UA-92533382-1 よつば農場便り: 2018年9月

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2018年9月30日 (日)

科研費・反日

前回わたしは、杉田さんが執筆した「生産性がない人々」論文について書いた。国会議員の杉田さんについては、古い記事ではあるが、2018年7月2日に『河北新報』に掲載された国立天文台名誉教授 海部宣男氏の意見記事についても関連があるので、紹介したいと思う。

 

杉田さんの活動はこうだ。日本によるアジア植民地支配に関した研究者を名指し、講演や論文で反日的主張や研究成果を世界に向けて発表するような研究者に多額の研究費を出すことについて、文科省を批判したり、ネットや産経新聞などで研究者に「反日」のレッテルを貼り、攻撃を繰り返したというものだ。要は、国家の税金を使うのであれば、国家を礼賛する研究でなければならず、日本の悪口を言う研究には税金を投入すべきでないというものだ。

 

杉田さんの主張や考えは、安倍首相の考えに近いものであり、今の日本では杉田さんが主張した「生産性のない人々」論文と同じように、一定レベルの、いや多くの支持を得ている考えだ。

 

杉田さんの考えに対して、反論する側は、例えば法政大学の田中学長の「専門的知見に基づき社会的発言を行うものに対する恫喝や圧力であり、互いの自由を認め合い、十全に貢献をなしうる言論・表現空間を求める」主旨が記事には紹介されていた。


 

海部氏の反論のポイントは、「政権は国そのものではない」ということだ。「国」は国民全体のもの、民意で運営してゆくもの。時々の政権は一時的なもの。だから現政権が推し進める政策にたまたま合致しない発言・研究でも「反日」ではない。現政権が野に下って、与党を批判したら「反日」になるのか?ということだ。

 

そして海部氏は民主主義の根幹を考えるように求める。そもそも政権の批判が保障され民意による政権交代が可能なことが民主主義の基本。民主主義を掲げるのであれば、時の政権=「国」と同一視することはできない。政権に批判的なものを「反日」と呼ぶのであれば、安倍さんや杉田さんが大好きな独裁国家の中国や北朝鮮と同じになる、というものだ。

 

私自身は、海部さんの考えに賛成する。私自身は、日本の過去の悪いことは、いい面と同様に客観的に伝えるべきものだと思っているし、戦争のことも子供たちに隠したりしないで率直に見せたり教えたりすべきだと考えている。そうすることで結局は日本が国際関係の中でうまくやっていけることになり国益にかなうと考えているからだ。杉田さんから見れば私も「反日」だろうが、「国」を思う『愛国心』は同等かそれ以上だと思っている。


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2018年9月27日 (木)

新潮45の休刊を考える

杉田議員の投稿をきっかけに新潮45が休刊するということになったとの報を聞いて、残念に思うことがある。1つはこれが、左翼の言論弾圧ということで、左翼やリベラルを憎悪し、杉田さんたちを支援したり共感する多くの人たちを勢いづけてしまうことだ。

 

もう一つは、議論したり考えを深めたりする場や機会そのものが失われたのではないかということだ。杉田さんのような人は、考えを改めもしないだろうし、インターネットがあるので発言の機会そのものはあるのだろうが、杉田さんや氏に共感する人々の思想があって発表されるからこそ、それを乗り越えようとして、そのどこが違っていて、事実誤認があったりという指摘ができたり、それをきっかけに考えを深めていけたりできると、私は思うのだ。

 

私自身の思想や信条の自由が保障されていてほしいように、杉田さんでも安倍首相個人でも、自由に考え、基本的にはどんな思想でも持っていて良いと私は考える。問題は、若い人たちや態度保留の人たちそしてこれからこの社会にやってくる人たちに、どの思想が受け入れられていくかということだ。思想や主義・信条の問題は決して小さくはないと思う。社会全体の雰囲気や住みやすさそのものを決定する。少数者や異質なものを排除する思想が力を得れば、そのまま社会もそういう社会になる。

 

思想も政治も人気投票だから、暴力的でない手段で、支持者を多く獲得していき、その結果多数者が社会の雰囲気を決める。押し付けられる思想でなく、その人が選び取り勝ち取った思想こそが、行動のもととなるという点から言うと、すべての思想に発表の機会があり、それを基に議論が出来て、支持者を獲得していく思想というのが、健全な社会には必要かと思う。


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2018年9月20日 (木)

(日本人の)形と精神

人間というのは形が精神を作っていくものである。お守りに手を当てる。ある礼拝の対象に対して手を合わせて祈る。こういう人の姿を思い浮かべてほしい。


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2018年9月16日 (日)

安倍首相は保守ではない

保守の論客、中島岳志氏の論考をいくつかの新聞で目にした。面白いと思ったので主旨をまとめてみる。

まず氏は、戦後の有名な保守の論客、福田恒存さん、山本七平さんらの思想を分析する。そして、彼らが保守とはいえ、大東亜戦争に極めて懐疑的な見方をしていて、戦争に至るプロセス、イデオロギーに同調できなかったということに気づく。彼ら有名な保守論客は軍隊・戦争経験があり、軍が冷静な分析ができなくなりリアリズムが消え、大言壮語ばかりはびこる「空気の支配」の非論理性を指摘していたという。そして、アジア諸国が独立したのは日本のおかげだとする東亜解放論に対して、保守論客の林健太郎さんが「歴史の事実に反している」と指摘したことを示す。

この点からして、安倍首相の登場と牽引でますます勢いづく「大東亜戦争は正しかった。解放戦争だった」という歴史修正主義は保守本流ではないことを、中島氏は示そうとしている。そして、鶴見俊輔さんの「戦争に至ったのは、日本が保守化したからではなく、保守が脆弱だったからだ」という言葉を紹介する。

さて、では、本当の保守とは何かを、中島氏は論考する。本当の保守とは、人間の理性は完全でないと考える。だからこそ、立場の違う手と対話、議論し、相手の言い分にも利があると見れば、調整・妥協する。というのが本当の保守だというところに、私も共感した。これは、国民が安心して彼らを支持していた、(大鵬や巨人軍と同じくらい自民党を)昔の自民党の黄金時代に当たると私は思う。中島氏も大平首相を引用する。大平さんは、政治は60点でなければならないと言っていたそうだ。その意味は40点は相手に点を与えてもいい、でも60点で結局勝ちは勝ち、ということだろう。

では、真の保守から見た安倍さんはどうか。安倍さんは「この道しかない」と周りを見ないし、相手の意見はもちろん聞かず、一方的に自分の意見を言い募る。敵は完膚なきまで叩きのめさなくてはならないので0対100で勝とうとする。本当の保守ではなく、やはり祖父の岸氏の路線を目指す、戦前軍人政治だという。岸氏は2.26事件の思想的バックボーンの「国家社会主義者」北一輝を尊敬し、天皇中心の国家改造をめざす革新官僚で、満州で統制経済の理想国家を作った。

保守が共感できない安倍さんの政策として中島氏は、環太平洋連携協定、働き方改革、残業代ゼロ、水道民営化、種子法廃止などを上げる。どの政策も、「日本を守る」を捨て、日本の国民、国土、自然、生活を犠牲にして、もっと何か大きなものにそれらを生け贄に捧げようとしているようにも、私には思える。もちろん安倍さんには、私が見えない、もっと深い知恵があって、これらの政策は素晴らしいと言っているのだろうが。

近頃の安倍さんが滑稽にも似てきたのは、北朝鮮のキム委員長のような独裁者だと私は思う。トランプさん、プーチンさんらともとても親和力がある。自分を礼賛するものだけをまわりに集め、気持ちよく礼賛の声だけを聞いていたい、というところが新興宗教の創始者とか名誉会長などとも親和力がある。そういう礼賛に気持ちが醒めてしまう私のような人間には、これから生きにくい時代が来るだろうなと、うすら寒い気がするのだ。


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2018年9月 9日 (日)

読書ノート

(過去の記事の再録です)

電車通勤することの良いことの一つは本を読めることだ。いま網野嘉彦氏の「日本社会の歴史」(岩波新書)を読んで、南北朝の騒乱、足利義光の将軍就任まで来た。網野史学の特徴は

・西日本と東日本の歴史や社会の成り立ちの根本的に違うことを強調すること。
・日本の社会には、海上民、山民、女性の商売人などの非農業民である自由民がたくさんいたことを強調すること。

これが特色だろうか。この史観によって、硬直的でつまらない歴史の描写を、躍動的で生気あるものとして描くことに成功していて、読んでいて面白い。これを読むと、農業にこだわらず自由に生きるのもいいかなと思わせられるし、関東に生まれ東日本でしか暮らしたことしかない東男の私も西日本に住んで、その独自な世界に触れてみたいという気もしてくる。

歴史が教えてくれること、それはこの世に変わらないものがないということだ。権力の交代を見ても分かるように、驕れるもの久しからずで、必ず衰退と没落が待っている。となると、戦後社会に絶大な権勢を誇り社会を牛耳ってきた電力会社に、やや衰退の兆しが見え始めたのだろうか。

権力が衰退するとき、権威を盲信する人たちの間に疑問が芽生え、権威を支えてきた神話が通用しなくなる。網野氏の著作を見ると、日本の社会や人々は動乱・混乱を通して生き生きとその生のエネルギーを発散してきたことがわかる。それに比べると、今の日本人は本当におとなしい。電気を選択することを選べず、不当に高い料金を要求されても、何も怒らず、電力会社に反対する意見はマスコミに一切登場することができず、少しでも批判する芸能人は仕事を奪われるような、異常な事態を素直に受け入れてきた日本人の、祖先がこんなにも活き活きと生きていたのかとわからせてくれる網野史学の最終巻ももう少しで読み終えてしまう。


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2018年9月 6日 (木)

読書ノート

(過去の記事の再録です)

高校生に小論文を指導する仕事のためということもあって、加藤周一氏の著作を読んでいる。(加藤氏の著作は大学入試の現代文・小論文では根強い人気がある)。昨日は、戦前・戦中の知識人の戦争責任を論じたところを、非常に興味深く読んだ。なぜなら、原発事故以来の、言論統制や世論操作が日中戦争・太平洋戦争戦時下の状況を思いこさせないではないからだ。

戦前・戦中の知識人の言い逃れとして絶対に許されないのは、「私も知らなかった」「私も国民と一緒にだまされていた」と言うことだ。国民の一部が政府にだまされ、そしてろくに情報も与えられない状況下で、この戦は聖戦であり、絶対に勝つと信じていたのはある程度やむをえないだろう。しかし、それは知識人であれば、絶対に言ってはいけない言い訳だ。(原発事故が収束せず、国土が汚染され、それでも電気業界、政治家、官僚が原発を推進しようという状況下で、知識人は事実を知らなかったで、済ませられるのだろうか)

「知らなかった」では済まされない戦前・戦中の知識人はどうしたか。積極的に反対するにはまったく言論の自由はなく、投獄される恐れがあった。こんな戦争は間違っているし、絶対に負けると思っていたものは、沈黙した。そうでないものは、積極的に賛成の言論を公にした。こうして、知識人、文学者、芸術家たちが「○○報国会」などと組織され、政府の戦争に協力していく。(原子力安全PRに駆り出されて電力業界の広報誌や新聞の広告欄に登場した有名人たち)戦前・戦中の彼らの言論が記録として残っている、というのが今の我々にはありがたく、参考になる。それを見れば高見順が何を考え、亀井勝一郎が講演でいかにひどい発言をしていたかがわかる。

もちろん、我々は戦争責任をしっかり考えてこず、あいまいなままに終わらせてきた。(1億総懺悔で、おしまい)。だから、また、同じことが今、繰り返されているのだろうか。今、我々が、しとくとよいことは、知識人・専門家の発言や行動を記録しておいて、後世に伝えることだ。どの知識人も専門家も5年後10年後に子供や人々が病気になっても、誰も責任を負おうともしないだろうが、言動を記録し後世の人に評価してもらい、後世の人がどう考え行動するべきかの指針にすることが出来る。そうすることにより、同じような悲劇を防ぐことが出来るかもしれない。

福島県立医大の副学長に就任し福島県の健康を守る立場になった山下氏は「100ミリシーベルトまで放射線を浴びても平気」と発言した。脳トレで有名な東北大の川島氏は、今、宮城県から頼まれて宮城県中を講演して、安全だから大丈夫と発言している。今は、幸いにインターネットやツイッターがあるので、知識人や専門家の言動を、多くの人が監視し記録することが、戦時中よりもはるかに容易になっている。


参考:加藤周一『日本人とは何か』講談社学術文庫


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2018年9月 2日 (日)

中国の地下鉄事故

(過去の記事の再録です)

 

日本のマスコミでは中国の地下鉄事故を伝えている。私が思うに、事故があったという客観的事実をだけを伝えればよいのであって、そのほかの中国政府や地下鉄当局の対応の失敗を批判的に論評するところは余計だ。当局の問題は中国人民が知恵を出し改善し対処していくべき問題であって、日本人が云々する問題ではない。こうした日本のマスコミの中国報道の姿勢には、何か大事な問題を日本国民の注意からそらさせる意図があってなされているように思える。中国が格好のスケープゴートにされているのだ。

 

日本国内のもっと大事な問題、例えば日本の電気料金の歪んだ仕組みなどをなぜ、日本のマスコミは取り上げないのだろう。日本の電気料金は、発電コストの総量に例えば8パーセントのような定率を上乗せして、国民に請求していいことになっている。コストに定率の利益率を上乗せして、売価を設定するのが許されるなんて、このグローバルな資本主義の時代に許されるのだろうか。一般企業であれば、市場によって形成された価格を上回らないように必死にコストを下げようと努力をする。もしくは、市場価格より高くなるのであれば、消費者がそれに納得するだけの付加価値をつけようと必死になる。

 

ところが日本に数社ある独占エネルギー会社では、コストはいくらでも掛け放題、むしろコストが嵩んで莫大な費用になればなるほど定率で掛け算したときの会社の儲けが大きくなる。原発の発電コストが安いというウソの計算をしているのは、反対派を黙らすときだけの方便であって、原発は建設費用も、廃炉費用も、核廃棄物処理費用も、維持費も、政治家に対するキックバックも、とてつもなく金が掛かることは、電力会社自身も知っているが、むしろコストが掛かることは大歓迎。毎年、会社で50人官僚の天下りを受け入れ、一人年収2000万あげても、ぜんぜん痛痒を感じない。なぜなら、掛かったコストは全部足して発電原価にして、それに定率を上乗せして国民に売電すればいいからだ。

 

こうして、世界で一番高い電気料金が生み出されるのであるが、あたかも、原発がとまってしまっているので電気料金が高くなる、原発をどんどん作って稼動すれば電気料金が安くなるかのような幻想を与えていることの責任を、日本のマスコミは感じないのだろうか。


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