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2017年7月28日 (金)

悲しい風景―「なぜ現代の日本で…」

(過去の記事の再録です。2008年01月03日)

 

なぜ、現代の日本で行われている公共工事は良くないのか、批判されるべきなのか。世の中すべての人が公平にお金と力を出し合い世の中で必要とされる仕事を公共工事というなら、この世には公共的な事業が確かに必要だ。というのは世の中すべての人にとって必要な仕事がひとりひとりの力と自発的な意志にまかされていたら、そのようなたぐいの仕事が、必ずしも行われるとはかぎらないからだ。むしろ必要な仕事であるにもかかわらず、行われないという可能性のほうが高いであろう。そのような仕事を公共の力と仕組みで行うようにしていくということは確かに大切なことである。

ところが、いま問題となっている公共工事は世の中が必要としている限度を超え、そしてその工事や事業から発生する利益が、世の中の多くの人に公平に行き渡るのではなく、一部の人々だけが、その利益を永続的にひとり占めしようとし、おまけに工事を永久に続けようとすることで、自然環境の消滅や劇的な改変をもたらすもので、もはやこうなっては、世の中に是非必要な事業という範囲を大きく逸脱しているのである。

現在の公共工事とは、ほとんどが、土木工事と建築工事で、人間が、その中で暮らし、目に見えない大きな恩恵を受けている自然環境をどこまでも破壊しつづける。公共工事を推進する人々には、自然が与えてくれる、水、空気、美観、心の安らぎなどの、現在の人間の作った経済的な仕組みでは、金銭的に売買や評価のできないものを、自分たちの目の前に流れ込んでくる利益と比較すれば無価値であると評価する。公共工事を推進する人々は、自分たちがよって立っている地盤をいっしょうけんめい突きくずすことにやっきになっているようなものだが、ことの重大性にまったく気づいていない。人間は自然環境のほんの一部であるのだから、自然がなくなってしまえば、人間もいないし、公共工事もありえないし、公共工事についてまわる利権だって存続しえない。

ところが、公共工事を推進する人々は、長期的な視点に立ってみれば、何が人類全体の利益であり幸福であるかということを考えず、目先の利益だけを確保しようと汲々としている。遠い先々を見通せないようでは、ほんの短期的な存続さえ危ういものである。公共工事は、いったん工事が完了し、その場所の自然が破壊されてしまえば、そこで終わり、次々と新たな候補地として自然のいけにえをさがし求め続けなければならない。

自然が有限で、大変微妙なバランスで成り立っているということを公共工事推進派の人々は気づいていないか、気づかないふりをして、公共工事は、永久に続くと自分たちに無理に信じこませようとする。小規模な公共工事で、1回きりでなく持続性があり、より公平に事業からの利益を人々が享受できるような仕組みを、知恵を出し合えば考えることもできるだろうに、惰性と怠慢で、いつまでも大規模な土木工事、建築工事にこだわる。


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