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2017年7月31日 (月)

東洋思想―「なにかになるということは…」

(過去の記事の再録です)

・なにかになるということはなれなかったなにかになる可能性を否定すること。

なににもならないということは、なににでもなれる無限の可能性をいつまでも持っているということ。

・所有することは、所有できないものが莫大にあること。
所有しないことはこの世のすべてを所有すること。

・思想は頭で理解しようとするものではない。頭で考えてわからなければほうっておいて体を動かす仕事をすることだ。なにかのはずみで思想が直観的に把握でき、合点がゆけばそれでよい。その瞬間に、思想は汝とひとつとなる。


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2017年7月30日 (日)

悲しい風景―「技術専門家が支配する世界」

(過去の記事の再録です)

例えば、コンクリートによる川の三面護岸工事なども、専門家の机上の理論によれば、様々な要素を考慮した結果、川のあるべき姿はあのような形になり、我々ずぶの素人が、「あのような川は美しくない」と反論しようにも専門知識もなければ、蓄積された統計資料も満足にそろえられないだろう。専門知識と統計資料は彼らだけのものであり、それを持たぬ徒手空拳の我々の言に、彼らは耳を貸さぬだろう。貸さぬどころか、我々の言葉に激しく嫌悪の情を抱くであろう。なぜなら、各種の技術専門家が世のいたるところを支配する世界では、専門知識を持たぬ素人は虫けらも同然無力であり、無知な人々の妄言は葬り去られるからだ。だが、確かにその他大勢の素人は、専門的知識の分野でははるかに見劣りがするも、己の内面の声から素直にもれ来る美的感覚や平衡感覚ではるかにすぐれているかもしれぬのである。世の大勢を占める素人達の常識や直観をないがしろにして一部の専門技官が突出している社会が現代社会の特徴である。


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2017年7月29日 (土)

私たちの中に生活をとりもどす―「私たちの生活の中に…」

(過去の記事の再録です)

私たちの生活の中に失われてしまったものをとりもどそうと考えて、実践していた時に、すべてを包含する全い生活こそが農的な生活であることに気づいた。近代社会は専門知識と専門的職業への発展、分化によって特徴づけられる。それは近代以前の暮らしと比較すれば、ある意味で進歩と考えられる側面を持っていた。ところが個人的な能力、感性、体験を全面的に開花させるかといえばそうではなくむしろ退化させた面が見受けられるのである。個人の中に生きるための技能と知恵をとりもどし、人間的な生活を少しでもとりもどそうとしたとき、思い当たったのは農的な生活だったのである。


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2017年7月28日 (金)

悲しい風景―「なぜ現代の日本で…」

(過去の記事の再録です。2008年01月03日)

 

なぜ、現代の日本で行われている公共工事は良くないのか、批判されるべきなのか。世の中すべての人が公平にお金と力を出し合い世の中で必要とされる仕事を公共工事というなら、この世には公共的な事業が確かに必要だ。というのは世の中すべての人にとって必要な仕事がひとりひとりの力と自発的な意志にまかされていたら、そのようなたぐいの仕事が、必ずしも行われるとはかぎらないからだ。むしろ必要な仕事であるにもかかわらず、行われないという可能性のほうが高いであろう。そのような仕事を公共の力と仕組みで行うようにしていくということは確かに大切なことである。

ところが、いま問題となっている公共工事は世の中が必要としている限度を超え、そしてその工事や事業から発生する利益が、世の中の多くの人に公平に行き渡るのではなく、一部の人々だけが、その利益を永続的にひとり占めしようとし、おまけに工事を永久に続けようとすることで、自然環境の消滅や劇的な改変をもたらすもので、もはやこうなっては、世の中に是非必要な事業という範囲を大きく逸脱しているのである。

現在の公共工事とは、ほとんどが、土木工事と建築工事で、人間が、その中で暮らし、目に見えない大きな恩恵を受けている自然環境をどこまでも破壊しつづける。公共工事を推進する人々には、自然が与えてくれる、水、空気、美観、心の安らぎなどの、現在の人間の作った経済的な仕組みでは、金銭的に売買や評価のできないものを、自分たちの目の前に流れ込んでくる利益と比較すれば無価値であると評価する。公共工事を推進する人々は、自分たちがよって立っている地盤をいっしょうけんめい突きくずすことにやっきになっているようなものだが、ことの重大性にまったく気づいていない。人間は自然環境のほんの一部であるのだから、自然がなくなってしまえば、人間もいないし、公共工事もありえないし、公共工事についてまわる利権だって存続しえない。

ところが、公共工事を推進する人々は、長期的な視点に立ってみれば、何が人類全体の利益であり幸福であるかということを考えず、目先の利益だけを確保しようと汲々としている。遠い先々を見通せないようでは、ほんの短期的な存続さえ危ういものである。公共工事は、いったん工事が完了し、その場所の自然が破壊されてしまえば、そこで終わり、次々と新たな候補地として自然のいけにえをさがし求め続けなければならない。

自然が有限で、大変微妙なバランスで成り立っているということを公共工事推進派の人々は気づいていないか、気づかないふりをして、公共工事は、永久に続くと自分たちに無理に信じこませようとする。小規模な公共工事で、1回きりでなく持続性があり、より公平に事業からの利益を人々が享受できるような仕組みを、知恵を出し合えば考えることもできるだろうに、惰性と怠慢で、いつまでも大規模な土木工事、建築工事にこだわる。


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2017年7月27日 (木)

私たちの中に生活をとりもどす―「多くの人はなぜ…」

(過去の記事の再録です)

多くの人はなぜ選挙に行かないのだろう。それは投票というささいな行為が、えたいの知れない仕組みで成り立っている世の中という巨大な組織を変えたり動かしたりできるとは思わないからだ。人間は自分ひとりの身の回りの領域で、自分の体を動かして働きかけ実感できることだけを現実と認識する。ところが現在の私たちの身の回りには建物にせよなんにせよ人間一個人の力ではとても及ばない巨大なものばかりに囲まれていて、現実に関与して暮らしているという実感が持てずに暮らしている。こういったことのせいで私たちには、自分たちの力で何かができる、何かを変えられるという実感がなく、現実感がとても希薄なのである。


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2017年7月26日 (水)

東洋思想―東洋の智慧

(過去の記事の再録です)

 

大事なことは、科学がその存在を承認したり、有効性、有用性を証明する以前からそれは存在し、人々に体験されていたということである。科学が証明した後に、それが始めて存在しはじめたわけではないのに、科学万能の風潮下に生まれ育った私たちは、科学の承認があってはじめてそれがこの世に生まれたと感ちがいしてしまうのである。それははじめからそこにあったのである。
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2017年7月25日 (火)

美しい日本の言葉たち―序

(過去の記事の再録です)

言葉があるからこそ、文化が伝わり、民族の智慧が伝わり、環境に適合して暮らしてきたその暮らしぶりが伝わる。たとえ生活の実態が失われていても、言葉さえ残っていれば、その言葉をもとに、生活をとりもどすこともできる。生活が失われ、言葉も失われてしまえば、かつて祖先の人々の中にそのような生活があったこと自体が忘れさられしまい民族の叡智は失われる。美しい言葉、ちえのある言葉を私が伝える意義は、美しい言葉、ちえある言葉を残した民族の先人のくらし、ちえを後世の人々に伝えることであり、言葉を大切にすることの意義を多くの人にわかってもらうことである。


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2017年7月24日 (月)

私たちの中に生活をとりもどす―後序

(過去の記事の再録です)

私たちは、企業の不祥事により何か問題が生じたりすれば、その企業の姿勢や責任者を批判する。しかし、本来は、よほど悪徳、無責任な企業でなければ私たちに他者を批判する権利などないのであって、自分たちの生活は自分たちで責任をとることが原則ではないか。私たちはそれほどまでに私たちの生活のすべてを企業にゆだねてしまっている。私たちは日々、食べるものを外国と、その国から食糧を輸送してくる商社や船会社などの大企業に依存している。私たちの使う日々のエネルギー源も外国と、移送してくる大企業、そしてエネルギーを国内で販売する独占企業にほぼ百%頼っている。確かに企業の意義や存在価値は大きく、企業がなければ今の世の中のしくみでは、人々の暮らしがたちゆかなくなることはその通りであるが、私たちの生活の中にせめては3分の1、食糧やエネルギーを自給する部分を残して、自分たちの生活の主人公に自分たちがいつでも復権できる可能性を自分たちの手に残しておくべきではないのか。私たちの中に私たちの生活を取り戻すことによって私たちは自分たちの生活に責任を取り戻し、生きている実感と喜びを再び手に入れる。


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2017年7月22日 (土)

東洋思想―地下水脈

(過去の記事の再録です)

 

真実はひとつであるが、そこにいたる道は無数にある。世界にはさまざまな民族がいてさまざまな文化がある。世界中を見て回り多くの経験をすることもたしかにその人の見聞と知識を広めるやり方である。しかし、真実は地下水脈のように地中深く横に広がっているのかもしれない。誰もがどこからでも自分の足下を深く深く掘り下げていくと、横に広がった地下水脈に出会う。掘り始めた場所はちがっても地下水脈の水は、同じもので同じ味がする。手仕事をするすぐれた職人さんが、海外旅行などに行かなくても自分の仕事を深めていって高い見地に達するのはそういうことではないか。


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2017年7月21日 (金)

東洋思想―「豆の種からは…」

(過去の記事の再録です)

豆の種からは豆の実しかならないのであって決して桃の実がなることはない。ただし種が芽を出すにはいろいろな条件が合うようにそろっていなければならず、暑すぎたり寒すぎたり適当な湿り気がなかったりすれば発芽することはないのである。


人もどんな種を持って生まれてくるかははじめから決まっていて桃の種からは桃の実がなり、柿の実は決してならない。その人、その人の種が芽ばえるようにしてやればよいのであって無理に桃の実に柿の実をならせることはない。そして桃の木だけがえらいのではないのと同様、この世には、いろいろな種類の木があってよいのであり、むしろそれが自然なことなのである。人も同じであってすべて異なる種を持って生まれてきた人々に同じ花を咲かせることは出来ないが、異なった種がたくさんあることが、この世の人の自然な状態なのであり、決して人為を加えて解決できることではない。みんなちがってみんないいのである。


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2017年7月20日 (木)

東洋思想―「自然界の…」

(過去の記事の再録です)

自然界のすべて生きとし生けるものの命は平等であり、人間は自然の中の一部であるので、人間が自然を一方的に保護するという思想はなく、生き物の持っている業のため、時に食いつ食われつの関係になるものの、人間とて生命界の頂点に立つ絶対的な存在ではなくいつかはほろび、また自然界のふところへ帰る。これが本来、東洋人の直観、叡智であった。


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2017年7月19日 (水)

東洋思想―「学者がするのは…」

(過去の記事の再録です)

学者がするのは原本の校正、その時代の正しい文字の使われ方やその正しい解釈。原本が書かれた時代における原本の発している正しい思想のあったままの復元。それがすぐれた実証研究となる。生活者がするのは思想の継承とその思想を生活者が生きている時代の中に活かし毎日を生活していくこと。思想を指し示す道具である言葉そのものにはこだわらず思想の神髄のみを受けついで生きていくこと。それが思想を内側から生きるということになる。


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2017年7月18日 (火)

美しい日本の言葉たち―あくがれる

(昔の記事の再録です)

 

あくがれるは現代語のあこがれるの語源となった言葉である。このあくがれるということばは、たましいがその人の体から抜けでて遠くはなれていくことをたくみに表現している。「あく」は「あるく」を連想させ、動いて外に出て行くという語感を生み、「かれる」は「離れる(かれる)」のことで遠ざかるという気持ちである。古典文学を見ると、恋をするとたましいがあくがれるという場面がよくでてくる。相手を昼間のうちに思いに思いつめ、その心がついには夜、体をぬけだして相手のところにたどりつく。現代語のあこがれるは語義が拡大しているが、魂が外部のものに心ひかれてそちらに移るという点では同じである。

私はよくふしぎに思うのだが、人類はその誕生以来、この地球上を壮大な規模で移動してきた。地理の知識も、交通機関も発達していない大昔、どのようにしてこの大移動をなしとげのか不思議でならない。その土地での人口過剰や食料不足、疫病の流行などやむをえない事情があったことにまちがいはないだろうが、やはりわたしには、太古の人々の心にもあこがれの気持ちが強くあり、目に見えないあの山やあの海の向こうに理想の土地と生活があると強く心をひかれたのではないだろうかと思われるのである。地球の大気中には昔から人々のあくがれが満ち満ちていると私には感じられる。

※「あくがる」を大言海でひくと「在所離(ありかか)るるの略伝と云ふ」とある。


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2017年7月17日 (月)

旅する葦―正確でない地図

(過去の記事の再録です)

 

地図をながめるのが昔から好きだった。あてどもなく旅に出て地図を広げ、今日はどこに行こうかと考えるのは楽しい。さて、日本人は海外に旅行に出たら列車が時刻通り正確に運用されないとすぐ怒る。正確に運用される列車こそめずらしく予定通りに運行されない鉄道こそが世界の常識だということに思いをめぐらせないのだ。地図やガイドブックにも正確無比な情報を求める。まちがった情報はそこに読む者をだます悪意があるかのように怒る。しかし、正確さ、間違いのなさをかねそなえた事物などこの世にはひとつもないということを頭に入れ、寛容な気持ちで地図やガイドブックをたずさえて出かけるべきなのである。その地図やガイドブックを片手に現実の方は、実際どうなっているのかを確かめに旅に出てみるのもよいではないか。

天井にはった地図を
二段ベットの上段から
夜、豆電球の明かりのもと眺め
想像をめぐらすのが
少年のころの私の好きなことだった。
私は冒険船の船倉の二段ベットに
横たわる船乗りだったのだ。

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2017年7月16日 (日)

東洋思想―「なぜ禅は…」

(過去の記事の再録です)

なぜ禅は言葉による触発なのか。東洋思想は思惟するだけで行動を生まないのか。生む。それが禅である。禅は極端を打ち込むことを推奨する。とことん突き詰めればよいと言う。そうすれば反対側の道をたどって中庸の道に戻ってこれる。この世は極と極とが正反対にあり、そこに越えられない距離を抱えているのではない。極は極に接し、極めればもとにもどれるのだ。二律背反の世界ではなく接して常に流れる循環の世界なのだ。


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2017年7月15日 (土)

東洋思想―「すべてのものが…」

(過去記事の再録です)

問答

「すべてのものが生まれて生きていることに意味があるのか」
「無し」

「それではすべてのものが存在することに意味はないのか」
「有り」

解説

本質的には同じ問いに、違った答えを与えることは禅ではあたりまえに見られることである。論理のなさ、矛盾にこだわってはいけない。論理を離れよということなのである。



この問答は、意味など考えずに生きるべきことを生きよということである。透徹すること、それが禅が求めていることである。意味はおまえが内側から生きよということである。


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2017年7月14日 (金)

私たちの中に生活をとりもどす―電子辞書で失ったもの

(過去記事の再録です)

私が教えている私塾の生徒は今ほとんど電子辞書を持っている。英文を読み,知らない単語に出会ったとき,日本文を英語に翻訳しようとしてふさわしい表現を探るとき,昔のように紙の辞書をめくっていくのではなく,必要な項目をキーボードで入力し,求めている情報へひとっとびでたどり着く。



電子辞書を使用することの是非についてはここでは論じない。電子辞書の使用には良い面もあれば悪い面もあるだろう。そして,それを使う人によって,よくもなれば悪くもなることもあるだろう。ここでは,紙の辞書を使わなくなったことによって,何が失われたかということを指摘するのにとどめたい。紙の辞書しかない時代を経験し,紙の辞書を使ってきて,現在電子辞書も使うことのできる時代を生きている者が体験的に考えたことである。



紙の辞書では,目的の情報には一発でたどり着けない。情報の大きな枠組みがまずは全体的に目に入ってくる。そうした枠組み・背景を意識しそこに目を配りながら,必要な情報がどこにあるのか,その情報の全体の中での位置づけを確認しながら,目的とする情報へとたどり着いていく。そのたどり着く過程で,情報がどのように整理され,どのような順で並べられ,記述されているのかを自然と目にし,自分でも身につけていく。なるほど,電子辞書の検索は便利であるが,人類がこれまで苦労して作り上げてきた考えて分類する行程をはしょってしまう。



このように,技術の進歩で常に問題となるのは,人間としてのその全体性の喪失なのである。


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2017年7月13日 (木)

東洋思想―桑田変じて蒼海となる

(過去の記事の再録です。)

古代中国老荘家の人たちは「桑の畑が青い海になる」というたとえ話をしてる。地球的規模の長い時間という単位で見ると、今畑だったところも、いつかは海の底に沈むような変化が起こることもあるというのである。だから、目の前のことだけにとらわれるのではなく、長い目で物事を見渡せというのだ。


哲学というものは、それを修めたからといって、急に収入が増えたり、社会的地位が上がるものではないが、ものの見方を(時には自分では思いもつかなかった斬新な世の中の見方)を与えてくれるという点で、貴重なものだといえる。


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2017年7月 6日 (木)

悲しい風景―自然と人の暮らし

(過去の記事の再録です)

短絡的かもしれないが私の中では地方すなわち自然の多いところである。日本では自然が豊かであればあるほど、過疎でさびれたところが多くなるが、例えば、東南アジアなどでは自然が豊かなところでも人が多く集まり活気がある。日本は、加工輸出型産業で生きていく決心をし、いくつかの主要な都市に人が集まり、そこだけが活気を呈していればそれでよしとしているのである。直線的な歴史観では、やがて遅れた地域も進んだ地域のように発展を遂げていくのであろうが、その発展によって行き着いた先が、悲しい風景では、発展の価値を大いに疑わざるをえない。


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2017年7月 4日 (火)

生の哲学―仕組みの中で生きること

(昔の記事の再録)

私は、今まで、仕組みの中でまともにお金をもらったことがない。この社会にうまく適応できず、はみ出しもののような気がしていた。

組織や仕組みは予算を組んでそれをいつも定期的に消化していくだけである。中にいる人間にとっては一定の分配が常にもらえることが当たり前となり、既得権となり、やがてそれは手放せなくなり、個々の人間よりも、仕組み自体を維持しようと必死になる。



生きていくということはもっと違うこと、もっと原始的なことではないか。原始の時代にまでさかのぼらなくても金銭を得て暮らしていくということはもっと違ったことなのではないか。その直接性を、仕組みの中にいる人間は味わったこともなければ、想像したこともない。そこでは、どの仕組みに入るのか、入れるのかが重要なことで、生きるという本源的な意味を体験することは重要なことではない。



生の意味をさぐるのはなぜか。それは生が無意味なのではないかという疑念が私たちの心にわいてくるからだ。私たちが直接性と格闘し、例えば斧で木を切り家を建てたり、簡単な農具で土を耕し食べるものを得たりして感じる腰や背中の痛み、これが生の直接の意味かもしれないのだ。


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2017年7月 2日 (日)

美しい日本の言葉たち ― ほのか

(過去の投稿記事から再録)

世の中何が変わるかといえば、日本を代表する新聞社が性愛小説を連載するようになったことだ。朝から美に入り細をうがつ性愛描写が続く。食傷気味となって思い出すのは、奥の細道の遊女の句だ。

一つ家に遊女も寝たり萩と月

謹直な芭蕉のことだから遊女と何かあったということはなかろう。もしかしたら一つ家に泊まったということすら虚構かもしれぬ。しかし、句は夢幻に美しい。言われていない無限の闇が美しい。

秘すれば花というように、本来日本人にはぶしつけな直接性を避ける繊細さを持っていたはずである。物事の微妙な現れである「ほ」(秀)を、心の目で見つめ、そこに言い知れぬ美しき「か」(香)を認めることができたわれわれの祖先は「ほのか」という言葉を残してくれたのである。


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2017年7月 1日 (土)

美しい日本の言葉たち ― うつろふ

(以前に投稿した記事から)

うつろふのうつは、うつすなわち空しいに通ずる。うつろふはまた漢字をあてれば「移ろう」とも書く。物事は、甲から乙へ、乙から丙へと移ろってゆく。このとき、甲が甲であり、乙が乙であるならば、なぜ、甲は乙に、乙は丙に移ろうことができるのか。それは、実は物事の本質というものが「うつ」すなわち「空虚」であるからだと思われる。春には春という充実した中身があるのではなく、そのものとして実体がなく、実体がないからこそ、夏の萌芽を内部にきざすことができ、やがて夏の芽は春の中で大きく育ち、春はすっかり中身を喰い尽くされて夏に遷移していく。夏は夏で空虚だからこそ秋をきざし秋に遷移し、秋は冬に、冬は春へと遷移してやむことがない。硬直したものは移ろうということがない。己を空しくしたもののみ、すべてを受け入れ、そのすべてのものに移ろっていける可能性を秘めている。


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