UA-92533382-1 よつば農場便り: 2017年12月

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2017年12月30日 (土)

雑感―女性たちの…

(過去の記事の再録です)

 

女性たちの貧困(2008年10月1日朝日新聞)という記事を読んで思った。派遣社員などとして働いている女性たちが生活が成り立たないほどの低賃金や不安定労働の中で苦しんでいることを紹介した記事だ。

 
・仕組みの外にいるわたしたちがどのようにして豊かに生きるかということが課題になると感じた。仕組みの外にいる人間にとっては豊かさが享受できない状況であることは男も女も同じだからだ。

 

・わたしたちは仕組みを応援し、仕組みが存続することにつながるようなものはなるべく購買しないようにする。例えば、大企業が独占的に販売し買わなければ困るような仕組みにさせられているもの。例えば電気などのエネルギーや海外からの安い穀物などをなるべく買わないですむのなら買わないですむ工夫をする。

 

 


・わたしたちが依拠するものは自然であることを自覚する。自然はわたしたちに仕組みの中の豊かさとは違った豊かさを与えてくれる可能性を持っている。

 

・豊かになりたいと思っているのは、仕組みを作り上げ仕組みの中にいる人たちも、仕組みの外にいる私たちも同じである。しかし、その「豊かさ」のとらえ方にずれがあることを意識する。

 
・だから、わたしたちを豊かにしてくれるはずの自然を壊そうとする仕組み側の動きに対しては、おかしいと思ったのなら声をあげ行動するか、抗議のこもった不服従を貫くこと。


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2017年12月26日 (火)

悲しい風景―彼らはもちろん

(過去の記事の再録です)

彼らはもちろんわれわれが嫌いであろう。われわれももちろん、彼らとは相容れない。こうして何の共通点ももたないと思われる彼らと、私たちではあるが、彼らとて、日本のために良かれと思って、せっせせっせと山を削り、谷を埋め、ダムを作り、海や干潟を埋め立てたりしているわけである。我らは我らなりに、日本の遠い将来とそこに住む孫子のためを思って、彼らのやっていることに反対しているわけである。だとすれば、日本を愛するというこの一点では、彼らもわれらも変わらないのである。

しかし、彼らにとってはわれわれは虫けら同然。彼らには権力があり、地位があり、金があり、給与があり、安定がある。われらには、権力もなければ、身分もなければ、金もない。彼らにたてをついたってはじめから勝負はないのである。



しかし、われらは自然の恩恵を受けて生きている。だから、われらが生きる基盤が失われるのであれば、たとえ小さな声でもあげなければならない。

彼らは、社会や経済という制度と利権に生かされ、その恩典で生きているから、その社会や経済の仕組みを必死になって守り抜く。



多くの人がもっと自然に依存しその恵みで生きれば、何も彼らの権力や金力を恐れることはない。彼らは張子の虎で、われわれは彼らにおもねって何かを恵んでもらうということもないのだ。われわれが、謙虚に頭を垂れるのは、我らを生かしてくれる自然だけで事足りるのだ。



こうして、われわれは自然に生かされて暮らしている仲間を増やしていくことだ。そうすれば、各地で仲間達が、自分達の暮らしを守っていってくれるだろう。彼らの付け入る隙はなくなる。


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2017年12月25日 (月)

大きな人工物は…

(過去の記事の再録です)

 

大きな人工物はみにくい。小さな建物こそがよい。


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2017年12月24日 (日)

ロシュフォールの恋人たち

ジャック・ドゥミ監督のミュージカル映画「ロシュフォールの恋人たち」。双子姉妹が歌う曲を聴くと、思わず体を動かしたくなる。こちらの方は「シェルブールの雨傘」と違って、歌と踊りの要素が強い。鍛え上げられた踊り手たちの肉体を見ていると、勝負にこだわるスポーツに体を使うのではなく、こういうふうに芸術に体を使うというのはいいことだと思う。

年賀状を買おうとしたら、今年はオリンピックへの寄付はがきが売られていた。私は東京五輪に賛同していないので、寄付付きはがきを買うのは嫌だった。オリンピックは国威発揚や特定の政治的動向への道具として利用され、純粋に練習に励んでいる運動選手が気の毒だ。

サッカーや近頃では野球など、メジャーなスポーツは、特に愛国心をかけての戦いで、勝ち負けが国家の偉大さと比例するかのようだ。だから、スポーツの勝ち負けは見ていると胸が苦しくなるが、歌や踊りには、原則勝ち負けがない。どんどんうまくなるように突き詰めていけばいいし、それで見る人聞く人も賛辞を惜しまない。誰も傷つく人もない。世界が、歌って踊ってるようになれば、平和にもなるのだろうが。せめて、私はミュージカルでも見よう。


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2017年12月20日 (水)

シェルブールの雨傘

仙台の街中映画館「桜井セントラル薬局」ホールでは、ジャック・ドゥミ監督の作品がかかっている。名画だけでなく問題作品も上映する貴重な映画館だ。権力者の意向を忖度して作品を選択するなんてことはしないだろうけど、やはり問題は「経済的」なことだ。お客さんが入って維持されていかなければよい志のことも続いていかない。それが、いつも気にかかることなのだが、さて、ジャック・ドゥミのミュージカル映画「シェルブールの雨傘」「ロシュフェールの恋人たち」、素晴らしい音楽は気持ちも軽くなる。

カトリーヌ・ドヌーブについ見惚れてしまうが、彼女は今でも現役の女優さんでマスコミやインタビューアーからは、気難しい大物女優さんということで恐れられている。そして「意志的な」という形容詞で語らえることが多いので、ついそういう目で彼女の目や顔立ちを見てしまう。しかし、これらの映画が素晴らしいのは、もちろん理想の美男美女ばかりの俳優さんたちなのだが、心の機微に従って、表情が変わること。その一瞬のきらめきまでも捉えることができる映画ってそうないだろう。いわゆる「きれいな映像」という映画はあるだろうけど、それは映画や演劇の力で撮ったものではない、自然の力とかもともとあるものの力だ。でも、名画というのは違うというのを認識させられた。「桜井セントラル薬局ホール」ありがとう。がんばって。


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2017年12月18日 (月)

植物の智慧

(過去の記事の再録です)

二本の足で自由に移動できないからこそ、植物は人間と違って、いや人間以上に、その土地の風土に適応し、うまく生きてゆくための工夫をし、智慧を身につけた。長い長い時間的な観点から見れば、植物の智慧は、人間の智慧をはるかにしのぐ。


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2017年12月17日 (日)

自然かわれわれの生活か…

(過去の記事の再録です)

自然か、われわれの生活かという二者択一をせまる問題の立て方はやめよう。干潟の干拓に反対する人たちに向かって、「ムツゴロウの保護と、われわれの生活とはどちらが大事なのか」といった人がいたが、このような人の目にはどこまで行っても人間の便利な生活と永続的な利権のみが最優先で、それらは決して自然と相容れるものではないと映る。ムツゴロウも人間も等しい立場で自然の一員であり、ムツゴロウが住めないような自然であれば、やがてはわれわれ人間だって住むことができなくなるということがわからない。目の前の一身上の利益のみに執着して、子の代や孫の代といった長い目で見ての事の当否を考えられない。だから、「ムツゴロウか、人間か、どちらをとるのか」という短絡的な考えに陥りやすい。「ムツゴロウも、人間も」と、時系列的に長く、そして空間的な広がりを持って思惟できるようになることが肝要である。


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2017年12月14日 (木)

まちがった地図でもよい

(過去の記事の再録です)

旅行のガイドブックは、特に市販のものなどは、旅先の風景の写真などが添えられていて、年々豪華になっていく。ところがこんなガイドブックを私は好まないのだ。必要最低限の情報が文字だけで並べられていて、地図も手書きでの地図で、目印になるような最低限の建物だけが書き込まれている。こんなガイドブックなら、創造力が豊かに刺激され、現地にいってみてガイドブックのとおりの風景が見られなかったとがっかりしたり怒ったりしなくてすむ。行間にこぼれたところを実際に現地で旅する人が感じることができ、地図の空白のところを、実際に歩いて確かめることができる。はなはだしきは、その地図の情報がまちがっていてもよい。まちがっているということを実際に歩いて確かめるのが楽しい。


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2017年12月 6日 (水)

知識の活用

現行の大学入試センター試験が大きく様変わりすることが予定されている。そのおおもとの考えは、単に知識があるだけではだめで、これからは知識の活用力が大事ということだ。この考えが、テストに反映されるとなると、現行の正解を選択肢から選ぶだけの問題から、記述式を導入して自分の理解したことを自分で文章で表現する形式に変更ということが以前から言われていた。これは、何十万人も受験するテストで、どうやって採点するのかというような技術的なことや、その採点を請け負う民間企業がなぜ選ばれたのかという利権やお友達優遇、第2第3のモリカケ問題という点が指摘されていた。

昨日、知識の活用を問うテストの試案が国語と数学で発表された。国語ではいくつかの資料の中から、内容を判断するという問題だった。知識の活用、すなわち知識の組み合わせということなのだろう。

さて、以下は思いつくままに私見を述べる。

知識の活用というけれども、大学の学部レベルくらいまでの母語および外国語の読解についていえば、知識がないので正しく読解できていないというのが大半だと思う。つまり、知識を活用して、何か新しい解釈などを生み出すというのはそもそも無理なのではないかと思う。そもそも正しく読み取れていないのだから。読み取れない原因は、文法的にも、文脈的にも、内容が一義的に決まるはずなのに、その一義にたどり着けないのが大半だ。

知識の活用ということを考えると、一番いいのはコンピューターのプログラミングで、知識の活用を向上させるのに一番向いていると思う。プログラミングは、コンピューターにある動作を命じるものだが、その動作を課題としてテストでは出題するのだ。動作というのは、ゲームの中のキャラクターにこういう動作をさせるという課題でもよい。要求された動作さえすれば、そのプログラミングは用が足りる。しかし、その動作をさせるために、どういうプログラミングを書いていくかは、人により千差万別だ。効率的なものもあれば、冗長なものもあれば、美しいものもあれば醜いものもある。課題解決能力も涵養し、知識の活用力も高めそれを測定するのは、プログラミング学習やその試験が一番いいと思う。

プログラミングでも、そもそも知識を持ってないと正しいプログラミングは書けないので、知識を持ち、規則を知っていることは絶対に必要だ。そして、確かに知識を持っているだけではだめで、それを活用し、現行の問題を解決していかなければならない。知識の活用力と問題解決能力がつけば、日本も大きく変わることができるのではないだろうか。変わることは期待する。


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2017年12月 5日 (火)

雑感―旅をするのは女性だ

(過去の記事の再録です)
 

海外出国者の統計を取ってみると、10代後半と20代とで男性よりも女性の方が海外出国者が多いということだ。

今の若い人たち、特に男子が持っている不安感はなんとなくわかる。今の男の子達は守られていないと行動できないのではないか。ある枠が与えられるとその枠の中では安心して生きていける。

一方、女性の方は、男性が都合のよいように作り上げた世の中の仕組みにどうせ守られていない。企業も本音を言うと男子を採用したい、どうせ女子は、結婚・子育てでやめてしまうのだからと思っている。そうなると、女子は仕組みからはじかれて生きていかなければならない。それが自由な生き方への勇気を彼女達に与えているのだと思う。

明治維新を作り上げた人たちは、江戸の封建の世の中では浮かばれなかった人たちである。例えば、福沢諭吉などは、下級武士の出身で、今までどおりの世の中であれば名を残すことをやり遂げることはなかっただろう。時代の転換点は、後世の人たちの目には明らかであるが、今を生きている人たちには、それが今なのかはわからない。だが、枠の外にいて守られていない人たちは行動し確実に世の中の変換を生み出す力を加えていく。


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2017年12月 4日 (月)

シネマ歌舞伎「め組みの喧嘩」

中村勘三郎さんが鳶の辰五郎を演じた「め組みの喧嘩」の公演を松竹が映像でまとめた「シネマ歌舞伎」を見ることができる。収録した公演日は、2012年5月。もちろん芝居小屋で見た方が生の迫力を楽しめるだろうが、映画版も見どころはあるし、アップもあるのでわかりやすい。何しろ、偉大な歌舞伎人、勘三郎さんの生の勇姿はもう見られないのだから、資料的にも大変価値がある。歌麿が描いた役者絵から抜き出てきたような勘三郎さんの演技で、歌舞伎の醍醐味を味わうことができる。

私がよかったと思うのは、勘三郎さ演じる辰五郎が、兄貴分の中村梅玉演じる喜三郎に暇乞いをしに行く場面だ。お互いを思いやる中で、直接口には出せない思いを2人が演じあっているのが感動的だった。喜三郎の見事な捌きぶりが素晴らしかった。


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2017年12月 3日 (日)

雑感―現代社会と幸福

(過去の記事の再録です)

こんな話があります。

旅人がある村を通りかかると,一本の見上げるような大きな木がありました。旅人は,この木の下にたたずむと,はるかに高い木ずえを眺め,この木の立派さに感心しておりました。そこへ村人が通りかかったので,旅人は思わず声をかけました。「なんとも神々しいような木でございますね。」村人は答えました。「ああ,この木は何の用途もない木だから,誰も見向きもしないんです。家を立てるのに良い木や,器を作ったりに合う木だったらとっくに切られています。」旅人はなるほどとうなづきました。その夜,宿に寝ている旅人の夢に,一人の老人があらわれました。
「わしは,今日,お前が見たあの木の精だ。おまえを始め,世の中の連中は,役に立つものばかりを求め,役に立たないものには目もくれない。おまえたちは何と馬鹿者なのだろう。わしがこんなにも長生きしてこんなにも大きくなれたのは,何の役にも立たないからこそではないか。役に立たないことが実はどれほど役に立つかということを良く考えてみよ。それが本当の知恵というものだ。」
旅人はそう言われ,なるほどと思い目が覚めました。そして,居住まいを正すと,あの大木のほうへ向かって手を合わせ,深々と頭を下げたのでした。

人間の目から見て,無駄のように見えるもの,無用のものだと考えられているものがどんどん姿を消していきました。空き地,野原,雑木林,湿原や沼,干潟,改修工事をしていないただの河川敷。こんなものが身の回りから次々となくなってようやく心ある人々は,自分たちの生活の息苦しさを感じ始め,無用のものにも用があったのだと気づいたのでした。同じように社会に何の貢献をしていなさそうに見える人,無用の人をどんどん排除していく世の中は普通の人にとっても,生きにくい苦しい世の中になることでしょう。


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2017年12月 2日 (土)

中高生の読解力懸念

国立情報科学研究所の研究チームによる調査を、11月28日付の河北新報が報じていた。関心のある内容なので、その概要を紹介し、自分の考えを記しておく。

調査は約2万5千人の中高生を対象に行われた。中高生の教科書や辞典、新聞記事などに掲載された文章を題材に特別な知識がなくても、基礎的な文法をふまえていれば答えられる問題を出題した。

たとえばこのような問題。

題材となる文章「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」を読ませて、この文章は、次の文章と同じか?と問うた。

その文章とは「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

同じと誤答した中学生が43%、高校生が28%という結果だった。

次の設問も面白い。
 

「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアに主に広がっている」

この文章を読み、オセアニアに広がっている宗教を「キリスト教」と答えられなかった中学生38パーセント、高校生28%。

この結果から、河北新報では「中高生の読解力 懸念」という見出しを付け、研究チームの新井紀子教授のコメント「読解力が不十分だと社会生活を送る上でも大きな影響が出る」を引用している。

なお付随する調査で、読書量やスマートフォンの利用時間、1日の勉強時間も尋ねたが、読解力との相関はなく、就学援助を受けている子どもの割合が高い学校の正答率が相対的に低いことがわかったという点も注目に値する。

さて、以下は思いつくままに私のコメントだが、上記の宗教分布を述べる文章は確かに煩雑で複雑な文章で正確に情報をつかむには苦労する。しかし、地理が大好きで、オーストラリアやニュージーランドの優勢な宗教がキリスト教だと背景知識がある子は、読解力を用いなくても、正解にたどり着ける。そういう結果に影響を与える要因を排除して、純粋に「読解力」のみを測定するテストというのははたして、考案できるものなのだろうか。

よく子供が主張する勉強しない言い訳、特に数学の場合、「そんな難しいことを勉強して将来なんの役に立つ。大人になれば、お釣りの計算ができれば十分」というのがある。読解力についても、そんな難しい文章なんて読めなくても、立派な大人になり、社会生活を送ることは可能だ。ということは、読解力が社会生活上何に役に立つのかということも明らかにされる必要がある。

『そんな勉強しても、将来なんの役に立つ?』という子供に反論できるには、学校で教わることが「汎用力」を持っていて、そのまま直接にすぐには役立たないかもしれないが、仕事や社会生活を送るうえで、応用が利く優れた力のもととなっているということを示すことができなければだめだろう。数学で鍛えた論理力は優れたコンピュータプログラムを書くために必要だという、説得はできるが、文章の読解力は、果たしてどのような汎用力を持っているのか?そんなことを私は考えてみたい。


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