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2019年2月27日 (水)

放射線副読本

全国の小・中・高等学校に「放射線副読本」が配られ生徒たちに放射線の安全性が刷り込まれている。放射線が安全で恐れるに足らないとなれば、若い人たちの核発電支持率も上がり、核発電再開の大きな力になるだろうからだ。

 

この副読本はおかしいのではないかと、撤回を求めて活動をしている「地球アクション」からの情報で、副読本の問題点をいくつか要約してみる。

 

・自然界にも放射線があり、0にすることはできない。
・放射線は農業にも応用され、人間生活を豊かにする。
・核発電所爆発で避難した人は苦労し、子どももいじめを受けたりしている。
・放射線のリスクは、野菜を食べないでがんになったり塩分の高い食品を取るリスクと同じ。

 

副読本が主張するいずれの事実もその通りなのだろうが、どこか論点のすり替え、大事なことの隠ぺいという気がする。

 

私などは、自然の放射線があろうとあるまいと、海や山に撒かれた余分な放射線がなければよいとおもうのだが、そもそも、海や山に大量にまき散らしたその人為的なミスや責任は一切議論せず、だれも負っていない。

 

核発電事故で避難した人があたかも悪いような書き方だが、やはりその原因を作った人は処罰もされないし、責任も負わない。以下にも、安倍さんや今の自民党政権らしいやり方だと思う。安倍さんが、津波の危険性を否定した張本人なのに、事実は誤魔化しなかったことにし、人の話はまともに聞かない、人の質問には答えない、という国民からの支持率が高い姿勢がここにも表れているのだと、妙な関心をさせられる。

とはいえ、おかしいことはおかしいのじゃないかと、この国を思う愛国的義憤からこの情報をここに記しておく。

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2019年2月24日 (日)

『老子―もう一つの道』 四十二 物質の生成

【口語自由訳】

「道」は一を生じた。一は二を生じ、二は三を生じ、三から万物が生じた。すべての物はそのうちに陰と陽と対立すべきものをすでに抱えて生まれてきている。ここから、人智によって増そうとすればかえって損じ、損じようとすればかえって増すことになる自然の道理が見えてくる。一番大事な教え、それは「強暴なるもので生を全うしたものはいない」ということだ。しからば、全き生を得るためにはどうすればよいのかは、もうわかるだろう。


【解説】

老子が物の生成を説く。物理の世界である。物の生成とは、物質や宇宙の成り立ちである。最新の物理学が解き明かしていることと、老子の教えとはどう調和するのか。老子の説く「道」「一」「ニ」「三」とは何に当たるのか。直観による真実の把握と、理論や数式による真実の把握との違いは何か。

さて、すべての物質はそのようにして生成してきて、現在、ある(=存在する)形をとっている。しかし、その生成の過程、痕跡が消せない証拠に、物質には必ず対立する要素(東洋的には「陰」と「陽」と)を含んでいる。ある物質は必ずある性質を示すというのが物性だが、その表面にあらわれる物性だけで、その物を語るなということである。その根本を知ることが大事だが、それが困難なのだ。

老子が強調すること、強剛は弱い、柔弱が強いということ。

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2019年2月22日 (金)

わが家にまさる場所はない

どんなに質素であろうとも、わが家に勝る場所はない、というのは私のような年代のものには、大学入試用の英語の例文でおなじみのフレーズで、詳しい出典はわからないが、おそらくいい古された半ばことわざじみた格言なのだろうと思うのだが、これはもちろん、「我が家は一番安心できるいいところだ」という意味の解釈だと私などはずっと思ってきたものだ。

 

ところが、今の若い人はこれをかなりの確率で、「我が家ほど貧乏なところはない=わが家はとても貧乏だ」と解釈するのだ。私は若者を責める気はなく、むしろ、私の話は若い人に通じてなかったのかと、かえって自分に自信を無くすのだ。

 

ある世論調査で、50,60代の安倍首相の支持率は20~30%なのに対して、20,30代の支持率は60~70%ということだそうだ。これはどういうことだろうと、知り合いと話したとき、政治の教科書的には、自民党=保守、共産党=革新なのだが、若い人は、自民党=革新、共産党=保守と思っているのではないか、つまり若者は昔も今も、新しいものが好きで、世間の価値に反抗的なのには変わりがないという話も出たが、でもどうなんだろう。

 


私が安倍さんのことを支持しないのは、自分のことはさておき(おそらく、自分などはいまさら徴兵にとられることはないと高をくくって)、このままでは若い人がかわいそうと思ってそうしているのだが、例えば、格差が広がり、非正規雇用でしか仕事がなく、ふつうの家庭では払えるような額でなく教育費が高騰し、軍隊に行くのが一番安定した仕事になるというようなことにならないためにそうしているのだが、もしかしたら若い人たちには、私の思いは通じていないのかもしれない。

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2019年2月20日 (水)

『老子―もう一つの道』 四十一.大器は晩成す

【口語自由訳】
善き人が「道」のことを聞けば「道」に感じること石火のごとくで、すぐに実践を心がける。平凡な人は「道」のことを聞いても耳からは言葉が入って来るものの心に留めているのだか、いないのだか、心もとない。もっとも出来の悪い部類となると「道」の話を聞くと笑い出す。この手の類の人に笑われるようでなければ「道」とは言えないだろう。だから、真に明るい道は昧(くら)く、大いに平らかな道は起伏があり、上徳の人物はそびえ立っておらず、むしろすべてを入れる谷であり、大いなる白は薄汚れて見え、高徳の人はどこか不足が見え、健徳の人は安逸に見え、質朴の人は移り気に見え、大いなる方形の四隅は見えず、大いなる器を作るには速く作れず、大いなる声は聞こえず、大いなる形は見えない。要は「道」は隠れていて名もない。しかし、確かに存在し、その証拠に「道」のおかげで万物は万物となり成就できる。

 


【解説】
「道」を説明するには逆説的に行くしかない。そもそも事物を説明するとはどういうことを言うのだろうか。説明される前に事物は既に存在するのだから、事物を説明しようとすれば、事物から離れていくばかりではないか。まして、それが「真」だとか「道」ということになれば。「道」についてはそういう意味では説明できない。直観的に把握し体得するしかない。そういう認識の方法を老子は示す。

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2019年2月19日 (火)

石牟礼道子『苦海浄土』

この有名な作品を、やっと今になって読んだ。しかし、人生50年を過ぎて、しかも、フクシマ核発電所が核物質をまき散らす事故のあとに読むことになったのは、やはり全てにはそれをすべき時というのが、その人にとってすべて決まっているからなのだろうか。

 

水俣病についてのこの有名な作品は私が改めて語ることはもうないだろう。しかし、講談社文庫からの新装版は、渡辺京二さんの行き届いた解説があり、作品への理解が深まる。さらに原田医師の、当時の状況や医学的な見地からの解説は,「苦海浄土」新装版のためだけでなく、今の時代のためにも書かれたのだと錯覚させられるほどだ。

 

石牟礼さん、およびこの「苦海浄土」という作品の凄さは何だろう。渡辺さんも解説されたが、これは「聞き語り」のドキュメンタリ文学でもなければ、激しい告発の書でもない。(もちろん、企業・私たち人間・行政の業の深さや罪深さは、読後に、撥ね退けられないどんよりとした重さとして、伝わってくるが…)

 

渡辺さんによると、石牟礼さんは「巫女」なのだという。石牟礼さんは、決してすべての話を漁民から聞き取って書いたのではないという。もちろん、活動家としても水俣に携わった石牟礼さんはこの場所に出入りしていた。石牟礼さんは、漁民たちや患者にあい顔を見れば、その人が話すだろうことを、語りだし、筆に留めることができたのだという。漁民は時に無口で、こんなにも語っていることはないだろう。だから、石牟礼さんに憑依して語らせたのは、当事者の漁民たちだけでなく、水俣湾や不知火海の石や水や風や光も含めた生きとし生けるすべてのものだ。それらの声が聞こえ、自分の体の中を通して声を与えることができた石牟礼さんという人がいたからこそ、「苦海浄土」という作品が残された。もし「苦海浄土」がなければ、フクシマ核発電所爆発事故、沖縄美ら海強制埋め立てと、繰り返し行われる悲劇に、私達は一切の言葉なしで立ち向かわなければならなかっただろう。

 

渡辺さんは新装版「苦海浄土」の中で、「ゆき女きき書き」「天の魚」を進めている。確かに、当事者の語りは圧巻だ。しかし、私は同じ語りである第7章 昭和四十三年が心に応えた。日本政府もいよいよ(初発から何十年後に)病気の原因がチッソからの水銀だと認めた。チッソの方もそういう決定が出るというのは薄々わかっていて、政府の決定が出たら、社長が主だった患家に戸別訪問して謝罪するという段取りになっていた。石牟礼さんは、金を何とかやりくりして、会社の御一行のあとを、タクシーを借り切りついて回ることにする。ご本人も、社長たちが出てきた後に、その家に入ったと言っているのに、石牟礼さんは、その人の顔を見て、その人が社長に向かって何と言ったかを語りだしている。記録文学ではない。だから、社長に言ったその語はもちろん正確ではないだろう。相手は大企業の社長だし、御一行様、こちらは貧乏で何も持たない。そのような威圧に気落とされ、もしかしたら何も口に出せなかったかも知れない。だから、茨木妙子さんがチッソの社長に述べたというこの語りは、この水俣という土地全体の声を、石牟礼さんが憑依して語ったもののように思えるのだ。

 

「よう来てくれなはりましたな。待っとりましたばい、十五年間!」

 

「水俣が潰るるか潰れんか。天草でも長島でも、まだからいもや麦食うて、人間な生きとるばい。麦食うて生きてきたものの子孫ですばいわたしどもは。親ば死なせてしもうてからは、親ば死なせるまでの貧乏は辛かったが、自分たちだけの貧乏はいっちょも困りゃせん。会社あっての人間じゃと、思うとりゃせんかいな、あんたたちは。会社あって生まれた人間なら、会社から生まれたその人間たちも、全部連れていってもらいまっしゅ。会社の廃液じゃ死んだが、麦とからいも食うて死んだ話きかんばい。このことを、いまわたしがいうことを、ききちがえてもろうては困るばい。いまいうことは、わたしがいうことと違うばい。これは、あんたたちが、会社がいわせることじゃ。間違わんごつしてもらいまっしゅ」

 

「さあ!何しに来なはりましたか。上んならんですか。両親が、仏様が、待っとりましたて。突っ立っとらんで、拝んでいきなはらんですか。拝んでもバチあたるみゃ。線香は用意してありますばい」

 

「苦海浄土」は人間の声を載せているだけでなく、当時の状況や考察も載せてある。そういう意味では記録文学なのかもしれない。水俣では、「チッソ」という会社の存在があまりにも大きすぎて、「水俣病、水俣病」と言って騒ぐな、騒げば騒ぐほど有名になるのは困るという、当事者が声を上げづらい状況や、住民が住民を抑圧し、住民同士が無益に対立させられる構造が描かれている。それと同時に、「チッソ」という大会社の源流を探り、それが朝鮮半島の一漁村を買収・立ち退きして始めた工場建設に端を発することを述べている。自慢気なチッソの社史の中に、買収に警察官を立ち合わせたという記述を見逃さない石牟礼さんだ。植民地支配で、朝鮮半島の住民から暴力を使って取り上げた土地によって始まった国策会社が、戦後に起こした事件が水俣病だ。原点や源流を、私達は反省もしないし顧みないから、電気の国策会社も、アメリカの下請けの国策政府も同じことを2度3度繰り返すことになる。しかし、「苦海浄土」がある限り、まったく同じ2度目、3度目ではない。「苦海浄土」と同じく、すべての生きとし生けるものの声をとどめた「原発文学」も「沖縄文学」も、今後出てこなければならないが、「苦海浄土」が日本文学にある喜びを私は抱きしめている。

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2019年2月18日 (月)

ローマ帝国衰亡史

歴史が好きなので、帝国の衰亡が気になる。イギリスの歴史家ギボンが描いた「ローマ帝国衰亡史」は、大部の大著であるが読んで飽きなかった。大帝国が瓦解する時、そこにどのような原因があるのか、覇権を争ういくつかの帝国が登場してくるのか、それとも帝国の代わりは見つからず、帝国の瓦解後は混とんとした時代がやってくるのか。

現在もある帝国が瓦解している途中であると思われるが、何も帝国最後の皇帝がもっとも愚かな皇帝だとは限らない。むしろ、その3代とか4代とか前の皇帝が最も駄目な皇帝で、帝国を混乱に落としいれ、瓦解の遠因となる例が、古今東西の帝国の歴史には多いと思う。

帝国が瓦解する時、その属国や属州の運命はこれいかに?特に歴史の選択ミスで亡国の帝国に運命をゆだねることを選択してしまった民族は?

さてこれは、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」風のおとぎ話なので無視してほしい。「蛮人」というのも、当時のローマ帝国の人たちが単に「自分たちとは違う人」というくらいの意味で使っている言葉なので、特定の民族を貶める意図はない。

ローマ帝国の皇帝トランプニムスは、ゲルマン人の侵入に備えて、帝国の国境沿いに、「壁」を建設することを声高に主張していた。しかしローマの元老院は、壁建設の予算を認めず、トランプニムスはいらだっていた。トランプニムスは、蛮族が帝国に侵入する危機をあおり、ローマ市民の歓心を買い、皇帝に上り詰めた男だ。その際には、元老院の貴族どもが、特権をむさぼりお高く留まっていることを激しく攻撃し、ローマ市民にもっともっと「パンとサーカス」を与えると約束していた。

そんな折、属州のヤポニウムの族長からローマのアカデミーに推薦状が届いた。「偉大な皇帝トランプニウムのおかげで、大ローマ帝国全体の平和が保たれている。トランプニウム皇帝は歴代どの皇帝も成し遂げられなかったほどの平和を名誉ある大ローマ帝国にもたらした。アカデミーから偉大な皇帝への平和への貢献をたたえられ栄冠を与えられるのが望ましい」

トランプニウムは、早速この推薦状を得々として、元老院で披露して、蛮族侵入を防ぐ壁の建設了承を元老院議員たちに求めた。議員たちは冷笑してこの推薦状を問題にもしなかった。そもそもこのヤポニウムという属州は、70年前にローマ帝国に対して反乱を企て、その際は、強力なローマ帝国の軍事力により、街は徹底的に破壊され、住民どもは蹂躙された。反乱を指揮したものはとらえられローマに連行され裁判にかけられ、死刑なり禁固の刑を科せられた。

反乱後の属州の統治をどうするかということになったとき、ローマの軍事顧問たちは、反乱常なき蛮族だから、通常のやり方では、またローマ軍が出動することになり、ローマ市民の子弟が犠牲になる。いっそのこと、罪を許して帰国させてやり、自分たちで統治することを容認し、その恩義を彼らに売り、かつ蛮族に対峙する最前線としてローマ軍の駐留を認めさせるという案が採用され、その時に罪を許され帰国させられ族長にされた男の、孫にあたる男が、今度の推薦状を送ってきたものだから、内幕を知る元老院はしらけ切った態度でこの件を受け止めたのだ。

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2019年2月17日 (日)

『老子―もう一つの道』 四十 柔弱を尊ぶ 

【口語自由訳】

何もまっすぐ突き進むだけが能ではなかろう。強くて鋼(かた)いことだけが価値ではないのだ。そこをよく考えれば「道」というものがわかる。この世のすべては「有」の世界の関連の中から生まれたのではあるが、その「有」そのものを生み出したのは「無」である。このことに思いをひそめてみよ。

 

【解説】
強くて鋼(かた)いものを尊ぶのが世の常、ならひ。しかるに老子は、柔軟に行くことに価値を置く。堅苦しい表面的な建前だけの世界の背後に、自由で華やかで明るい無碍の世界が広がっている。

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2019年2月16日 (土)

『老子―もう一つの道』 三十九 一なる原理

【口語自由訳】

 

一なる原理を体得し、体現したもの、それが天・地・神・霊・山・谷・万物の生命・至高の人。一なる原理を失ってしまえば、これらは現れはしない。謙譲に生きよ。隠れて生きよ。名が顕われ、世の栄華を極めるのではなく、名もなく生きることこそが最高の誉れである。

 

【解説】

 

ここで一と言っているもの、一なる原理、それと一体となり、それをあらわすのである。そうすれば満たされ、不足したり、変化して失われたりということがない。だから、それ以上、欲しない、無名でいて誰をもうらむことがない。

では、その一なる原理とは何か。それを己自身が己自身の中に探求せよというのである。

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2019年2月14日 (木)

『老子―もう一つの道』 三十八 本物の道と世間の道と

口語自由訳】

真に徳ある人は、外から見ればたいして徳行がないもののように見えるものだ。これこそ真に徳ある人の姿なのだ。

世に徳行ある人と評判ある者などの徳とは、そんなものは「下(げ)」の類であり、真という尺度から見れば徳行なき者に等しい。

真の徳を体得すれば、何もせずともすべてが為され、逆に世間並みの徳行では、あらゆることを為したとしてもやっていないに等しい。

真の仁愛には「何のために」ということがない。

仁から下って義に至ると、義は何かのために行われるものであり、動機の純粋性は失われる。さらに下って礼儀に至ると、こちらが礼を尽くしても相手が応えないと、その非礼を責めなければ気が済まなくなる。

だからよく考えてほしい。

この世の中の根本である「道」が失われてしまったからこそ、「徳」があらわれたが、これはちっとも名誉なことではない。「徳」が失われれば、人々は「仁」を担ぎ出してこねばならず、「仁」が失われれば「義」、「義」が失われれば「礼」と次々と非本質的なものにかかずらうことになる。

「礼」とは結局、忠信という自然な心情が薄いからそれを補わなければならないので、この心情の酷薄さが世の騒乱の始まりなのである。真に優れた人は、絶対に揺るぎない地盤の上に身を置く。あなたが、どちらの道を取るべきかはわかっただろう。

【解説】

儒教に対する彼、老子の考え方が端的にあらわれている。為そうとしてあがく儒者の生き方は、最低のものだと、その価値を逆転する。

 

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2019年2月11日 (月)

『老子―もう一つの道』 三十七 「道」はすべてを為す

【口語自由訳】
「道」には作為がない。自然である。しかし、すべてを成し遂げる。「道」を自らのうちに守るものは、その感化を回りのすべての人・すべての物に及ぼすことができる。万物はあるきっかけでさらに変転しようとする。それを「道」を自らのうちに宿すものは、無心で対処する。すると、天下は自ら落ちつくべき安定した状態へ導かれる。


【解説】
何もしないのにすべてを為すというこの不可思議さ。

「道」を体得し一体となった人が万物に安寧をもたらすこの不可思議さ。

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2019年2月10日 (日)

『老子―もう一つの道』 三十六 弱きものが強きものをくじく

【口語自由訳】

弱いものが強いものに勝つにはどうしたらよいか。自分は光をつつみ、相手を強がらせ、勢力を張らせ、物をたくさん与えてむさぼらせることだ。

【解説】
弱いものとは柔軟な者。強いものとは鋼い者。柔軟でいれば、強いものは折れる。己を隠せ、暗くせよ。―老子の戦略

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2019年2月 7日 (木)

『老子―もう一つの道』 三十五 安寧を得る

【口語自由訳】
道という本源を心に抱いて天下を行けば、誰をも害することなく、安寧・安泰を常に感じる。
人は音楽の楽しさや食べ物の旨さにふつう心を奪われるものだ。
しかし、「道」には、そのような表面的な派手さで人を引き付けるということはない。味わいは淡泊、見ようとしても見えない、聞こうとしても微妙で聞こえない。だが、万人が用いても尽きることのない、永遠の命がある。それが「道」だ。

【解説】
体得して、それを自由自在に「用」として用いることができるもの。体得すれば、内から力を与えてくれるもの。汲めども尽きない内なるもの、それを「道」と知る。

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2019年2月 5日 (火)

『老子―もう一つの道』 三十四 大道、宇宙を貫き流れるこの大いなるもの

【口語自由訳】
大道とは大きなものだ。浮遊していて、とらえどころがない。万物がこの根本原理である大道に従って生まれてくる。良きものが生じてくるのも、悪しきものが生じてくるのも、ともに大道は辞さない。万物を生むという大功があっても、大道は己の功を誇らず、万物を養い、自らは主とならない。万物は大道に還る。しかし、大道は世の主とならない。自ら高ぶらないのが、大道である。

【解説】
宇宙を貫く法則、万物や諸現象がすべてそこから生じる原則、それがこの世にはある。その働きの性質をよく知ることがまず第一歩。そして、もしその原則が体得できれば、その者は万物を自在に動かすことができる。だがそれは、科学的知識ではない。確かに、科学は物質界を貫く法則を捜しだし、その応用・適用で万象を制御し、ねらった現象を引き起こそうとする。しかし、老子の言う大道は、それではない。では、何か。

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2019年2月 4日 (月)

英国ロイヤル・オペラ・ハウス『くるみ割り人形』

英国ロイヤルオペラハウスのライブビューイングでバレエ「くるみ割り人形」を見る。クリスマスと言えばこのチャイコフスキーのくるみ割り人形。現地では昨年の12月の公演ということだが、日本で節分の日に見る。

 


なんと言ってもチャイコフスキーの音楽がきれい。自分の無知を恥じるが、FMでよくかかる「くるみ割り人形」は、いいところばかりの抜粋で短くしてあり、本当は2幕で計100分以上の大作なのだ。でも全く見飽きることはない。踊り、衣装、演出、すべて素晴らしく、ブラーボと叫びたくなった。

 

金平糖の踊り」を踊ったマリアネラ・ヌニェスという人はロイヤル・バレエに入団して20年ということで、ひときわ大きな拍手を浴びていたし、鍛え抜かれた踊りに感服した。この人のスペシャル・ショート・フィルムを作ったそうで、ライブ・ビューイングの間に少し見せてくれた。白黒画面の中で現代のソウル・ミュージックに合わせて踊る彼女はとても「クール」という感じだった。

 

「花のワルツ」の主役は日本人の金子さん。手足がとてもすっきりして素晴らしい。サッカーだけでなく,ここでも日本人が海外で活躍していたのである。

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2019年2月 3日 (日)

『老子―もう一つの道』 三十三 「智」と「明」と

【口語自由訳】
人をよく知ることが「智」なのである。しかし、己をこそしるものが「明」なのだ。人をしのぐことができれば、確かにその人には力がある。しかし、克己するものこそが本当に強い。足るを知るものは豊かになり、努力するものは意志が強い。今あるものを失わず保てれば長く続き、死んでも失われないものを体現したものこそが、理想の長寿を手に入れたと言える。


【解説】
人の本性をよくとらえることこそが智者のつとめであり、知者と称せられるゆえんである。しかし、内面にも目を向けるべきだとの老子の戒めである。

どうしてもわれわれは他人に勝とうと思う。そこが陥穽だろう。やめておくべきおさめどころを知り、身の回りにあるものや己自身を細く長く大切にすれば、長寿を全うできるとの老子の教え。

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2019年2月 2日 (土)

『老子―もう一つの道』 三十二 止まるを知る

【口語自由訳】
老子は言う。

 

「道とは、名前を付けて相対化し、人の認識にはっきりとのぼって来るようなものではない。名付けようのない素朴なものを、天下すべての者は隷従させることが不可能なのだ。しかし、その無垢のものを自らのうちに守るもののもとへは、万物が競ってやってきて天と地は和合し、その喜びに甘露を降らす。万物は命じなくても平等に整う。この始原状態を人為によって制しようとするところに、相対的な認識が始まる。そこでとどまるのである。とどまることを知れば、人は危うくない。万物を貫く「道」がたしかに天下に存在する。それを知るには、大海に河川がそそぐさまを想像してみよ。海の水と川の水は一体となる、だがそこにはたしかに海を貫き河川は流れている。この譬えを直観せよ。」

 

【解説】
名前を付ける。そこに相対的な認識が始まる。その相対的な認識の以前にさかのぼることができれば、そして、相対以前の認識と己が一体化できれば、宇宙は和合しそこに歓喜の甘露が降るという。

 

止まることの必要性を老子は説く。直線的に進むことのみ考え、人類は危殆に瀕している。止まることを知ることが安寧の道である。止まることを知る知恵と勇気と、現代の私たちに最も必要なことを老子は教えてくれる。

 

近代があれほど愛した「進歩」「進化」は、はたして本当に必要なことだろうか。歴史の必然として、この二世紀間、地球上の多くの人が「進歩」「進化」を善きものとして、信奉してきた。「恒常」「繰り返し」の世界には逆戻りできないと思っている。だが、次元の高い「恒常」と「反復」の世界は、はたして本当に不可能なのだろうか。

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2019年2月 1日 (金)

『老子 - もう一つの道』 三十一 戦争は悲惨なものである

【口語自由訳】
戦争、兵器こういったものは不祥のものである。多くの人がこれを憎む。もちろん道によるものは、戦いや武器を用いない。戦争を好むものは、人殺しを好むものであり、このようなものが天下を治める者になるわけにはいかない。戦で人を殺すことが多くなればなるほど、それだけ世の中の悲哀は増える。戦争に勝って浮かれていても、たくさんの葬儀が行われることになることを忘れてはならない。

 

【解説】
老子は戦争を憎む。平和主義者だ。この時代、戦はたびたび行われ、悲惨が地に満ちていた。その悲惨を老子は見て感じたのだ。当時、中国では支配者たちの力は強大であった。それほどまでに、大先進国の中国では、高度に政治的・軍事的な支配構造が確立していた。だから支配者に戦争の害悪を知らしめ、悲惨のないこの世を夢み主張したのだ

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