祝祭に向かう国で
河北新報の本日1月31日付の記事で「祝祭に向かう国で」が配信された。祝祭とは2020年の東京オリンピックのことだ。この国が向き合うべき問題を置き去りに、または矮小化してオリンピックにひた走る日本について、いいの、このままで?ちょっと立ち止まって考えてみようよ、という趣旨の記事で、これから連載されるとの予告があった。
政治的には、ナチスのやり方をまねるまでもなく、祝祭のという幻想を振りまいて、国民の目をさらせるのは大変優れた手法だと思うし、私が万が一にも、宰相の地位にいれば、取りたくなる政治的選択だ。しかし、ジャーナリズムの役割は、そうじゃないだろう。政府が右というものを左にと言うわけにはいかない、というのではジャーナリズムではないと思う。こういう問題提起をする記事を配信する『河北新報』を支持したいと思う。
1回目の記事に登場するのは、台湾生まれ、日本育ちの作家、温又柔さんだ。彼女のような日本社会の「中央」でなく「辺境」に位置するような人だからこそ、見えるものがあるのだろう。1回目の記事で、彼女は、新国立競技場の建設現場で、「海外からの人を受け入れるだけの場所としてきれいに整備され、怖い気がする」とか、日本ですでに暮らす外国人に対して「すでにいるのに、いないことにされている人たちをないがしろにしたまま五輪と言われても、高揚感はわかない」などの感想を漏らす。
私自身も高揚感はない。外国から日本に来て、労働災害に巻き込まれて腕を切り落とした人がいることを知っているのに、そして、彼女を受け入れた語学学校や日本での勤務先が、彼女に対してはたして責任ある対処をしたのか、よくわからないのに、手放しでオリンピックに浮かれていられないのだ。こんなことは、オリンピックには関係ないという人もいるだろうけど、私にはどうしても、取り残された方、周囲にいる人の方が気になってしまうのだ。
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