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2016年12月 8日 (木)

核発電の倫理的な意味

宮城県の村井知事は、核物質で汚染された飼料用稲わらなどを、一般ごみと一緒に焼却しようとしている。私自身はこの施策に反対だ。理由は、放射性物質を拡散させることになり、健康被害が懸念されるからだ。私の対案は、まず第一に、汚染物質は発生元である東京電力核発電所に引き取ってもらいそこで管理する。第2案は、放射線の自然減衰を待ちそのまま保管することだ。「絆」を理由に、汚染地でないところに放射性物質を移動したり、拡散させたりすることは、本当の「絆」でも何でもないと私は思う。

国の施策が第一と核発電を許容・推進する立場の宮城県村井知事からすれば、私のような焼却に反対する立場の者は、核物質を不当に怖がる、科学的思考や根拠に欠けた、進歩や冨県政策に反対するどうしようもないわからずやだろう。そのどうしようもないものながら、核発電推進の論理を考える機会があったので、ここで考えてみたい。機会は「脱原発・風の会」が発行している「鳴り砂」という冊子に規制庁の核発電推進の考えが掲載されていて、それを読んだことだ。

規制委員は2016.6.29に「実用発電用原子炉にかかわる新基準の考え方」を発表した。それを要約すると、「世の中には車や飛行機など便利なものがある。便利ではあるがときに事故が起これば危険である。しかし、危険性がある程度人間によって管理でき、その危険性と便利さとを比べてみて、一応安全と考えて使っているのである。これを相対的安全性というのであり、我々の社会を支えているのはこの相対的安全性なのである。核発電所を容認するときに求められているのはこの相対的安全性なのであり、どのような異常事態が生じても放射性物質が外部に出ることは絶対にないといった達成不可能な安全ではない。核発電を再稼働するときは、社会がどの程度まで危険を容認するかを見定め、あとは専門家が判断すればよい」

立派な作文で私にはなかなかどう反論していいかわからない。核発電差し止め裁判でも、国側はこの論理でどんどん勝ちをおさめていくのだろう。同じ土俵では、反論のしようがないが、絶対に安全とは言えないもの、そして、いったん事故が起これば事故の規模も違うし、利得を受けていない者、生まれていない未来の世代の人たち、そういうものまでも傷つけてしまうことが許されるのかという、倫理的な観点からのみだろう。

ちなみにこのみやぎ脱原発・風の会で長らく中心的な役割を果たしてきた篠原さんが人権賞を受賞したことは象徴的なことだと思う。核発電は論理ではなくまさに倫理の問題なのだ。興味がある人は、ぜひ風の会の会員になってほしい。


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