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2018年12月31日 (月)

ボヘミアンラプソディー

評判のクイーンの伝記映画を見た。若いころ、クイーンの音楽がラジオで流れていた時代を生きてきた自分には、彼らの音楽そのものが懐かしくて嬉しくてそれだけで満足だったけれど、でも改めて彼らの音楽は今聞いても素晴らしく、この映画をきっかけに、クイーンを知らない若い人たちもクイーンの音楽を聞き始めているというのも納得だ。

 


この映画は、クイーンの残りの3人のメンバーがフレディ・マーキュリーを今でも愛しているからこそ実現した映画なのだと私は直感的に思った。もちろんバンド内のいざこざや反目・対立はあった。映画に描かれているトラブルなんて、きっと表面的なものだろう。しかし、残りのメンバーがフレディのことをこれほどまでに思っていなければ、こんな詳しいドキュメンタリーと言っていいほどの映画はできなかっただろう。フレディーに対する思いが伝わってくるのだ。

 


フレディーは、難民の子供だったということをこの映画で知った。差別される描写も出てくる。だが、メンバーがフレディーをボーカルに迎え入れ、彼らが作った音楽は、もう彼らを超えて世界全体の文化の今でも愛され続ける大きな財産となった。自分だけが特殊で優れているなんて一人よがりの思い上がりでは、決して世界全体のものになる文化は生まれないのだというふうに映画を見て思った。

 

フレディーの父親の「良き思い、よき行い」を、フレディーが実行するシーンには泣けてしまった。


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2018年12月26日 (水)

美しい日本の言葉たち ―言ふかひなし

日本語のハ行音は面白いと思う。どこか間が抜けて憎めない感じがする。だから、まじめに論じるに足りない人物やその行動、または事物についてはぜひとも旧仮名遣いで「言ふかひなし」としなければならない。「言うかいなし」の新かなづかいではその雰囲気は半分もあらわせない。

 

※昔の「はひふへほ」は、唇をもっと震わせて、空気が唇の間から漏れるように発音したのだという。


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2018年12月25日 (火)

自動人形の城

これは、川添愛さんの作品。読んで思ったことは、「後生、畏るべし」。どういうことかというと、自然言語処理という学問の専門分野でも、そして小説・文学作品である本作と言い、これほど知識や才能ある人に感心せざるを得ないということだ。私は、川添さんよりも年上だが、でもそれが何?長く生きているだけで、何も取り柄がないと、若くて才能がある人が本当にすごいと思う。でも、若い人が活躍してくれれば、日本も心配ないのかなとも思う。年長者がすべきなのは、無駄な口をさしはさまないということだろうか。

 

本作の中で読んでドキッとした言葉あった。川添さんが登場人物の口を借りてこう言わせている。

 

「私は大人になってから、ある程度の地位を確立した大人の中に、新しいことを一切学ぼうとしないものがいることに気づいた。彼らは自らの権威を振りかざして新しい知識の価値を貶め、徹底的に拒否する。彼らは学ばないことを正当化する。それは他人に対する弁明のみならず、自分に対する弁明でもある。つまり他人にも自分自身にも、自分がなぜ学ばないのか、なぜそれが許されるのかを言い聞かせるのだ。しかし彼らが何を言おうと、彼らが学ばない本当の理由は一つしかない。今いる場所から逸脱したくないという「恐怖」だ。つまり、安全な、居心地のいい場所から出たくないのだ」

 

これは、作者の川添さんが自分の研究生活や社会人としての経験の中で自ら感じたことではあるまいか。権威なき大人としての私は、せめて死ぬまで新しいことを学ぼうと思う。というわけで、自然言語処理を学ぼうと思い、川添さんの書籍にお世話になっているのだ。

 

「自動人形の城」は物語になっている。自然言語処理研究がもとになっているということに読んで気付かないだろうし、それに興味がなくても、作品として楽しく読める。というか、伏線やどんでん返し、犯人捜し的な面白さでやめられなくなって、最後がどうなるのか読まずに寝るには惜しくなり、夜更かしして読んでしまった。

 

舞台は、中世のヨーロッパ風の物語。王族や魔法使いや宗教指導者たちが登場する。自動人形がお城に満ちるおどろおどろしさ。表紙のデザインは、いかにも黒魔術やその手の本のようで、大のおじさんが手に持って闊歩するような本でない。この見た目で、これが「東京大学出版会」の本というのも驚きだ。きっと「出版会」にも、若き感性を持ち、変わることを恐れない優秀な編集者がいるのだろう。やはり「後生、畏るべし」


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2018年12月20日 (木)

『老子 ― もう一つの道』 二十三 言葉少なくてこそ

【口語自由訳】

言葉数が少ないのが自然の理(ことわり)である。
だって、自然を見てごらん、大風が吹いたとしても朝(あした)にはやんでいるし、大雨が降っても日がな一日ということは珍しい。
どうして自然はこうなのだろう。天地自然の理(ことわり)がそうだからだ。自然ですら長く続くものはない。ましてこの人の世では。
だから、得ようと思えば、一体となることだ、「道」に、「徳」に。一体となって楽しむことだ「道」に「徳」に。

 

【解説】
天地自然は黙して多くを語らない。秘密はわれわれに閉ざされている。では、私たちはどうするのか。一体となるのである。意識を消して一体となり楽しむのである。そうすれば、あちらも私たちを受け入れ楽しんでくれる。そこに「逸楽」という喜びがある。


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2018年12月19日 (水)

『老子 - もう一つの道』 二十二  一に帰せ

二十 一に帰せ

【口語自由訳】
曲がったような見向きもされぬ不完全なもの、それこそが己が生を全うできるのだ。曲がっているということは真っ直ぐなことであり、欠ければ満ち、古びてくれば新しくなり、足りなければ満たされ、満たされすぎれば迷いが生じる。そこで、心の中に不変なもの、そこからすべてが生じるものを持て。目立とうとはするな、そうすれば自然と世にあらわれる。功を誇るな。そうすれば事はうまく運び、しかも長く続く。誰もお前と争おうとはしないだろう。不完全なものは完全なものである。古えびとの智慧を信じよ。

 

【解説】
地球の表面に直線を引く。われわれの局限された感覚では、まっすぐな線にしか見えない。まっすぐな線をどこまでもどこまでも伸ばしていく。まっすぐにしか見えないが、宇宙の視点から見れば、実は丸みをおびた豊かな曲線なのである。曲線や、円こそがすべてのものを内に孕んで、豊かになれるのである。われわれは、まっすぐなもの、完全なもの、豪奢で壮麗なものを好むが、曲がったもの、不完全なもの、単純なもの、簡素なもの、こういったものこそが本来の豊かさなのである。その豊かさを、お前は自分の内に抱えているのか、お前が帰っていくのはそこではないのかと、老子は私たちをゆさぶる。

 

一を抱くとは何か。自然生成の原理、自然をも人間をも貫いている一なる道理を己の内に自覚せよ、一体となれというのだ。東洋的見方は、すべての物質界・現象界の生成の初めに一つの道理があり、それが全宇宙の存在を貫き流れているというのだ。それを自分の外にあるものとして分析・観察の対象とするなということである。その「一」がわれの中にあることを体得せよ、一つの直観となれ、というのである。ここに東洋的見地の真髄がある。


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2018年12月18日 (火)

ラスト エンペラー

蔦屋にビデオを返却していって、また手ぶらで帰ってこず、映画を借りてきてしまった。ベルトリッチ監督が死去したというニュースを聞いていたこともあって、「ラスト エンペラー」を見た。

 

そして、これは偶然なのだが、返しに行ったビデオ「アラビアのロレンス」の主役として出ていたピーター・オトウェルが溥儀の家庭教師役で「紫禁城の黄昏」を書いたジョンストン役で出ていた。2つの映画が撮られた間の年月も感じた。

 

この映画は創作も多いのだそうだが、おおむね史実や実在の人物が描かれていて具体的に歴史を理解し想像するにはいい映画だと感じた。1900年初めのころから日中戦争が終わり文化大革命までの時代が描かれ、この時代、日本は深く中国の歴史に関わり、多くの人の運命を翻弄した。

 

アメリカが日本に対して非人道的な無差別都市攻撃をする前に、日本もすでに中国に対して、国際戦争法違反の、無差別爆弾攻撃を行っていたりということも描かれている。同じように国際法違反の細菌実験を中国の捕虜に対して行っていたことも描かれている。日本が、アメリカに対してなぜ、その非人道的行為を告発することができないかといえば、日本が中国に対して行った戦争犯罪をアメリカから見逃してもらう取引があったのだろう、ということが推測される。


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2018年12月15日 (土)

アラビアのロレンス

蔦屋にビデオを返しに行くと、またその場で借りてきたくなってしまう。うまく蔦屋さんの商法にはまってしまい、「アラビアのロレンス」を借りてきてしまった。名前だけは知っていてストーリを知った気になっているものの、ずっと前からきちんと一度は見てみたいと思っていたものである。

 

監督のデビッド・リーン、彼は「戦場にかける橋」の大ヒットの後で「アラビアのロレンス」を作ったという。両作とも、自国のイギリス軍が大勝ちしているのを、無邪気に喜ぶような愛国映画ではない。イギリスの描き方が屈折しているようにも思えるが、どちらもいい映画だ。というのも、ロケから衣装から、とにかく本物を作っているというのは伝わってきて、「神は細部に宿る」の言葉の通りだ。

 

どこまでが史実かどうかはわからないが、ロレンス率いるアラブの反乱が描かれている。民族を超えた友情のようなものは、私も好きだが、結局アングロサクソン人の「サイクス・ピコ条約」が今の今まで中東の混乱や不幸を生んでいて、そして彼らはその責任を一切取らず、罪深いものだとも思う。

 

しかし、民族の独立のために団結できないアラブの人たちも描かれてていて、それもまた事実で残念なことだと思うし、大きな力に対して、団結できずにいる彼らの姿が、私たち日本人の姿にもつながるとも思った。アングロサクソン人の基地をいま日本国内に受け入れていることに、「愛国者」の私などは本当に情けないことだと思うのだが、「こんな情けない憲法はないですよ」と、独立を拒み話をすり替える人たちがこの国の政治を決めている。「アラビアのロレンス」を見ながらそんなことも考えた。


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2018年12月12日 (水)

働きたくないイタチと言葉がわかるロボット

この衝撃的ともいえるタイトルからこの本が、人工知能やコンピューターの自然言語処理を扱った本だとわかる人がどれだけいるだろうか。「なんの本?」と手に取って見たくなる気にさせるうまいタイトルだ。実際、自然言語処理という本当は専門的な内容を扱っているにもかかわらず、2017年に1刷りが出たと思ったらすぐに3刷りと、人が手にとって売れているのだ。

 

作者の川添愛さんは、研究者だ。略歴を拝見すると文学部から入り、言語学へと造形を深めていき、現在は人工知能に関連する自然言語処理を研究しているようだ。文学から入ったというところが、人にわかりやすく、興味を持ってもらえるような筆運びとなって、この本を楽しく読めるようにしているのだろう。

 

自然言語処理をめぐる問題を、一般の人にわかりやすく伝えるために、イタチたちが、言葉が何でもわかって、自分達の命令通りに何でもやってくれるロボットを作ろうとするという寓話に託してお話してくれる。イタチたちが、目標を達成するために、他の動物たちの村をあちこち行って面白おかしくロボット作りをするという話が飽きさせない。

 

私自身は、第2言語を人はどのように処理するのかというまじめな興味からこの自然言語処理の概要を教えてくれるこの本を読んだ。そして、人間が自然に何気なくできているようなことが、実はコンピューターに教え込もうとすると大変なことであるという点に興味を持った。私自身、グーグルの音声認識入力や自動翻訳を使っていて、以前と比べて精度の向上に目を見張っている。しかし、完全に人間の言葉や意図を理解する機械を作るのは大変そうだということが分かった。

 

しかし、母語以外の言葉を学習している人間も、人間から言葉を習っているコンピューターと似ているのではないだろうか。知らない言葉の意味である、辞書をなるべく多く脳内に持ってないと外国語は読めないし、母語でない言葉の羅列でできた文は、どこで区切ったら良いのか?そして、区切るところにより意味が何重にも生じるので、いったい何を基準に意味を特定すればよいのか?これは、イタチたちが言葉がわかるロボットを作ろうとして四苦八苦している様に似ている。

 

川添さんの解説は具体例がわかりやすくていきいきとしている。曖昧な言葉の例としてこういう言葉を挙げている。「皆さんが生き生きと活躍できる社会を目指します」。ぼんやりしているけどよさそうな言葉が多くて、聞いた人が自分にとって良いことばだという印象を持ってしまう言葉の例だ。本当は、「皆さん」というのが「一部のお金持ち」だったり、「生き生きと活躍できる」が「国から何のサービスも受けずに自力で」という意味だったり、「目指します」が「実現できるかどうかはわからない」という意味だったりするかもしれないが、真偽を問えない形にしてしまえば都合がよいというのだ。しかし、コンピュータには、全部真偽が問える形で教えてやらねばならない。そもそも、そういう言葉の真偽が読めない国民が多いということ自体が問題ではないだろうか。人工知能の研究は、結局人に返ってくるというところが面白い。


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2018年12月 8日 (土)

昼顔

レンタルビデオ店、ツタヤの戦略は、会員カードが1年更新だということだ。更新するのに金がかかる。でも、更新させる必要があるのは、返却しない客に逃げられるの防ぐための、住所確認とか言った、企業側の事情があるのだろう。更新すれば、1本ただでビデオを貸してやるという。更新が面倒くさいので、もうやめてもいいかと思う。でも、やめて再手続きをするのも面倒くさいので、更新して、ついでにビデオを借りてきてしまった。

 


何の背景知識もないのだが「昼顔」を借りた。なんでかと言ったら、Me too運動が盛り上がっていた時、カトリーヌ・ドヌーブさんが「男から声をかけられるのは名誉なこと」とかいう趣旨の発言をしていて、Me too運動からは一線を画していたように思ったからだ。そこで、彼女の主演映画を借りてきた。日本でも、焼き直しされて、近頃昼のテレビドラマではやったらしいということくらいは私も知っている。

 

だが、ウイキペディアも読んでないし、原作の文学作品も読んでないので、映像だけからは、ストーリーがよくわからないところがあった。でも、それがこの作品のねらいでもあろう。カトリーヌ・ドヌーブ演じる人妻は、精神的なトラウマがあり、しばしば現実と過去や、夢想との間を行き来するのだ。映画では、それが切れ目なく挿入されるので、どこまでが現実の話で、どこからか人妻のトラウマや隠されたフロイト的な欲望なのかがわからなくなる。おそらく、人妻は少女のころに性被害にあいそれがトラウマになっているのではないかと推測した。

 

だが、役者たちはみないい演技で、よい映画だと思う。印象に残るのは、娼館の女主人マダム・アナイスやカトリーヌ・ドヌーブに潜り営業の娼館の存在を知らせる夫の友人。そして、娼館の内外で繰り広げられる、様々な変態さんたちの業の深さというか人間の愛しさ。1年に1回ツタヤの戦略にはまって、傑作映画を見てしまうのだ。


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2018年12月 6日 (木)

福島第一の事故 津波予測の甘さ

12月5日付の『河北新報』を見て、おやっと思った記事があった。

 

見出しが「福島第一の事故 津波予測の甘さ 東電副会長が、英で講演」とある。ついに、あの天下の東京電力が、自らの罪を認めたのか?これは、犯罪として刑事告訴された事案や、まだ未解決の多数の民事裁判にも大きな影響があるのでは?と思ったら、内容は反対だった。

 

東京電力の副会長がロンドンで講演し核発電所の事故について言及したことは事実であり、「想定する津波の高さが低すぎた」「非常用電源はもっと高いところに置くことができた」ことは認めたものの、安全策の向上を絶えず追求し、どんどん対策していけば、核発電は安全であり、さらには核事故以降の日本政府の規制対策は十分で、これで事故は起こらなくなった、という核発電再開と輸出に向けての、アピールというのがどうやら本音であったらしいというのが、私の記事に対する深読みだ。

 

ちょっと、待ってくれと言いたい。核発電は「安い、安い」というのが政府、自民党、官僚・財界の言い分のはずだが、どんどん安全策を施していけば、安くなくなるのではないか?まあ、いくら経費がかかってもどうせ、国民に転嫁するのだから、自分達の懐は痛まないし、そういう意味で「安い」ということなのだろうか?

 

まともに考えればおかしい気がするが、「朝、パンは食べだが、ご飯は食べてないので朝ご飯は食べてない」という論法を毎日聞かされ、そしてそれを拡張・伝達する国営・国策放送網のせいで、頭がおかしいのは自分の方なのだ、という気がしてくるから不思議だ。


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2018年12月 5日 (水)

『老子―もう一つの道』二十一 「道」とは

【口語自由訳】
大徳の人物を想像してみよ。その人物は「道」を体している。「道」は恍惚の中に包まれているが、そこからかすかに形があらわれ、形が実質を伴い物があらわれた時点で、そこには貫く法則がある。太古から今に至るまで「道」は必ず存在し、その名は不滅である。「道」の上にすべての生きとし生けるものは生かされているのである。この道理を知るには直観の世界しかないのだ。

 

【解説】
道の存在を確信するのは直観である。宇宙の存在の初め、それがどのような状態であったのかを、実験室で再現できるようになった。そうだとしても「道」が太初に存在したということの証拠を間接的な証拠から知るだけで、直接証明できるわけではない。

 


「道」が始めからあり、そして、現在もあることを知るのは、人の直観である。または、「道」を体現している人に出会うことであり、その人をまみえることである。

 


科学的に証明された後で、何かが初めて存在するのではない。科学以前から、それはそこにあるのだ。


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2018年12月 4日 (火)

『老子―もう一つの道』 二十 本当に自信がある人間とは

【口語自由訳】
学問は捨てよ。そうすれば憂いはなくなる。相対的な観念の違いを追い求めたとて成果は小さい。私に世の人と同じようにせよというが、それは真理の生活からは程遠い。世人は「学問」で身を飾り輝いて見えよう。それに比べると、私は未発の状態で、何もきざしていないように見える。世人の生活は豊かに見え、私の生活は窮乏しているかに見えよう。私は愚鈍な人間に見え、世人は明察な人間に見えよう。こう言われて、私は一人悶々として荒れ狂った内面はとどまるところを知らない。世人には物質的な所有物が多く、私は一人不器用で、世に入れられないかに見える。だが、私は道によって養われているのだ。そこが、私が世人と異なっているところだ。

 

【解説】
世人と行いを共にしなくても、道に忠実に生き、道に生かされているという自信が、宣言され
ている。

 

道家では「学問」は相対的観念をもてあそぶものと見なし、これを憎む傾向にある。では、真の「学問」とは。


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2018年12月 3日 (月)

オペラ座の怪人

劇団四季の公演「オペラ座の歌人」を見た。

 

ロイド・ウェーバーの曲がよかったのはもちろん、四季の役者さんたちの歌や踊りも大変魅力的だった。

 


映画の方を先にいていたのは、ストーリーの把握や各場面の意味を深く理解する上ではよかったと思う。そのうえで、映画の製造効果を、舞台ではどのように表現するのかというのを見る楽しみがあり、四季の演出はとても秀逸で感心させられた。

 

「怪人=ファントム」の造形は、普遍的な人間像を描いていいて胸を打った。映画を見ていた時はわからなかったが、「怪人=ファントム」こそがこの劇の主役だ。実際に、カーテンコールでは「怪人=ファントム」がひときわ大きな拍手を浴びていた。

 

怪人が恋する相手、クリスティーヌの造形はどうだろうか?ふわふわとして現実と夢幻の間をさまよっている、外からの影響を受けやすい、支配されやすいというのは、若い女性の、女性らしさを表していると言えば言えるのだろうし、最後に見せる愛憎を超えた大きな愛というのは、男が投影する理想の女性像なのではないかと思うが、女性の観客が圧倒的に多く、皆さん感動していた様子だった。


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2018年12月 2日 (日)

『老子』もう一つの道 十九 人智を捨てよ

【口語自由訳】
人智を捨てよ。そうすれば、結局は人は幸福になれる。目の前の利を追い、小手先の技巧に走るな。そうすればだれも他人のものがほしいとは思わない。素朴な人々と社会、人々のいりくんだ欲望も少なくなる。

 

【解説】
人智を捨て、小手先の技巧に走るなという、老子の主張はよくわかる。だが、素朴な社会に、私たちは戻れるのだろうか。素朴・単純な社会を理想とし、そこへ無理やり時計の針を戻すようなことをすれば、中国の文化大革命、カンボジアのクメール・ルージュの大虐殺のように、結局は、多くの人を不幸にしてしまうのではないか。老子の思想をどのように現代に生かすのか。私たちの社会はより複雑にと発展してきた。わたし達が社会を進歩させるために行ってきた変革や実験に何の価値もないというのだろうか。


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