UA-92533382-1 「わかる」とは何か: よつば農場便り

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2017年10月17日 (火)

「わかる」とは何か

「わかる」とは何か、は長尾真氏の著作で岩波新書から出版されている。小論文を書くという事情があり、教育関係の書籍を参考にしようと購入したのだが、教育関係の本ではなく、科学技術に関する本だった。だが、私が面白いと思って読み進めたのは、これが2001年に出版されていて核発電についての筆者の見解が書かれていることだ。

 

核発電の事故があった後で振り返って見れば、素人のわれわれにだって、「絶対に事故は起こらない」「日本の技術はソ連なんかと違って優秀だ」とかいう発言が欺瞞であるとわかるし、そういう厚顔な発言をしていた政治家や学者を糾弾することは容易だ。だがそれで我々素人の見識の凄さが証明されたことなんかには絶対にならないのはわかりきったことだ。やはり事故の前に人はどういう発言をしていたのかによって、信念や見識がある優れた人というのはどういう人なのかというのはわかる。工学の専門家であり京大の総長も務めた長尾さんが、2001年に出版された本でどのようなことを述べているのか、私の興味を引いた箇所を引用してみる。

 

・一般の人が専門分野がわからない理由はいろいろあるが、…科学技術が高度に発達し、非常の複雑な内容になってくるにつれて、少し専門が外れただけの科学技術者にとってもその内容を理解するためには大変な努力が必要となってきている。したがって、専門分野のことは難しいとしてわかろうとしないのは無理のない事であり、わかりやすく説明する工夫をして、わかろうとしない人たちにも関心を持たせるように、専門家の方で努力しなければならないという時代になってきている。

 

・やさしく書くということは、科学技術者にとっては実は非常に難しい

 

・原子炉という巨大なシステムにおいては、その内容、取り扱いと故障時の対策などすべて知っている人がいないというところに大問題がある。多くのことを決め、これを操作書、手引書に書いておいても、それぞれ局部的にはよくわかっても、予想を超えた複雑な現象が起こった時にどうすべきかについての総合的な判断が難しい。したがってこのような巨大なシステムについては、専門家だけでなく、すべての従業員、政府関係者、地域住民など、関係者が時間をかけて検討し、疑義があれば、正しいデータに基づいた説明が、みんなが納得するまで行われるべき。

 

・(なぜ巨大プロジェクトはとまらないのか?)巨大資金を投入して研究が進められるので、途中で計画を変更したり、元へ戻してやり直すことが難しい、まして研究を中止することはできない。

 

・巨大で理解することが難しいことでも、その研究の存在価値を判断できる科学技術の理解力を持つことは大切。とくに国会議員など国の科学技術政策に携わる人たちはそういう努力をしなければならない。

 

・予防原則-危険性に関する十分な科学的証拠がない状況で、厳しい立証責任を、従来のように危険を証明する側でなく、安全性を主張する汚染者側に課すという考え。このような考え方は高く評価すべきだし、この方向へ移っていく必要がある。

 

・非線形の式で表される現象―このようなシステムは、予測ができないので…初期条件が同じでも、結果が全く異なるということが起こるので、過去の経験が全く役に立たず類推がきかない。このような非線形の性質をもつものは非常に多く、過去にこうだったから、似た条件のときには似たような結果になると安易に考えると、大きな誤りを犯す危険性がある。

 

・大学における科学技術研究は…個人の創意は保持されながらも、公的資金が使われることに伴う説明責任、研究が社会に対してどのような意味を持つのか、将来社会に対して決定的な害悪を流すことにならないかどうか、ということを配慮して研究を行わなければならない。戦争にかかわる研究、原子爆弾にかかわる可能性のある研究の拒否宣言などはその典型例。

 

・科学技術は非常に複雑であって、簡単に説明できないので、専門家はつい単純化して断言してしまう。その結果、学問の内容が一般社会の人に正しく伝わらず、事故は絶対に起きないと言ったのに起こったではないかと言われ、科学技術は社会の信頼を失う。

 

・あることに対する科学的説明は論理的で、その範囲内においては反論の余地のないものである。しかしそれでも社会の人たちを納得させられないのはなぜか。1つは、論理的、科学的説明と言っても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。99.999%間違いないと言われても、0.001%未満の確率で起こる可能性があるとしたら、それに対する心配がある。原子力発電の建設に対する反対はそういうところから生じていると考えられる。

 

・科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことは間違いないから、人はそれに従わなければならない、と思われているかもしれない。しかし、論理的な理解の他に身体的レベルにおける理解、心のそこから納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかわからないが、個人にとってはむしろこの納得の方がはるかに優位にある理解の状態である。客観的心理が絶対的なものでなく、それを超えた理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代が来ている。

 

・私たち一般の人間にとっては、「もってまわった理屈を聞かされ、これは科学だから間違いないと自分に言いきかせて納得したつもりになっているが、じつは自分にとっての存在感はそこにない。理屈はつけられないが、自分はこちらにくみする、こちらの方が心にぴったりくる、ということの方が、自分にとっての真実であり、実在なのである」。こういった形の真実をますます大切に思う時代が来るという予感もする。

 

以上が2001年に出版された著作に書いてあることである。どうしたら長尾氏のように曇りなき目で物事を見ることができるのだろうか。1つは、しがらみがなく自由だということが大切なのだろう。私の偏見からつい東大と京大を比較してしまうが、京大は国家の権力から自由であろうとする。しがらみ、権益がないと客観的に物事が見られ、2011年のフクシマ核発電所の事故の前から見通しの持った発言できたのだろう。ついでながら、創造性は自由から生まれるので、京大の方が創造的な研究・学問が行われているような気がする。

 

もちろん、自分のことは棚に置いて長尾氏の誠実さや見通しの確かさに感心しているのだ。私などはいわゆるブレブレの人だから、意見や考えはあっちに行ったりこっちに行ったりする。だから安倍さんのことを批判できたモノじゃないが、自民党の選挙広告を見ていたら安倍さんが自信たっぷりに「皆さんの話を聞かせてください」と語りかけていた。この人は一切人の話を聞かず、この道しかないと言い募り、民主主義の土台を切り崩してきたのに、どうしていまさら人の話を聞くのだろうか。政治家は、君子と同じで、こうも豹変しても、選挙に勝ちさえすればいいし、選挙が終わればまた豹変するし、国民もすぐ忘れるからいいのだろうか。


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