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2017年1月22日 (日)

常に少数者とともに

1月19日付の河北新報の記事「転換への一歩」に考えさせられたこと。

この記事は、在日文学の今を紹介したものだ。どういう文脈で紹介されたかというと、おそらく「民族差別をあおるヘイトスピーチが社会問題化ししばらくたち、対策法が施行されても差別意識が社会に根を下ろす」という社会的な文脈であることは間違いないだろう。しかし「じゃあ、差別はやめましょう」のような底の浅い内容ではない。

記事では崔実さんの「ジニのパズル」という小説の内容の紹介や、在日1世の父と在日2世の母のもとに生まれた深沢潮さんの発言や小説の紹介がある。

私がはっとさせられたのは、温又柔さんの言葉だ。温さんは日本育ちの作家で、読み、書き、考えるのは日本語だが、「われわれ日本人は…」というような言葉を耳にした瞬間「親密なはずの日本語が自分から遠ざかる」経験があったという。温さんのような日本語との関係の結び方をしている人もいるという声を上げたくて、小説を書いているという。

私もつい「われわれ日本人は…」という言い方をしてきてしまったが、これからは本当に気を付けてこの言葉を使おうと思う。いや、むしろこの言葉はもう今後使わないようにしようと思う。というのは、日本語は誰のものなのだろうかと考えたら、それは日本人だけのものではないだろうからだ。それはどの言語でも言えるだろう。日本出身で英語で書いているカズオ イシグロという作家もいる。言語の所有者は果たして誰なのか?

曽野綾子さんという作家は、新しい教科書をつくる会の教科書で、「そもそも国家という枠がはじめにあって、その中に個人がある。だから国家がなければ、個人はあり得ない。だから国家の形や領土を守ることを優先すべき」という趣旨のことをおっしゃっていたが、そもそも「日本」とか「日本人」の定義とは何だろう。本当は、定義することはそんなに簡単じゃないはずで、私は、改めて「日本人」とは何か?「日本語とは何か?」を考えてみる必要があると思うのだ。そして「日本」「日本人」「日本語」を国家や政府が独占することができるのだろうかとも思う。

 
さて少数派の在日文学の意義は何か。温さんによると「在日文学が描く孤独も痛みも普遍的な感情のはず。個人を救うヒントがこれほどあるのに、その宝物に日本人は気づいていない」という。

私は、文学なんてメジャーになってはいけないと思っている。人生で大事なことは、会社勤めや、政治、経済、科学、科学技術などの生活を支えるもっともっとメジャーなことだ。文学は少数者の関心事でいいと思っているが、まったくなくなってしまっていいとも思わないのは、メジャーなことに携わっているだけでは、気づかなかったり言葉に出来なかったりする考えや感情を、文学は表現し、それが社会の大多数を占める人たちにも、「役に立つ」(経済活動や科学技術が役に立つ、というときの言葉の意味とは微妙に違うが)から、存在意義があるのだと思う。

まさに在日文学は、そもそも少数派の文学の中でも少数派。でも少数派だからこそ、時代に先駆けたり、時代の奥底にある感情をすくい取ったりして表現できるのだろうし、私たちもそれを読んでみるべきだと思うのだ。そういう人の抱えている痛みに気付くためにも、文学を志す人は常に少数派とともにいるべきなんだろうとも思う。村上春樹さんが奇しくも、壁と卵では、私はいつも割られてしまう卵の方に立つ、といったように。


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