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2019年5月30日 (木)

報道・通信の自由の危機

宗主国の君主がやってきて、属国を巡遊する。宗主国の威光で地位を保っていられる属国の支配層が、大歓迎をする。そんな古代の歴史のどこかの帝国であったお話が、今また目の前であったような錯覚をアメリカの大統領の日本巡遊騒ぎに感じてしまった。

だが、私がこの件で危機感を感じるのは日本国営放送の報道姿勢だ。大統領が(庶民派と喧伝される)居酒屋に到着する様子を生中継して、まるで映画スターやアイドルが御光臨であるかのように大はしゃぎして、ゲストの芸能人に、大統領の車の到着に「鳥肌が立った」と言わせる空騒ぎは、本当に危機感を覚える。

国営放送は、国営だから政権党の意向をただ垂れ流すだけの宣伝機関でいいのだろうか。政権はたまたまその時期のめぐりあわせでその地位にいるのに過ぎない。現政権は安倍さんをはじめとして、対米従属が自分たちの層の利得と権益にかなうので、はなはだしい従属をしているのだが、それが多くの国民の利益と一致しているとは限らない。むしろ、多くの国民の利益や幸福と相反する。

民主的な社会を支える大切な要素に、自由な報道がある。時の政権の威光を垂れ流すのでなく、自由で客観的な報道を望む。政権の寄り添う巨大組織である日本国営放送は、テレビだけでなく、インターネットにまでその支配権を広げようとしている。インターネットですら、国営放送に税を上納しなければ使用できないとなると、もう自由な空間がなくなる。報道と通信の危機をものすごく感じるゆえんだ。

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2019年5月23日 (木)

ひとごとではない、安全が脅かされる

朝、地元のラジオを聞いている。東北放送では、週1回、沖縄から有識者の報告で、沖縄の今を聴取者に伝えてくれている。東北放送の心意気を感じる。

今日の放送では、大学の専門家が沖縄の宜野湾の住民の血中濃度を測定したところ、有害化学物質が高濃度で検出されたということだ。水道水に有害物質が入っていたということだ。水道水を取り込んでいる川の上流や、その他の地下水の調査から推測して、有害物質は米軍の基地で遺棄され、垂れ流されたものだと、私は思う。もちろんそこは、宗主国の権域で、日本国の捜査や調査は及ばず、証明できないことではあるが。

日本国の法律が及ばない、米軍基地で不当に化学物質が処理されているということを、私は聞いたことがある。アメリカの輝かしい「民主主義」も「自由」も「平等」も悲しいものだ。属国の住民には、それらは適用されず、われわれは、アメリカ国民が享受している「安全」も保障されない。そこには、彼らの、心の底に潜む、「人種的偏見」もあるのだろうか。黄色人種になら、何をやってもかまわないのだろうか。

化学物質だけでない。米軍の飛行機が発する騒音だったり、危険極まりない住宅上の低空飛行も、「安全上」または「人権上」アメリカ国内であれば許されないはずだ。それを、日本人であれば「甘受」しなければならない。基地は沖縄だけにあるのでなく、これから東北にも、そして全国に、どんどん新しく作られようとしている。米軍機は、どんどん日本国中を我が物顔で飛び回るようになる。安全な水も飲めず、平穏な暮らしも脅かされ、属国の住人とは、本当に悲しいものだ。

 

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2019年5月20日 (月)

『老子―もう一つの道』 四十九 無差別

【自由訳】
聖人にはある一定の決まった心などない。民の心が聖人の心だ。善き心の者、不善の心の者、みな聖人は善しとするし、信あるもの、なきもの、またこれもみな受け入れる。こうして聖人は、善・信そのものとなる。天下の清濁を併せ呑み、基準を緩く持って、決して人を裁かない。聖人は人民を子供のように慈しむ。

 

【解説】
謹厳なものは畏れ多く、近づきがたいものだ。しかし、老子はそのような謹厳・謹直の道をとらない。大河のようにすべてを受け入れるというのだ。

 

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2019年5月16日 (木)

ワーグナー「ワルキューレ」

メトロポリタン歌劇場ライブ・ビューイングでワーグナーの「ワルキューレ」を鑑賞。あの聞けば身震いするような「ワルキューレの騎行」で有名な作品だが、実は中身は詳しく知らないし、この楽劇を通しで見たことがなかった。しかし、全部で5時間に及ぶこのライブ・ビューイング、ワーグナーは見ておきたいと意をふるって出かけた。映画館は案外、人がはいっていてワーグナーを見たいと思っている人、結構いるのだと感心した次第。

第1幕が、濃密でスキのない音楽に圧倒された。ワルキューレとは何なのかと思っていたが、戦場で、戦死した英雄を天上界に連れてくる「死の女神」なのだ。だが、この神の娘「ワルキューレ」たちはやたらかっこいい。「ワルキューレ」が登場するのは、2幕からで、1幕は別れ離れになっていた英雄部族の双子の兄妹の禁断の愛。ここに、天上の神々がどう絡んでくるのかというと、「神々の黄昏」だったり「不自由な神々」だったり、いろいろな要素が絡んでくるのだが、決してワーグナーの世界は荒唐無稽なものだとは思わなかった。守護霊や導きの神がいない近代、運命愛や、運命に逆らったりする英雄や、神々の葛藤がない近代は、薄っぺらいものに思えてくる。「神話」や「伝承」が、この世にぴったり寄り添っている世界の方が、豊穣の世界ではないかと思えてくる。そこにワーグナーの芳潤な音楽が加わるのだ。

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2019年5月11日 (土)

ラジオを聞いて気になったことを、ちょっと調べてみた

地元の東北放送のラジオをよく聞いている。ローカル局だが、朝は、専門家などのコメンテーターに番組内で発言してもらっているのが参考になると思って、よく聞いている。東京在住の人ばかりでなく、週に一度は沖縄から専門家が、沖縄の現状も交えて発言してくれる。東京経由でなく、情報が入るのもうれしいが、沖縄の人を番組に入れる東北放送の気概に感心する。新聞の河北新報もそうだが、東北放送にも、どこか「独立自主」の「東北魂」を感じる。

さて、沖縄の人がコメンテーターだった時に、沖縄県が独自に、アメリカ軍が駐留している他国はどういう現状になっているのかを調査して公表しているということを話していたので、私も沖縄県のその資料に当たってみた。その資料を基に、まとめてみたのが以下だ。

  日本 ドイツ イタリア ベルギー イギリス
米軍に対して国内法の適用ができるか? ×
米軍機の飛行を規制できるか? ×

アメリカに対して三国軍事同盟を組み、敗戦した日本、ドイツ、イタリアだが、アメリカに対して主権がおよばないのは日本だけだ。歴史的事実があとでなかったことにされるのも遺憾なので、ここで記しておくが、日本が戦争をした相手国はアメリカで、1945年に敗戦した。1945年夫15年前から、日本は中国へ侵略を開始し、15年間も中国大陸で戦争をしていた。三国軍事同盟で許されていないのは、日本だけなので、案外アメリカは、「人種的偏見」を持っているのかもしれない。自由と民主主義を標榜しているアメリカだが、多くの人が感じているように内と外では「ダブル・スタンダード」で、人権も民主主義も、自分の都合が悪ければ、守らない。

「独立」を阻害されて軍政統治下にいまだにいる日本であるが、宗主国に対してどれくらい貢物をしているのであろうか。次に調べてみたのは、「ウイキペディア亜に載っていたアメリが軍が駐留している国で、アメリカ軍の駐留費をどれくらい負担しているかということだ。元ネタは、アメリカ国防省が発表した2002年のデータだ。ちなみに、どれくらい各国で負担しているのかということについては、国会でも質問が出されたが、政府の答弁は、他国のことは承知おきない、とのことだ。

Photo

国のお金をどう使うということは、独立国であれば、その国の人が自分たちで決める。高等教育に対して、この国のお金がどのように使われているのかを他国と比較した資料が以下だ。出典は、OECDのEducation at a Glanceからの資料を文科省がまとめたものだ。

Photo_1

この資料を見れば、日本とアメリカが高等教育に対する公費負担が少ない国だということが分かる。大学教育を受けるには、学生は多額の奨学金を借り入れていかなければならず、その返済の負担で苦しむ。在学中も、仕事に精を出さなければならず、親からも仕送り額も減っている。お金をどのように使うのかは、将来のその国の方向を決める。いびつなお金の使い方をしているということは、のような使い方で、得をしている統治層が、この国にいるのではないかというのが「仮説」だ。アメリカの軍事支配に協力することで、その代理人となって、国民は犠牲にしても、自分たちが得をするという。

 

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2019年5月 5日 (日)

一強礼賛 その2

安倍さんや自民党が、この国の政治舞台でこれほどまでの強さを発揮しているのかを考えていた。もし私が、政治学者であれば「自民党、その強さの秘密」というような実証研究にぜひとも取り組んでみたいくらいだ。

前回、外に敵を作り「うち」の結束を高めるという点に、国民からの多くの支持を見たのだが、それに伴い、私は、危険や危機から、あなたたちを守ってあげる、慈父のような存在なのですよ、というイメージ戦略の巧みさも、国民からの支持の高さにつながっているのだろうと考える。以下で見ることができる、宣伝映像や、侍姿に美化された安倍さんを、頼もしい、自分たちを守ってくれると若者たちも、引き付けられていくのだろうか。

https://www.jimin.jp/news/activities/139465.html

こういうのは、ばからしい、噴飯ものだと笑うのは簡単だが、私は、背筋が寒くなるほど恐ろしい。ナチスが登場してきた時だって、あの制服や行動は滑稽で、ばからしいものであり、誰もが、これは大したことにはならないだろうと思っていた。しかし、もう数年後には、誰も笑うことができる人はおらず、心を偽ってでも、「総統、万歳!」を称呼しなければ許されなくなったのだ。

このままの政治潮流が続き、安倍さんや自民党を国民が支持し続け、さらに大きな力を持つような世の中は、どのような社会になってしまうのか。気のせいか、性犯罪に対して寛容な判決を耳にするようになった気がする。「拒むことができたのに、拒まなかったのだから、犯罪ではない」。大きな政治勢力に忖度したものだろうか。「そんなところに一人で行くのが悪い」「他にする仕事があったのに、それをしたのであるから、政府からの強制ではないし、彼女たちは売春婦だ」というような、理論や見方が、世の中に広まっていくのは恐ろしい。奪われた人たちや状況では、選択肢はないのだ。選択肢があるのは恵まれた人たちだけだ。奪われた人たちが多くなっている今の状況は、安倍さんや自民党に本当に有利な追い風が吹いている。

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2019年5月 3日 (金)

一強礼賛

安倍首相や自民党の、この国の政治状況における際立った強さは、目を引く。自民党がナチスの勃興から学んでいるように、私達も、安倍さんや自民党の強さから学んで参考にすべきではなかろうか。

政治学者の論考を、新聞で読んだのだが、現代の日本人は50歳以上と以下では、政治に対する常識が180度違うのだという。つまりベースとなる共通認識が違うので、お互い異邦人のように話は通じ合わないということだ。50歳以上の人にとって、保守は「自民党」、革新は「共産党」だが、若い人の間では、革新は「自民党」、保守は「共産党」なのだそうだ。

ナチスが、制服や儀礼でイメージ戦略をしたように、安倍さんもイメージ戦略には優れていて、革新の旗手というイメージをふりまき、若い人の心をつかんでいる。さらには、電通も動員して、さらに若者の心をつかんでいくということなので、憲法改正において若者世代からの賛成票を狙い撃ちしているということだろう。電通に払うお金は、もとをただせば政党交付金という名の、私たちの税金だという点が気が重いのだが。

スポーツや勝負事では、実力の他に「運」ということもある。もっとも、「運」も実力のうちというのだから、運がついている人は実力もあるのだ。安倍さんが「運」も味方につけていると思うのは、名高い「アベノミクス」の成功だ。「アベノミクス」で、実質賃金は下がり、国民の間に格差が広がり、生活苦が広がっているが、「自己責任」を刷り込まれたわが国民は、決して政策の失敗を責めたりせずに、自分の実力不足を責める。いや、本来、貧困や生活苦は、考えたり、振り返ったりする心の余裕を奪う。「奪われた」人々がたくさんいるということは、奇妙にも、安定した政治勢力である安倍さんや自民党の安定政権につながる。

さらに恵まれているのは、安倍さんが体現している、排外主義やアジア蔑視だ。これに付け込み、憎悪演説、民族差別が横行しているが、「内の問題」を、外に転嫁し、外に敵を作り、常に戦争の危機をあおれば、「内」は安定し、一強の政治勢力の付け入るスキはない。

 

 

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2019年5月 2日 (木)

『老子―もう一つの道』 四十八 捨ててこそ

【自由訳】
学ぶということは、どんどん知識を取り入れて増やしていくことだ。「道」を実践するのは、全くその逆で、毎日少しずつやめてゆく、そしてついには何もしないということに行きつく。何もしないわけではないのだ。ここまでくれば、できないことはないのだ。世の中全部を把握し、大元を押さえようとしたら、この境地に立つことだ。すべては為せる。

 

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2019年5月 1日 (水)

『老子―もう一つの道』 四十七 万事を見通す

【自由訳】
家から一歩も出ないでも世の中のことすべてを知る。外に開かれた窓から外部を見なくても、天体の運行を正確に知る。己から出て遠くへ行けばいくほど、智慧は少なくなる。だから、私の理想とする大人(たいじん)は、行動せずとも知っているし、観察せずとも明察であるし、作為せずとも成し遂げることができる。

 

【解説】
観察し、実証することを重んじる近代の科学的精神とは全く逆にいくやり方。近代科学を生み出せなかった東洋への批判は、こうした老子への態度にも向けられるべきなのだろうか。老子とて、万象の生起消滅の過程を知り、神のごとき智を持ちたいという要求がある。物事の根本の理を押さえれば、物事の成り行きをすべて言い当てることができるというのは、一種、科学的思考とも言えなくはないが、西欧で近代科学が発展し、東洋では「易」という疑似科学になったのはどうしてだろうか。

 

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