UA-92533382-1 よつば農場便り: 2018年8月

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2018年8月29日 (水)

疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出されけり

表出歌は、平成9年の御製。

 

この歌を知ったのは、8月21日付の『河北新報』で以前より歌人で生物学者でもある永田和宏氏が、平成天皇の御製を解説する連載をしていて、その記事を読んだからだ。

 

この船とは、「対馬丸」。太平洋戦争末期に沖縄の児童を疎開させるということで長崎に向かうところをアメリカの潜水艦に撃沈されたものだ。

 

永田氏は、その経緯についてもわかりやすく解説してくれる。サイパン玉砕の次は沖縄と見た政府は学童を本土に疎開させる指令を出したのだが、当時すでに沖縄周辺近海はアメリカ潜水艦が跳梁跋扈する海域で、多くの親は疎開に躊躇したという。それを政府は「軍艦で行く」「護衛艦も一緒だから大丈夫」と半強制的に疎開させたのだという。

 

対馬丸は撃沈されたが、軍艦と言われた船は実は貨物船であり、護衛艦2隻も逃げてしまった。対馬丸の撃沈は軍の機密とされ、生き残った児童が家族に問われても泣きながら「知らない」と答えたという。

 

陛下自身も疎開の体験があり、慰霊と鎮魂の旅を続けてこられた。対馬丸記念館を訪問されたとき館長に「護衛艦は救助に向かわなかったのですか」「そういうときには助けないという、そういう決まりになっていたのですか」など多くの質問をされ、館長は言葉に詰まったということを永田氏は記事中で伝えてくれている。

 

このあと永田氏の記事が秀逸だったのは、この対馬丸のことから、安倍さんの「特定秘密保護法」や「集団的自衛権の行使容認と自衛隊の海外派兵」に目を向けさせてくれたことだ。集団的自衛権の容認では、安倍さんはしきりに、在外邦人が船で避難するのを救うというイメージを振りかざしていた。

 

常に戦争は国民を保護するとの名目で行われるが、本当に国民は守られるのだろうか。過去の教訓から顧みれば、最初に切り捨てられ見捨てられるのは「国民」ではないだろうか。身近なところでは福島の核爆発事故でも、守られているのは常に国民ではない気がする。

 

自分の考えも口にできない時代がやがて来るかもしれないが、この大事な時に自分の意見は表明しておきたいと思う。いや意見というよりは感情表出に過ぎなく論理はないが。安倍さんのように信頼できない人が、国を守るためと言ってもやはり信用できないのだ。野党は、森カケ問題のような些末でどうでもいいことを取り上げるのではなく、中国や北朝鮮の脅威を見ろという人もいるが、公正というルールも政治家として守らない人が、人の意見も聞かず、まともに人として受け答えをせず一方的に自分の意見だけを言い募る人が、信用できないのだ。安倍さんが国民を守ると力説するからには、いざとなったら国民を守るということなどせず、アメリカのために自衛隊員の命が捧げられてしまうのではという懐疑がどうしても生じてしまうのだ。

 

だから、憲法については内容を考えたり、考え直すということについては反対ではないが、安倍さんのように信頼できない人が主導する憲法改悪は、国民の自由や幸福が守られなくなると思うので、感情的に反対だ。少数意見だとはわかっているが、論理的には説明できなくても感情的に反対だという人だって多くなれば、勢力になって安倍さんの憲法改悪に反対できる。


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2018年8月25日 (土)

定常社会

(過去の記事の再録です)

人口も増えない、経済的な発展もないという「定常社会」ではなぜいけないのだろうか。この社会というのは一体、常に右肩上がりで発展し続けなければいけないのだろうか。大切なのは、生活の中身であったり、その生活の中でそれぞれの人が感じる満足度ではないのか。常に経済を成長させ、国土を改変し続け、莫大なエネルギーを投入し、たくさんの消費財を生産し消費する、これは戦後日本の社会のモデルで、男たちが主導した。(自民党を支持し、原発に賛成し、明治時代の青春群像を描いた司馬遼太郎の小説を好む男性たちが)

こういう男性原理が主導した社会モデルが今、転換する時期だ。自分が所有する車や家を欲しがらない若い世代が出てきたことがその証左だ。人口減、人口の高齢化、国家財政破綻などの要因により旧型モデルは必然的にも没落していくが、私たちには意識的にも、日々の暮らしの実践や選択の中で、モデルの転換を推し進めなければならない。


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2018年8月24日 (金)

愛と平和―包摂の思想

(過去の記事の再録です)

 

原発を東京のような人口密集地に作らず、辺鄙な過疎地に作るのは、事故があったときの被害をこうむる人数を考慮してのことだと一般に言われている。1000万人が放射能で死ぬよりも、1万人が放射能で死ぬほうが被害が少なくてすむというわけである。だが、政治家たちをはじめ原発推進派の発想はそうじゃないと思う。彼らの発想の根底にあるのは差別の思想だ。東京などの大都市が人数が多いので原発を作らないというのでなく、辺鄙な田舎に住んでる愚か者なら死んでもいいと思っているから過疎地に原発を作るのだ。原発はもともと人殺しの道具である原子力爆弾を作るために作ったもので、日本に原発を導入した中曽根氏がもと帝国軍人だったことは、原発が「戦争」や「軍隊」の発想を受け継いでいる証拠である。(原発が原爆・核武装のために必要だということは、自民党の石破氏がニュースステーションのインタビューで答えていた。自民党は「戦争」「軍隊」の発想を受け継いでいる)「戦争」「軍隊」の発想は「包摂」の思想ではなく、差別と切り捨ての思想である。国家や国の指導者が勝利するためには、弱者や一部のものは必ず切り捨てられる。切り捨てる決心がつかなければ勝者になれない。原発は「戦争」「軍隊」の発想と切っても切り離せない。原発を維持するためには、下請け労働者に被爆させ病気で死んでもらう。そんな瑣事にかまっていれば原発は回らない。原発は田舎に建てて愚かな田舎ものは死んでも何の痛痒も感じない。中央国家と指導者が勝利して栄光に包まれればよいのである。

 

原発推進派の思想にどうやって克つのか。それは、ジョンレノンが唱えたように「愛」と「平和」の思想しかない。まずは手始めに、電力会社の社員にこちら側への投降と帰順を呼びかけよう。「戦争」「軍隊」の発想のように手荒い言葉と利益誘導や脅しでは、彼らを包み込むことはできない。「愛」の言葉で、こちら側へおいでよといおう。「君たちだってつらいんだよね」「仕事がなくなったら不安だよね。でもね、みんなで新しい仕事を考えて、君たちが困らないようにしようよ」と優しく呼びかけよう。「愛」と「平和」の思想で、推進派の内部を瓦解させよう。上関原発で中電の職員が反対派の漁民に「こんな儲からない仕事してないで、原発で働きなさい」と呼びかけていた。その中電の職員の父母ももしかしたら、田舎で農業をやっているかもしれない。みんな事情を抱え、矛盾を感じつつも仕事をしているのかもしれない。だから「愛」と「平和」の思想でこっちに来なさいと優しく包み込んであげよう。


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2018年8月23日 (木)

アキレスは亀を越える

(過去の記事の再録です)

 

学問的厳密さを求めたら、チェルノブイリの原発事故はガンを引き起こさなかったことになるし、今度の福島原発の事故による放射能汚染も人体への影響は認められないということになる。

 


だが、私たちは毎日生活をし、生きていかなければならない。この毎日の生活の中では、アキレスは決して亀を超えられないと学者が言っても、アキレスは亀をやすやすと超えていかざるを得ない。


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2018年8月22日 (水)

原発文学

(過去の記事の再録です)

 

日本文学―源氏物語にせよ、谷崎の「細雪」にせよ、川端の「雪国」にせよ―は、西洋文学的な意味では見せ場もなければ、盛り上がりもなく、思想もない文学である。春になったら花見に行って、夏になったら涼みに行って、秋になれば紅葉狩り、冬になれば雪が降るという年中行事とその永遠の繰り返し、そしてその舞台の中での「もののあはれ」と自然と人間の交情が描かれているだけ。だが、こういう日本文学の「もののあはれ」という伝統が3.11以降、本当に大事になっている。人為的ミスによる原子力事故の目に見えない恐怖が突然人々の日常生活と幸せを奪うということがわかった3.11以降、日常生活の中の「もののあはれ」を描く日本文学の伝統が、今こそ求められている。

 

原子力推進派の政治家、官僚、財界人は、文学なんて一銭の得にもならなければ、誰の腹も満たさない、というだろう。「もののあはれ」の文学よりも、過疎の町に原発を建てれば、(放射能被爆する下請け労働者も含めて)3万人の雇用を生むんだ、とうそぶくだろう。

 

だが、日常生活の幸せな営々の繰り返しが明日も続く保証がない、突然放射能の恐怖によって断ち切られることがわかった今こそ、「もののあはれ」の文学の大切さを認識すべきだ。

 

ただし、3.11以降の文学は、もう以前の文学と同じではない。広島、長崎の後に「原爆文学」があったように、3.11以降は「原発文学」があるし、それに取り組むのが文学に携わるものの義務だ。


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2018年8月21日 (火)

(過去の記事の再録です)

復興庁の事務次官の官僚さんが、「左翼のくそども」「田舎の議会」などとツイッターで発言し、解任された。ぼくは、官僚さんがどんなことを言おうが構わないとは思っているが、この件では、今の官僚さんは昔と比べて、「余裕がないのでは?」ということを感じた。

 

日本の一流の官僚さんだったら、絶対に自分のほうが優秀で上の立場の人間だとわかっているから、「左翼のくそども」から何か言われても泰然自若としていて、「しょせんは負け犬の遠吠えだろう」と心の中で冷笑していただけだっただろうに。それを彼みたいに、同じ土俵に立って「左翼のくそども」の発言を受け止めるから、ついツイッターでつぶやきたくもなるのだ。

 

ぼくは「官僚主義」にとても興味がある。自分の中の文学的テーマだと思っている。「官僚主義」は「愛」とか「友情」とか「嫉妬」とか「暴力」とかと同じように人間の本質を構成する。だから、あなたも、そして私も、もしその立場になりさえすれば立派に「官僚主義」を発揮できると思っている。

 

「左翼くそ野郎」の官僚さんをはじめ、古今東西にいろいろな官僚がいるが、ぼくは聖書の中に出てくる「ピラト」が、一つの典型的な官僚主義者だと思って、何とかこの人のことを含めてドラマにできないかと思っている。紀元前後のころと言えば、世界にはたった2つの大帝国しかなかった。「ローマ」と「漢」だ。大帝国を効率よく統治するために、人間が人間の本性に根差して発明した制度が官僚統治機構だ。人間の歴史という大きな観点から見れば、これは「言葉」や「農業」の発明と同じくらいの偉大な発明だったと思う。「ローマ」と「漢」がなぜあれほど優れた国家へと発展できたかというと、それは紛れもなく優秀な官僚制度が存在したからだ。

 

さて、ピラトはローマ本国から派遣されて、属州支配の総督官としてユダヤにやって来る。ユダヤは当時札付きの属州だ。宗教的にうるさい民族でなにかと統治するのが難しい。しかし、こういうところを無事に治めきると、(というか、自分が担当者としているときに業績が上がることよりも、「何事もおこらない」というのが官僚にとってはとても大事なことなのであるが)、官僚としてのピラトの経歴にも箔がつき、次のもっと実入りの良い属州へと転勤できるのだ。

 

案の定、ピラトの就任中にユダヤ人が騒ぎを起こす。ユダヤ人の司祭が、ユダヤの王を僭称する頭の狂った青年がいるので、処刑にしてくれと訴え出てきたのだ。そう、イエス・キリストのことである。もし、これが本当であれば、王と名乗ることはローマへの反逆となり、それを見逃せば官僚としての自分の傷にもなる。しかし、ピラトが事件を審理して見ると、どうやらこれはユダヤ人どうしの宗教的な内紛で、ローマの統治と官僚としての自分には関係のない事案だということが判明するのだ。

 

イエスがそんな大それた反逆をするような人とも思えなかったし、罪があるとは思わなかったが、ピラトはユダヤ人司祭があんまり「死刑、死刑」と騒ぐものだから、「本当にいいのか、俺は知らんぞ」と言って仕方なく死刑判決を出す。イエスを死刑にした方が、ローマのユダヤ統治にも官僚としての自分の経歴にも有利と判断したからのだろうが、さすがに人間ひとりの生命にかかわることなので、自分は「一個人の人間としては」無関係ということを象徴する動作として、手を洗う。

 

ここだ、ぼくが真の「官僚主義」が発揮される場面として、とても印象深く覚えているところは。「官僚主義」というのは組織としてのある方向性を持った判断であり、一個人の人間的な裸のレベルから出てくる考えや行動ではない。「左翼くそ野郎」の官僚さんは、そういう意味であまりにも、人間的過ぎたというか、官僚らしくないというか…。「左翼のくそ野郎」どもに何を言われようとも、鉄壁の官僚主義で守られている人には、人間の生の声は届かないはずなのに。


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2018年8月17日 (金)

原発労働者を撮る写真家樋口さん

(過去の記事の再録です。201.10.31)

昨晩は仙台で原発労働者の被爆問題をとり続けている、写真家の樋口さんの講演会を聞きに行った。原発の被爆問題は公式には存在しない。なぜなら、原発は安全だということに国の見解ではなっているからだ。また、原発内で浴びる放射線の許容量が高く設定してあるので、それ以下の被爆量で病気になっても法律上は労災ではなく、本人の気のせいか自己責任のほかの病気のせいなのだ。

大手マスコミも、電力や大企業の広告が止まるのが恐ろしくてこの問題は一切取り上げないが、樋口さんはずっとこの問題を追ってきた。お見受けしたところ高齢の樋口さんだったが、意気軒昂でそして未来の日本や子孫達を憂える真の憂国の志士だった。樋口さんがずっとこの問題を追ってきたように、確かに原発労働で被爆し、白血病やがんで命を落としている人がたくさんいるのだ。

誰かの犠牲でこの社会幸福が成り立っているのであれば、それは本当の幸福ではななく、表面的なものだと思う。世界全体が幸福にならなければ本当の幸福はないのだから。しかし、原発は、まさに誰か一部の人に犠牲を強いるシステムで、そのシステム自体の上に胡坐をかいて今の日本の社会が成り立っている。

原発の中の本当に危険なところで仕事をするのは当然下請けの労働者だ。電力本社の正社員は絶対にそんなキケンなところには立ち入らない。よくマスコミ向けに広報される、最新の計器類の前に座り監視モニターを見ているだけだ。

そんな危険な原発労働でも、せざるを得ない人が日本にはたくさんいる。特に今の格差社会ではそうだ。仕事にあぶれ食いつめた若者達に、手っ取り早くたくさん稼げる仕事だということで声がかかっているそうだ。そして、中には、海外旅行に行くための資金稼ぎにと、気軽に考えているものもいるということだ。


原発内の危険なところで働けば、体がだるくなり、食欲も落ちるという。それでも電力や行政は決められた被爆量の範囲なので何の問題はないという。しかし、どうだろう、そんなに安全というのなら、電力の社長や行政府のトップのかたがたは、その場所に1時間入っている勇気はあるのだろうか。


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2018年8月13日 (月)

悲しい風景―子供というのは…

(過去の記事の再録です 2009.12..18)

子供というのは目線が地面に近いせいか、生きとし生けるものの気配を大人よりも身近に感じ取れるのではいかと私は思う。少なくとも私は自分がそのような子供であったのではないかと思う。川をのぞきこめば淵にひそむ魚たちの息づかいがわかり、木を見上げればひそかにうろの中から私を見つめるやもりの金色の視線を感じ取ることができた。子供、いや本来人間は、有象無象の森羅万象に囲まれて暮らしていて、それらと交流・交感しながら生きているのではないだろうか。

いつしか、川はコンクリートの三面護岸工事がされ、ただ水がまっすぐ流れるだけの水路となり、生き物の気配が消えた。郊外の林・森・丘陵の木は一夜にして丸裸にされ、重機はむき出しの地面を平らにならした。経済発展の陰で、日本全国のここかしこに広がる悲しい風景を私は悲しんだ。どんな力が、私の大事な友達を、私の現実の生活にも夢の世界にもあらわれてくる目に見える・目に見えない、すべての生きるものの気配を消し去ってしまったのか。無力な私は悲しかった。私に何ができるか。

私はいま、小さな畑を耕している。草も虫もすべてそこにいてあるものを受け入れる自然農法をめざしている。悲しい風景を作り出す、力を持った彼らに比べると、私はあまりにも無力な人間だ。だが、私はこの小さな自然農法に大きな可能性を見ている。人間も動物も植物も石も土もすべてを平等に見て差別しない。私の小さな畑が、いつしか人が集まって学び合える場になることを夢見ている。そこでは、あらゆる人が世界中から集まって、自然のなかで、自然とともに、すべてのものと共存することを学ぶのだ。


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2018年8月11日 (土)

美しい日本の言葉たち ―映(は)える

われわれ日本人は単色を好むのではなく、色の組み合わせを好んだのである。そしてある色とある色との組み合わせが、互いに互いを引き立てることがわかると、そこに美しさを見いだしたのである。「映える」ということには、そこにさらに光の要素も加わる。わたしたちが色を認識するということは、その物体が、光の色帯のうちどの波長の色帯を一番多く反射するかということと密接に結びついているのだから、ある色の反射がある色を照らし、地の色になかった美しさをたたえるようになるのは当然なのである。そこにわれわれは美意識を育んできた。


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2018年8月10日 (金)

ごきぶりが…

(過去の記事2009/11/25の再録です)

ごきぶりがなぜあまり形をかえることなく何億年と生きのびているのか。それは、彼らが比較的単純な体の構造と生態を持っているからだそうだ。


複雑で大規模な機構はそれがうまく作用しているときは、驚くべき効果を発揮するものであるが、いったんわれわれの制御の外に出てれば、たちまちあやうく崩れ去る。われわれの生活の基盤となっている科学・技術文明などは、そういった類のものだ。そういった類のもののうえにわれわれの生活が成り立っているのだ。

単純、簡素なものこそが、結局は長い命脈を保つのである。


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2018年8月 8日 (水)

掘り立てのジャガイモのような言葉

(過去の記事の再録です)

 

賢治が好きで、そんなこともあって岩手の農民の間に3年間住んでいたことがある。賢治の言葉がどこから来たのか、それを私は探りたかったのだ。賢治の言葉。それは、読む人・聞く人の心の中にまざまざと高原を吹き抜けかりんの実を吹き飛ばす風といったような様々な心象風景を呼び覚ます。薄っぺらな生活をしていたのではあんな言葉は生まれないとは漠然と感じていた。自然の中にいて岩手の自然を相手に働いている農民はどうなのだろう。果たして、そこには賢治の言葉の世界が残っていた。一般に東北の人は口下手で、実朴だと思われている。しかし、彼らの間には、なんともいえないユーモアとおかしみをもった冗談が交わされ、賢治が用いたようなもうその状況にはその言葉しかないといったたくさんのオノマトペがあり、土のついた掘り立てのジャガイモのような言葉がごろごろところがっていた。

 

振り返ってみるとどうだろう。私たちは「言葉を紡いだり」「言葉を研ぎ澄ましたり」できるのだろうか。もう生活の中に丁寧に糸を紡ぐ動作もなければ、丁寧に農具を研ぐこともない。生活のなかから言葉が生まれないような状況で、いま私たちがしゃべっている言葉にはどのような力があるのだろうか。それは、人の心に届き、その人の心を掘り起こすような力を果たして持っているのだろうか。


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2018年8月 7日 (火)

公共工事に…

(過去の記事の再録です)

公共工事にやたら金をかけて日本全国,道路ばかりをよくすることが本当に障害者,子供のような弱い立場の人にとって役に立つ良いことだろうか。道路が広くまっすぐになることで,以前にもまして我が物顔で走り回るようになるのは車だけであって,道が良くなることで弱い立場の人々はますます追いやられてしまう。でこぼこ,未舗装,突然の行き止まり,曲がりくねったジグザグ道路,街路樹,道をさえぎる大樹,こういったものが多いほうが,交通弱者にも住みやすい町なのだ。


沖縄の名護には,実際に,道の真ん中に大きなカジュマルの木があり,道路のほうが遠慮がちに大木の両脇を迂回している。この木はヒンプンカジュマルと呼ばれ,沖縄の人にとっては信仰の対象なのだが,道路を通すために,木を伐採させない沖縄の人たちの高い見識に,まず敬意を払いたい。これが本土のことであったら,計画した道路をまっすぐ通すためには,たとえ一木一草たりとも生存することは許されないだろう。公共工事は図面の中でだけ計画され,実行に移され,実際の現場の状況に考慮して計画が変更されることは決してないのである。


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2018年8月 6日 (月)

家はその近郊で…

(過去の記事の再録です)

家はその近郊でしか取れない材を最大限に活用して,その土地,風土の気候に配慮して住みやすさを追求して建てるべきである。近代的な科学技術が発達する以前は,世界中いたるところで自然条件の制約もとに,風土に調和した美しい家々の風景を見ることができた。ところが,科学技術の発達とともに,世界中どこでも安価で均一な建築資材を手に入れることが可能になるにしたがい,また,冷暖房の普及でその個々の土地の気候条件を緩和して家屋内で一定の状態を作り出すことが可能になるにしたがい,風土に合わせたその土地固有の家々は姿を消し,代わりにどこに行ってもかわりばえのしない建築物ばかりが目につくようになったのである。もはや人は世界のどこに行っても外界の自然に左右されることなく,屋内で過ごすことができる。自然条件の制約から解放された家作りに残された問題は,人間の自由気ままな設計や外観の意匠だけであって,この放恣さが住居の密集する近代都市の特質を形作っているのだ。

また,われわれの衣類に付いての生活を考えてみると,やはり近代的な科学技術の普及以前には,原料については麻,綿といった天然素材,それを染色するには草木染といった天然染料しかなかった。いま,このような天然染料で染めた天然素材の衣服を身につけて,現代の都市を闊歩してみても,これらの衣服は気おされてしまったように,心もとなく見える。これらの衣類を着て家並み,街並みに調和していた時代は,やはり家並み,街並みのほうも地元から産出する天然材のみでつくられていた時だけである。現代の都市を形作る人工物とそれらを彩色する人工塗料があまりにも毒々しいので,天然素材をまとった人が調和しないのである。科学技術の発達につれて色彩は,明暗をよりどきつくし,鮮やかになる傾向があり,そしてこのことは一般大衆の心理に大いに迎合してきたことであるが,しかし,人間の感覚がより微妙に繊細にと発達したのではない。ことの真相は逆で,よりはっきりとした明暗をしか識別できない感官は,官能の衰えであり微妙な色や中間色や淡い色,そしてそれらの変化する段階を感じることはできない。このことは同じく,近代都市に人工的な大音響があふれ,テレビ受像機,音響機器の普及がもたらした現代人の聴覚の衰えについてもいえる。


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