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2019年4月25日 (木)

読書ノート『脳死・臓器移植・がん告知』波平恵美子

私が波平氏の研究を知るきっかけになったのは、「質的研究」法を勉強する過程でのことであった。現在の学問研究は、データを数字としてとり、それを統計的に解析して結論を得るものが主流で、このような「量的研究」は人間の恣意や直感が入りにくく、学問的厳密を極め、より「科学的である」と主張するのもなるほどとうなずけるものがあるが、数理的統計処理に疎い私のようなものにはなじみにくい。

学問の受け手としても、数字が並んだ論文を読みこなすのは、私だけでなく一般の人にも難しく、これが学問と一般の人が乖離してしまう原因なのではないかとも思う。数字ではなく、「言葉」を解釈して方法が「質的研究」で、これは、医療現場における人間同士の関係の研究でよく用いられるのだという。波平氏がそうした「質的研究」の教科書を書いていたものだから、氏の名前を知り、氏の仕事に興味を持ったのだ。

氏の専門は「文化人類学」だ。それを医療の現場に適用する。大変興味深い方法だし、その成果もユニークなものに違いなく、得るものも多いと思う。この『脳死・臓器移植・がん告知』は、専門的な論文ではなく、一般の人向けにとても分かりやすく書かれたものだ。出版年は1988年で、もう30年前のことで少々古い。そのころは、『脳死』は人の死であるかどうかをめぐって、大いに議論されていた。波平氏は、この本の中で、今後脳死や臓器移植に関する日本人の意識は、変わるかもしれないと予想しながら、(そして、実際、脳死と臓器移植に関する意識や法律は大きく前進して変わった)、日本人の死生観を、医師の言説等も分析しながら考察している。

実際、私も自分が体験して思うのだが、ふだんは合理的に考えているつもりでも、人の死に向き合うと、合理的に考えることはできず、日本人独特の死生観が無意識に身についていたのだなと思う。

さて、私が本書で一番興味深く感じた点は、現在の医療は科学的に進歩して、病気の治癒率も上がっているのだろうが、そもそも、どの民族にも、昔から病とその癒しの過程や制度があって、祈祷師、霊媒師、巫女などがその役割を担っていた。そういうものも、単に「非科学的」と言って切り捨てることはできない。というのも、現在の西洋から来た臨床医学は、病気を治癒することを目指して、一定の(いや、かなりの)成果を上げているが、病と癒しの過程は担っていないのだ。ただでさえ、忙しい現在の医療従事者に、そこまで求めるのは、彼らをオーバーワークさせてしまう。だから、現在でも「病とその癒し」は必要で、それは新興宗教が担ったりしているが、しかし、本来は誰かが担い手になってやらなければいけないことなのだろう。そういう視点は、「文化人類学」だからこそ得られた視点だと思い、その点が大変興味深かった。

 

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2019年4月20日 (土)

特定技能外国人

4月19日付の新聞報道で気になったことは、特定技能外国人を、フクシマの核発電所の事故現場で働かせるということだ。特定技能外国人、つまり外国からの労働者受け入れは、日本の高齢化や人口減少により生じる労働人手不足を、補うものと喧伝されていたが、究極の目的はやはりこれだったのかと腑に落ちた。

そんなケチをつけるのなら、お前が現場で働けよ、と私が言われたらどうだろうか。胡乱のようであるが、私は、ちょっと待ってくれと言いたい。事故の遠因や原因を作った本人たちが罰せられもしないし、責任も取らない。日本人だけで、事故の処理もできないのに、核発電所の新設・増設・再稼働・旧施設の大幅延長稼働を行う。二度目、三度目の核爆発が起きたら、誰が、どう処理するのだろう。

日本人だけで処理できないのであれば、潔くギブアップして、国連の管理下に入り、人員を正式に派遣してもらったらどうだろうか。国連の信託統治領か何かになるっていうのはどんな感じなのだろう。私の言を聞いて起こる人がいれば、そんな人とともに、国家の独立や、自立について考えてみたいと思う。独立と自立を危うくしているものは、他にもうひとつあるが、一つ大きいのは核発電所の存在と、それに固執する政策だ。

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2019年4月18日 (木)

『老子―もう一つの道」 四十六 満足することの大切さ

【自由訳】
天下が乱れていなければ、急を告げる馬などは必要なく、農耕に使われる。天下に道なく争乱があれば、軍馬が蓄えられ、不吉な戦争の具が増える。罪の根本は多欲であり、足ることを知らないものが愚かにも禍をみづから招き、咎めをみづから引き寄せる。足るを知ることだ。そうならば、いつも不足・不満はない。

 

【解説】
消極的に何もしなければ、一切そこに人間の欲望のドラマは生まれないということになる。老子の哲学への疑問点はその点である。

 

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2019年4月14日 (日)

満開の桜の木の下

シネマ歌舞伎「桜の森の満開の下」を見る。歌舞伎の公演を録画し、見やすいように編集して劇場公開してくれるありがたい企画で、歌舞伎鑑賞のハードルが下がる。「桜の森の満開の下」は古典作品ではなく、坂口安吾の原作を野田秀樹さんが演出したもので、「野田版」と銘打ってある。なるほど、言葉遊びなどが巧みな作品だった。

もっとも、作品自体は不思議な作品で、決してわかりやすい筋とは言えないが、鑑賞後に不思議な感慨を残す作品で、わかりやすいということ自体が決していいというわけではない。

作品は、安吾の「滅びの美学」が色濃く反映されているのではないかと思った。また、彼が戦中派の作家として、戦後にも生きて、「国家」と対峙したこととも大きくかかわっているのではないかと思った。

作中に「ヒダの国」が出てくるが、これは、天孫降臨族の大君(おおきみ)、大海(おおあま)が天下国家を統一する過程で滅ぼされる。国家統一の際に、ヒダの国だけでなく、有名・無名の数々の国々や民族が滅んだことだろう。国家が領土を確定し、東西南北の国境(くにざかい)を区切るということは、そこで戦争が起こり無数の民が死んだということだ。

この滅びを見守り、滅びを誘うかのような不思議な姫が夜長姫演じる中村七之助だ。姫の狂気や捉えどころがなくそれでいてぞっとするような役柄を七之助はとてもよく表現していた。

主人公の耳男(みみお)は、襲名した中村勘九郎だ。勘九郎も熱演していたが、ダイナミックな動きの良さは、某国営放送の金栗四郎を思い出してしまった。エンマの坂東彌十郎、赤鬼の片岡亀蔵、ヒダの王の中村扇雀、大海を演じた松本幸四郎など、脇を固める人たちも見ごたえがあった。中村芝のぶ演じる奴隷のエナコも不思議な役だった。歌舞伎は、もともと伝統ではなく、革新。現代劇への若い役者たちの挑戦も大いに歓迎だ。

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2019年4月 6日 (土)

『老子―もう一つの道』 四十五 心を清静に保つ

【自由訳】
大いなる完成は、人から見れば、どこか欠けている。しかし、不完全なように見えて、尽きることがない。同じように、大いに満たされているものは、かえって空虚に感じられる。だがやはり、空虚のように見えても汲めども尽きぬ泉なのだ。本当の意味で直なるものは、曲がっているように見え、技術に優れている人こそ、拙き手わざに見え、大いに説得力あるものは、口ごもり口べたのように見える。寒さの冬には、体を動かせば体が温まり寒さに勝った様にみえるが、では暑さの夏はどうする。ほんとうは心静かにいることこそが、暑さに勝る。「清静」こそが目指すべきこと。

 

【解説】
「清静」とは「清浄」。清らかで静かななるものを求める精神性を、老子は重んじる。

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2019年4月 5日 (金)

生物多様性はなぜ重要か?

生物多様性を確保することが、環境保護活動では大事だ。しかし、なぜ生物多様性は重要なのか?あなたはそれを説明できるだろうか。河北新報(2018年2月24日付)の記事に、生物多様性を実証する研究が掲載された。

 

進化生態学が専門の千葉大学特任助教授の高橋佑麿氏の研究を記事から要約してみる。

 

・実験…
キイロショウジョウバエは遺伝子の違いで、えさを盛んに探し回る「せかせか型」と、あまり動き回らない「おっとり型」という2種類がある。「みなが同じ性格の集団(全員「せかせか型」と全員「おっとり型」)」と「違う性格が混ざった多様性のある集団」で、幼虫の成長や生存率に差が出るかを検証。

 

・実験の結果…
もっともよく成長して重くなったのは「せかせか型」と「おっとり型」半々の集団。

 

・実験の考察…
動き方が違うハエ同士は出会いにくいため、2つの型が混ざっていると争いが減り、皆がエサを無駄なく利用できたのではないか。ただし、これは餌が少ない環境下でのみ言える。

 

・全体の考察…
多様性が集団の繁栄につながるには、「少数派でいると得をする社会」という条件が必要。ハエの場合は、「せかせか型」「おっとり型」どちらであれ、多数派が大きくなればなるほど内輪もめが増えるので、少数派でいた方が巻き込まれず餌を食べられる。

 

特に私が面白いと思ったのは、ここから「人間社会」について考察しているところだ。

 

・人間の場合の応用と提言…
人間は特に多様性が大きい動物。少数派が活躍できたり、少数派であることに価値があったりするような仕組みがあれば、多様性がみんなのためになるのではないか。

「改元」も喜ばず、「令和」をめでたい漢字だとおも思わず、「東京オリンピック」も「万博」も「カジノ」も「核発電」も喜ばない、私のような少数派にとって、心地良い社会の到来を望んでいるが、現実は、「異論は許さない」「排除する」という方向に行っているようで、それは「自然」から見れば、繁栄とは逆の道だということだとを、高橋氏は考察していることになる。

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2019年4月 4日 (木)

『老子―もう一つの道』 四十四 細く長く

【自由訳】
「名」と「体」とどちらに人は執着するか。「名」とは表面上のもの、うわべを取り繕ったものにすぎず、「体」は実質である。「名」は失われても「実体」を取るべきだということをまずは言っておく。


天下に「財貨」が流通し、人々は「財貨」を蓄えようとする。では、「得る」と「失う」と、人々が憎しみ嫌うのはどちらだろう。もちろん、「失う」ことの方だ。だから、多くの財貨を集めたものが、ほんのちょっとの過ちで多くを失えば、悔やんでも悔やみきれないが、はじめから無一物であれば、何を失って嘆くことがあるというのか。


私たちは、適当なところでもう満足であると言って止めることができれば、世間の辱めを受けることはなく、もう十分と言ってそこで止まることができれば、身の危機となることもない。こうして「失う」ことの恥辱的な体験は避けられ、その人の「実体」は守られることになる。


細く長く生きよ。


それが誉ある最高の生き方だ。


それが「実体」を長く保ち、結局は「名」をも汚さぬ生き方だ。

 

【解説】
細く、長くの教えとは矛盾するところにも生き方があり、そのような生き方の中にしか人間のドラマはない、ということは私にもよくわかっている。では、おまえはどちらの生き方を取るのか。細く長くか、短くかつドラマチックな生き方か。

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2019年4月 3日 (水)

『孔子』 井上 靖

読みたい本は読んでおこう、やっておきたいことはやっておこう、悔いがないようにと思い、時間をうまく使って前から読みたいと思っていた井上靖の『孔子』を読んだ。今、改元祝賀ムードで、中国を離れての日本本来の文化だけを目指す愛国心徴用が高まっている。しかし、こういうのは、「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」 と同じで何の反省もなく日本民族は優れているという陶酔に終わってしまう。愛国を声高に叫ぶ人ほど、しっかりと孔子や孟子の言行録を読んで知っておくべきではないかと思う。

孔子が中国人なのがいけないのだろうか。本家中国で、もう見当たらなくなり、すたれたしまったものでも、日本で大事にされているものがある。その一つが、愛国者たちが大好きな、天皇制だったり元号だったり京都や奈良の街並みだ。孔子の思想や言動も素晴らしいし、まさにトランプ氏やプーチン氏や習近平氏など覇権を争う乱暴者や、トランプ氏におもねる阿諛追従者もいるこのような国際情勢でこそ、孔子の思想は輝くし、日本こそが孔子の思想を本家よりも大事にしてきてそれを生かそうと努力してきたと誇りに思ってもよいのではないだろうか。

と書いてはいるが、実は私も、「われ 十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして迷わず…」というのが、自分には偉すぎて敬遠していた。自分は、いくつになっても迷ってばかりの情けなさで、とうてい孔子の足下にすら及ばないと思ったからだ。しかし、実は、孔子は実人生としては「失敗者」だったと言えるかもしれない。仕事は長続きできず、評価して雇ってくれる人もない、事情で故郷を離れて遠くに行かなければならない、その途中で死にそうな目に合うといった。しかし、そんな中で孔子はやはり素晴らしい人生を生き、弟子たちに慕われ大きな影響を周りの人たちに与えた。どこに孔子の人間的魅力があったのだろう。それを探るのが、井上靖の『孔子』だ。

井上靖の『孔子』は、孔子の一番苦しい時代、故国を追われ、放浪に出て、途中で飢え死にそうになる時代に焦点を当てる。この放浪の旅に、使用人というような身分で加わり、そのまま何となく一行に居ついて、それで孔子の言行を目の当たりにすることができたという架空の蔫薑(えんきょう)という弟子を語り手として、人間・講師の魅力を探っていこうとするものだ。架空の弟子の直接的な経験と孔子の死後30数年後の彼の思い出と孔子の言行に対する思索によって、孔子の人間味が明らかにされていく。

何と言っても「天命」という言葉が、思索されている。私も、この年になり「天命」という言葉が気になる。「運命」とは違う。天がその人に命じたやるべきこと、それが「天命」だ。それは、この世でうまくいくのか?孔子を見ても、それはうまくいかないこともある。しかし、うまくいくか、いかないかというこの地上のことはさておき、それをやらないといけないこと、それが「天命」だ。そういう孔子や人の生き方も含めて「天命」という言葉が、この本では考察されている。

もう一つ、私が感心したのは、実際に孔子が亡き後、言行録が残ったのは、直接の弟子たちをはじめ、多くの人たちが孔子の言行を書き留めようと努力したからに違いない。小説の中では、「孔子学会」というような形で出てきて、各地の各種団体が、資料収集、資料の真贋の検査、孔子を直接知る人への審問などの、ものすごい努力をしたということが分かる。もちろん井上靖の創作だが、実際にこのような努力があって、いま私たちは孔子の言動を知り、その人や思想を知ることができる。学恩や陰徳のありがたさである。

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2019年4月 1日 (月)

自然の備忘録

おとといの土曜日、宮城ではというかここ仙台の平野で雪が降った。そんな寒い日に、と意外な感じで驚いたのが、広瀬河畔で初めて燕の姿を見かけたことだ。何10羽もの、かなりたくさんの数のツバメが川面を飛び交っていた。

そして今日も、時折雨が混じる寒い日だ。同じ場所の近くでたくさんのツバメが飛び交うのを見た。ツバメは、雨が降るようなときは餌になる虫が低く飛ぶので、低く飛ぶと言われているので、人目につくくらいたくさんの姿が見られたのか。

今年の桜の開花は早い。だから燕も例年より早く北国を訪れてもいいのだろう。私も、ツバメがここ仙台を訪れる標準日を知っているわけでないし、そんなに詳しく自然を観察しているわけではないが、なんとなく、自然の変化は天変地異の前触れという恐ろしい気持ちが湧くので、ここに燕を初めて見た日を記録として残しておく。

 

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