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2017年11月30日 (木)

雑感―秋葉原の事件

(過去の記事の再録です)

 

秋葉原で無差別殺傷事件があった。その犯人の青年が犯行の動機として供述しているとされていることは、朝、出勤してみると彼のツナギがなくなっていて、それを彼は「もう来なくていいということか」と、自分の存在の否定と考えたということである。

この報道が事実だとすると、問題のとらえ方は3つある。

・ツナギがなくなったというのは単に彼の勘違いであり、ロッカー室の掃除の必要などからツナギは移動された。とすれば、問題なのは彼がそのことを周りの人に確かめようと働きかけをしなかった点にある。誤解があってもそれを解消しようと他者へ働きかけをしない。解消するための戦略をとろうとせず、問題を個人の中に内向させ鬱積させる、現代の私達に共通する対人関係に関する技術の低下、という問題を予想させる。

・派遣会社が本当に彼をやめさせようと嫌がらせのためにツナギを隠した。こうした陰湿ないじめは、子どもたちが友人の靴や筆箱を隠すのと同じレベルである。幼稚なやり口ではあるが、大人の世界にもあるに違いなく、「お前はここには必要な存在ではない」というメッセージは相手に伝わる。なぜ、私たちはかくも簡単に相手の存在を抹消するのか。現実感が薄れた世界に囲まれていると、他人の存在すらも現実感をもって受け止められなくなるのか。

・彼は、社会から自分の存在を認めてもらえない。社会から疎外感を味わい社会に対する怨恨を強めていった。はたしてひとりひとりの人間に存在感や所属感を与えない社会はいい社会なのだろうか。経済の発展や企業の利潤確保のために、格差や勝ち組・負け組みを作り、社会の仕組みにうまく対応できず底辺に沈んだ人間に生きがいと存在感を与えない社会はよい社会なのかという、見方ができる


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2017年11月26日 (日)

メトロポリタン歌劇場・ライブヴューイング・ベッリーニ『ノルマ』

メトロポリタン歌劇場のライブヴューイング今シーズンの第1作目ベッリーニ作曲の「ノルマ」を見た。べッリーニの甘美な曲に浸れる幸せな時間。アダルジーザ役のジョイス・ディナートもインタビューで答えていたが、他のイタリアの作曲家と比べてベッリーニはどうかと聞かれ、とにかくあふれるような甘美なメロディーがベッリーニの特徴だ。

「ノルマ」の舞台設定は、ローマ帝国に進駐されたドルイード教徒が住むヨーロッパの森の中だ。強大な軍事力を前に、蜂起すべきか、偽りの服従を続けるべきか、ドルイード教徒たちは悩む。立ちあがるべきという神のお告げがまだ出ないのだ。その神託を告げるのが巫女のノルマ。占領軍に占拠されて独立を目指すのか服従すべきかを苦悩する状況は、今日の私たちの置かれている状況にも通じるものがあると、見るたびに思う。

さて、名作を見る楽しみというのは、話の筋書きとかはすべてあらかじめわかっていてよいので、その上で、演者や演出家の違いによって、その名作が今回はどのように見るものに迫ってくるか、毎回違う発見がある楽しみだ。前回、ロンドンのロイヤルオペラハウスの「ノルマ」のライブヴューイングを見た。それでは、ノルマの父とノルマの葛藤が印象に残った。ドルイード教徒の指導者である父、しかしその娘のノルマが敵将のローマの将軍と通じてしまったのだ。掟破りは「死」だ。

しかし、今回の公演では、ノルマの後継者でもある若き巫女アダルジーザとノルマの葛藤が、見ごたえがあった。そして、もちろんノルマ役のソンダラ・ラドヴァノフスキーの熱演も素晴らしかった。気高いノルマと同時に女であり母であり娘であるノルマの葛藤を歌うのは、大変だと思う。しかし、最後にポリオーネと二人で火刑に赴くところは十分にカタルスシを感じることができた。


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2017年11月25日 (土)

イエスに断罪される女

(過去の記事の再録です)

 

青年は少し神経質そうで,やや場にそぐわない大きめの声を出し,公共施設備え付けのパソコンで調べ物をしたいので使わせてほしいと,係りの女に申し出る。女は,上の者の命を受け,この場の秩序を守ることこそをわが使命と心え,一点の秩序の乱れなきよう細かく目を光らせている。女は,これまでの人生,規則こそを至高のものと崇め,その価値を疑ってみたことがない。


くだんの青年が,パソコンの使い方を教えてほしいと大きな声で求めてくる。
(公共施設では静かに!そしていまどきパソコンの使い方を知らない人がいるなんて!)
秩序を乱された女はいらつく。


調べ物をしようとたどたどしい手つきでキーワードを日本語で入力しようとするのだが,画面に出る文字はローマ字ばかりである。得体の知れない技術体系の前に立たされ,それを動かすこともできなければ,無理にこじ開けることもできない無力感と絶望感に青年はあせる。巨大な官僚機構を前にしてとほうにくれるカフカの小説の主人公の絶望感が,青年のそれだ。青年は助けを求める。


「すいません,どういうふうに,文字を入力するのですか」

女はいらだつ。
「ここはパソコンを使える人だけが使うことのできる施設なのです」


青年は言う。
「私はパソコンを使うのが初めてなのです。使い方を教えてください」


女は言う。
「パソコンの使い方を教えるのは,業務の範囲にありません」


青年はいらだつ。
「私は調べ物をしたいのです。どのように入力したらいいか教えてください」


女は言う。
「自分でやってみてください。ここはパソコンの使い方を教える場所ではありません」


青年の絶望感は深まる。
「あなたは冷たい人ですね。そんなふうな言い方をしなくても。私は傷つきました」


ロバにまたがったイエスが,自動ドアの前に立つ警備員の制止も聞かず,施設の中に入ってくる。そして,机をひっくり返し,パリサイ人のこの女を断罪する。


女は言う。
「おお主よ,私はいつも主命じる規則を守ってきました。たとえ,世の人が規則に従わなくとも,忠実なしもべである私は,主の言いつけを守ってきました。それなのに,なぜ,私は裁かれるのでしょうか」


イエスは言う。
「裁きの日に,天の父は言う。たくさん愛した者がゆるされるのであると」


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2017年11月18日 (土)

TED

聞く価値のある話であれば、分かち合おうではないか、という趣旨のスピーチの発表会(公開プレゼンテーション)がTEDと言われる企画で、アメリカ発祥でその様子はインターネットで気軽に見ることができる。

 

この講演会では様々な人が発表をするのだが、私がこのTEDをいいと思うのは、いろいろな人の話を聞くたびに、世界には問題解決のためにいろいろなアイディアを出して実践している人がいるのだなということに気づき、感心させられたり勇気をもらえることだ。

 

そう、世界にはいろいろな問題があるのである。でもそれで負けてはいけないのである。問題解決のために考え、働き、それで報酬を得て暮らしていくというのが今を生きるということで、世の中の仕事というのは、たとえ商売や金儲けだってすべては「問題解決」なのだと私は思う。問題解決をあきらめ、「この道しかない」としがみつくような国や人が、世界の趨勢からは、カッコ悪い、時代遅れとみなされ、取り残されるし、そうなってほしい。

 

私は、沖縄の海を破壊したり、兵器を日本に売りつけるアメリカは好きではないが、何でもいいことだったらやってみようというこのアメリカらしい精神は好きだし、見習いたい。「前例がないですから」というようなできないことの言い訳は、彼らは考えないのだろう。いいことだと思う。

 

今、世界には様々な問題があるが、そのうちの1つに、「対立・分断」がある。相手の考えを認めず、「死ね」などの否定する言葉を投げかけ、分断・対立をあおる。それをリーダーとなる政治家が率先してやっていて、そういう人が民衆からも支持を受ける。アメリカのトランプさんが代表的な人物だろうし、それにしっぽを振る他国の政治家もそうだろうし、アメリカ社会も分断されているだろうし、その属国的な立場で大きな影響を受けている国もそうだ。

 

そんな中で、「対話・意見交換」というテーマの講演会でスタンフォード大の教授が、立場が違う人に考えを認めさせるために非常に示唆のある心理実験の内容を紹介していた。英語の勉強を兼ねているので、この実験の紹介までしか聞いてなく、その応用までは聞いていないのだが、とにかく実験内容には興味を持った。

 

今アメリカでは保守とリベラル派分断されていて、対話の糸口がない。日本もちょうど似たような状況だ。政治信条が保守の人と、リベラルの人を実験室に呼んできて、環境保護に関する文章を読ませて、読んだ後で、どれくらい環境保護に関する意識が高まり行動に賛成しようとするかを調べた。読ませる文章の内容をいくつかに分けて、どれが人の考えや行動を変えることができるかを探るようにしたのがポイントだ。

 

保守派の人を、環境保護活動に向けて一番説得できた文章は、自然環境の純粋性の危機を説くものだ。つまり外来種の侵入で、固有種が危機に瀕していること、散乱されたごみで自然環境の清潔さや清純さが失われるというものだ。リベラル派には、多様性が失われることを説く文章だ。つまり、この教授の結論は、相手と対話し、自分の考えをわかってもらうには、相手が大事にしている価値観に沿って訴えろ、ということだ。

 

この研究、一歩間違えば、悪魔の研究となり、全体主義国家を作るのにも応用できそうであるが、分断や対立を乗り越え、対話し和解するきっかけにはなる。ちょうど「対話・意見交換」というテーマではノルウエーの元外相も登場していた。ノルウエーは、パレスチナとイスラエルの対話を取り持ち、オスロ合意を取り付けた、国際社会では非常に存在感がある国家だ。国際社会の中で、軍事力だけを笠に着るのは、まさに子供社会のガキ大将のようなものだ。小国でもいいので、自分の持ち味を生かして、国際社会に貢献し、尊敬を受ける国を私は、いいと思う。


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2017年11月16日 (木)

死刑判決と認知症

青酸カリを何人もの男性に飲ませて死亡させたとされる女性被告に、京都地裁の裁判員裁判で、死刑判決が下された。この被告女性が認知症を発症していることから、この死刑判決は大きな問題を含んでいる。

今後、日本社会のますますの高齢化が進展するに伴い、認知症を患う人が増えてくる。その中で高齢者の犯罪の割合も増加している。高齢社会と認知症と責任能力という、社会が直面する問題を象徴的に示している。

また、認知症の人が自らの行動の責任を取り刑罰に服することができるのかという、法律や刑事裁判や裁判全般の問題ともかかわりは大きい。

この問題を扱った河北新報11月8日付の記事から、問題点を要約してみる。

・今回の死刑判決が導かれるまで

…被告女性の訴訟能力については、検察が「ある」と主張し、精神鑑定した医師を証人申請。弁護側は「ない」と主張。判決は鑑定を認め、事件当時の完全責任能力をあるとして判決。認知症は事件後に発症し、初公判以降の言動から訴訟能力があると判断した。

・他の例

…最高裁では、二人の殺人罪に問われた男性被告に対し、認知症により、公判を打ち切る「控訴棄却」を言い渡した。

・高齢化と犯罪の現状

…2025年には認知症患者が全国で700万人になるという推計がある。高齢者の5人に一人の割合。法務省によると、2015年の刑法犯摘発人数の19,9%は65歳以上の高齢者。この2つのデータを合わせると、長引く裁判では途中で認知症を発症させたり悪化させたりするケースが増加すると、予測される。

・裁判員裁判の問題点

…慶応大の村松准教授によると、「裁判員へのわかりやすさが重視され、審理時間の短縮や説明の簡略を求めることが多い。これでは誰のための裁判かわからない。医学的な検査で認知機能が認められることと、責任能力や訴訟能力があることは同じでないので、そうした共通理解をもったうえで、司法と医学が共同して議論する必要がある」

※今回の記事の私の感想

…死刑制度を支持する理由の一つに「応報思想」がある。つまり、被害者が味わった死の直前の恐怖を、被告にも味わせるということだ。しかし、被告が認知症となり、自分がしたことも、自分がいま置かれている状況も、死刑が今日にも執行されるかもしれないという恐怖を理解できないとしたら、死刑を支持する根拠の一つは、揺らいでしまうのではないだろうか。


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2017年11月12日 (日)

科学レベルの低下

2017年11月6日付の河北新報に、国立天文台名誉教授の海部氏の時評が掲載された。科学レベルの低下に歯止めが必要だという主張であったが、興味深い内容であったので要旨をまとめてみる。

科学レベルの低下の論拠となるのが、科学誌「ネイチャー」の日本の科学は世界の一流から落ちこぼれつつあるという記事だ。その他、世界の科学会で評価が上位10%に入る論文数の国ごとのシェアの低下もその事実を示しているという。2000年ごろを境に順位が2位から5位になり、もうすぐ韓国にも追い抜かれるということだ。

海部氏が指摘する原因は1.日本政府の国内総生産に占める大学への出費がOECDの先進35カ国中で最低レベルである。2.大学の貧困化がさらに進んでいる。

すでに最低レベルだった大学予算に追い打ちをかけたのは1990年代からは始まった大学改革という名の「予算削減」。2004年の国立大学法人化で、大学は画一的な評価の下、乏しい予算を奪い合い、自由な研究を進める雰囲気でなくなった。大学予算が削られ、研究の評価は政府が決めるので、研究者は「役に立つ」研究に誘導され、研究テーマが近視眼的になっていく。

人件費削減で若い研究者が雇えず、研究者の平均年齢が上昇。若手研究者は2~3年の不安定なポストを転々として定職に付けないので、研究を目指す若者は減っている。

こうした事態は先進国では日本だけで、科学のレベル低下は当然で、今後もさらに進むと海部氏は言う。

さて、ここまで私は記事を読んできて、結局、この国の形や方向を決めるのは私たち国民なのだから、海部氏が指摘するような事態は、私たちが望んだこと、臨んだ結果なのだと思った。海部氏のような心ある人が心配する未来の事態は、私たちがこのまま現首相や自民党を支持し続ける限り、かなりの高い確率でやってくる。

あわせて先週の国辱的な1週間も思いだした。トランプ氏の娘さんに、その事業がどんな山のものとも海のものとも知れないのに57億円も気前よくプレゼントする。いや貢物なかもしれない。

トランプ氏は治外法権の横田基地に降り立ち、日本が敗戦国で米国の属国であることを思い知らされる。国の独立を維持するには、いろいろな要素が必要だろうが、1つには科学技術の振興ということもあるだろうと思う。


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2017年11月 5日 (日)

薩長史観の正体

東北の地方紙『河北新報』では、東北の出版社で出版された本や東北にゆかりのある本の紹介や書評も掲載している。それが、全国紙では得られない地方紙を読む楽しみの一つである。

 

10月8日の紙面に武田鏡村氏の「薩長史観の正体」という本の紹介があり、私は興味深かった。

 

概要はこうだ。「薩長による明治維新で近代化の道が開かれたが果たしてそうか。実際は謀略、殺りくによる暴力革命であり、勝てば官軍の言葉通り、勝者の都合で歴史を偽装したもの」というものだ。

 

神と崇め奉られる吉田松陰については、思い込みの激しい人物で、その思い込みの激しさにより弟子たちは維新の内乱で外国人殺害や政敵の暗殺を繰り返すも、明治の元勲となった弟子たちは師匠の松陰を英雄に仕立て上げ、自分たちの行動を隠蔽した。

 

松陰や薩長は「尊皇」を主張するも、実際は天皇を拉致しようとしたことがあり、そのことについては口をつぐんでいる。「攘夷」を唱えるも英仏両国の軍事力を見せられると「開国」へと素早く転換。討幕の口実だった「攘夷」は何の説明もなくいったん引っ込められるも、排外主義思想は軍国主義教育の中に生き続け、太平洋戦争を招いた。そして、大陸への侵略戦争を正当化する薩長史観は平成の現在まで続いている、というものだ。

 

薩長に痛めつけられた記憶が残る東北人は、同じく薩長政府に痛めつけられている琉球政府や沖縄の人たちとともに、薩長政府の系譜である現政府に対して厳しい姿勢を示してもいいのではと思う。ただ問題は、その薩長系譜の政府に対して「どうかお願いします。この地に核発電所を作って下さい」と乞うようになってしまったことだ。自立するには経済の問題というのはとても大きいことだ。このままでは、「どうかお願いします。核のゴミはこの地に捨ててください」と薩長政府にお願いすることにもなりかねない。

 

安倍首相が山口県を地盤選挙区としていて、岸首相の孫だというのは、象徴以上の大きな意味がある。排外主義や、戦前の支配体制へのこだわりにはやはり文脈から言って意味があると言われれば納得する。

 

そんなことを思っていたら、11月5日の書評欄では、「アベノミクスによろしく」という本が紹介されていて、安倍首相になってからGDPの算出方法が変わり、いかにも民進党政権時代から比べて経済が好調になるように見せかけていたという内容だった。ナチスのやり方を学ぶであれば、こういう経済がいかにも好転しているように見せかけ、同じことを何度も繰り返して言っているうちに、本当らしく思えてくるという心理を利用すれば、大衆からの支持は大きく得られる。安倍首相は政治家としては素晴らしい力量を持った人だ。


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