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2017年3月30日 (木)

美しい日本の言葉たち ― なつかし

ある会社のブログで思うことを書いていたが、その会社がブログサービスの提供を停止することになった。誰にも聞いてももらえなかった個人の声が形式的とはいえ、世界の人に向けて発信できることとなった。ブログやインターネットというのは、個人的には、ありがたい技術革新と社会の変革だと思う。しかし、まあ、ブログサービスを提供する方もいろいろ都合もあるのだろうし、このブログも運営会社の都合で停止ということもいつかあるのだろう。そんなことを思っていたので、昔書いた記事を再掲し、古いものを整理したいと思う。日本語について考えていたことがあった。

 

美しい日本の言葉たちなつかし

 

 

漢字では「懐」をあてる。自分のふところにぴたりとよりそう幼子のようにいとしい気持ちを起こさせるものに対して「なつかし」の語を当てた。したがって、すでに知っているものに対してのみ使う言葉ではない。初めて出会ったものでも「なつかし」という感慨をおこさせるもの、それが本当のなつかしきものである。太古の記憶、DNAの中で連綿と続いてきた記憶の中に見出されるような感慨を呼びさますものが「なつかしき」ものである。


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2017年3月29日 (水)

仙台の最高気温が42度!?

3月26日の河北新報の大きく掲載された、核発電の維持・再稼働・推進の全面広告について考えてみた。これは日本電気協会の有識者組織「これからのエネルギー委員会」が仙台でフォーラムを開催したもの。それを報告するという形で掲載された広告。コーディネーターは同委員でもある勝間和代氏。表題の「仙台の最高気温が42度!?」は、広告の4分の1を使って大きなイラストが載り、2100年の天気予報で明日の最高気温の予測が仙台の最高気温が42度になるというもの。

この42度というこころは、基調講演をした山本隆三氏の言を要約すると、エネルギー問題は地球温暖化との関連で考えなければならないという点。温室効果ガスを削減するためには、核発電は温暖化対策になるということ。その他山本氏が述べる核発電を維持・再稼働・推進する理由をまとめてみると

 
・核発電が止まり電気料金が値上がりした。それは核の代わりに火力発電などに使う燃料費が上がったから。さらに再生エネルギー発電が増えそれを全消費者が負担しなければならないから。核発電を再開して推進すれば電気料金が安定する。

・火力発電の原料を中東に依存しすぎていて調達先が偏っている。国内エネルギー資源が乏しい日本にとっては、核発電を再開して推進すればエネルギー安全保障上も有利。

・必要な電気を全部再生エネルギーで賄うとしていたスウェーデンも原発を再開することにして、核発電を再開して推進すれば温暖化対策となる。

ここからはこの全面広告記事を見ての私の感想だが、きちんと調べたり確認したりしていないので科学的・客観的根拠に欠ける。単なる一私人の感想ということで大目に見ていただきたい。関電の高浜核発電再稼働もそうだが、利益を上げることが至上命題の私企業にとっては、核発電を再開することは儲けにつながり経営者としては、そうするであろう当然の選択だ。というのも、核発電はいくら費用がかかろうが、その文は確実に料金を回収して利益を上乗せすることができるそういう特異な料金体系に守られているからだ。要は、経済合理性ではやる・辞めるは判断できない、国策として意地でもやるかやらないかの問題なのだ。

でその国策を決定するのは誰なのか。官僚や政治家といった人たちなのだろうか。素人である国民は、利益も損害も受けるが、利害関係者として判断に参加できないのだろうか。

また、こういってしまうと問題点のすり替えかもしれないが、核発電の倫理的側面はどうだろう。フクシマ核発電所事故では、誰もその倫理的責任を取った人はいないが、人の生業や居住地を奪い、何十年、何百年先の子孫に廃棄物の処理の責任を押し付けることは倫理や正義という観点からはどうなのだろう。勝間さんのように事故前から核発電を推進しているいわゆる原発文化人の倫理的責任はどうなるのだろう。人間誰だって、ミスをすることもあるということで終わりにできることなのだろうか。

まあ、私ももう少しきちんと核発電が必要だという人の考えを勉強して理解しなければいけないと反省している。


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2017年3月24日 (金)

小さい子供にどう話しかけるのか

新聞記事のスクラップから。2月11日付の河北新報。「幼児への言葉かけ」という記事が掲載された。専門家のアドバイスをまとめたものだが、これは結局、人間関係にも応用できると思った。では、その要約。

いたずらばかりする、片づけない、支度に時間がかかるというような小さい子供に接するとつい、怒鳴ったり、小言ばかりになったりする。気持ちを通じ合うには「子どもの言葉を否定しないで、丸ごと受け止めよう」というのが「スーパー保育士」と言われる原坂氏のアドバイスだ。

原坂氏の出す具体例はわかりやすい。転んで「痛い」といった子に「痛くない」、散歩中に「寒い」といった子に「だから上着を着なさいと言ったでしょう」と、子どもは本当のことを言っているだけなのに、こんなふうに子どもの言葉を否定するような返答は良くない。

大人も子供も認めてもらうと意欲的になれるので、先ほどの「寒い」では「寒いね」と笑顔で気持ちを受け止め、その上で「今度は上着を持って出ようね」といえば、認めてもらったので素直に「うん」となるという。

ほめるときは「挨拶ができたね」「手が洗えたね」と具体的にほめるのがポイント。具体的な事実を言葉にすると頑張れる。子どもはどんどん変わるという。

言葉によって悪い方に変わっていく怖さも、NPO法人の会長山本氏が指摘する。人格形成の基礎ができる幼児期は言葉の影響が大きく、大人の言葉通りの子どもになるという。その具体例は、「何をしても遅いんだから」子どもは経験が乏しく時間の概念も未熟なため「自分は遅いんだ」と思い込んでしまう。

こんな時は「昨日よりちょっと早くできたね」と事実とめざす方向を示してあげるとよいという。

でもついきつい言葉が出てしまったときは?取り消せないが、こんなフォローがあるという。「なんで全部食べないの!」と怒鳴ってしまったら「丈夫で強い体になってほしいから怒鳴っちゃった」と怒った本当の理由や感情を言葉にすれば子供は怒られた理由がわかり安心するという。

職場でも、教育現場でも、スポーツの指導でも、子育てのコミュニケーションは、すべての人間関係に当てはまる、基本中の基本だ。だから幼児教育についての知識は誰が持っていてもよいし重要なのだと思った次第。


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2017年3月12日 (日)

千葉すずさんからの問題提起

仙台ゆかりの水泳選手、千葉すずさんのインタビュー記事が河北新報に掲載された。(3月9日、10日)。彼女の生き方、考え方には耳を傾けるべきところがあると思うし、私もこの記事からは考えさせられた。紹介したいと思う。

千葉さんはオリンピックにも出場した有名運動選手だが、シドニーオリンピックの選手選考過程をめぐってスポーツ仲裁裁判所に提訴したことを私は覚えている。日本人なら、日本の会議や総会たるものがどのようなものであるか知っていると思う。そこでは「~ということになりますが、異議がございますでしょうか。では、特にご意見もないようですので、表記のとおり決定いたします」だ。オリンピックに選出する選手も各分会でこのように決まっていたのを、千葉さんは異議を唱えたのだ。裁判所で判定は覆らなかったものの、千葉さんの行動の意義は大きかった。見ての通り水泳や柔道を始め、選考過程やルールが明確になったのだ。

千葉さんのように異議を申し立てる人を、空気を読めないとか、協調性がないと言って、嫌う人もいるかもしれない。だが、同調圧力の中でそれは違うのではないかと異質な考えをする人を排除するのは、その社会全体の進歩や幸福の増進にもならないと私は思う。同質社会にはそれなりの強みもあるが、そこにあぐらをかき、進歩や変化の芽を摘めば、結局真実につながる道も閉ざされ、社会は閉塞停滞する。

千葉さんがそのように考え行動するのは、アメリカでトレーニングをしてアメリカ社会を経験したことが大きいのではないかと思う。海外では、プールに盲導犬と一緒に来た人が泳いでいるし、ファストフード店で障碍者が普通に働いているし、同性愛カップルが仲睦まじくしている。そういうものを見てとても自然だと感じたそうだ。

千葉さんの一見奔放な言動が誤解を生んだこともある。いまではスポーツ選手が「楽しんでやります」と言っても違和感がないが、1996年アタランタ五輪の「楽しみたい」という発言が誤解や反発を生んだ。千葉さんによると、真意は、日本の水泳練習は泳がされている強制感が強く、アメリカでは泳ぐも泳がないも自分しだいで、水泳の時間以外も楽しんでいる、このように自立した人生を歩んでいるから強いと気づいたので、「自分で考えてふだんのペースを守り、周囲に惑わされない」という意味で「楽しむ」という言葉を使ったということだ。日本では、お国の名誉のために君が代・日の丸を背負って戦うという意識が強いのだろうか。こういう意識が時に、実力以上の力を本番で発揮させることもあるのだろうが、残念ながら千葉さんはオリンピック本番では力を発揮できなかった。千葉さんは、その「弱さ」を見つめてインタビューに答えている。「弱さ」を自覚した千葉さんは決して「弱い」人間ではないと思う。インタビュー記事で写真も拝見したが、穏やかな笑顔で水泳で鍛えたたくましい体つきの4児のお母さんは、違う意味で「強く」見えた。

千葉さんの自立できていない「個」という考え方は我々オリンピックを見る側にも反省をせまる。千葉さんは、当事者として日本のオリンピック報道の過熱ぶりを体験し、(しかもそれは冷めやすい)、この異常な過熱ぶりは「個」が自立できていないからだと指摘する。自立できていない「個」は、オリンピック選手に自己を投影する。もし、その選手が好成績をおさめれば、それは投影された「個」も素晴らしいことになるのだ。しかし、本来はオリンピック選手とわれわれは違う「個」であって、選手がメダルを取ったのは、その選手の努力や才能であり、それは我々とは関係ないはずだ。それなのに、日本選手がメダルを取れば、われわれ自身も優れた能力のあるかのように勘違いし、日本人全体が、例えば隣国の人たちよりも優れた民族なのだというような錯覚をする。

東京でオリンピックが開かれるが、私個人は、オリンピックを日本で開催している場合でなく、他に力を集中してやるべきことがあると考えている。開催して、その利益が国民全体に共有されずに、一部の人たちの利権・利得・国威発揚になるのでは、心から協力する気にもなれない。千葉さんのインタビュー記事は、オリンピックを見るものにも考えることを迫る良い記事だった。


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2017年3月 6日 (月)

政治的公平性と報道

河北新報が2月8日に報じた新聞記事のスクラップから。放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会が検証したテレビの選挙報道から問題点をまとめてみて自分が考えるうえでのヒントにもしてみたいと思う。

テレビ視聴者から選挙報道に関する放送量が減った」などの意見が出たことに対して放送倫理・番組向上機構が検討した。選挙に関する報道は、報道されなくなったという印象をぼくも持っているが、その背景に挙げられることを記事は歴史的な流れを振り返っている。

大きなきっかけは2014年に自民党がテレビ局に、選挙報道での「公正中立、公正の確保」を求める文書を送ったことだ。15年にはNHKとテレビ朝日の番組内容をめぐって自民党が両局幹部に事情聴取をした。16年には高市総務相が、政治的公平への違反を重ねる放送局に電波停止を命じると言及した。

これらの自民党の報道機関への圧力が、選挙期間中の選挙報道の減少や報道局の萎縮を招いたことは疑いがないとぼくは思う。「公正中立」はとてもいい言葉だと思う人もいるだろうし、「偏った」報道をする報道機関を許しがたいと思っている国民が多いのも事実だろう。しかし、「公正中立」を標榜し、偏っているとクレームがつくくらいならいっそう選挙や政治について報道しない方がいいとなれば、大きな損失をこうむるのは「国民」であるし、結局そういう報道で得をするのは「政権与党」だ。というのは、今なにも政治やこの国には問題がないし、選挙で国民が判断を下すべき論点も特にないとなれば、現状維持が一番好まれるからだ。

放送倫理・番組向上機構もこの点を指摘する。「編集の自由が保障されている以上は、求められているのは出演者や露出時間などの量的公平性ではない」「真の争点に焦点を合わせ、主張の違いを浮き彫りにする挑戦的な番組が目立たず、残念」「選挙報道は有権者に多様な立場からの多様な見方を提示するものとなるよう心掛ける必要がある」

アメリカのトランプ大統領が、自分の気に食わない報道をするジャーナリズムを全部嘘だとか、会見から締め出すとかすれば、はたから見ていてずいぶん子供っぽいことをするなと思うのではないだろうか。それなのに日本で似たようなことが行われていても、それは偏った報道を懲らしめるための当然のこと、で済ませてよいのだろうか。


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