« 2017年3月 | トップページ

2017年4月23日 (日)

職業とがんの関係

河北新報2017年4月19日付の記事に職業とがんの関係が掲載されていたので、その概要をまとめてみる。これは北里大の江口氏、国際医療研究センターの和田氏の研究をまとめたもの。勤労世代の男性の肺、胃、大腸がんによる死亡率はサービス業や企業・役所の管理職などで比較的高いとするもの
・研究手法とその結果…

研究は厚労省による人口動態職業・産業別統計を利用し、25~64歳の男性の死因と死亡時の職業を解析したもの。健康管理が比較的進んでいるとされる工場労働者ら「生産工程職」に比べ、飲食や美・理容、介護業界などサービス業では3種のがんの死亡率は3~4倍、管理職は2~3倍、農林漁業、ITや医療関係などを含む専門技術職は約2倍と高いことがわかった。

・結果の考察…

これらの職業で死亡率が高くなる原因として推定されるのは

①夜間勤務とがん発症の危険性が過去の研究で指摘されているが、飲食関係の仕事は夜間勤務が多い。

②管理職はストレスが多い。

③農林漁業は個人事業主が多く、大企業のように健康管理が行き届かない。

・研究の結果をどのように社会へ還元すべきか…

死亡率が高いとされた職業では、雇用者や業界団体が検診を受けやすい体制を整え、職場環境を見直すなどの対策に力を入れるべき


にほんブログ村

2017年4月20日 (木)

パンがなければお菓子を食べればいいじゃない

自民党の閣僚の方々の本音発言が、国民の間でもよくぞ言ってくれたと歓迎されている。「核発電の近くから逃げ出すことは許さん。逃げたやつは自己責任だ。いっさい援助しない。裁判でもなんでも起こしやがれ」「学芸員はがんだ」など。

国民は果たして怒っていないようだし、安倍首相の支持率はますます上がっている。ということは、こういう本音発言こそが、世界でも、日本でも人気を博するゆえんだろうし、そして今日考えてみたいのは、本音発言の内容が確かに今の日本で受け入れられる素地が十分あるということだ。

ツイッターなどで安倍首相をフォローしていると、ツイッターはその人の好みを分析し、その人の考えをつぶやいてくれそうな人を紹介してくれる。それを利用してぼくは、安倍首相断固支持の方々をフォローし、世の中の一半の人の考えに触れるようにしている。今や、新聞や本といった活字メディアの影響力は凋落しているのだから、こういう電脳空間で形成される世論は馬鹿にできないと思う。電脳空間で人気が出た安倍さんや麻生さんが、そのまま国民の高い支持を受け長期政権を維持している。

先日こんなツイートを見た。最低時給という仕組みがあるのだが、この最低時給を1500円にしようと運動している人たちがいる。アメリカのオバマ政権だって、最低時給を引き上げる政策をしていて、経済政策としては決して悪い政策ではなく、ぼくも支持する政策だが、1500円を求めてデモする人たちを揶揄して「そんなことしてないで正社員になる努力をなぜしないんだろうか」という趣旨のものだった。

ぼくはこのツイートを見てマリー・アントワネットが言ったとされる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という言葉を思い出した。これは、フランスの農民が飢饉で食べるものがなくて困っているのを聞いた王女が、主食であるパンがないなら、他のものだってたくさんあるのだからそれを食べれば困らないはず、なに農民は騒いでいるんだろう、(育ちの良い高貴な)私にはわからない、と解釈されて、フランス革命で怒れる人々に油を注いだとされる言葉だ。

フランスでは怒りを持って迎えられる言葉も日本では歓迎される。フリーターは怠け者だ、正社員になろうと努力しない悪い奴だ、そんな奴らのためになぜ、法令で最低賃金を上げる必要がある?自己責任だろう、という発言がいまの日本では受け入れられる。安倍さんや自民党がせっせと、非正規、不安定雇用を増やす政策を行っていることには目を向けないで。

いま、トヨタの高級車レクサスがバカ売れだそうだ。最低1000万円する高級車の納車が3年待ちだそうだ。いま日本では、レクサスが買える人と買えない人に分断されているが、買えない人は努力が足りないのである。この「買えない人は努力が足りない」という考えが、心地良く受け入れられてしまう背景には、分断された時、自分は必ず「レクサスが買える方」「正社員に成れる方」に入れると、多くの日本人が信じているからだと思う。だがそんな信念になんの根拠があるのだろう。いつ「そうじゃない方」に転落するか保証はできないと思うのだが。そのときに、こんなに排他的・攻撃的な社会でなく、寛容な社会を作っておかなかったと後悔するのではないか。しかし、安倍さんや閣僚の方々の本音発言が受け入れられ人気を博すのは、確かにこの日本ではその素地が備わりすでにその素地が出現しているのだと思う。


にほんブログ村

2017年4月17日 (月)

愛国を考える

インターネット上には出どころの良くわからない広告が配信されていて、その中には「なぜ、韓国はダメで日本はいいのか?」とか「なぜ、明治時代、日本だけは欧米の植民地にならなかったのか?」といった類のものがあり、その種のものをついクリックしてしまったら、ユーチューブ上に設けられている彼らの宣伝ビデオに誘導され、それを拝見した。「韓国・朝鮮人、中国人と日本人はいかに違っていていかに優れているのか」を説明・主張するものだった。

主催団体がよくわからなかったので、ぼくの忖度に過ぎないが、こういう「日本人特殊=優秀論」特に、「韓国・朝鮮人および中国人を下に見ての比較論」というのが、「愛国」を自称する人たちや、安倍首相も「素晴らしい教育」と同調する「教育勅語」を信奉するような人たちの心をとらえる主張およびよりどころなのかなと忖度する。ぼくなどは、違いを主張して排斥しあうのでなく、共通点を強調してそこを認め合った方が、平和的な共存につながるのではと考えるのだが。

ぼくが見たものは、科学的根拠を引用していて、日本人が特殊なことの根拠としてDNAタイプを挙げていた。中国人・韓国人・朝鮮人と日本人とではDNAタイプが違うのだそうだ。その違いの由来は、日本には縄文人がはじめに住んでいて、その上に弥生人のDNAがのっかっている。縄文人のDNAのタイプはアジアの古層とでもいうべき古いタイプということだそうだ。

確かに、歴史的な日本人のなりたちを考えれば、その通りだと思う。弥生時代から朝鮮半島・中国大陸から多くの人たちが日本列島に渡ってきた。半島・大陸から渡ってきた人たちはいまの中国・韓国・朝鮮と同じDNA組成だ。そして、ここはぼくの考えだが、彼らが尊崇する皇室だってDNAタイプは中国・韓国・朝鮮型だ。皇室は弥生時代に渡来してきて日本列島を統一・支配するようになったし、日本書紀にははっきりと半島・大陸系の人との婚姻も書かれている。

彼らが日本人の独自性を主張する際の根拠となる縄文系だが、縄文系はアイヌ人や沖縄の人たちに受け継がれている。おそらく蝦夷と言われた東北の人たちも縄文系のDNA型だ。えみしにせよ、アイヌにせよ、沖縄にせよ、皇国の名のもとに滅ぼされてきて、その独自性や独立した文化・文明は認められず無視され続けてきたのに、日本人の独自性を出すときにだけ「縄文人・縄文文化」が持ち出され持ち上げられても、なんだか鼻白むだけだ。とはいえ、中国・韓国・朝鮮を排斥する言動に人気が集まり国民の支持も高いというこの国の現実を理解するために、彼らの主張する愛国というのはどういうものなのか、そのビデを拝聴した次第だ。


にほんブログ村

2017年4月12日 (水)

苔ポン

Photo
京都を訪れる機会があり、 苔ポンをいただいた。これは、盆栽だと思っていいだろう。小さな鉢に石を敷き詰め、そこに苔をはやす。それだけで、天地を含む小宇宙だ。 苔の真ん中には黒松の実が植わっている。ここから「ポン」と芽が出る。部屋にいても自然と交流できる。

今回、改めて銀閣寺、霊鑑寺、法然院、安楽寺など訪れ苔むしたすばらしい庭園を堪能してきたが、そういう名庭園にも劣らない小さいながらひとつの宇宙がこの鉢には宿っている。

これを作成している方は、京都東山若王子神社近くに工房を構える岩城さん

 

興味のある方は問い合わせてみてほしい。


にほんブログ村

2017年4月 5日 (水)

教育勅語を教材に-愛国とは何か

教育勅語を学校の教材に使うことを容認するという支配政党である自民党の菅氏の発言が報道された。ちょうど「愛国とは何か」ということを考えていたところだった。

教育勅語の部分口語訳を作ってみた。

1.お前たち臣民は親孝行し、兄弟・夫婦仲良くし、友達どうし助け合え。
2.緊急事態が発生し国家存亡の際は、勇気を奮って国家のために身命を奉げろ。
3.神勅により永久を保証された皇室と皇国を補佐せよ。

1はいわゆる人倫の道で、中国の儒教に影響されている。中国文化については、ぼくは、孟子や孔子など、漢文はもっと親しまれてもよいと思っている。ただ、国家が道徳を国民に注入・強制・執行させることができるのか、それが適当なのかについてはもう少し考えてみたいと思っている。

2は、「個人が優先するのか、集団が優先するのか」「部分が大事なのか、全体が大事なのか」という哲学的な問題でもあり、難しいと思う。国家主義的な社会科の教科書で曽野綾子さんが「国家が存続してこそ個人があるわけで、国家の存続を優先しないような国はどこにもない」というような趣旨のこと書いていたことを記憶している。

曽野さんの論には確かに一理ある。特に生物種としての人間や、文化的存在としての人間を考えれば、人間は集団で暮らしてきたし、集団で生活してきたからこそ、生物種としてはこれほど成功し地球上にのさばっているわけだ。どんなに個人主義的な社会と言われているところだろうと、人間という生物は集団生活をしてきたし、集団がないと生きられない。そういう意味では集団を優先し、集団に身命を奉げる義務があるとも言えそうだが、集団、特に国家の誤った命令やミスで命を落とした人を美化することは、集団の判断ミスを帳消しにして都合の悪いことは見ないようにする態度であり承服しかねる。

集団を優先するということで連想するのは、アリやハチのような社会的生物だ。彼らは集団の目的のために、個人の使命が特化してそれに命を奉げる。われわれ高等な人間をそんな下等なものと比較するなと、お叱りを受けそうだが、科学としての生物学には、生物の究極の目的は遺伝子を受け継ぎ存続させることで、個人=個体は単に遺伝子を載せているだけの器にすぎず、個人=個体の振る舞いは結局遺伝子が存続したいというその利己的な目的のために捧げられてしまう、という考えがある。

そういう考えからすれば、私たち個人が何をしようと、それはすべて「人類」という遺伝子が存続するためで、極端な話、個人が死んでも、人類の遺伝子が存続すればよいわけで、そうなるように私たちは遺伝子によってプログラムされているのだ。だとすると、個人が集団のために命を奉げるということもありかなとは思うが、しかし、それが特定の国家のためだったり、国家や公共という仮面をかぶった特定の利益団体のために、なぜ命を奉げなければいけないのかと疑問にも思う。特定の国家ではなく、人類全体だったり、もしくは人類と他の種を区別せずに、全地球もしくは全宇宙の命のために、個人の命を奉げるではだめなのかと思う。

3については、皇国、皇国と言い出したのは明治以降の山口県と鹿児島県中心の特定の政府の特定のイデオロギーであって、例えば300年続いた徳川政権のときは「皇国」なんていうことを考える人もそういう考え自体も大勢ではなかったのではないか。ぜひとも戦前回帰したい現在の支配政党と総理大臣とそれを支える日本会議などの団体の人たちの考えを私は理解したいと思っているので、それには明治維新や明治政府のことについても勉強してみなくてはと思っている。


にほんブログ村

2017年4月 3日 (月)

インクルーシブ教育

2017.4月1日付河北新報の記事を参考に「インクルーシブ教育」についてまとめてみた。障害者差別解消法の施行から1年、特別支援教育の法制化から10年経過というときに、「インクルーシブ教育」登場の背景や日本の現状・問題点を知るのに優れた記事だ。執筆は熊本学園大学教授の堀正嗣氏。

・インクルーシブ教育とは…

障害の有無や性別、人種、家庭環境などの違いを超え、すべての子どもが共に学び合う教育。すべての子どもが個性を尊重され、人間として最も大切な、仲間とともに助け合って生きることを学ぶ教育。

・インクルーシブ教育の起源…

アメリカや北欧の教育政策。アメリカでは、黒人の子どもが地域の学校から排除され、黒人学校に通うことを強いられた歴史がある。分離は劣等感や差別心を植え付けることがわかり、様々な人種の子が共に学ぶようになった。

北欧では、ナチスが障害者を強制収容所に隔離・殺害したことの反省などから、障碍者に普通の生活を保障しようとするノーマライゼーション政策が展開され、地域の学校で学ぶのはその政策の一環。

・日本の現状…

優れたインクルーシブ教育が進められてきた地域や学校もあるが、国の政策としては立ち遅れている。(例 映画「みんなの学校」で話題になった大阪市立大空小学校)特別支援教育が制度化され、通常学級に在籍している発達障害のある子供への特別支援が行われるようになったが、分離教育の仕組みは変わらない。理由は、効率的に子どもの能力を高めることに重点を置いているから。

・インクルーシブ教育を実現するには…

イタリアで行われたように、特別支援学校を段階的に縮小し、最終的になくしていく。地域の学校の通常学級ですべての子どもが学べるように人的、物的な教育環境を整備する。教育内容や方法を、すべての子どもを包み込むものに発展させる。そのことを前提に、それぞれの子どもに応じた合理的配慮をし、障害平等教育を進める必要がある。


にほんブログ村

2017年4月 2日 (日)

アクティブ・ラーニング

2017.3.25付けの河北新報の寄稿から、アクティブ・ラーニングの導入を文科省が進めている背景、問題点等をまとめてみる。寄稿者は、上越教育大学院教授の赤坂真二氏。

アクティブ・ラーニングは近年の教育界で一大ブームを巻き起こしたものだが、次期学習指導要領改訂案には盛り込まれなかった。その代わり、アクティブ・ラーニングと同義の「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けて授業改善を促している。

・アクティブ・ラーニングが注目された経緯…

2012年以文科省が大学の授業改革の方向性として提唱したアクティブ・ラーニングが、指導要領改訂の議論の中で小中学校に降りてきた。日本の学校教育が得意としてきた「一斉講義型」授業を見直す内容だったので注目された。

・アクティブ・ラーニングが登場してきた背景…

人口減時代に突入するなど、日本社会の変化が待ったなしだから。少子高齢化の進行で、人口増加時代のものである現在の社会システムは役に立たなくなる。経験したことのない社会に受身で向き合うことは出来ない。自ら変化を起こせるような力を持つ社会人を育てることが大事。この力を付ける学習法が「アクティブ・ラーニング」

・アクティブ・ラーニングが目指すもの…

主体的・対話的で深い学びは、子供たちに自分の強みを自覚し、他者を尊重して多様な人たちと共同しながら社会の変化を乗り越え、幸せな人生を作る力をはぐくむもの。

・アクティブ・ラーニング実現の難しさ…

日本の学校教育は、知識や技能の習得に成功しているが、子どもたちの主体性を引き出すことが苦手。国内外の学力調査から、子どもたちは点数は高いが、学習意欲が低いことがわかっている。雰囲気や人間関係など、意欲を高める学級づくりが大切になる。それには、日常的な教師との温かなかかわりを基盤とした子供どうしの触れ合いと互いを尊重する関係性が必要。勉強が苦手な子が、「わからないから誰か教えて」と安心して言える信頼関係があって、初めて学級集団の主体的な学びが実現する。

私の感想…

新しいことを始めるには抵抗も失敗もつきもの。よいことであれば、やって見るといいと思う。しかし、大人でも、一方的に自分の考えを言うだけで、相手の話を聞こうとしない人もいるのだから、主体的で対話的な学びは容易ではないと思う。しかし、こういう大人がいるからこそ、時代の子供たちには主体的・対話的学びが必要、ともいえる。
 


にほんブログ村

2017年4月 1日 (土)

カルト村で生まれました

「カルト村で生まれました」というマンガ本は、高田かやさんという著者の実体験を基にしたものだ。西日本に本部をおき、農業を中心としたコミュニティがある。コミュニティに入るには、全財産を団体に寄付して入らなければならない。子どもは親から離れて子どもだけで暮らす。それは、所有という観念こそが争いや憎悪を生むからだ。所有観念の最たるもの、それは「自分の子ども」だ。自分の子どもという考えを捨て、自他の子どもを差別せず、子どもは全社会の授かりもの、宝物と考えて皆で育てる。そういう考えだから、コミュニティの中には「貨幣」もない。

この団体は、以前「カルト」ということで新聞で報道されたこともあるし、信者の脱退をめぐり裁判もおこっているので、実名をどこかで見た人もいると思う。コミュニティの中に所有概念や貨幣がないというのは、原始共産制の考え方で、それはカンボジアのポルポト政権などで壮大な社会実験がされたし、今まで大小さまざまのコミュニティが歴史的にも地理的にも試行されてきたし、今でも存続している。高田さんがいたコミュニティは、農業生産の売り上げも非常に高く、全国に支部があり、成功している方だ。古くは、プラトンが「国家」で理想としている体制がこういう国家体制だ。子どもはみなの所有物で国家で育てる。優れた哲人が国政を指導する。

高田さんも生まれた時から、コミュニティで他の子どもたちと一緒に育てられた。小さい時にはやはり親が恋しくてたまらなかったという。年に数回は離れた親に会うことは出来たようだが、大人になってやりたかったことは何かというと、親と一緒に住みたいということを改めて自覚したということだから、幼い心にいかに親と一緒に暮らせないということが心的外傷として深く残ったのかということを感じさせる。

だが、高田さんの漫画は暗くない。農業が基盤のコミュニティだから疑問を抱かず暮らしていれば食うのに困らないし、お金も必要でない。異年齢の子どもどうしの集団の中で成長していく姿は、逆に現在の日本で失われた貴重なものがあるようにも感じる。コミュニティ外の世界と接触はなかったのかというと、小・中学校は地元の学校に行く。それは多分、団体が学校法人の認可が取れず、(安倍首相・籠池さん問題でわかるように、学校法人の認可を得るのは大変で、政治家の力を借りる必要も出てくる)、義務教育だけは仕方なく一般世界のものを受けさせたということだろう。子どもたちは、徐々に外の世界のことやお金のことも知っていくが、何せ実体験がないので、自動販売機に算数で使うコインを入れたりしてしまう。

コミュニティの中での子供たちの生活には、制限がある。本は自由に読めないし、テレビは「マンガ日本昔話」を週1回30分見れるだけだ。学校の図書館に行くのも禁止されている。マンガの中では、高田さんのパートナーの男性が、「それって洗脳なんじゃないの」と突っ込みを入れている。宗教団体にせよなんにせよ、価値観で統一しないと団体は統合しない。価値観を植え付けるには、若い構成員が一番手っ取り早く、効率もよい。だから子どもに価値観を注入していくのが良い。

私は思うのだが、これは特別なカルト団体の中だけのことでない。高田さんのコミュニティが読んでいた「一般」、つまり日本社会や世界中にもみられることだ。明治以降の日本社会では、薩長藩閥政府が「尊王」思想を植え付け戦争・戦争の価値観を植え付け国民も喜んで受け入れてきたし、日米戦争敗戦後は、「アメリカ型民主主義」「アメリカに押し付けられた(とされる)平和主義」その後は「市場原理主義」「日米同盟絶対主義」「中国・韓国・朝鮮を憎悪せよ主義」が注入され国民を喜んでそれを受け入れている。誰が、それは異常なカルト団体の中だけのことだよと、高田さんの経験を笑えるのだろうか。

私はすべての価値観から解放されて絶対的自由を手に入れたいと考えるのだが、そう考えること自体、1つの価値観にすでに縛られているのであろうか。


にほんブログ村

« 2017年3月 | トップページ