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2017年4月 1日 (土)

カルト村で生まれました

「カルト村で生まれました」というマンガ本は、高田かやさんという著者の実体験を基にしたものだ。西日本に本部をおき、農業を中心としたコミュニティがある。コミュニティに入るには、全財産を団体に寄付して入らなければならない。子どもは親から離れて子どもだけで暮らす。それは、所有という観念こそが争いや憎悪を生むからだ。所有観念の最たるもの、それは「自分の子ども」だ。自分の子どもという考えを捨て、自他の子どもを差別せず、子どもは全社会の授かりもの、宝物と考えて皆で育てる。そういう考えだから、コミュニティの中には「貨幣」もない。

この団体は、以前「カルト」ということで新聞で報道されたこともあるし、信者の脱退をめぐり裁判もおこっているので、実名をどこかで見た人もいると思う。コミュニティの中に所有概念や貨幣がないというのは、原始共産制の考え方で、それはカンボジアのポルポト政権などで壮大な社会実験がされたし、今まで大小さまざまのコミュニティが歴史的にも地理的にも試行されてきたし、今でも存続している。高田さんがいたコミュニティは、農業生産の売り上げも非常に高く、全国に支部があり、成功している方だ。古くは、プラトンが「国家」で理想としている体制がこういう国家体制だ。子どもはみなの所有物で国家で育てる。優れた哲人が国政を指導する。

高田さんも生まれた時から、コミュニティで他の子どもたちと一緒に育てられた。小さい時にはやはり親が恋しくてたまらなかったという。年に数回は離れた親に会うことは出来たようだが、大人になってやりたかったことは何かというと、親と一緒に住みたいということを改めて自覚したということだから、幼い心にいかに親と一緒に暮らせないということが心的外傷として深く残ったのかということを感じさせる。

だが、高田さんの漫画は暗くない。農業が基盤のコミュニティだから疑問を抱かず暮らしていれば食うのに困らないし、お金も必要でない。異年齢の子どもどうしの集団の中で成長していく姿は、逆に現在の日本で失われた貴重なものがあるようにも感じる。コミュニティ外の世界と接触はなかったのかというと、小・中学校は地元の学校に行く。それは多分、団体が学校法人の認可が取れず、(安倍首相・籠池さん問題でわかるように、学校法人の認可を得るのは大変で、政治家の力を借りる必要も出てくる)、義務教育だけは仕方なく一般世界のものを受けさせたということだろう。子どもたちは、徐々に外の世界のことやお金のことも知っていくが、何せ実体験がないので、自動販売機に算数で使うコインを入れたりしてしまう。

コミュニティの中での子供たちの生活には、制限がある。本は自由に読めないし、テレビは「マンガ日本昔話」を週1回30分見れるだけだ。学校の図書館に行くのも禁止されている。マンガの中では、高田さんのパートナーの男性が、「それって洗脳なんじゃないの」と突っ込みを入れている。宗教団体にせよなんにせよ、価値観で統一しないと団体は統合しない。価値観を植え付けるには、若い構成員が一番手っ取り早く、効率もよい。だから子どもに価値観を注入していくのが良い。

私は思うのだが、これは特別なカルト団体の中だけのことでない。高田さんのコミュニティが読んでいた「一般」、つまり日本社会や世界中にもみられることだ。明治以降の日本社会では、薩長藩閥政府が「尊王」思想を植え付け戦争・戦争の価値観を植え付け国民も喜んで受け入れてきたし、日米戦争敗戦後は、「アメリカ型民主主義」「アメリカに押し付けられた(とされる)平和主義」その後は「市場原理主義」「日米同盟絶対主義」「中国・韓国・朝鮮を憎悪せよ主義」が注入され国民を喜んでそれを受け入れている。誰が、それは異常なカルト団体の中だけのことだよと、高田さんの経験を笑えるのだろうか。

私はすべての価値観から解放されて絶対的自由を手に入れたいと考えるのだが、そう考えること自体、1つの価値観にすでに縛られているのであろうか。


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