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2017年4月 5日 (水)

教育勅語を教材に-愛国とは何か

教育勅語を学校の教材に使うことを容認するという支配政党である自民党の菅氏の発言が報道された。ちょうど「愛国とは何か」ということを考えていたところだった。

教育勅語の部分口語訳を作ってみた。

1.お前たち臣民は親孝行し、兄弟・夫婦仲良くし、友達どうし助け合え。
2.緊急事態が発生し国家存亡の際は、勇気を奮って国家のために身命を奉げろ。
3.神勅により永久を保証された皇室と皇国を補佐せよ。

1はいわゆる人倫の道で、中国の儒教に影響されている。中国文化については、ぼくは、孟子や孔子など、漢文はもっと親しまれてもよいと思っている。ただ、国家が道徳を国民に注入・強制・執行させることができるのか、それが適当なのかについてはもう少し考えてみたいと思っている。

2は、「個人が優先するのか、集団が優先するのか」「部分が大事なのか、全体が大事なのか」という哲学的な問題でもあり、難しいと思う。国家主義的な社会科の教科書で曽野綾子さんが「国家が存続してこそ個人があるわけで、国家の存続を優先しないような国はどこにもない」というような趣旨のこと書いていたことを記憶している。

曽野さんの論には確かに一理ある。特に生物種としての人間や、文化的存在としての人間を考えれば、人間は集団で暮らしてきたし、集団で生活してきたからこそ、生物種としてはこれほど成功し地球上にのさばっているわけだ。どんなに個人主義的な社会と言われているところだろうと、人間という生物は集団生活をしてきたし、集団がないと生きられない。そういう意味では集団を優先し、集団に身命を奉げる義務があるとも言えそうだが、集団、特に国家の誤った命令やミスで命を落とした人を美化することは、集団の判断ミスを帳消しにして都合の悪いことは見ないようにする態度であり承服しかねる。

集団を優先するということで連想するのは、アリやハチのような社会的生物だ。彼らは集団の目的のために、個人の使命が特化してそれに命を奉げる。われわれ高等な人間をそんな下等なものと比較するなと、お叱りを受けそうだが、科学としての生物学には、生物の究極の目的は遺伝子を受け継ぎ存続させることで、個人=個体は単に遺伝子を載せているだけの器にすぎず、個人=個体の振る舞いは結局遺伝子が存続したいというその利己的な目的のために捧げられてしまう、という考えがある。

そういう考えからすれば、私たち個人が何をしようと、それはすべて「人類」という遺伝子が存続するためで、極端な話、個人が死んでも、人類の遺伝子が存続すればよいわけで、そうなるように私たちは遺伝子によってプログラムされているのだ。だとすると、個人が集団のために命を奉げるということもありかなとは思うが、しかし、それが特定の国家のためだったり、国家や公共という仮面をかぶった特定の利益団体のために、なぜ命を奉げなければいけないのかと疑問にも思う。特定の国家ではなく、人類全体だったり、もしくは人類と他の種を区別せずに、全地球もしくは全宇宙の命のために、個人の命を奉げるではだめなのかと思う。

3については、皇国、皇国と言い出したのは明治以降の山口県と鹿児島県中心の特定の政府の特定のイデオロギーであって、例えば300年続いた徳川政権のときは「皇国」なんていうことを考える人もそういう考え自体も大勢ではなかったのではないか。ぜひとも戦前回帰したい現在の支配政党と総理大臣とそれを支える日本会議などの団体の人たちの考えを私は理解したいと思っているので、それには明治維新や明治政府のことについても勉強してみなくてはと思っている。


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