« 2018年1月 | トップページ | 2018年3月 »

2018年2月26日 (月)

悲しい風景―自然の仕組みに学ぶ

(過去の記事の再録です)

生体の仕組みを解明し,生体に迫真するものを作れるようになる技術がそれほど偉大であり称賛されるべきとも思われない。生体と,それを包含する自然そのものの仕組みや維持,再生の過程そのものが偉大であり,称賛されるべきであろう。われわれは自然の持っている仕組みそのものを完全に再創造することを志向するべきではない。眼前にすでに,自然の仕組みそのものは完成しているのだから,われわれは,その自然の仕組みを,破壊せず,少し手を加えて利用するだけで十分ではないか。そうしてこそわれわれも生かされ生きてゆける。


にほんブログ村

2018年2月24日 (土)

雑感-読解力とは何か?

英文の読解を指導していてふと思ったこと。ちょうど、本年1月に行われた大学入試センター試験の英語の問題を高校生に向けて教える仕事があり、問題を解いていた。

センター試験の読解問題のねらいは、短時間に必要な情報を読み取るということだ。その中でも、発言者の一番言いたいポイントをつかむことができるか、という設問がある。テーマに沿って発言しているので、そのテーマに関して、発言者が最も強調したかったことや自説をつかむわけだから、たとえ、本発言中には触れられていても、些末な部分や具体例的なところにはこだおってはならず、あくまでも本筋を追うことができるかという読解能力を測る問題になっている。

今まで、私はこういう読解力を測る問題について、何ら疑問を持たずに来たが、生徒にとっては実はそうでもないということにようやく気付き始めた。もちろん、読解力や技術が未熟なうちは、どれも重要な情報に見えて取捨選択ができないということもあるが、問題としてもっと違うところを抱え込んでいる生徒たちもいるのではないか、ということに気付いたのだ。

ふつう、私たちは騒がしいパーティー会場でも、対面で会話している相手の話を聞き取ることができたり、後ろから呼びかけられれば気づいたりする。それは、脳が自動的に情報を取捨選択して、自分にとって必要な情報のみを取り入れているからだ。耳から入った情報が、すべて脳に入ってきたら、脳は音の洪水であふれ出して、苦しくてたまらない。ふつうの人はそうやって自然に、ノイズをキャンセルすることができるが、しかし、それができない人もいるということに、例えば東田直樹君の「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」という本を読んだりしてわかった。

本を読む、特に読解力を測る目的で試験として文章を読むということも、必要な情報だけを取り出すことで、不必要なこと、優先度が低いことは置き去りにして気にせずに読んでいくことだと、何の疑問も持たず私は考えてきたが、ある時生徒から「どうして今日の授業で、固有名詞の違いについて説明してくれなかったんですか、そこが不満です」と言われて、考えさせられた。英文中で出てくる固有名詞がとても重要な役割を果たすこともあるだろうが、大学入試で用いられる英文で、固有名詞がポイントになることはほとんどない。それは、そういう固有名詞を知っているかどうかを問う特殊な知識を問うことになり不公平だと考えるからだ。そういう特殊な知識がなくても、読解力という汎用的な能力を用いれば、読み進めていける英文しか使用しないからだ。だから、今まで、読解問題の指導で、固有名詞に気を付けて読みなさいという指導は一度もしたことはなかった。

さて、私がここで言いたいのは、その生徒を批判することでは決してない。私は、存在することをそのまま受け入れたいのだ。「普通」と自分たちのことを考えている私たちは、おそらく英文のミスプリント、例えば最初に出てきた固有名詞と2番目の固有名詞に1文字、違いがある、なんてことは気づかないだろう。そこは重要でないと、脳の中でキャンセルして、もしくは支障のないように補って読んでしまうからだ。ところが、ある特殊な才能を持った人や生徒はその違いに気づくのだ。何がいいのだろう。そして「読解力」って何だ、とわからなくなっている日々だ。


にほんブログ村

2018年2月19日 (月)

公平とは何か?

試験の公正とは何か、ということを考える機会があった。

例えば、日本で行われて人気の英語の資格試験では、英検のように、1回ごとの試験で合格・不合格を決めるものがある。それに対して、TOEICやTOEFLでは、合否はない。その代わり、受けた試験のスコアーが示される。これらの試験のスコアーは、大学入試でも本格的に使えるように検討されていて、何度も受験して、そのうち一番良かった結果を提出するということが可能だ。

さて、この一発勝負の試験について、例えば、大学入試センター試験のようにたった1回だけの試験で、その人の人生が決まってしまうのはかわいそう、という考えがある。その日、たまたま風邪をひいて実力を出せなかったりしても、1回きりではとりかえせないので可哀そうというのだ。

安倍首相も、確か国会で、大学入試改革についてはこのような趣旨の発言をしていて、今後大学入試は、複数回受験でき、そのうち一番いい結果が出たものを提出できるという方向になる。

しかし、公正とは何かということを考えてみると、例えばオリンピックのような競技大会。直近までの国際大会で、いつも1位を取っていたけど、たまたまオリンピックの時は体調なり、現地のコンディションとうまく合わず、表彰台に立てなかったとする。この場合、この選手は直近の大会まで1位だったから、オリンピックでも1位にしろという議論は、もちろん公正とは言えないだろう。オリンピックのような一発勝負に向けて、皆が調整してくるのだから、この一発勝負で是非を決するというのが、公正という概念には合うという気がする。

もちろん、この議論が「試験」にそのまま当てはまることはないと思うし、私の意図は安倍首相や教育改革の方向を批判しようというものではない。しかし、公正とは何か、という根本的なことが忘れられ、そこを議論しないままに、皆が各自、自分こそが正義だと思って、自分の考えと相いれない人は全否定する分断社会とかかわらせて、この問題を考えてみた次第だ。


にほんブログ村

2018年2月18日 (日)

悲しい風景―ふるさとを守る意味

(過去の記事の再録です)

「ふるさと」がその人の生まれ育った故郷の意味だとすれば,日本人の10人に1人が東京に住む現在,日本人のふるさとはいったいどこにあるといってよいのであろう。成人してから東京に流れ住んだ人には,後に残してきたふるさとがある。しかし,その流れ住んだ人の子供で東京生まれの人のふるさとはどこなのか。
 

今,東京などの大都市圏以外の地方では,過疎化と高齢化が進み,集落としての生活を維持できなくなって廃村が進みつつある。人間の営々とした営みと共に維持されてきた田畑や里山のある風景も,荒蕪に帰そうとしている。このような状況をどうすべきなのか。私は,こうした荒れつつある風景を日本人全体の「ふるさと」として守っていく必要があると思う。日本の原風景であり,日本人の心象風景を形作ってきた「風景」をこれから世にやってくる人のために守り,伝えていかなければならない。
 

東京のような都市景観が自分の生まれ育った「ふるさと」の風景になる人の割合が,今後ますます増えていくという状況下だからこそ,本来の「ふるさと」の光景が荒廃していくのは耐えられない。われわれ日本人の心を守るためにも,「ふるさと」の風景を守ることに力を注ぐべきである。
 


にほんブログ村

2018年2月15日 (木)

生の哲学―生と死と肥大した自我

(過去の記事の再録です)

死を特別なものとは見なさいないこと。死を特別なものと見るのは肥大した人間の自我意識のせいである。そもそも生命は人間も含めてすべての生きとし生ける動植物の間で平等なはずである。彼らの世界では生が日常であると同時に死も日常で,特別なことではない。普通のこととして生をも死をも迎え送ることが大切だ。


にほんブログ村

2018年2月13日 (火)

雑感―変わり者の存在意義は

(過去の記事の再録です)

小さいころから天邪鬼でした。人とは違ったことをやりたくなってしまうのです。一斉に皆がヨーイドンと走り出したとき,途中で転んでしまった子がいれば,気になって私も立ち止まり後ろを振り返ってみてしまうのでした。だから,話は飛ぶかもしれませんが,国を上げて原子力事業を推進しているときは,どうしてもその危険で不安な面に目をやってしまうのです。


 

 人類の地球表面上への拡散・進出・適応変化・生存という側面を考えてみたとき,昔は小さな集団で移動していたはずです。その小集団が移動するとき,皆があっちに行こうという時に,いやこっちに行こうという変わり者がいるわけです。おそらく,何千何万回の選択の機会の中で,「あっち」に行こうという選択が正しかったから,人類は今まで生きのびてきたのだろうとは思います。しかし,「こっち」に行こうという少数の選択がたまたま正しく,「あっち」にいった集団は淘汰され,「こっち」に行った少数こそが人類の命を継いできたという可能性もまったく否定することはできません。
 

 

遺伝的に多様であり,少数の変わり者を常に抱えている余裕があることが人類の生存にとっても,人間社会にとっても大切なことではないでしょうか。
 


にほんブログ村

2018年2月 9日 (金)

雑感―格差社会には代償が伴う

(過去の記事の再録です)

厚生省の元事務次官襲撃殺害事件が起こった。犯人は無職の男で官僚に対する憤りを口にしていると言う。自分が何度も会社を首になってうまくいかないことを日本を支配する官僚制度のせいにしていると言う。それが事実だとしたら,とんだ筋違いの逆恨みもいいところだろうが,この前起こった秋葉原無差別殺傷事件にも見られた共通性については考えておかなければならないと思う。


 

秋葉原の事件では自分が派遣社員でこの世に入れられなかった憤りを,何の関係もない人々へと振り向けた。今回の事件でも,自分が会社という居場所に受け入れられない恨みを高級官僚に振り向けた。原因とその結果の行動との間には常人なら決して越えはしないであろう一線があるのだが,現在,このように世の中から居場所をなくし疎外感を抱いている人が増えていることは事実ではないかと思うのだ。
 
よく格差社会と言われる。高級官僚が本省を退職するとき1億円近い退職金をもらい,その後1,2年ごとに関連する公益法人を渡り歩きそのたびに本給とは別に数千万の退職金を手に入れる。片や,派遣社員ではどんなに一生懸命働いても年収は二百万円にも満たず,しかも,突然明日からおまえはもうこの職場に来なくていいといわれる。このように格差とはまず経済的な格差や貧富の差が広がっている社会の状態を言う。


 

しかし,格差社会の問題は,単に経済的な格差だけではなく,多くの人を住みにくくし,居場所をなくし人を追い詰めるような社会だということにも注目しなければならない。社会がこんなにぎすぎすとしていなかった時代は,少し変わった人にもそれなりの居場所はあったのではないだろうか。そして,ある程度の人がぶらぶらしていてもそれを包摂できる社会的な余裕や優しさが社会のどこかにはあったのではないだろうか。
 
本当にそのような余裕がある社会がかつての日本にあったのかどうかは,歴史学者や文学者が調べてそれを描いてみる義務があると思う。そして,そのまま過去の社会に逆戻りすることはできないが,そこから学んだ知恵を新しい世の中に当てはめてみて今とは違った現実を作り出していく必要があると思う。


 
始めから結果が平等であるとわかっていれば誰も創意を凝らし一生懸命働こうとはしないだろうと格差を是認する考えもある。しかし,格差を容認することは,今回の事件が示唆するように「代償」も大きい。私がかつて訪れたインドネシアなども格差の大きい社会であったが,金持ちは貧民に襲われないように家の回りの塀を高くめぐらし施設警備員を雇っていた。格差を是認するからにはこのような経済的な「代償」も支払う覚悟が必要だし,無辜の人の命というかけがえのない「代償」も払い続ける覚悟がいる。


にほんブログ村

2018年2月 5日 (月)

悲しい風景―自然環境を守るための一つの戦略

(過去の記事の再録です)

政治家,官僚,企業に対抗する力をわれわれが真に持つことができるためには,われわれの側にも自然環境を守ることにつき,深い経済的利害を持たなければならぬ。相手方は,自然環境を壊すことで経済活動をなし,巨額な金銭を受け取り,かつ,自然破壊を恒常的な取り組みとする社会的な仕組みにより,常日頃からふんだんに給与や高額の退職金が支払われているのである。それゆえ,自分たちのなりわいと経済的な利害を守るため,あれほどまでにも,自然環境を破壊することに固執し,真剣にもなれる。


 

 一方,自然環境の維持を主張するわれわれのよりどころといったら,抽象的な理念やら,自然に対する浪漫的なあこがれとか,言葉ではいい表しがたい本能的な感情とか,そういった具体性に欠けたものにあることがしばしばなので,相手方との交渉や対決において迫力や真剣さ,持久力に欠け,負かされてしまうこともしばしばなのである。

 
 われわれが本気で相手方との戦いに勝つつもりがあれば,われわれは自然環境を維持し,そこから得られる経済的な利得に,もっともっと深く依存し,関与していかなければならぬ。環境保全型の農・林・漁業から,環境保全型の観光産業,あるいは原生林の土中に潜む細菌類の持つ将来の新薬開発の可能性といった,あらゆる経済的な利益を生み出すものとわれわれがもっと深く結びつき,われわれの生活と経済的な利害が深く関与し,そしてわれわれの利害と一致する仲間や家族がもっと多くなれば,われわれと相手方との力関係は,ようやく接近しうるようになるのではなかろうか。

 


にほんブログ村

« 2018年1月 | トップページ | 2018年3月 »