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2017年5月25日 (木)

山本おさむ氏の裁判傍聴漫画

山本おさむさんという漫画家はすでに実績のある作品をたくさん書いている漫画家だ。山本さんは東日本大震災の前に福島に移り住んでいて、そこで震災と核発電の事故にあった。その経験とフクシマの様子をすでに作品として発表しているが、今、フクシマの「なりわい裁判」を取材して発表している。

「なりわい裁判」とは、核発電所の事故によりなりわいを奪われた人たちがなりわいを返せと訴え、なりわいが失われたその責任を問う裁判だ。フクシマ核発電所事故のまさに本質は、人々のなりわいが壊され、そのことに対してだれも責任を取っていないことだ。大地震と津波が来るという学会の報告がありながら、国会で津波の危険性を問われそんなことはあり得ないと答え、口を拭って核発電推進にいそしむ政治家をはじめ、企業、メーカーの責任ある地位にいる人だれも罪に問われている人はいない。

そして近頃は特に核発電事故で漏れた放射能が健康に害を及ぼすという科学的根拠は全くないのだから、おとなしく以前住んでいたところに戻りなさいという風潮が強まってきているように思える。そしてそういう政治の流れを後押しして、放射能のことで騒ぐ人は「放射脳」、つまり頭がおかしく福島の農産物や観光に「風評被害」を与える元凶だと指弾されてさえいる。

いままでそういう科学的なデータがないとか作られてこなかったということはあるだろうが、しかし、核発電事故により、放射性物質により大地が汚染されてしまったことは事実であり、たとえば自分の土地にごみを投棄されたとして、別に健康に害はないのだから黙って住んでなさいよと、当のごみを投棄した業者に言われたらどうだろうか。「科学」的見地からは何でもないのかもしれないが、核発電の前と後では世界は全く違ってしまったのだ。現に、土に含まれている放射性物質は事故前と後では数値が全然違うし、薪ストーブ燃やした灰に含まれている放射性物質の値も全然違う。だから、大金をかけて除染してやってるだろうと、政治は言うのかもしれないが、放射性物質を集めてどこかに持っていけば問題は解決するかと言えば、それも違うと思う。

おそらく「なりわい裁判」を起こした人たちも核事故前のなりわいが戻ってくるだろうとは思っていないだろう。しかし、何かを訴えざるを得なかったのだし、訴えるとしたらまさに一番私たちが言いたいのは「なりわいを返せだ」。山本氏が報告する「なりわい裁判」の原告の人たちの証言は、胸を締め付けられる。しかし意義のある画期的な裁判であるし、今後起こるであろう核事故のためにも、フクシマの核事故で何が起こったのかは記録され記憶され語り伝えられ広げられていかなければならない。山本氏の裁判傍聴記の今後に大いに期待している。


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2017年5月23日 (火)

ポピュリズムとメディア

2017年5月16日付河北新報掲載の佐藤卓己氏「論考2017」が大変参考になる内容だったので、広く伝えたいと思い、その内容を要約する。佐藤氏は、フランス大統領選の結果を紹介しつつポピュリズムの考察を深めていく。フランス大統領に当選したマクロン氏は、ポピュリストのマリーヌ・ルペン氏から見れば「高学歴・ホワイトカラー・国際主義のエリート・利己的な権力者」であり、「われわれ」である「低学歴・ブルーカラー・国民主義の人民・道徳的な勤労者」と「彼ら」は分断されていて、その分断をあおり国民の支持を得るのがポピュリストなのである。

しかし、そのあとの佐藤氏の考察が興味深い。ポピュリズムのさらなる特性は「反多元主義」と「直接代表」。それはポピュリストたちは、自分たちだけが人民を政党に代表していると主張するからだ。そこからどのようなことが起こるか。もともとメディアという語の語源は「中間」とか「媒介」である。よって、ポピュリストたちが嫌うのは直接性の妨害となるジャーナリストや既成政党である。ジャーナリズムは、多様な意見を持つ人たちの多様な意見を反映するので、民主主義社会の健全な多元性を体現しているわけだが、ポピュリストは自分こそが国民を直接代表しているという自負があるので、多元性を体現するメディアを目のかたきにするのだ。

なるほど、そういうわけで、ポピュリストたちは、メディアの報道に対して「偽ニュース」だとか「言論テロ」だとか攻撃するわけなのかと納得がいった次第だ。朝日新聞を言論テロだとするSNSの投稿に、安倍首相が賛意を表したと報じられているが、菅長官も「確認していない」と言っているし、まさか一国の首相がそんなことはしないと私も信じたい。それこそ「偽ニュース」であってほしい。民主主義的な社会にあっては、たとえ、自分の考えに否定的な言論でも、言論する自由は保障されねばならないと私は思うし、民主主義政体を一番体現する立場の人は民主主義の原則はわかっているはずだと私は思うからだ。

もし、そうでないとしたら世界で一番自由がない国と思われている3代目王朝のあの国とこの国はそう変わらないどっこいどっこいの国のような気がしてくる。「共謀罪」についても、法律で犯罪かどうかで決まるのでなく、時の権力者のお友達かどうか、気に入ってもらえるかどうか、権力者の恣意的な判断で決まるのではないかという不安は払しょくされない。


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2017年5月21日 (日)

味覚障害

新聞で見かけた気になる健康に関する記事をまとめてみた。2017年5月17日付の河北新報に東北大病院口腔診断科科長の笹野氏が「味覚障害」についての論考を寄せていた。

まず食事の重要性として笹野氏は、人生の喜びであるとともに、バランスの良い食事をよく噛んで食べることで心身の健康を支えると指摘している。そして食事を続けていくために丈夫な歯とあご、そして健全な味覚の必要性を述べている。

高齢化と味覚障害は関連していることを笹野氏は指摘する。そして調査の興味深い結果を紹介する。高齢者71人(平均80歳)の37%に味覚障害があり、それを自覚している人が19%で、味覚障害があっても自分は正常だと思っている人の存在を問題としている。

また、味覚と食欲・体調の関係もデータが出ている。味覚が正常な人の96%が食欲良好なのに対して、味覚障害の人の43%は食欲がないと解答している。体調は、味覚が良好だと答えた人の93%が快調と答えたのに対して、味覚障害の人の45%が体調不良と答えている。これらのデータは、冒頭で述べた、味覚が健康を支えるの根拠ともなるデータであろう。

笹野氏は、味覚障害が高齢者だけでなく若者にも広がっていることを指摘している。東北大学新入生を対象とした調査で25%で軽い味覚障害が発見されている。そして、どのような学生に味覚障害が見られるかでは「食に関する意識が低く、バランスの良い食事をとっていない学生」ということがわかった。ここから導かれる結論として、若年者に対する食事指導、つまり食育も必要であるということだ。

味覚障害が健康に悪影響を耐えるシステムも笹野氏は述べている。それはこうだ。味覚障害は味がわかりにくく、そのためにより強い味を好み、塩分や糖分を取りすぎてしまう。その結果高血圧症、動脈硬化、糖尿病など生活習慣病や肥満につながる。


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2017年5月18日 (木)

憲法と民主主義

クラシック音楽を聞くことがあるのでNHKFMを聞くことがある。古い話だが、先日の憲法記念日に、NHKFMのニュースでは、ちょっと違った切り口から日本国憲法について伝えていた。FM放送なので、自民党政権の目があまり届かないのか、もしくは志のあるディレクターさんがいるのか。他の曲のニュースと違ったのは、世論調査の結果を引用して、「夫婦別性」と「同性婚」についての賛否の割合が昔と比べてどうなったかを説明していたことだ。

結果は、それぞれ昔と比べて賛成が大幅に伸びている。多様性の尊重、他人の自由を認める日本国憲法で重視された民主主義の精神が、確実にこの日本では根付いてきているというわけだ。なるほど、こういうところからする「護憲」運動もあるのだと思った次第だ。

民主主義の根本的な議論としてはジョン・ロールズの著作に書いてあったことを思い出す。ソ連や中国のような社会主義国家と、民主主義国家との違いは何か。それは、社会主義国家では社会主義を否定する言論は許されないが、民主主義社会では民主主義を否定する言論が許されるということだ。これはもちろん民主主義国家の弱点でもある。ヒトラー政権は、当時世界一民主的な憲法を持った国から合法的に誕生したし、現在の安倍政権も民主主義的手続きを踏んで、人々の内面的自由を束縛し民主主義社会そのものが機能しないような社会を作ろうとしている。

しかし、内面の自由も言論の自由も許されない社会よりは、たとえ民主主義社会を否定する言論だとしても自由が許される社会の方が、ぼくは良いと思う。もちろん、それは民主主義への挑戦だし、民主主義の試練である。だが、その試練をくぐり抜けなければ本物の民主主議は育たない。民主主義の良さは、多様な意見が出て議論することで、より良い選択肢や方向性・可能性が見つかり、社会がダイナミックに発展していけるところだ。自由な言論を封殺したところでは、結局社会は停滞する。

だから、安倍さんや日本会議の皆さんが夢想する、権威者が権威者らしく毅然として威張っていられた懐かしい昔に帰りたいという議論や提案をする権利や自由自体を、この社会は拒否すべきではない。意見をたたかわせて落着するところに落着すればいいのだ。そこで、冒頭のNHKFMのニュース報道だ。ある意味、日本国憲法の精神は国民に浸透している。国民が民主主義を守りたいのであれば、安倍さんや日本会議の皆さんの提案を否決すればよい。ちなみに、安倍さんは若者や女性の味方というポーズをしているが、夫婦別性は、日本の伝統的家族観が崩壊すると言って反対している。これが安倍さん流の女性を大切にするやり方なのかもしれないが。


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2017年5月13日 (土)

民主主義の難しい問題

署名活動などやっても効果がないという人もいるだろうが、せめて、無力な自分のこの世の中への意思表明だとして、そして、何も意思表明しなければ大きな声の人に押し消されてしまうという「一寸の虫の五分の魂」の理屈から、署名活動には割と参加している。いまは、さらに便利なオンライン署名というものがあり、署名をする物理的ハードルは低くなった。しかし、この前、呼びかけが回ってきた署名で保留してしなかったものに、作家の百田さんが、大学の学園祭で講演活動をするので反対してほしいというものだった。趣旨としては、彼が差別主義者なので、そういう差別発言を容認しないというものだったと、自分の中では記憶している。

署名をためらった理由は、もしこれが逆の立場であったらと考えたからだ。逆の立場の私たちは今ずいぶん分が悪い。例えば、慰安婦問題を考えてみましょうという様な催しや写真展は、政府の考えに反するので公共施設は貸してもらえなくなりつつあるし、憲法9条を賛美して平和のありがたさをうたった短歌が、公民館便りに載ったことが問題となり、削除を命じられたこともあったと記憶している。要は、健全な民主社会は、たとえ自分の考えや信条とは違っていても、その考えや信条を自由に表明する権利は守られてしかるべきだと、私は思うのだ。

よって百田さんは、南京大虐殺はないという立場だし、中国や韓国・朝鮮を憎悪している点では、私と立場は違うけれど、民主社会で基本的人権が尊重されているのであれば、私は、百田さんの権利を尊重する義務があると思ったのだ。

しかし、これは同時に難しい問題だと思った。同じ民主義国家のドイツなどでは、基本的に、ナチスを賛美し、ユダヤ人虐殺はなかったとか大した問題ではないとすることは許されない。もちろん、ヨーロッパにも百田さんのような思想の人はいるので、ユダヤ人虐殺のような事実はないと思っている人もいるが、そういう人が公的な立場につくようなことが許されていない。しかし、自由に自分の意見を述べる民主的権利との兼ね合いということになると、これはどう説明がつくのだろうか。

こういう日本とドイツの差というのは、サッカーの試合にも表れている。サッカー国際連盟は、サッカーに政治や人種差別を持ちこむことに大変厳しい態度で臨んでいる。だから、最近、試合会場でナチスの鍵十字の旗を掲げたヨーロッパの観客と、日本の戦前軍国主義の象徴である「旭日旗」を掲げた日本の観客に対して、その試合を主宰した責任チームに制裁を科した。しかし、日本のサッカーチームの社長は、「旭日旗」に政治的な意味はないと、制裁に反対する姿勢をとっている。

「旭日旗」が軍国主義の象徴ではないと考える日本人がいること自体は、そういう事実として私は認めるが、戦争の被害者である韓国や中国の人が見れば、「旭日旗」は戦争や抑圧を想起させるのも事実として、私は認める。いじめ問題でも、よく、いじめる方は、いじめだと思っていなかった、軽い冗談のつもりだったというが、いじめ問題ではようやく「いじめられた方がいじめだと思ったら、それはいじめだ」という認識が広がってきたのかなと思う。しかし、歴史認識問題では、被害者の立場に立つという視点を持たない考えが日本では優勢を占めていて、そのオピニオンリーダーとして多くの人から敬愛されているのが冒頭の百田さんでもある。

韓国と日本との慰安婦問題で「不可逆的に問題解決」とした合意を考え直すように国連から勧告が出た。日本政府にとって、こんな勧告、戦前であれば、国連脱退ものだろう。まさかアメリカの手前、脱退もできないので、勧告を無視するのだろうが、私は「不可逆的」つまり過去に戻らないということは、過去に事実がなかったということを意味すると思う。それは、被害者にとってはあまりにもむごい。よく言うように、被害者は金が欲しいわけではないのだ。一番望んでいるのは、過去の事実を認め、過ちを謝罪することだと思う。ずっと永久に謝り続けるのかと問う人もいるが、私は基本的には事あるごとに謝罪すべきだと思う。そうすることで、過去と同じような過ちは繰り返されないという両国の確認になり、新しい未来の関係も築いていけると私は考える。


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2017年5月11日 (木)

読売新聞を読め

安倍首相は、憲法改正についての私の考えを知りたければ、読売新聞を読むようにと国会で発言した。読売新聞は、全国民がとっているわけでもないし、正式な国家の宣伝機関でもないだろうから、「憲法」という大事なことで、最高の地位についている人の考えが全国民に伝わらなくなる恐れがある。

全国民に向かって自分の考えを伝えるのであれば、曲がりなりにも「国会」こそはこの国の民主主義政治というルールにのっとれば、国民の代表者がいるところであるので、ここで説明すれば、全国民に向けて説明したという形式的なルールは守られたことになる。

しかし、それをせずに、読売新聞を読んでおけ、では、国民に説明義務を果たしたことにならないと思う。しかし、読売新聞で発言すればそれで事足れりと安倍さんが考えているのだとしたら、安倍さんはこの国の民主政治という建前さえ守らない人なんだと、ぼくは不安になる。よく安倍さんのことを「存在そのものが憲法違反」という人がいるが、なるほど一理あると考えてしまった。

自分は民主主義のルールや法律・憲法を守らなくてもいいのである。つまり自分は「超・法規的存在」であるということを示しているのではないだろうか。国民も本来は、安倍さんが「超・法規的」存在であることを許しておくべきではない。もし、容認するのであれば、憲法によって「思想・信条の自由」が守られ、逮捕の際に最大限人権が守られ、拷問で自白を強要されることも最大限ないように守られている国民も、いつ「法規の外」へ置かれるかわからない。

「超・法規的存在」となれば、いつでも法規の外から、人を取り締まることが可能になる。国民は、自分は普通の市民なので自分には関係ないと思っているかもしれないが、人権や平和で穏当な生活を守ってくれている憲法や法規を超えた存在に対して、どうして自分だけは守ってもらえるという保証があるのだろうか。「超・法規的存在」となれば、自分のお友達は守るだろうが、お友達でなければ守られる保証はないのだ。


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2017年5月 4日 (木)

新ナニワ金融道

作家青木雄二さん。ぼくが尊敬してやまない人だ。あまりにも早い死が残念だ。青木さんはマルクスを尊敬していてそれを公言してはばからなかった。おそらくそれはマルクスが「銭」の面から科学的に世の中の仕組みを解明したからだろう。そう、どんなにお高くすましていても、世の中なんといっても「銭」なのである。そういう本音を隠して生きているようじゃダメだというのが、青木氏の作品を読んで感じる。「聖職」と呼ばれる教師だろうが何だろうが、青木氏の作品の中ではみんな「銭」で堕ちていくのである。氏の作品の、人間の本質をかくもグロテスクに、かつ大阪の笑いで表現しているその深さは、ドストエフスキーやバルザックのような偉大な作家にも匹敵すると思うのだ。

さて、青木氏が亡くなってもう「ナニワ金融道」の続きが読めないとがっかりしていたのだが、青木さんの遺志を継いだ青木雄二プロダクションから「新ナニワ金融道」が出た。この中では、某政権党がモデルと思われる政治家さんたちが登場し、銭になりそうな事業に口利きをしたり、ライバルを蹴落としたり、やり手の秘書に農家に現金を持たせたり息子の就職の世話をさせたりで利権をものにしていくところを描いていく。政治資金パーティーを開いたり、女体盛りをしたりと、本音丸出しで生きているが、そういうことを単に「批判する」のは浅はかだ。すばらしい文学作品には、その現実をそのまま受け入れさせる力がある。

というのも、どうだろう、正論を説く某革新政党よりも、某政権与党の方が日本人には絶対人気があり、この70年にわたってほぼ一度も政権の座を渡したことがないのだ。日本人には、やはり、「ねえちゃん、ええやろ、さわったて減るもんやないやろ」というさばけたおじさんの方が、人間味があって信頼されるし親しみを持たれるのだ。晶子の歌を思い出す。「柔肌の熱き血潮の触れもみで寂しからずや道を説く君」

新ナニワ金融道では、某政権与党をモデルにしただけでなく、正義や人権を説く対極にいるはずの人たちも登場する。その名もずばり「左浴田」なる人物だ。実際にある貧困ビジネスなるものをモデルにしたのだろうが、ホームレスの人権救済の名目の正義のNPOが、ホームレスを寮に集めて生活保護を申請してやり、寮費や食事費の名目で集金し利益を上げるという話だ。これについても「善悪」の判断や批判をしろというのではない。優れた文学作品は、現実をそのまま受け入れるしかないのだ。正義や理想を述べるのは勝手だが、その正義や理想を実現するのにも金が要る。そういう本当のところを見ないふりをしたり他人任せにして、正義や理想を語っても、世間は直感的にそれは胡散臭い、信用できない、信用できるのは、銭が大事だとわかっているあのおっちゃんたちだと思うのだ。


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