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2017年9月28日 (木)

ソクラテスが用いた対話という手段(ソクラテス・メソッド)

ソクラテスを読んだのはもう35年近く前だ。正確には、ソクラテスは著作を残していないので、弟子のプラトンがソクラテスを主人公として書いた対話編を岩波文庫で読んだのだが。昔のことなので細かいところは覚えていないが、ソクラテスの対話によって生み出される、偉大な思考過程や成果のその本質的なことは、私の頭や心にしみついて、何かおりがあるたびに、やはりソクラテスってすごい、すごかったのだということを思い至らせてくれる。偉大な作品や思考とは、そういうものだと思う。もしかしたら、残された時間は少ないのかもしれないので、いい本だけを読みたいとつくづく思う。

さて、その対話法は教育の分野でも、そしてあらゆる分野でも、職場でも参考にできる、そして実践するとよい素晴らしい方法だと思う。ソクラテスの対話の特徴は、一方的にこちらの知識を伝えるのでなく、自分も相手も実は何が問題だかよくわかっていないというところから始まり、前提として当たり前だと思っていることが本当に合っているのか二人で検討していくことから始まる。ソクラテスがこの方法を「産婆術」と呼んでいるように、最後に何が生まれるかは、その途中経過にかかっているが、善意の人たちが真摯に対話していけば、よきものが生まれるのだ。

この方法は、彼の「無知の知」、つまり「本当は何もわかっちゃいないのさ」という彼の謙虚さから来ている。だから、対話の相手を下に見ることはせず、二人で真実の高みを目指す。その過程で、対話の相手は、自分自身のことや、なにがわかっていて何がわかっていない事なのかに気付き目覚めていく。この気づきこそが相手の可能性を引き出す、素晴らしい効果のある教育方法でもあると私が考えるところだ。

教育関連の仕事をしていて、「質問を受ける」という形で生徒と対話をすることがある。ソクレタスのことを書いておきながら、なかなか彼の「対話」のように生徒を気づかせ伸ばしてやることができていない。生徒の頑固な思考の癖があるのはわかるが、それがあると伸びないということはわかるのだが、それを柔らかく解きほぐしてやることがなかなかできない。だが、先日、少しソクラテス・メソッドが実践できたのかなという場面があったので、記しておく。

辞書にこういう表現があったのでという質問にきた生徒がいた。
be associated with deat「死と関連する」
だが、辞書をさらに引いたら形容詞のassociatedもあったからとか何とか言って、聞きたいことは何なのか要領を得ない。自分が質問したいことが何なのか、それが本人にもわからない。これはよくあることで、「もう一度、どこまでわかって、どこからわからなくなったのか、よく考えてごらん」といったん生徒を返してしまうというのも一つの方法だが、ソクラテスだったら待ってましたとばかり、こういう生徒を離さないだろう。こちらから質問して、なにがわかって何がわからないかを明らかにして、二人で新しい段階に進むだろう。

こちらからいろいろ角度を変えて質問していくと、どうやら最初の辞書の例文はassociateという動詞がもとになっているということ、そしてassociateという動詞はassociate A with B「AをBと結びつける」という語法を持っているということまではわかっているということはわかった。そこで、『君が「死」と結びつけて連想することは何?』と質問した。本当は「黒い服=喪服」とか答えてほしかったが、「病気」と答えたので、「じゃあ、病気を死に結びつける、という例文を作ってごらん」と言って、associate sickness with deathという文を作った。そしてその文の主語を「私」として、I associate sickness with death.という文を作り、ここまでは本人も納得した。

そして次に、「じゃあ、その文を受身文にしてごらん」というと、しばらく考えて、I am associatedまで書いて、立ち止まった。そしてしばらくすると「わかりました」と言って、晴れ晴れとした表情になった。日本語には「私は雨に降られた」とか「私は親に死なれた」という受身文があるので、多くの英語学習者が、こういうタイプの人を主語にする受身文でつまずくのだ。 I associate sickness with death.の正しい受身文を考えているうちに、最初の辞書の例文の成り立ちに思い至り、自分がこの例文に抱いていた違和感=もやもや感=質問したかったこと、が消えたのだ。私は、ソクラテスのように「産婆」の役目を果たせただろうか。そしてこの生徒は、学習において一つ上の段階に進めただろうか。そうあってほしいと願う。

ソクラテスの「対話法」は教育や心理学のカウンセリングなどには特に有効だろうが、職場でも、政治の場でも、すべての場で実践してみる価値があると思う。日本の場合、支配政党の自民党と、その国民的リーダーである人が「対話」を拒否しているのは、私の意見としては残念なことだと思う。私は、そういう残念な日本の状況を少しでも草の根から変えるためにもソクラテスの「対話」のすばらしさを伝えていきたいし、近々ある選挙では、対話を拒否する政党や政治家に、投票しないようにと呼びかけたいと思う。


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2017年9月23日 (土)

瑣末なことを問う必要がないのか?

 

(高校の先生の研修会で講演をする仕事も増えてきました。今後の講演のネタに使おうと思っていることをメモしておきます。教育に関心のある一般の人が読んでも面白いと思っていただければ幸いです。教育と無縁であった人はいないでしょうから、一般の人にとっても面白いネタとなるよう努力いたします。ネタがたまれば、将来出版したいと考えていますので、その際はどうか、応援よろしくお願いいたします。)

 

 

たとえば、次の英文を日本語に訳せというような問題が、大学入試の英語では出題されるわけです。

 

Among the exciting discoveries are that highways connected the major settlements of the Empire and the complex water systems were built long before the underlying technology was believed to have existed.

これが、一般の人から見て、おそらく日本の英語教育や入試英語では一番評判が悪いところではないでしょうか。批判はおそらく、「日本語に訳してどんな意味があるのだろう?何に役に立つのだろう?こんなことをしているからいつまでたっても英語が喋れるようにならないのだ」というものなのではないでしょうか。

ちなみにこういった「訳せ」という勉強法は、文法訳読式と言って、日本の明治以来の伝統的な英語の勉強法や教授法であり、日本だけでなく、外国語を習得したり勉強したりする場合の昔からある正統的な勉強法・教授法でもありました。ヨーロッパでは、ラテン語を勉強する時にこのような勉強法・教授法がとられていたと言います。このラテン語の例でもわかるように、口語として話されている言語を勉強するには、確かに向いていない方法だとは思います。

さて、冒頭の和訳問題は、和訳せよと指定されるだけあって、構造が複雑です。英語が話せるようになるという実用的な目的ではなく、英語の試験や英語の教育の目的が、「汎用的能力」を試したり、育てたりするというのであれば、冒頭の英文は「複雑な構造を見極め、理解したことを自分の言葉で伝える」力を見たり育てたりするにはなかなか良問だと私は思います。

私の教えている経験からすると、この英文のAmong As V S(that①S' V' + that②S'V')「Aの中には、S(that以下①と②)とが存在する」という構造が分かる生徒は少ないです。そして、典型的な語訳としては、「帝国の主要な居住地を結び付けている道路が発見された」ですが、正しくは「発見の中には、道路が帝国の主要な居住地を結び付けていたことであった」です。趣旨はそれほど変わらず、おおざっぱな意味さえ取れればいい場面では、問題ないのですが、和訳問題では、「道路が発見された」と「道路が結び付けていたことが発見された」では、差があるのです。それは前者の誤訳がSVO構造を無視しているのに対して、正解がSVO構造をちゃんと意識しているというところにあります。

そんな細かい違いを追及して何になるという考えももちろんありますが、テストの目的、つまり測りたい力が、構造を見抜く力というのであれば、正解とそうでない解答とに差をつけざるを得ません。そして構造を見抜く力というのが、自然を見た時に、

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こんな風に見えることだとしたら、そして、そのように自然が見えるから、病気に対する新薬を開発することができる能力との相関が高いとしたら、そしてそれが社会が教育に求めている子供たちに身に付けてほしい力だとしたら、その細かい差異を問いその能力を求めることは、その社会では意味があるということになる。

 


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2017年9月22日 (金)

テストとは測りたい力、伸ばしたい力を計測する道具

(高校の先生の研修会で講演をする仕事も増えてきました。今後の講演のネタに使おうと思っていることをメモしておきます。教育に関心のある一般の人が読んでも面白いと思っていただければ幸いです。教育と無縁であった人はいないでしょうから、一般の人にとっても面白いネタとなるよう努力いたします。ネタがたまれば、将来出版したいと考えていますので、その際はどうか、応援よろしくお願いいたします。)

 

さて、以下は大学入試英語の問題。見ていただいて、問題を解くのではなく、問題や設問を評価していただきたいのだ。いちばん簡単な「評価」は良いとか悪いとかの簡単なコメントで結構だし、もっと詳しく見る余裕があれば、どういう意図からこの設問を作ったのかというところまで、考えていただきたい。

 

In many ways, space travel closely resembles prior phases of human exploration. For example, five centuries ago, government-funded ships from Spain traveled across the Atlantic to the American continent. Later, ordinary citizens began to make (あ)the same trip, and the trans-Atlantic voyage would become a rather routine task. As a result of such developments, powerful new nations were born. Also, in 1803, two American pioneers named Lewis and Clark, who were working for the U.S. government, began a scientific and cultural exploration of western North America. Their effort opened the West to millions of settlers. Now, government space exploration has been a reality for more than 50 years, and it may inevitable that ( A ) will follow.

 

 

下線(あ)と同じ意味・内容のものは?

 

1. the trip to space 

2. the trip across the Atlantic

3. the trip for a scientific exploration 

4. the trip to Europe supported by the government

 

 

空所(A)に入るものは?

 

1. scientific exploration 

2. powerful nations 

3. routine tasks 

4. the general public

 

そして、ちなみに(あ)と(A)の設問では、どちらが正答率が低いだろうか。つまり、どちらが生徒にとって難しく感じる問題だろうか。

 

実際に生徒に与えて取り組んでもらっている、私の経験から言えば、生徒にとって難しく感じるのは、つまり正答率が低いのは(A)の設問である。それは、なぜかと推察するに、その原因は、設問が設定された意図ともかかわってくる。

 

(あ)は、いわゆる指示語が指しているものを当てる問題だ。この英文案外複雑であるけれど、指示語は常識的に直前のものを指しているので、文をさかのぼってthe trip across the Atlanticを指していることがわかればよい。

 

(A)を解くには、文中に実は3つの例が出てきていたが、その3つの例に共通することは何かを考える必要がある。「大西洋横断」「アメリカの西部開拓」「宇宙探査」の3つに共通していることは、専門家(または先駆者)のあとに一般大衆が続く、という点だ。

 

さて、こういう問題を見て、まるでパズルのようだ、そんなことが解けたところで何になる、受験というのは子供たちを苦しめているだけだ、という声が出てくる。そして、英語教育の場合は、特に、日本人がこんなにも英語を勉強しているのにちっともしゃべることができないという理由から、日本の英語教育は間違っている、特に受験英語が中心となっている日本の英語教育は弊害だらけだ、という声が出てくるのは、まあ、わかる気がする。

 

さて、設問の意図を考えていただきたい。(あ)の指示語が指しているものを当てる問題は、読解において基本的ではあるが、とても大事な力を問うている。それは、文章を前から読んできて、(それは人の話を前から聞いてきて、というのと同じだ)、前の部分の内容を短期記憶にとどめておき、それを眼前の文章と(人の話であれば、今ちょうど発話された内容と)素早く照らし合わせて、理解するという技能や能力を問われているのだ。もし、人間にそういう能力がないとすれば、読んでも聞いても、すべては文字や音の反乱・洪水がただ眼前や脳裏を流れ去っていくだけで「理解」は生じない。私たちは、日本語の文章をいとも簡単に読み慣れているので、人間が「読解」の中でいかに複雑で繁多な作業をしているのかに気付かない。

 

さて(A)の方の設問の意図はわかりやすい。異なったものの中に共通点を見つける「抽象能力」だ。これは、子供の成長を見ていてもわかるが、「抽象能力」というのは、年齢とともに力がついていくものであるし、(A)が正答率が低く差がつきやすい問題になったのも、抽象能力と関係があるのだ。

 

そこで、日本の英語教育や受験英語はこんな事ばかりやっていて、ちっとも英語をしゃべることは出来ないかもしれないが、もし、英語教育の一つの目標が、読解力や抽象能力という「汎用的」な能力を付けさせるということであれば、どうだろうか。そして、もし(A)の問題を解けたグループの方が、そうでないグループと比べて、統計的に有意に「創造的で斬新なコンピュータープログラミングを作り、世の中に革新を起こす確率が高い」という結果が出たらどうだろうか。

 

その点を、私もまだ、研究できていないので、研究していきたいのだが、もしそのような汎用的な能力が、まったく世の中の進歩や次世代の革新に役立たないことが証明できれば、そのときは日本の英語教育は失敗で弊害だらけで、もっと実用的に「英語が喋れる」ようになったり、「プログラミングが組める」ようになったり、もしくは「日本家屋が建てられる」「野菜の栽培ができる」とか、もっと実用的なことに切り替えていけばよいと思う。

 

 

 


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2017年9月21日 (木)

雑感―文化を創造する力

(過去の記事の再録です)
私の住む宮城県でも、前知事の浅野さんの改革の一環として、高校の男女共学化が進んだ。本来、男女を分けへだてることで、異性に対する強烈な妄想が働き、それが異性に対する行動へとつながってきたはずだ。何事も男女平等、男女共同参画の社会がいいからといって、初めから男女のお互いが空気や水のようにあっさりとした存在になってしまったら、そこに文化を創造する原動力となる妄想が働かないと思うのだ。改革ばやりの世の中だが、改革は徹底しない方がいい。必ず、改革されないところを一部残しておくがよい。それが明日の豊穣の文化の母胎となるのだ。


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2017年9月14日 (木)

ABC包囲網

第2次世界大戦のきっかけとして、アメリカ、イギリスが日本を追い詰めたから起こったものだという見方がある。日本は、当時国際協調を無視して、そして中国の民族的な気持ちを無視し満州国で自国の権益確保を行っていた。国連の勧告に激しく憤り、日本は国連を脱退し、国際協調の道からは離脱してしまう。日本を国際協調の道に戻すために、欧米が仕掛けたものが、日本が生命線としていた石油の禁輸だ。石油を日本が手に入れられないように、追い詰めた包囲網をアメリカ・イギリス等の名前を取ってABC包囲網という。追い詰められて自暴自棄になった日本は、先端を開き、宣戦をどんどん拡大していく。

こういう経緯からすると、先の太平洋戦争は、自衛のための正義の戦争であるという主張も出てくる。この見方の一つの良さは、アメリカやイギリスなどの罪も問えるということだ。(だからと言って、私は、日本国家や日本軍が他国民や他民族に行った非人道的行為が許されるとは決して思っていない)。特にアメリカの、無差別都市爆撃や原爆投下の非人道的な罪を問うためには、戦争に至った歴史的な経緯をきちんと見ていくことも必要だと思う。しかし、残念ながら、おそらく、岸元首相をはじめ、戦前の日本国家や日本軍の指導者が免責されることと引き換えにアメリカも免罪され、罪も問われてこなかったのだと思う。そして今、日本国家や日本国民・旧日本軍の非人道的行為さえなかったということになり始めている。

常に今ある現実の脅威こそが問題であり、過去の歴史を振り返ることは馬鹿げている、学ぶものは何もないというのも一つの考えかただろうが、なぜか歴史が好きな私は現在と過去を無意識のうちにも比べてしまう。朝鮮人民民主主義国は、国際的な脅威に見える。国連の勧告にも従わない。だから、圧力を強めろ。石油を絶てば生命線を断つことができる。そして、追い詰められた朝鮮国が、もし「自衛のための正義の戦争」を開始したら?そのときは、誰の戦争責任になるのだろうか?誰だって等しく、この世に自分たちが存在する権利を主張するのではないだろうか。


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2017年9月10日 (日)

雑感―地方で生きる

(過去の記事の再録です)

明治時代の日本が、当時の国際状況下で生きていくためには、中央集権国家を作り上げ、官僚が中央から全国を支配する仕組みを作り上げるのが、正しい選択でもあり、効率的でもあったのだろう。また、第2次世界大戦敗戦後の日本で、経済復興を成し遂げ、当時の国際状況下で生き残っていくためには、やはり、中央集権の官僚支配は、効果を発揮した。

ところが、新たに、時代状況が変わった現在では、過去にうまく行った制度に今や弊害が目立つようになっている。過去にうまく行ったからこそ、成功体験にしがみつき変えられなくなっている。

今の、日本の抱えている問題は、急速なグローバリズムが進む陰で、疲弊していく地方の問題だ。地方の抱えている問題は、それぞれの地方で様々に異なる現場の問題で、現場で知恵を働かせ汗をかいて解決しなければならない問題である。

現場のことは、現場に任せて自分達の知恵と力で解決し、それを側面から静かに応援するのが一番よいのだが、予算は現場の裁量のままに全然ならず、中央がしっかりと握っている。

優秀な人が国家官僚になっても、日本の抱えている問題は少しも解決していかない。優秀で人の上に立つべき人材であるのなら、中央官僚にならず、地方で地に足を着けて生きるのもよいのではないか。

地方で、行政の長になってリーダーシップを発揮したり、地方で起業して10人、100人と人を雇用することが、この国のために貢献することになる。


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2017年9月 3日 (日)

「負け」の心性

仙台の8月は、雨降り続きで雨の連続日数は30数日にわたり観測史上最長だったと聞いた。そんなさえない空模様のように、仙台に本拠地を置く職業野球団「楽天」も、これまでの好調が一転、負けの連続が続いている。
スポーツ、特に団体競技では精神面のプレーへの影響は甚大なものがあると思う。いま「楽天」はチームとしてはやることなすこと、すべてうまく行っておらず、試合に勝てるような気がしない。応援している私も、シーズンが終わるまでこのまま負け続けるような気がする。

試合観戦に行った知り合いの話では、球場ではファンは味方チームに厳しいヤジを浴びせるでなく、負けた瞬間に力が抜けたように「フー」というため息だそうだ。これが、関西の某縞柄ユニフォームのファンであれば、お構いなしに痛烈なヤジが飛んでくるのだろうが。星野元監督も、お客さんはもっとやじって選手を強くしてほしいということを言っていたが、東北の人は優しくてそういうことは出来ないというのも、私にはよくわかる。

思えば、東北の歴史は負けの歴史だ。ヤマトの坂の上田村麻呂に負け、源頼朝に負け、長州藩に負け、近年では、自民党中央政府に核発電所を押し付けられて負け、と敗者の心性に非常に親近性がある。中央から蔑視されているのは、沖縄と似ているところがあるが、抵抗する沖縄のウチナンチュとはまた違った心性がある。

東北人の心性は、やはり粘り強さだろうか。2013年に楽天が優勝した時、たくさんの人が優勝パレードに詰めかけた。楽天の優勝が一種、震災からの復興の象徴になっていたということもあるが、あの年の楽天は、最後まであきらめない粘り強い戦いで、それで勝っていったというところに、東北の人たちは自分を重ね合わせたところがあったのではないかと思う。

だから、今年は今年で、負けの連続、十分、この悔しさも情けなさも、東北人にはわかるが、負けに親近性がある東北人は、この負けを受け入れているのだ。もしこのまま、9月一回も勝てないとしても、私はそれを受け入れるし、来年も応援し続ける。だから則本投手よ、涙を拭いてくれ。


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