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2016年12月21日 (水)

究極の積読

30年前に中国の旅行し、上海の書店で「正史 三国志」(中華書局発行・全5巻)を購入し、重い荷物を担いで船で帰港した。原文を自力で読む自信はないので、ちくま学芸文庫の「正史 三国志」を傍らにおいて、原文と日本語訳を比べながら読んできた。そうは言ってももちろんこの30年間、ほとんど積んどく状態だったわけだが。ところが、ようやく原本全5巻のうち、3巻の魏書まで読み終わったのである。

中国人にとっても日本人にとっても、三国志の人気人物といえば、次の4巻にでてくる劉備玄徳と諸葛孔明だろうが、この魏書の最終巻もある意味で面白い。当然そこにはあの有名な卑弥呼の記述も出てくる。中国の記録に残っていなければわれわれは古代日本の様子はうかがい知れなかったのだ。卑弥呼はよくあの時代、はるばる海をわたって中国に使者を派遣したものだ。魏書の倭人伝には、卑弥呼が皇帝に献上した贈り物と、それに対する中国皇帝からの豪奢な返礼品が記載してある。大雑把に見積もれば1億円貢げば50億円くらい返礼してくれるわけだ。こんな国際秩序も確かに存在していたのだと歴史から学ぶことができる。こちらから貢ぐばかりで大国の思惑に振り回されるよりも、したたかな外交を考えるヒントになるのではないだろうか。

ひねくれもののぼくが「魏書」の3巻が好きな理由はほかにもある。ここには曹操や彼を助けて覇権を取らせた将軍たちのような英雄は出てこない。卑弥呼のような東夷の蕃人を記述した東夷伝や、魏王朝からは裏切り者、反乱者と呼ばれた者たちが出てくる。

東夷伝は当時の中国北部や韓半島、そして日本の韓半島寄りに住む民族やその風習などが知られて興味深い。それを読むと、おそらく「日本人」なんて、大陸や半島から渡ってきた人たちと古くから列島にいた人たちが混じりあってできたのだろうなと想像される。それをいま日本に住んでいるからという理由で、大陸や半島の人たちを差別的な意識で見ているのは滑稽なことだ。大きな尺度で見れば、東アジアの様々な民族や人種は「大同小異」といったところだろう。

魏志の最後に行くと建国の英雄は出てこない。魏王朝そのものも落ち目だ。権力は完全に司馬氏に握られその司馬氏の動向が不気味だ。この最後の巻で「裏切り者」のレッテルを張られているのは、実はそうした司馬氏の動向に反抗して、魏に対して義を立てる「愛国者」たちなのだ。だが、「愛国者」も見る視点が違えば「反乱者」なのだ。これは、本当にどこの国の歴史にも繰り返されてきた。司馬一族は、本当に抜かりなく、反乱者をつぶしていき、ついに魏王朝を乗っ取り晋王朝をたてる。ところがその司馬氏たちの伝は、三国志に載っていない。次期王朝の創始者及びその先祖は、次の正史「晋書」に記載されなければならないからだ。

次に「蜀書」及び「呉書」を読むのが楽しみである。しかし読了はいつになるのか。生きているうちには読み終えてみたいと思っているが、究極の積読である。


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