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2017年3月24日 (金)

小さい子供にどう話しかけるのか

新聞記事のスクラップから。2月11日付の河北新報。「幼児への言葉かけ」という記事が掲載された。専門家のアドバイスをまとめたものだが、これは結局、人間関係にも応用できると思った。では、その要約。

いたずらばかりする、片づけない、支度に時間がかかるというような小さい子供に接するとつい、怒鳴ったり、小言ばかりになったりする。気持ちを通じ合うには「子どもの言葉を否定しないで、丸ごと受け止めよう」というのが「スーパー保育士」と言われる原坂氏のアドバイスだ。

原坂氏の出す具体例はわかりやすい。転んで「痛い」といった子に「痛くない」、散歩中に「寒い」といった子に「だから上着を着なさいと言ったでしょう」と、子どもは本当のことを言っているだけなのに、こんなふうに子どもの言葉を否定するような返答は良くない。

大人も子供も認めてもらうと意欲的になれるので、先ほどの「寒い」では「寒いね」と笑顔で気持ちを受け止め、その上で「今度は上着を持って出ようね」といえば、認めてもらったので素直に「うん」となるという。

ほめるときは「挨拶ができたね」「手が洗えたね」と具体的にほめるのがポイント。具体的な事実を言葉にすると頑張れる。子どもはどんどん変わるという。

言葉によって悪い方に変わっていく怖さも、NPO法人の会長山本氏が指摘する。人格形成の基礎ができる幼児期は言葉の影響が大きく、大人の言葉通りの子どもになるという。その具体例は、「何をしても遅いんだから」子どもは経験が乏しく時間の概念も未熟なため「自分は遅いんだ」と思い込んでしまう。

こんな時は「昨日よりちょっと早くできたね」と事実とめざす方向を示してあげるとよいという。

でもついきつい言葉が出てしまったときは?取り消せないが、こんなフォローがあるという。「なんで全部食べないの!」と怒鳴ってしまったら「丈夫で強い体になってほしいから怒鳴っちゃった」と怒った本当の理由や感情を言葉にすれば子供は怒られた理由がわかり安心するという。

職場でも、教育現場でも、スポーツの指導でも、子育てのコミュニケーションは、すべての人間関係に当てはまる、基本中の基本だ。だから幼児教育についての知識は誰が持っていてもよいし重要なのだと思った次第。


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2017年3月12日 (日)

千葉すずさんからの問題提起

仙台ゆかりの水泳選手、千葉すずさんのインタビュー記事が河北新報に掲載された。(3月9日、10日)。彼女の生き方、考え方には耳を傾けるべきところがあると思うし、私もこの記事からは考えさせられた。紹介したいと思う。

千葉さんはオリンピックにも出場した有名運動選手だが、シドニーオリンピックの選手選考過程をめぐってスポーツ仲裁裁判所に提訴したことを私は覚えている。日本人なら、日本の会議や総会たるものがどのようなものであるか知っていると思う。そこでは「~ということになりますが、異議がございますでしょうか。では、特にご意見もないようですので、表記のとおり決定いたします」だ。オリンピックに選出する選手も各分会でこのように決まっていたのを、千葉さんは異議を唱えたのだ。裁判所で判定は覆らなかったものの、千葉さんの行動の意義は大きかった。見ての通り水泳や柔道を始め、選考過程やルールが明確になったのだ。

千葉さんのように異議を申し立てる人を、空気を読めないとか、協調性がないと言って、嫌う人もいるかもしれない。だが、同調圧力の中でそれは違うのではないかと異質な考えをする人を排除するのは、その社会全体の進歩や幸福の増進にもならないと私は思う。同質社会にはそれなりの強みもあるが、そこにあぐらをかき、進歩や変化の芽を摘めば、結局真実につながる道も閉ざされ、社会は閉塞停滞する。

千葉さんがそのように考え行動するのは、アメリカでトレーニングをしてアメリカ社会を経験したことが大きいのではないかと思う。海外では、プールに盲導犬と一緒に来た人が泳いでいるし、ファストフード店で障碍者が普通に働いているし、同性愛カップルが仲睦まじくしている。そういうものを見てとても自然だと感じたそうだ。

千葉さんの一見奔放な言動が誤解を生んだこともある。いまではスポーツ選手が「楽しんでやります」と言っても違和感がないが、1996年アタランタ五輪の「楽しみたい」という発言が誤解や反発を生んだ。千葉さんによると、真意は、日本の水泳練習は泳がされている強制感が強く、アメリカでは泳ぐも泳がないも自分しだいで、水泳の時間以外も楽しんでいる、このように自立した人生を歩んでいるから強いと気づいたので、「自分で考えてふだんのペースを守り、周囲に惑わされない」という意味で「楽しむ」という言葉を使ったということだ。日本では、お国の名誉のために君が代・日の丸を背負って戦うという意識が強いのだろうか。こういう意識が時に、実力以上の力を本番で発揮させることもあるのだろうが、残念ながら千葉さんはオリンピック本番では力を発揮できなかった。千葉さんは、その「弱さ」を見つめてインタビューに答えている。「弱さ」を自覚した千葉さんは決して「弱い」人間ではないと思う。インタビュー記事で写真も拝見したが、穏やかな笑顔で水泳で鍛えたたくましい体つきの4児のお母さんは、違う意味で「強く」見えた。

千葉さんの自立できていない「個」という考え方は我々オリンピックを見る側にも反省をせまる。千葉さんは、当事者として日本のオリンピック報道の過熱ぶりを体験し、(しかもそれは冷めやすい)、この異常な過熱ぶりは「個」が自立できていないからだと指摘する。自立できていない「個」は、オリンピック選手に自己を投影する。もし、その選手が好成績をおさめれば、それは投影された「個」も素晴らしいことになるのだ。しかし、本来はオリンピック選手とわれわれは違う「個」であって、選手がメダルを取ったのは、その選手の努力や才能であり、それは我々とは関係ないはずだ。それなのに、日本選手がメダルを取れば、われわれ自身も優れた能力のあるかのように勘違いし、日本人全体が、例えば隣国の人たちよりも優れた民族なのだというような錯覚をする。

東京でオリンピックが開かれるが、私個人は、オリンピックを日本で開催している場合でなく、他に力を集中してやるべきことがあると考えている。開催して、その利益が国民全体に共有されずに、一部の人たちの利権・利得・国威発揚になるのでは、心から協力する気にもなれない。千葉さんのインタビュー記事は、オリンピックを見るものにも考えることを迫る良い記事だった。


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2017年3月 6日 (月)

政治的公平性と報道

河北新報が2月8日に報じた新聞記事のスクラップから。放送倫理・番組向上機構の放送倫理検証委員会が検証したテレビの選挙報道から問題点をまとめてみて自分が考えるうえでのヒントにもしてみたいと思う。

テレビ視聴者から選挙報道に関する放送量が減った」などの意見が出たことに対して放送倫理・番組向上機構が検討した。選挙に関する報道は、報道されなくなったという印象をぼくも持っているが、その背景に挙げられることを記事は歴史的な流れを振り返っている。

大きなきっかけは2014年に自民党がテレビ局に、選挙報道での「公正中立、公正の確保」を求める文書を送ったことだ。15年にはNHKとテレビ朝日の番組内容をめぐって自民党が両局幹部に事情聴取をした。16年には高市総務相が、政治的公平への違反を重ねる放送局に電波停止を命じると言及した。

これらの自民党の報道機関への圧力が、選挙期間中の選挙報道の減少や報道局の萎縮を招いたことは疑いがないとぼくは思う。「公正中立」はとてもいい言葉だと思う人もいるだろうし、「偏った」報道をする報道機関を許しがたいと思っている国民が多いのも事実だろう。しかし、「公正中立」を標榜し、偏っているとクレームがつくくらいならいっそう選挙や政治について報道しない方がいいとなれば、大きな損失をこうむるのは「国民」であるし、結局そういう報道で得をするのは「政権与党」だ。というのは、今なにも政治やこの国には問題がないし、選挙で国民が判断を下すべき論点も特にないとなれば、現状維持が一番好まれるからだ。

放送倫理・番組向上機構もこの点を指摘する。「編集の自由が保障されている以上は、求められているのは出演者や露出時間などの量的公平性ではない」「真の争点に焦点を合わせ、主張の違いを浮き彫りにする挑戦的な番組が目立たず、残念」「選挙報道は有権者に多様な立場からの多様な見方を提示するものとなるよう心掛ける必要がある」

アメリカのトランプ大統領が、自分の気に食わない報道をするジャーナリズムを全部嘘だとか、会見から締め出すとかすれば、はたから見ていてずいぶん子供っぽいことをするなと思うのではないだろうか。それなのに日本で似たようなことが行われていても、それは偏った報道を懲らしめるための当然のこと、で済ませてよいのだろうか。


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