事故や核・放射能がまるで良いものであるかのように物語を紡ぎあげようとしている。戦争体験もそうだが、核事故を直接経験している私のような世代がどんどん年を取り、いなくなっていけば、あとから生まれてくる者たちは、もはや記憶も体験も無いのだから、新しい神話、「素晴らしい核・放射線」を若い世代に刷り込んでいくのは、赤子の手をひねるがごとく容易だ。フクシマに「コミュ譚」なる神話伝承施設が建設され、子どもたちが参拝を強制されている。JRの新幹線に置いてある広報誌にも巨額の宣伝広告費を使って、施設の案内が掲載され、その施設を訪れる母と子のにっこりと笑った姿が映っていた。

 

だが「史記」の原稿のもととなる資料を人々が命懸けで守ってきたように、そして司馬遷自身が命懸けで歴史的事実を書き留めて生きたように、核推進派と比べれば資金力など見る影もないが、非政府組織が、核事故の事実を伝えようとの事業を始めた。国家の「歴史」は当てにならない。これからは「市民」が、つまり私たちが、私たち同士や国家の枠を超えて連帯して事実を残していかねばならない。FoEという非政府組織が伝承プロジェクトに協力を呼び掛けている。私も、ささやかな協力をした。

 

 

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2019年11月23日 (土)

民主主義について考える

安倍首相が私的に税金を使い有権者を買収していたことや招待客名簿の様な公文書を早々に破棄してしまうことは、何ら問題はないという、架空の「読捨新聞社説」を2回掲載したが、この社説を自分はパロディーのつもりで書いたが、この内容はもう笑い事ではなく、多くの国民が「なぜこんなことを問題にするのか?やっていることは全然問題にもならない」と考えるに至っては、本当にこの国の民主主義にとって憂慮すべき問題だと考える。

 

関連することを藤原帰一氏という政治学者の講演から考察してみたい。世界の方向性としては、国民国家が自国の権利を強く主張する時代に入っているという見方を藤原氏はしている。つまり中国やロシアの様な強権国家だ。日本の政治支配層、特に安倍さんは、本音では中国やロシアがうらやましいのではないかと私は思う。国民の自由を規制して、政府への批判を許さない。そのような政治的体制も情報管理も行うことができる国家である中国やロシアが日本の目指す方向であると考えているのではないだろうか。だから、トランプさんやプーチン氏と個人的な相性も良いのだろう。きっと習氏や金氏とも仲の良いお友達になれると思う。

 

こんな強権国家で暮らす国民はさぞかし苦しい生活を送るだろうと思いきや、民主主義国家の国民は自らそれを求めることがある。それは「民主主義」という言葉や起源に2重の意味があるからだが、私たちは普段「民主主義」という言葉を1つの意味としてしか考えないから混乱が生まれ、私のようなものには、安倍さんの支持率が高いという矛盾したように見える状況が納得いくものとして見えないのだ。

 

藤原氏によると、民主主義=デモクラシーの第1の意味は「自由主義」で、これは法の支配とか三権分立のような制度に代表されるものだ。これはヨーロッパで貴族が中心となって作り上げた、君主の恣意的な権力を制限する制度である。なるほど、裁判所が政権のやることにストップを書けたり、公文書を残して後からプロセスを検証したりして恣意的な権力発動を防ぐというのは、どこか貴族的なエリート臭がして、民衆が本能的な反感を招くもととなっているのだ。藤原氏が言うように、こういう「民主主義」は、貴族的=エリート的であって、国民が代表されているという概念を含まない。

 

もう一つの「民主主義」は、民衆による政治権力の奪取と確立である。これは、古代ギリシャの政治思想と関連するが、実はギリシャでは民衆による政治権力奪取である「民主政治」は政治の混乱と独裁の始まりと考えられていて、最高の政治体制とは考えられていなかった。なるほどプラトンが「哲人政治」を主張したというのもうなづける。さて、この意味での「民主主義」は、選挙でえらばれたのであればそれは民衆の意思の体現であり、民衆の代表なのだから、権力は制限されない。なぜなら、彼は民衆の代表で、民主政治で選ばれた人には、民衆の思いや権力が大きく移譲されるというわけだ。だから、彼はどんなことをやっても許される。このタイプの首相が安倍さんなのではないだろうか。もちろんこれは、ポピュリズムや大衆迎合政治、そして国家の大いなる迷走を生む危険をはらんでいるわけだが、いま世界的に人気があり、大衆が求めているのはこういうタイプの政治家であるというわけだ。

 

藤原氏は講演の中で民主主義と平和の関係についても考察していて興味深かったが、これはここでは省略する。そして、民主主義の現地点と彼の評価について述べている。それは、「デモクラシーを過剰に信頼したり、デモクラシーをイデオロギー化してはならない。他の体制に比べてはよりましな体制であるデモクラシーへの信頼を失わないという態度を取りたい」ということだ。私も、言論の自由など民主主義の恩恵を受けているものとして、民主主義を守りたいと考えている。だから、民主主義を壊す恐れのある安倍首相に反対しているのだ。

 

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2019年11月20日 (水)

『老子―もう一つの道』 七十三 天道の理 ― 天網恢恢、疎にして漏らさず

【自由訳】
大胆不敵なものは命を落とし、慎重で臆病なものが活きのびる。だが、常にそうとも限らず、それは天命なのであるが、誰が、天の定めた命運を知ることができよう。そもそも天の道は争わなくても自ら来る。間延びしているようでも、よく練られた計略なのである。天はよく見ている。天の網は目は荒いようだが、決して漏らさない。

【解説】
老子は、天の配剤や天の理を説く。

 

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2019年11月17日 (日)

読捨新聞社説に見る民主主義の危機

前回と前々回、読捨新聞の社説として投稿した記事は、もちろん架空の新聞社の社説であって、政権を支持する右派の新聞社がもしあれば書くであろう社説を想定したものであり、私の考えを表明したものではない。

しかし、このような釈明をしなければいけなくなるほど、架空の社説は国民の本音や考えを反映しているようで、この国の民主主義は、本当に危機的状況にあるのではないかと、私は憂慮するのである。

いや、民主主義の危機というより、これが民主主義の正しくも行き着く先なのかもしれない。「総理が、自分の支持者を優遇することの何がわるい。私たちが望んでいるのは、こういう力強いリーダーシップを発揮してくれる政治家なのだ。実際、民主党時代の政治家は、もっと最低だった」これが、安倍首相を力強くこの国の民主主義のリーダーに押し上げている「民主主義政治」の帰結なのかもしれない。

また、次回「民主主義」の問題について考えてみたい。

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2019年11月16日 (土)

読捨新聞社説「安倍首相はすでに神だ」

野党が桜を見る会で安倍首相を追及しているが、安倍首相の答弁は野党の追及が国民の目になんとも馬鹿らしく見えるほど神がかっている。これは、安倍首相がこれまで、国会の議論で相手の質問にまともに答えず、自分の考えだけを言い募ってきたことの功労である。民主主義的な議論を拒否し、異なる意見に耳を傾け議論し一致点を見出していこうとする民主主義を破壊することに最大の功労のある安倍首相のおかげで、野党の証拠を積み重ねて論理的に迫る議論の仕方は、まったく間の抜けたものしか見えないのである。これほどまでに民主主義を後退させた最大の功労者は安倍首相なのだから、もう何をしてもかまわないではないか。権力者は少し悪いほうがが頼もしい。多くの国民も、権力者に求めるのはその点である。安倍首相はすでに神の領域に達している。お友達を優遇することぐらい誰でもやっていることを根拠に、国政を後退させてはいけない。

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2019年11月15日 (金)

読捨新聞社説「野党は桜を見る会の追及をやめるべきだ」

野党が、安倍総理主催の桜を見る会について国会でしつこく追及しているが直ちにやめるべきだ。未曽有の国難にあるわが国では、非生産的なそのような議論に時間とエネルギーを費やすよりも、国会にはもっと生産的な仕事があるはずだ。

第一に、大臣も答弁しているように、招待客などや経緯を記した公文書は速やかに破棄しているので証拠はないのである。さらに、山口県で関係したと言われる関係者なども、次々とフェイスブックで挙げた記事などを削除していて、論証の仕様も無いのである。このように、速やかに事態を収拾したことをいつまでも蒸し返しては、国会が本当に国民の負託に答えているとは言えない。

さらに、一部のマスコミの行き過ぎた報道である。ジャーナリズムの役割は、政府が右といったことに対して左と言わないことにあるのであって、首相が疑惑はないと言ったらないのである。

今国会で議論すべきは、そのような瑣末なことではなく、未曽有の国難を前にした国民の一致団結である。近頃、わが国上空を通過するミサイルの数が減り、政府は危機感を抱いている。もっともっと隣国への憎悪や、隣国の脅威を煽り立て、生活の不満や経済政策の破たんなどから国民の目をそらさせ、政権の浮揚をはからなければならない。

さらには、既得権益で資金が回る原子力ムラの再起動問題もまったなしである。大企業と富裕層が優遇され、国民の間にある格差と分断を力強く押し進める経済政策を主導する首相のリーダーシップが求められるのは、今のときを置いてない。野党は、いたずらに国会を空転させるのでなく、小異を捨て大同につき、自分たちの責任を果たすべきである。

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2019年11月13日 (水)

『老子―もう一つの道』 七十二 民への接し方

【自由訳】
民の生活は圧迫するな。圧迫しなければ、彼らは生活の労苦をいとわず力強く生きていく。民の上に立つべきものは自らの知識を見せびらかしたり、いかにも自分は貴人であるという態度では民に臨まないのである。

【解説】
老子という書物は政治的でもある。中国の思想家・詩人、みな伝統的に国家天下の経略を論じる愛国者なのである。

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2019年11月 9日 (土)

『老子―もう一つの道』 七十一 自覚に至る

【自由訳】
知っていても知らないという謙虚な態度こそがよい。知りもしないくせに、知っているとばかり言っているようなのは、もはや病気である。理想の大人は、自分が病気であるということを自覚する。そうすればもはや病気とは言えない。

 

【解説】
内省し、自覚に到達すること。病弊を知っているものにとって、病弊はもはや病弊ではない。

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2019年11月 8日 (金)

七十 天下は私を知らない

【自由訳】
私の教えは理解しやすいし、行動に移すのも簡単だ。だが、この天の下、誰も私の教えを知らないし、私の教えを実践しない。わたしのことを知る者は少ない。聖人とは外見は粗末であっても、内面に玉を抱えている人だということがわかる。

 

【解説】
世に知られてなくてもうらまない。知られてないからこそ貴いし、いよいよもって本物なのだ。

 

 

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2019年11月 3日 (日)

『老子―もう一つの道』 六十九  用兵の妙

【自由訳】
用兵の妙は、「積極的にならず受身になること。少しでも進むことではなく大きく退くこと」と言う。こうすれば、敵は進もうにも進むべき道はなく、手を振りかざしても打つべき相手はなく、引っ張り込もうにもとらえるべき敵はなく、手に執ろうとしても武器はない。勝とうと思えば、こちらは弱いと相手にとことん思わせるべきだ。

 

【解説】
受身的な存在こそが究極的には勝利する。

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