« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月31日 (火)

「時間栄養学」という考え方

高齢社会である日本にとって、医療費の増大により今後も国民皆保険を維持し適切な医療体制を提供できるかという問題がある。膨張し続ける医療費を抑制するためにも、国民がなるべく健康であり、高齢者も健康で活動的な健康寿命を伸ばすことが重要である。そこで、医療も病気になってから対処する対応療法ではなく、病気を未病で防ぐ予防医療が中心となっている。身近に取り組める予防医療の基本は「食生活」である。実際、食生活の乱れは、生活習慣病を生み、そして日本人の死因の上位は生活習慣病であるがん、心臓病、脳疾患が占める。いま「時間栄養学」という考え方がある。1月30日付の河北新報の記事を参考に、「時間栄養学」の考え方を要約する。

私たちの体の中にある自然なリズム「体内時計」と栄養学を結び付けた考え方が「時間栄養学」である。人は朝日を浴びると体内時計がリセットされるが、肝臓や腎臓などの臓器の時計は規則正しく食事をとることでリセットされる。肥満のなりやすさも体内時計と関連があり、例えば、腸が糖質を取り込む時間のピークは午前中であり、糖は効率よく吸収される。しかし夕食時間が遅いと、眠るまでにエネルギー源として使いきることができず、脂肪としてため込まれてしまう。

こうした科学的知見というのは、それを現実に応用し、(この場合は、病気予防に応用し)効果を上げることが見込まれる。よく言われるように、肥満を防ぐには朝食をしっかり食べ、夕食を押さえるというのは、時間栄養学の観点からは「理にかなった」ことだということがわかる。

高齢者の筋力の低下や活動力の低下を「フレイル」というが、たんぱく質の摂取がフレイルの予防になる。では、どういうタイミングで食事を取ればよいのか。実験では、1日の食事量が同じでも、朝早く食べたマウスとそうでないマウスでは筋肉量に差があったという。時間栄養学によれば、朝はアミノ酸などの吸収力が高く、日中は筋肉を動かす機会も多い。このタイミングでたんぱく質を取ることで筋肉が増えやすくなると、わかる。

さらには、目的によっては時間を選んで(夕食で)食べた方がよいというものが何かということも、時間栄養学でわかる。骨粗しょう症の予防を目指すのなら大豆イソフラボンの食品を夕食でとるのが良い。なぜなら、骨は夜つくられるのでそのタイミングに合わせて取ることで効率よく使われるのだ。

なかなか「時間栄養学」は興味深い。この研究がもっと進んでいけば、「インフルエいざにかからない食事とその取るタイミング」とか、「スポーツの大事な試合に勝つための食事とそのとるタイミング」などということも科学的に解明されていくのかもしれない。

2017年1月26日 (木)

動物実験の代替法

薬や化粧品を開発したらはすぐには、人間には使用しない。安全性を確認しなければならない。特に薬は、その国の当局によって認可されなければ販売することができない仕組みになっている。そこでその安全性をどう証明するのか。「治験」と言って、名乗り出たボランティアに実際使用してみて安全性を確かめる方法もあるが、いきなり人間で試すのは、危険性が大きい。そこで、人間に試す前に、動物に使用してみてその安全性を確かめる「動物実験」がある。例えば、ウサギに化学物質を点眼して状態を観察する眼刺激性実験、モルモットに皮下注射してアレルギー反応を見る皮膚感作性試験などがある。

しかし、動物で実験することが倫理的に許されるのか、と疑問を呈する人たちが出てきた。動物も痛みを感じるし、人間に当てはまる「倫理」は動物にも当てはまり、同意もなく残酷なことはすべきでないという考えだ。また、動物愛護家といわれる人たちもいる。かわいそう、残酷だからと言って、動物実験を嫌悪する人たちもいる。インターネットでしばりつけられたウサギに化粧品を塗り、肌がはげてしまった映像などが流出したりしたことが背景となり、動物による実験をすべきでないという意見が大きくなった。行動家たちが、動物実験をしている企業の製品をボイコット(不買)するというようなこともあり、企業側もこの問題に敏感になっている。

EUでは化粧品の動物実験が2013年に全面禁止になっている。イスラエル、インド、スイス、台湾、ニュージーランドが禁止した。日本では、資生堂、マンダム、花王などの企業は廃止している。

動物実験をしないで、薬や化粧品の安全性をどうやって確認するのか。1月24日付の河北新報に現在の取り組みが紹介されていた。まとめてみる。

欧米では細胞やコンピューターによる代替試験法の開発に力を注いでいる。資生堂では、ヒト由来の細胞に物質を振りかけて反応を見るh-CLATを開発した。

課題としては、全身の臓器の毒性を見る動物実験などは代替法の確立が難しいとのこと。

だが、時代の流れからも、動物実験の代替法を研究、開発していくことが必要であろう。

2017年1月22日 (日)

常に少数者とともに

1月19日付の河北新報の記事「転換への一歩」に考えさせられたこと。

この記事は、在日文学の今を紹介したものだ。どういう文脈で紹介されたかというと、おそらく「民族差別をあおるヘイトスピーチが社会問題化ししばらくたち、対策法が施行されても差別意識が社会に根を下ろす」という社会的な文脈であることは間違いないだろう。しかし「じゃあ、差別はやめましょう」のような底の浅い内容ではない。

記事では崔実さんの「ジニのパズル」という小説の内容の紹介や、在日1世の父と在日2世の母のもとに生まれた深沢潮さんの発言や小説の紹介がある。

私がはっとさせられたのは、温又柔さんの言葉だ。温さんは日本育ちの作家で、読み、書き、考えるのは日本語だが、「われわれ日本人は…」というような言葉を耳にした瞬間「親密なはずの日本語が自分から遠ざかる」経験があったという。温さんのような日本語との関係の結び方をしている人もいるという声を上げたくて、小説を書いているという。

私もつい「われわれ日本人は…」という言い方をしてきてしまったが、これからは本当に気を付けてこの言葉を使おうと思う。いや、むしろこの言葉はもう今後使わないようにしようと思う。というのは、日本語は誰のものなのだろうかと考えたら、それは日本人だけのものではないだろうからだ。それはどの言語でも言えるだろう。日本出身で英語で書いているカズオ イシグロという作家もいる。言語の所有者は果たして誰なのか?

曽野綾子さんという作家は、新しい教科書をつくる会の教科書で、「そもそも国家という枠がはじめにあって、その中に個人がある。だから国家がなければ、個人はあり得ない。だから国家の形や領土を守ることを優先すべき」という趣旨のことをおっしゃっていたが、そもそも「日本」とか「日本人」の定義とは何だろう。本当は、定義することはそんなに簡単じゃないはずで、私は、改めて「日本人」とは何か?「日本語とは何か?」を考えてみる必要があると思うのだ。そして「日本」「日本人」「日本語」を国家や政府が独占することができるのだろうかとも思う。

 
さて少数派の在日文学の意義は何か。温さんによると「在日文学が描く孤独も痛みも普遍的な感情のはず。個人を救うヒントがこれほどあるのに、その宝物に日本人は気づいていない」という。

私は、文学なんてメジャーになってはいけないと思っている。人生で大事なことは、会社勤めや、政治、経済、科学、科学技術などの生活を支えるもっともっとメジャーなことだ。文学は少数者の関心事でいいと思っているが、まったくなくなってしまっていいとも思わないのは、メジャーなことに携わっているだけでは、気づかなかったり言葉に出来なかったりする考えや感情を、文学は表現し、それが社会の大多数を占める人たちにも、「役に立つ」(経済活動や科学技術が役に立つ、というときの言葉の意味とは微妙に違うが)から、存在意義があるのだと思う。

まさに在日文学は、そもそも少数派の文学の中でも少数派。でも少数派だからこそ、時代に先駆けたり、時代の奥底にある感情をすくい取ったりして表現できるのだろうし、私たちもそれを読んでみるべきだと思うのだ。そういう人の抱えている痛みに気付くためにも、文学を志す人は常に少数派とともにいるべきなんだろうとも思う。村上春樹さんが奇しくも、壁と卵では、私はいつも割られてしまう卵の方に立つ、といったように。


にほんブログ村

2017年1月21日 (土)

河北新報120周年・提言

宮城県の地元紙、河北新報が120周年を迎え「東北の道しるべ」として次世代へ東北像を提案した。「エネルギー自治を確立しよう」「自然と人間の通訳者を育てよう」といった提案に私も共感する。

その提案があった1月17日付の記事に、「90歳に学ぶ失われつつある44の価値」という東北大学の古川准教授の研究も紹介されていた。新聞側は特に意図していないかもしれないが、自分の中で同じ日の、もしくは日をまたいで記事の共通性を考えさせられることがある。新聞は私に思考の種を提供してくれるので感謝している。

さて古川准教授の研究を要約すると、氏は1922年(大正11年)前後に生まれ、戦前の生活を大人として経験した人たちに当時の暮らしぶりを尋ね分類・整理した。そして失われつつある44の価値をまとめた。その中から全く私の個人的価値観で共感するものを挙げてみると「自然に寄り添って暮らす」「自然を生かす知恵」「山、川、海から得る食材」「食の基本は自給自足」「水を巧みに利用する」「燃料は近くの山や林から」「家の中心に火がある」「庭の木が暮らしを支える」などというものがある。そして古川氏は、東北人は、多くの制約の中で暮らさざるを得ず、いかにして豊かに暮らすかを考え続けてきた、環境に優しい未来の暮らし方は、特に東北古来の生き方にヒントが多く隠されていた、と研究を総括している。

私もその通りだと考えるのだが、と同時にため息もつきたくなる。お金のかからない環境に優しい暮らしをしようとしても、里山の木は汚染され薪ストーブを焚けば灰に放射性物質が濃縮され、裏山のキノコ、山菜、タケノコも放射性物質を含んでいる。東北が前に進むのを妨げているのはやはり核発電所の事故だと嘆かれてしまう。

もちろんそうは考えないという意見の方々が大勢いらっしゃることを、私も知っている。東北は何ら今でも傷ついてはいない。私のような人の言動が、ありもしない放射能被害を拡大し風評被害を形作っているのだと。

「失われつつある44の知恵」の中には「いくつもの生業を持つ」「小さな店、町場の賑わい」「振り売り、量り売り」なんて言うのもある。河北新報の提言にも「2枚目の名刺を持とう」「共創産業を興そう」というのがある。中央や東京の真似をせずに、東北の知恵を生かして未来を築き上げていければ、他の地域の人たちだって振り返って見るような生き方が東北ではできるのじゃないだろうか。


にほんブログ村

2017年1月19日 (木)

佐藤卓己氏の論考2017「ポスト真実の時代」

2017年の河北新報の「論考」というコラムに佐藤卓己氏が執筆することになった。インターネットと違って新聞というメディアは、時にこのようにじっくりと立ち止まって考えさせる記事も載せる役目があると思う。記事をきっかけに人々の思考や議論を促す役目があると思う。さて、佐藤氏は専攻がメディア史や大衆文化論で、サントリー学芸賞を受賞し、その著書が新聞でも紹介されていたので興味を持っていた。こうして氏の論考が読めるのはうれしい。

佐藤氏は論考の冒頭で「ポスト真実」という言葉を紹介する。この言葉はオックスフォード英語辞典が2016年の単語として選んだ言葉だ。「世論形成において客観的事実よりも感情や信念へのアピールが影響力を持つ状況」と定義される。もちろんこれは、イギリスのEU離脱国民投票やトランプ次期大統領の当選などが象徴となる2016年の世相をうまく言い当てた言葉だ。日本でも、高い支持が集まる政治家や文化人の言動は、このような世界の状況とは無縁でなく、まさに「ポスト真実」の時代真っ只中ということだろう。

このポスト真実の時代において佐藤氏が深刻だと指摘するのは歴史的思考の衰弱だという。それは人々の歴史への興味減退ではなく、まさにその逆、書店には多くの歴史的読み物が並び、テレビも映画も歴史的ノスタルジアを掻き立てるものが大流行という状況だし、政治も各国ともに歴史の政治的利用に熱心である、というのは佐藤氏の指摘を待たなくても明らかである。

ではなぜ、このような状況を歴史的思考の衰弱というのか。

佐藤氏は歴史を3つの次元に分けて整理する。

1.好奇心としての歴史=商品的歴史

2.アイデンティー確認としての歴史=国民的歴史

3.倫理的命令としての歴史

日本のように歴史ブームに沸き立っている国でも歴史的思考は衰弱しているのか?佐藤氏は、各国ともに、読んで楽しい興味本位の歴史ものが市場を席巻し、何を想起したいのか=国民的感情と、何を想起すべきか=倫理的感情の接点が見いだせていないという。そして、倫理的歴史とは教養的歴史であり、それを描く書物の多くは読む者に不安を与え、多少とも不愉快で我慢を強いる作品であるという。当然、こういう歴史ものの本の読者は少ない。しかし、これと向き合うことなくして、他者の存在を意識しつつ、長期的な展望を求める歴史的思考は強化されないと指摘する。

なるほど、自分が思いだしたい、美化したい過去のみを口甘く取り上げ、事実や本質から目をそらし続ける歴史観では思考が育たない、という氏の指摘に納得させられること大であった。


にほんブログ村

2017年1月18日 (水)

震災とデマ

東日本大震災直後に宮城県では「被災地で外国人犯罪が頻発している」というデマが流れた。そのデマを仙台市民の8割以上が事実だと信じたという調査結果を地元の東北学院大学の郭基煥教授が発表した。それを報じた1月16日付の河北新報の記事に注目したので、わたしの気を引いたところを記事から要約する。

まず、「外国人犯罪が増えた」ということについては、宮城県警ではうわさが事実でないと確認し、流言を否定するチラシを避難所に配り、治安が維持されていることを強調した。また、記事では県警の言葉を引用し、県内の刑法犯罪者に占める外国人の割合の統計を見ても、震災のあった2011年は特別に高かったとは言えないとしている。

郭教授が自分の調査について語っている内容も興味深かった。まずデマが拡散する心理として、「震災当時、新聞やテレビで「被災地と日本人は秩序正しい」と盛んに報じられたが、その一方で実際は犯罪があった。秩序の正しさと現実の犯罪が一致しない人々の意識内のギャップを埋めるために外国人の犯罪にする。そうすれば矛盾がなくなり、デマが拡散する」

「昨今のヘイトスピーチ問題と災害の頻発を考えると、デマが起こる可能性が高まっている。東日本大震災のデマが十分検証されていないので、次の震災や事故時には何かをきっかけに悲劇が起こることは考えられる」

郭教授の研究はとても貴重だと私は思う。核発電事故にせよなんにせよ、本質が解明されないまま、表面がつくろわれていくことが多い。まして歴史事例については、不都合で見たくない真実は見ないようにしたいという風潮が強い。関東大震災時の流言飛語によって朝鮮人・中国人が虐殺されたこと自体そういうことはなかったとするような風潮の中では、東日本大震災時のデマの本質も解明されないまま、また次の震災や大規模な事故に私たちは直面することになる。郭教授の研究は、歴史認識にもつながるなと感じていたら、本年の河北新報の「論考2017」は佐藤卓己氏が執筆することになった。1月17日付の第1回が、また興味深かったが、また次回紹介する。


にほんブログ村

2017年1月16日 (月)

アナスタシア

アナスタシアはロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の皇女である。実はニコライ2世は日本にも因縁がある。彼は皇太子の時、日本に来遊し、そこで警備の巡査に暗殺されそうになっている。いわゆる「大津事件」だ。彼はのちにロシア皇帝になるが、ロシア革命により、アナスタシアを含め皇帝一家は、赤軍に惨殺されてしまう。なんと、赤軍の野蛮なことよ。

 

レーニンは皇帝一家を銃殺したことを伏せていたため、ドイツに「アナスタシア」を名乗る女性が現れる。果てして彼女は、ロシア帝国の末裔なのか、それともただの狂気の女なのか?そんな史実を基に、「アナスタシア」というバレエがロンドンのロイヤルシアターで上演され、そのライブ映像がいま仙台の映画館でも見れる。

 

バレエは身体芸術だ。歌劇であれば歌で感情を表現できるし、観客はセリフによって場面が意味していることを理解もできる。映画館でのライブビューイングであれば、気の利いた字幕もでるのでそれを目で追っていけばストーリーも主人公が置かれた状況もとてもよく理解できる。

 

ところがバレエにはセリフもないし、状況説明の字幕もでない。だが、主役を演じたナタリア・オシポアは踊りの表現は素晴らしく3幕によって分かたれたアナスタシアの生涯をとてもよく表していた。1幕目は、アナスタシアの幼いころの幸せな一家の場面。2幕目はアナスタシアが社交界デビューを果たすサンクトペテルブルク宮殿での豪奢な舞踏会の場面とそこになだれこむ赤軍。そして、3幕目はドイツの精神病院での錯乱の場面。怪僧ラスプーチンは全3幕に影のように登場し不気味である。

 

音楽はぼくの大好きなチャイコフスキーなどを引用。ヨーロッパ諸国はお互いに戦争をしあってきたけど、芸術は偏見なく受け入れあってよいものを作っているように思う。ロシアを舞台にした話とロシアの作曲家の曲をイギリスで上演する。他にもフランス、イギリス、イタリアなどもそうだ。イタリアが舞台の話をイギリスの劇作家が劇にして、それをフランス人の音楽家が曲を付けるなど。彼らは戦争のわだかまりとかはどう解消しているのだろう。バレエを見ていてそんなことも思った。

 

アジアだって、中国、韓国、日本やベトナムなど文化的基盤が共通した国々が文学、音楽、舞台芸術などこれからもどんどん刺激しあって新しいものを織りなしていけばよいのにと思う。そう思うと、いたずらに対立をあおりかたくなに過去の過ちを認めない、政権を頭に抱いていることは、ぼくにとってやりきれない不幸な気がした。


にほんブログ村

2017年1月15日 (日)

足裏と健康

この冬一番の冷え込み。家の中にいても寒い。だが、こういう時こそ薄着をしたりはだしで過ごすことが健康につながるという考え方もある。体育系の大学に進学したい人がよい小論文を書くのに役立つように、スポーツや健康についての記事をスクラップにしてとってあるのだが、昨年12月13日付の河北新報に裸足で過ごす幼稚園の記事が載っていたのでまとめてみる。

この幼稚園では単に冬も裸足、というだけでなく、子どもの足裏を専門家が定期的に測定し、その結果を子どもの体の状態を理解するツールとして生かしている、というところに特徴がある。子どもが立った時に足裏にかかる圧力の分布がわかる足裏画像を集めている。これで、土踏まずの形成状況などが一目瞭然でわかる。また足の接地面がまばらだと無駄な力が他に入っているということなどもわかる。

何よりポイントは、「精神の状態が体に表れる」というところだ。足裏の撮影をする専門家が画像を見ながら園児の母親と話し合い「足裏の様子がこうなっていますが、おうちの様子はどうですか?」などと聞く。母親の方も「子どもの精神状態は体に表れやすい」という気付きを得ていく。

また、この幼稚園では足裏画像撮影導入により、先生たちにも良い変化が出たという。そもそも画像撮影を取り入れたのは、先生たちも、子どもの体を見る目、変化に気付く視点が必要と考えたからだそうだが、実際、先生たちは、落ち着いて話を聞けない子供に困り果てるのではなく、「睡眠不足かな?」と子供の体の状態から推し量れるようになったという。

近代ヨーロッパでは体と心は別のものという二元論で近代科学や近代社会を築き上げてきた。心と体は一つという考えは非常に東洋的というか東洋医学的な視点である。体育系の学部や大学に進学を志す人たちは、将来スポーツの指導者になるような人材だ。そういう人たちなら、心と体の相関関係に興味を持ち、生徒達や自分が指導する選手たちの体に表れたちょっとした変化に敏感になることが大切だろう。記事のまとめが役に立つことを願います。


にほんブログ村

2017年1月14日 (土)

世論

山川書店発行の大学受験参考書の「政治・経済研究」を読んでいたら、マスメディアの報道意図を市民が読み解くためには「メディア・リテラシー」が必要であることや、マスコミが作る世論などはこんなふうに誘導ができるのだと言って、興味深い実例が挙げられていた。

次の2つの世論調査の質問事項を見てほしい。

A:アメリカのある高名な物理学者は「エネルギー源を原子力に求めることは、人類の将来にとって望ましいことではない」と述べています。あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。

B:「エネルギー源を原子力に求めることは、人類の将来にとって望ましいことではない」という意見にあなたは賛成ですか、反対ですか。

2つとも、世論調査としては全く同じ質問をしているのだが、調査の結果は予想されるとおり違ってくる。もちろんAの質問の仕方がBよりも10パーセント賛成が多くなる。

ちょうどそんな個所を読んでいたら、先週の木曜日NHKの夜7時のFM放送でのニュースに、

A:外交文書が公開され、中国の胡国家主席が中曽根首相に、「日本がしかるべき軍事力を持つことに賛成する」と発言していた。

B:三島由紀夫の肉声のインタビューが発見され、自分の文体の欠点を指摘した実に興味深いところがあるにもかかわらず、憲法9条を攻撃している肉声部分のみを音声で流した。

というふうにA,BのニュースをNHKらしくなんのコメントもなしに、そしてなんの掘り下げもなしに連続して流した。

ここから読み取れる誘導したかった世論は「さあ、勇気を出して安倍首相の提案している憲法改正に踏み出そうではありませんか。NHKは断固安倍首相を支持します」。かなと思ったぼくは、ひねくれものか深読みのし過ぎだろう。

電通がブラック企業大賞の選ばれた事や、過労死問題で立ち入り検査されたことをNHKが報じたことは、もしかして安倍政権の中で何か変化でもあったのかと、ぼくに期待を抱かせたが、可愛いい電通にはちょっと我慢してもらって「私は本気で労働者を守る」というポーズを国民に印象付ける、老練熟達の政治家としての手腕であったのだろうか。


にほんブログ村

2017年1月11日 (水)

少子化対策・スウエーデンの事例

いささか古い記事だが、2016年6月28日付の河北新報の記事からスウエーデンの子育て事情の事例を要約してみる。日本の少子化対策の参考にできるところもあろう。

スウエーデンは子育てと仕事を両立しやすい国と言われている。それは育児しながら働く夫婦を支える仕組みが社会に整っている。そのせいか出生率も高い仕事と育児両立の鍵は「1.育児休業制度 2.男性の家庭進出 3.残業のない働き方」だとストックホルム商科大研究員の佐藤氏は語る。スウエーデンも昔から今のような仕組みが整っていたわけではなく40年前は子育て世代の女性の多くが仕事をやめたという。

1970年代以降の女性の社会進出に合わせて政府が支援策を整え、同時に男性も家庭に進出するなど変化していったという。現在は育児休業中はそれまでの所得の8割を保証し、夫婦で取得できる休業期間が計1年4か月。そのうち夫だけ、妻だけがとれる期間がそれぞれ3か月ある。スウエーデンの場合、夫の育休取得率が約8割で日本の2パーセントと大きく異なる。

保育園の提供は自治体の義務で、利用料が低く抑えられている。夫が家事・育児に充てる時間は日本の数倍。男女ともに残業のない働き方が確立していて仕事と育児の両立を可能にしている。週1回の自宅勤務が認められていて、上司にも子育て経験があり理解が得やすい。スウエーデン女性のシャシュティンさんは「育児は喜びであり、仕事は人生の一部。どちらも諦めない」という。

日本では育児の問題をどう解決したらよいのかNPO法人の駒崎氏の意見を掲載して記事を締めくくる。「日本でも公費支出を増やし、保育士の待遇改善をすれば、待機児童は解消する。長時間労働の規制や職場の理解を高めることも必要。子育て世代が声を上げて政治を動かせば、実現に近づく」

さて、残業のない日本社会を作るとなると日本の社会そのものが大きく変わらざるを得ないと私は思う。顧客の言うことはどんなことでも応じるような日本文化が根底から覆され、夕方5時以降は業務終了で一斉に企業の電話が留守番電話になってしまうというような日本の企業文化が全否定されるような大変化だ。それに24時間やっている商店が本当に私たちの人生や生活に必要なのだろうかという、哲学的な根本的な思考転換も求められる。でも、私は面白いと思う。どうせ変わらなければこのままじり貧であれば、変わった方がよいのではないだろうか。


にほんブログ村

2017年1月 9日 (月)

阿古屋

シネマ歌舞伎「阿古屋」を鑑賞。現代人が見ると「古典」であるのでセリフだけからは筋書きがわかりにくいところがあるが、古典だからこそ見ておいてよかったと思う。

平家の没落後、平家方の武者、景清は鎌倉方=源氏方から厳しく行方を追及される。その行方を知っているのではと厳しく詮議されるのが遊君の阿古屋。厳しい拷問にも耐えて居場所は知らないと言いぬき、ついに代官、秩父庄司重忠の前に引き出される。重忠は阿古屋に琴、三味線、胡弓を弾かせ心の乱れがないことから確かに阿古屋は景清の行くへを知らないのだと、事件は落着し放免となる。

見どころは玉三郎さん演じる阿古屋の演奏だろう。そして私が良かったと思ったのは、重忠演じる尾上菊之助だ。重忠は道理のわかる裁き役でこの劇に重みを付ける。セリフは多くなく、大変難しい役どころだと思うが、所作や手の動きで見事に重忠の人格も表現していたと思う。その重忠とバランスを取るように配置されるのが悪役の岩永、それを演じる坂東亀三郎。人形振りという面白い所作(=カクカク人形が動くような所作)で笑わせてもくれる。古典とはいえ、こうやって見るものを飽きさせないような演出が長年にわたってされてきた、演目だということだ。


にほんブログ村

2017年1月 6日 (金)

石の花挿し

Hanaike_2
みやぎ仙南在住の彫刻家山中環さんが作った花活け。石で作ってあります。スミレは本当に日本の里山にはふつうにみられる花で、その自然の中の岩角に咲くスミレの風合いがあります。(栽培種のヴィオラでも)。山中さんが個展を開いたとき、石の花器を出品していました。ご興味のある方は、山中さんはホームページも持っているので問い合わせてみるとよいのではないでしょうか。


にほんブログ村

2017年1月 5日 (木)

橋のない川

ツタヤの戦略にはまってレンタルビデオを借りてきた。会員カードが年1回有料で切り替え。でも切り替えたらDVDが1本無料で借りられるというのだ。借りて返しに行けば、また借りて見たくなるし、これは際限のないループに落ちいらせるための優れた戦略だ。

さてぼくが借りたのは、住井すゑ原作の小説を今井正監督が映画化した2部作だ。被差別部落出身の子ども・若者を主人公に、彼らが差別を受ける実態と、そしてそこから立ち上がっていく過程を描き、京都での第1回水平社結成大会の前年にいたるところで終わる。

時代的には主人公の父親が日露戦争で戦死、日韓併合で日本国内に居住する朝鮮半島の人たち、明治天皇の大喪の様子も描かれ、やがて大正時代のシベリア出兵、米騒動という世相が描かれる頃だ。シベリア出兵と米騒動の関係なんて、歴史の時間に習って名前だけは知っていたが、なるほどこういうことだったのかと、視覚や流れで理解すると歴史に実感が持てる。

そもそも日本は日露戦争をし、シベリア出兵までして他国に干渉している。今ロシアが、第2次世界大戦で分捕ったものは、正当なものだと言って北方領土を占領するのも、ロシアから見れば当然のことだし、日本から返してくれと虫のいいことも言えない気がぼくにはする。薩長の明治政府の国策が誤っていたとは、今から過去を振り返って言うこともできない。欧米列強がしのぎを削るああいう国際情勢で、当時の政府はああせざるを得なかったのだろうし、何より国民も政府を支持したのだから、もし歴史をさかのぼって、非を探すとしたら、政府にも国民にも非がある。だとしたら、もう北方領土にはこだわらずに、あきらめるしかないと、非国民的なぼくなどは思うのだが。

映画を見て、昔も今も日本人の差別意識は変わってないなと思ったところは、米騒動の反動として、愛国団体が米騒動に加わったものに報復をする。米騒動は、富山の主婦がやむに已まれず行動を起こしたのが全国に広がったものだが、米騒動の首謀者は貧しくてコメが買えない、被差別部落の人たちや朝鮮の人たちがたくらんだことだと言って、うわさが流されるのだ。そして、愛国団体が被差別部落に焼き討ちにやってきて、村を焼き払い、そのあとに、朝鮮人と被差別部落民を犯人に仕立て誹謗する立て看板を立てていくのだ。

日本人の心性というよりは、世界共通の傾向だろうが、自分たちが差別して見下している人たちやグループがいる。何か犯罪や騒動があると、証拠を調べもしないで差別されている人たちが犯人だとして排除しようとする。これを防ぐには、やはり歴史から学び、新しく生まれてきた若い人たちに過去にこういうことがあった、人間というのはこういうことをすることもあるというのを教訓として伝えていくべきだとぼくは思う。わが国民は無謬で先祖もそんなことは一切したことがないと、例えば関東大震災の虐殺事件を伝えないようにして、いいことはないと思うのだが。


にほんブログ村

2017年1月 4日 (水)

書初め

P1040426

「正史 三国志」を読んでいてよい言葉に出会ったので。これは蜀の先主、劉備の言葉。劉備が曹操に敗れて長江沿いに敗走していくとき、劉備のまわりには彼とともに追われていく地元住民たちがいた。部下たちが、劉備にこのような者たちは捨て置いて、早く目的地まで引き退こうと提案した時に、劉備が返した言葉。意味は「そもそも、大事を成し遂げるときは、人こそを最優先する」ということ。劉備たちが蜀に根拠を持ち三国鼎立体制を取る前の流浪時代のことだ。劉備玄徳が昔から徳を備えた人物として人気があるゆえんだろう。

読み方とおよその意味の切れ目は、「夫(fu)済(ji)大事(dashi)必(bi)以人(yeren)為本(weiben)」。昔の漢文訓読法でなく、そのママ漢字の語順と文法のまま読むと、より深く味わえる。中国語の読みは便利なローマ字表記が発明されているので、外国人にも学習しやすくなっている。およそカタカナで表記すれば、「フー、チー、ダーシ、ビー、イレン、ウェイベン」

人を大事にする政治、企業、社会、そういうものを目指して微力ながら何ができるかを今年も考えていきたいと思う。


にほんブログ村

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »