UA-92533382-1 よつば農場便り: 2018年10月

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2018年10月30日 (火)

『老子―もう一つの道』 六.永遠

【口語自由訳】
奥山の清冽な谷間にたたえている水、その谷間の水は神秘な女性の神から生まれ、大地の門の奥底から湧き出て綿々と続き、尽きることがない。

 

【解説】
尽きることなく永遠に続くもの。それを心に思い描いてみる。山を登り、深く深く分け入っていく。さわやかな太陽の光が、木々の青葉をこばれ、山道にちらばる。細い道をたどり、さらに奥へ分け入る。やがて、額に汗がにじみ、体は心地よくほてってくる。奥処にたどり着き、岩の間に湧き出る清らかな水に口付け、体の渇きを癒す。人はその時、永遠を感じ、永遠とつながる。


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2018年10月29日 (月)

『老子―もう一つの道』 五 多言は無用

【口語自由訳】

 


この天地は、まことに無情であり、天地の間にある万物は天地からは捨てられ顧みてもらえないかのようである。それでも万物が移ろい行き、歴史が進展していくのは天地がまるでふいごのようであるからであり、もうこれ以上の余力が残っていないだろうと思われるほど極まってしまっても、それで終わりではなく、動けば動くほど力はみなぎり、いよいよ万物も人間の世も、ともに推移していく。

 


このような天地の間の推移とは違い、人間は言が多くなれば極まるものである。沈黙を守るのが良い。

 

【解説】

 


多言は無用ということである。沈黙の尊さ、沈黙の中に込められた微妙な意を探り味わえということ。

 

無情とは、よく私たちが受ける印象である冷酷・無残といったこととは違う。行って、行って、顧みることなきこと、これを無情という。宇宙を貫く原動力たる法則は、無情であると老子は言う。そして、それは、私たちの常識とは異なり、行き詰まり萎えて終わってしまうことはないのだという。永遠に動いてやまないもの、それを心に思い描いてみよということ。


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2018年10月24日 (水)

『老子―もう一つの道』 四 正しいことでも大きな声で主張すべきでない

【口語自由訳】
「道」とは虚ろなものでありながら、汲めども尽きない中身の充実がある。「道」は深い淵のようであり、この世のすべてのものが寄り添い、それによって立つものである。「道」は才気走ったところが見えず、穏やかで、自分の優れたところを露わにせず、万物の地上での歩みに合わせ、自らもこの地上の生を歩む。深々たる水に似て、常にこの世に存在する。「道」が何から生まれたのであろうかなどという詮索は止めたほうがいい。すべての存在に先立って存在したのだから。

 

【解説】
逆説の多用により真実にたどりつこうとする方法が老子には特徴的である。恐らく老子がおそれたのは、私たちの常識であり、常識の思考の範囲から抜け出せない私たちを揺さぶるため、逆説的言辞を多用したのである。

 


「道」とは、中身のないものでありながら、とてつもない充実がその中にある。そのようなものを科学的に立証することは、困難であろう。そのような存在は、全宇宙を貫いて流れる生命現象の中にこそ見出される。それをつかむのは直観である。

 

またここでは正しいことでも大きな声で主張すべきではないという謙抑の精神が見られる。真実に対する老子の姿勢を私たちは見る。

 

正義は小さい声でこそ行うのが良かろう。本当の正義であればなおさらである。


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2018年10月23日 (火)

老子「もう一つの道」  三 聖人の治

【口語自由訳】

自分こそが一番頭がいいなんて思うな。そう思うから、人より抜きんでようと争いが生じる。みんなが欲しいと思っているものを、欲しいと思うな。欲しいと思うから盗んででも手に入れたいと思うのだ。見たい、見たいとみんなが争っているものを、見たいと思うな。見たいと思うから、心が乱れるのである。心が発動するのを押しとどめ、虚心のままでいる。そして、きちんとしたものを食べて体を動かせば、おのずと身の回りは治まる。

 

 

【解説】

「治」という言葉を政治、つまり人民の支配の方法とだけとらえることもない。『老子』という書物は確かに一面、政治的ではあるが、「治」を、わたしたち自身の心身の治め方と、とってもいいわけだ。


 

人間を動かすものは、物に対する欲望であるわけだが、もし欲望するものが手に入らないとしたら、そこには欲望を遂げられない苦しみが存するだけではない。欲望の対象を手に入れられない惨めな自分を経験する哀れな自分という、二重の苦悩が生じるのである。だから、賢くなろうとするな、欲望を遂げようとするな、外へと行くな、上を目指すなというのが、老子の「治」なのである。


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2018年10月17日 (水)

『老子―もう一つの道』 二 相対的観念

【口語自由訳】
「美」という観念があれば、そこに「醜」という観念が出てくる。「善」があれば、「悪」がある。同じように「有無」「難易」「長短」「高下」「前後」という相対的観念も生じてくる。理想の人である聖人は、相対的な思惟を働かせず、言語を用いた教えを行わない。こうして世の中のすべての物は、聖人に使役せられることを喜ぶ。だが、聖人はその事物に対して権利や所有を主張しない。物事が成し遂げられても、それを聖人は自分の功と頼まないし、その場に長くとどまろうとしない。物事に執着しないから人々に追い払われることもない。

 


【解説】
相対的観念=科学的・分析的思考への批判。相対的な観念から離れろということ。しかし、この世に生きる私たちは相対的観念に追われ、相対的観念から逃れることはできない。ために、心身を疲れさせ、心身を自ら破ることになる。

 

また、老子が理想とする身のふるまい方、人と物の関係を述べる。ふつう、人は人の恣意のままに身の回りの物を己の役に立てようと知を動かす。老子の言う理想の大人は、恣意と己の欲望を働かせないから、物は自ら喜んで聖人に仕えようと、その方から動いて自ずから所を得る。

   


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2018年10月14日 (日)

性急すぎる「反原発」

2018年10月7日付の『河北新報』に東北大名誉教授の宮崎正俊氏の投稿が掲載された。宮崎氏は、核発電所擁護派だが、河北新報は擁護派・反対派の別なく、公正に議論を掲載してくれるので、民主的な議論を盛んにし、そして情報に基づいた決定と行動を主権者=決定者である私たちがするためにも、河北新報のジャーナリズムの態度は尊重に値する。

 

宮崎氏は核発電の4つの論点に対してすべて的外れだとする。以下に氏の意見を要約してみる。

 

①災害に多い日本で原発の事故をゼロのすることはできない。

 

→科学技術が生み出したものは災害に関係なくリスクがある。設計時にリスクを最小にするようにしているが、ゼロにはならない。リスクを承知の上でモノの利便性を享受しているのだから、ゼロリスクでないといかんというのであればこの世に利用できるものなどない。


②核発電から出るプルトニウムは核兵器に使われる。


→核兵器を作るかつくらないかは政治判断。核発電と核兵器を結び付けてはダメ。

 

③核発電所から排出される冷却水が海を温め環境を破壊する。


→火力発電所も冷却水を流しているのだから同じことだ。

 

④使用済み核燃料を保管する場所がない。

 

→核発電所を持つ世界の国々共通の問題。日本が解決すべき問題ではなく、そのような他の国々と協力して解決する問題。

 

以上のように述べて、宮崎氏は「脱原発」運動は性急すぎ、核発電技術を失うのは惜しいとの心情を漏らす。

 

さて、宮崎氏の主張に対しては、核発電廃棄を願う私たちの方でも、また議論を起こし反論を考え、核発電擁護の人たちを説得していかなければならない。

 

宮城県の女川核発電所の存否は、そこに住む人たちがリスクを引き受けるのだから、国でも、時の政権でも、専門家でもなく、私達の意思表示で決めようではないか、という住民投票運動がある。住民投票の実現のためには、まず有権者の署名が必要だ。私は署名を集める受任者になっているので、女川発電所の是非住民投票にご興味のある方は、連絡をいただければと思う。

 


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2018年10月11日 (木)

ノーベル平和賞のメッセージ

今年のノーベル平和賞は、女性に対する性暴力に取り組むコンゴ人医師と女性活動家の2氏に授与された。ノーベル賞は権威ある賞だ。それは積み重ねてきた歴史だったり、創設された経緯だったり、高邁な理想に多くの人が共感する力だったりする。権威があるからこそそれを欲しがっている宗教団体の指導者もいる。

 


しかし私が特に平和賞に注目するのは、その政治的なメッセージ性の強さだ。過去の核廃絶キャンペーンの受賞にせよ、その時々の最重要課題に対して人々の目を向け行動へと促すメッセージだ。今年の受賞はだから、女性への性暴力は許されない、女性に対する性暴力や人権侵害がこの世に存在することに人々の目を向け、それは許されないことだというメッセージを発しているのだ。

 


政治というのは、だからこのように何かメッセージを発するとか、逆にメッセージを発しないということで、非常に大きな効果や機能を果たしているわけだ。だから安倍さんの自民党政権である日本政府の沈黙は、やはりこれはこれで強力なメッセージを発していると思う。そして、人権問題、女性に対する性暴力にメッセージを発しないことが、安倍さんや政権の態度や性格をうかがわせるものになっている。

 

メッセージを発してくれる人を、私は私たちの代表に選びたいと思っている。


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2018年10月 7日 (日)

『老子―もう一つの道』 一 宇宙の始まり

【口語自由訳】
口に出して説明できるような「道」はほんものの道ではない。名前を付けて分析できるようなものは、大したものでないからだ。だから、名づけようのないものが、この宇宙の始まりである。宇宙の始まりから理論上説明できるような状態が生じてはじめて、宇宙の中に物質が生じたのである。

 

己れの欲望から解放されているものは、本質をつかみ取ることができるが、ありとある生命とその存在の法則に束縛されているものは、現象面として生じたその結果をしか見ることができない。

 

宇宙の始まりも物質の生成も、すべては同じものから生じて、ただ名前を異にし、名前を付けるから、それをわれわれが異なったものとして認識する。

 

この同じ根源は名づけようもなく、微妙でうすぼんやりしている。このうすぐらい根源こそがすべての妙なるものが集まる門である。

 


【解説】
すべての宗教・哲学は宇宙の生成について語る。老子もまず宇宙の始まりを説明しようとして、老子において重要な意味を持つ「道」に言及する。しかし、その説明が相対的観念のもてあそびになってしまうことを老子は恐れる。だから、彼の説明は独自の方法を取る。

 

「道」とはすなわち歩んでいれば万人をいずこかへ載せ連れていくものである。「道」は太古の初めから存在するのであるから、彼がやるべきことは、万人に「道」を指し示し、その入り口がどこにあるかを教えることである。


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2018年10月 5日 (金)

『老子―もう一つの道』

この小考察の題名を『老子―もう一つの道』と名付けることにしたのはわけがある。「道」とは老子が理想とする本源的なものであり、老子哲学の真理がそこにある無二のものである。それをなぜ「もう一つの道」と呼びなしたのであろうか。もとより老子の「道」の重要性をおとしめる意図はない。むしろ逆である。

 


西欧に発した近代文明が世界を覆っている今、誰もが、どこの国の人もが、近代的な尺度での豊かな暮らしを求めている。しかし、西欧人が作り上げ世界に押し付けているこの制度の中では、所詮、規則を作った者たちが一番であり、他の者は後塵を拝するの他はない。

 

たまに、クラブの仲間に入れてもらえるよう、器用に自分たちを作り替える者も出てくるが、自分たちに似合わないことをやっているという違和感は抑えようがない。このルールの内で頑張っているうちは決して幸せになれるはずがない、もっと人として幸せになれる道があるのではないかと考え始める、少数の者たちが現れる。
私たち日本人は、幸い、というか、辛くも漢字文化を保ってきたので、老子の智慧へ近づく道が残されている。その道を探り、古の智慧を今日に広めることもできる。古より続く、唯一の道でありながら、世界の今日的主流から見ると、「もう一つの道」がいま光を得ることで、私たちに生きる方向の豊かな示唆を与えてくれると私は考える。


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2018年10月 4日 (木)

『老子』口語自由訳及び自由解釈への序

東洋の智慧の宝庫である先人たちの思想は、すでに学者の労作で精緻な字句解釈・逐語訳が世に流布しており、私たちはそこから大いなる益を受けている。学恩とも言うべきである。

古代の哲人がどのようにものを考えていたのか、それを後世にありのままに伝えるのは大事なことで、それでこそ現代人はいにしえの思想家たちとつながっていける。

 


しかしながら、専門家でない私たちが古の智慧を生かす道はどうあるべきであろうか。もちろん、古え人がどのようにものを考えていたのか正確に知ることが前提になる。今を生きる私たちの常識を当てはめて彼らを推し測ることをしてはいけなかろう。しかし、「死者のことは死者に任せよ」との言葉もある通り、昔の遺物をやたらありがたがることは、結局、それらをカビくさい祭壇に祭り上げ、命なき干からびたものにしてしまうだけである。

 


古の智慧を生かすには、今生きている私たちが、その智慧を今、内側から生き抜いてみることではなかろうか。私たちは古の智慧から生きる力をもらい、私たちが今生きている力は古の智慧に光を与える。常に智慧は命を吹き込まれ新しくされなければ、やせて枯れ細ってしまう。

 

私がここに、字句解釈や逐語訳にこだわらず、話の精髄を咀嚼した口語自由訳を世の人々の眼に触れる形でおいたのは、現代の私たちの命で古の智慧を輝かそうとし、そして古の智慧により現代の私たちが豊かな生を達成しようとの試みである。例えばキリスト教などを見るに一つの古いテキストを時代や地域に合わせて様々に改変・翻訳・翻案するなどして、常に命を吹き込もうとしている。そのような試みは東洋思想を体現すべきわれわれも見ならうべきであろう。ともすれば、伝統の智慧が失われ断絶しがちな今日の日本で、今日のアジアで、私たちの祖師たちが何を思い何を考えどう行動してきたのか、それを伝え、それを私たちのものにし、それを内面から生きることが今日特に必要なのではないかと考え、ここに現代に生きるわれわれが納得でき、そしてそれを生きることのできる自由な解釈を試みるものである。


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2018年10月 2日 (火)

外国語を学ぶ利点

仕事柄大学入試で用いられる英文を読む機会が多い。いろいろな英文を読んでいるとなるほどなとうなづかされることが多い。いい内容のものが多いので多くの人に知ってもらわなければ惜しい気がする。というわけで、私がこの場で紹介すれば、少しは世の中の役に立つのかなと思う。

 


立命館大学の入学試験の英語で「外国語を学ぶ利点」を論じている英文が出題された。利点をまとめてみると、

 


・2か国語以上話せる高齢者は認知症発生のリスクが少ない。
・バイリンガルの脳の集中力は高い。
・2か国語以上の勉強をすると創造性が増す。
・最初の外国語を勉強した後では、次の外国語を勉強するのがどんどん簡単になる。
・人間として寛容性が増し、多文化に対する受容力が高くなり、「文化的能力」が増す。

 

では、世界一外国語を学ばない人たちはだれだろうか。よく言われているようにそれはアメリカ人だ。世界中で英語が通じるので勉強しなくてもよいからというのも原因だろう。

 

外国語が苦手で勉強には苦しめられている人が多い日本人は果たしてアメリカ人をうらやましく思うべきだろうか。私はそうは思わない。アメリカでアメリカ人に日本語を教えた人の話を読んだことがあるが、アメリカ人は、どうして日本語ではこういう言い方をするのか、と言って文句をつける人が多かったという。確かに、日本語は世界的に見たら、不思議な言い回しの言語だ。主語を立てずに、目の前の風景を見たまま「きれい!」と言ったり、自分の状態をありのまま「疲れた…」と言えたりする。

 

しかし、外国語を学ぶというのは、まずはありのままを受け入れること、すなわち、その言語では、そういう言い方をして、それがその言語を話す人の世の中の見方なのだということだ。上で利点をいくつか挙げた最後の、人間の寛容性と他文化に対する受容性というのは、そういうことだ。

 

外国語を学べば、自分のものの見方は、たくさんあるうちの1つに過ぎないと、自分を相対化してくれる。相対化すれば、自分や他人のいいところも悪いところも客観的に見えてくるのではないだろうか。

外国語を学ばないアメリカが自己中心的な見方しかできなくなり、自国中心でいるのは当然と言えば当然のことなのだろうか。そして、アメリカに追随する日本の人たちも、自分たちが一番、絶対に正しいと思うのも当然と言えば当然なんだろうか。

 

昔から、言葉に興味を持ち、外国語の勉強も好きな私は、外国語勉強の楽しさを伝えていきたいと思っている。外国語を学ぶ人が増えれば、日本の社会の雰囲気も変わっていく。非寛容から寛容へと。


 

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