国民は代表されているのか?
選挙と関連して、本当に今の議会制政党政治は、国民を代表する、つまり民主的な政治なのだろうか、ということに考えをいたすようになったきっかけは、神林博史先生の「一歩前から始める「統計」の読み方・考え方」という本を読んだことだった。神林先生の考えの受け売りかもしれないが、一応私自身の執筆責任で例を出して考えてみる。
「だって、みんなそうなんだもん」理論
これは子供が(そして、大人が)物を買ってほしかったり、自分の行為を正当化する時に使う理論で、「だって、みんなケータイ持てるんだよ。だから、ぼくにも買って」のように使う。しかし、これ、「じゃあ、みんなって誰?」と突っ込んでみると、みんなというのが、実は自分の周りのたった2,3人だったりする。だから、「みんな、そうだ」は、みんなを代表していないことがありうる。
韓国に対する自民党政府の報復的制裁を「多くの人が支持している」という。多くの人って誰だろう?統計でだまされないためのリテラシー(きちんと判断する能力)と同等のものが、政治の世界でも必要だ。「みんな」や「多くの人」というのが、内閣調査室の方々が、地下室でコンピューターに向かって熱心に入力しているSNS上の投稿かもしれないのである。そもそも、性暴力や人権を無視した強制労働に対する倫理的責任を認めないという根本的な話の食い違いからスタートしている問題を、問題は存在しないという主義・主張の人たちには解決できないと思う。日本と韓国が対立することで、国益を得る国や、その国に服従することで仲間内の利益だけを得ることができる人たちは、多くの国民の利益と相反すると思うし、彼らが本当に「国民を代表している」のか、大いに疑問である。
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