UA-92533382-1 『老子―もう一つの道』 四十一.大器は晩成す: よつば農場便り

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2019年2月20日 (水)

『老子―もう一つの道』 四十一.大器は晩成す

【口語自由訳】
善き人が「道」のことを聞けば「道」に感じること石火のごとくで、すぐに実践を心がける。平凡な人は「道」のことを聞いても耳からは言葉が入って来るものの心に留めているのだか、いないのだか、心もとない。もっとも出来の悪い部類となると「道」の話を聞くと笑い出す。この手の類の人に笑われるようでなければ「道」とは言えないだろう。だから、真に明るい道は昧(くら)く、大いに平らかな道は起伏があり、上徳の人物はそびえ立っておらず、むしろすべてを入れる谷であり、大いなる白は薄汚れて見え、高徳の人はどこか不足が見え、健徳の人は安逸に見え、質朴の人は移り気に見え、大いなる方形の四隅は見えず、大いなる器を作るには速く作れず、大いなる声は聞こえず、大いなる形は見えない。要は「道」は隠れていて名もない。しかし、確かに存在し、その証拠に「道」のおかげで万物は万物となり成就できる。

 


【解説】
「道」を説明するには逆説的に行くしかない。そもそも事物を説明するとはどういうことを言うのだろうか。説明される前に事物は既に存在するのだから、事物を説明しようとすれば、事物から離れていくばかりではないか。まして、それが「真」だとか「道」ということになれば。「道」についてはそういう意味では説明できない。直観的に把握し体得するしかない。そういう認識の方法を老子は示す。

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