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2016年12月30日 (金)

1年を振り返る

この1年を振り返るのに参照するのに値する論考をもう1本、河北新報12月27日付の記事から要約する。それは上田紀行氏の「論考2016」だ。

今年はどのような年であったかを考えるときに上田氏はイギリスのEU離脱国民投票とアメリカのトランプ次期大統領当選の2つを挙げる。

この2つの出来事の背後に上田氏は、グローバル資本主義の中で不満を募らせる低所得者層の存在と、保護主義により自国の利益確保を優先すれば生活が改善するのではないかという期待があり、それは多くの国の移民排斥運動の高まりと軌を一にすると指摘する。

さらにそういう現象を分析し、今年は人々の本音が噴出した年だと見る。「一つの欧州などきれいごとを言ってないで、自分たちの困窮を救ってくれ」「世界の平和と民主主義に貢献する「世界の警察官」などという前に不法移民を追い出して職を取り戻してくれ」。崇高な理念や協調関係よりもまずは自分たちの利益を確保してくれという本音である。

上田氏が危惧するのは、「本音を語ること」=「自己の利益のために他者を攻撃、排除してもいい」と曲解する風潮が高まっていることだ。そこから日本に目を転じ、相模原での殺傷事件、橋下徹氏や百田尚樹氏など歯に衣を着せぬ、本音を売り物にする著名人の人気ぶりに言及する。

こういう流れの中で、希望はないのか?上田氏は人間の本音がすべて利己的、攻撃的だというわけでなく、本気が人の心を動かすともいう。例えば、平和をキレイ事ではなく本音で願い行動している人、独裁国家で命がけで人権を希求している人、そしてオバマ大統領の広島でのスピーチが感動的だったのは、美辞麗句だけでなく、彼のいくばくかの本音が感じられたからだという。

私がこの上田氏の論考を読み、来年に向けて希望を感じられたのは、次のようなまとめだ。「私たちの中に様々な本音が共存するが、その中から何を本音で語りだすかが人間の在り方を決定していく。偽善だ、きれいごとと冷笑されても、本気で世界の苦しみに向かいあい、共に支えあって生きていこうという本音に、私たちは深い人間性を感じ、心動かされる。」

上田氏はこう問うている。「他者にレッテルを張り、「あいつら」呼ばわりして攻撃、排除するような本音を語り合いたいのだろうか。日本をそんな国にし、そんな本音を子どもたちに伝えたいのだろうか」

ぼくの答えはNOだ。現行憲法を維持する立場に立つと時に平和ボケなどと揶揄されるが、堂々とそして曲折や困難はあろうとも、本音で、平和、共存、人権などを述べていこうと希望が持てた論考だった。


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2016年12月29日 (木)

読解力低下

河北新報から今年1年を振り返って考えさせる記事が掲載されていたので要約する。

1つは12月26日付の佐伯啓思氏の「社会性を損なう読解力低下」という論考だ。まさに、新聞のような紙の文字媒体には、その時々のニュース=目新しい世の出来事、だけでなく、こうして立ち止まって考えさせ、振り返って思考させる論説記事や投稿が載るところが大切なのである。

佐伯氏は「日本の若者の読解力の低下が言われ、それは目に見えないレベルで、我々の社会に深刻な影響を及ぼしている」と警鐘を鳴らす。

読解力の低下は国際学力到達度テスト(PISA)で日本の高校生が前回4位から8位になったことにも現れているが、佐伯氏が問題とするのはそういう国際的な順位ではなく、言葉というものに対して持つ関心や意味が近年大きく変わってきている点にあると指摘する。

背景にはITの進展やツイッターなどといったSNSの発達がある。その言論空間では「好き・嫌い」「いいね・けしからんね」といった端的であけすけな単語の組み合わせが見られ、ネットで情報が得られることもあいまって読解力など不要になっている。

しかし、情報化の進展で、多少とも複雑で含みを持った長文の読み書きが忌避されるとなると、そこには問題があるという。

どういうことかと言うと、読解力とは言葉を通して他人の心を理解し解釈する力であり、表現力ともかかわり、さらには社会的なコミュニケーション能力にもかかわる。表現力とは、どのように言えば他人が理解してくれるかという解釈を前提とし、社会性は、他人の言いたいことを理解し、自分の言いたいことを伝える力だからだ。よって読解力が大事なのは、国語の点数を上げるからでなく、それが人間の社会性の基盤であり、文化の基盤であるからだという。

読解力が低下したということが、社会性の能力、コミュニケーション能力の低下、文化の質の変容を示している。佐伯氏がさらに指摘するのは、政治の質も、もとをただせば、読解力や表現力に基礎をおいているということだ。政治指導者がツイッターで乱暴な直言をまくしたて、それが喝采を呼ぶような政治は自壊の道をたどるという。

私自身現在のの仕事柄、生徒達の「読解力」をどのように育てたらよいのか常々考えながら仕事をしていた。佐伯氏が、読解力の重要性を述べてくれたこの小論に大いに示唆を受けた。そして、なぜ、安倍首相がこの1年、国民から大きな支持を受けてきたのかの一つの分析にもなった。

わたしなどは、古い人間なので、本や紙の媒体を好んで読んできた。小林秀雄や吉本隆明さらにはカントなど、読んでもまったく意味不明、読解不能の文章を前に、何とか理解してやろうと苦闘してきた。そんな体験が30年、40年と続いて多少とも若いころと比べて「読解力」がついてきたのかと感じる。そんな私から見ると、安倍首相の言葉「平和」「和解」などの連呼は、たいへんむなしく空虚に感じる。しかし、そういうむなしい言葉や、一方的な自説のまくしたてが、現在の日本社会に喝采をもって受けいれられるのは、社会の質や文化の質が転換しつつあるということなのだろう

2016年12月28日 (水)

天皇制を考える

今上天皇が、自らの退位に言及し、国民に直接語りかけたことから、天皇制についての議論が行われた国民の関心も多少は呼び覚まされた1年だったのではないだろうか。先日の河北新報(12月15日付)に、天皇制について論者の論考が掲載されていた。

高村薫氏の論考を要約してみると、

「日本が近代国家になるにあたり、天皇を国家の機関としてはめ込むことができず、そのひずみが天皇を戦前は神にし、戦後は象徴という意味不明のものにしてしまった。わからないからベールでおおって皇居にいていただくという形にした」

「だが今の陛下は自らお堀を超えて国民のところへ出てきた。慰霊の旅は政治が疎かにしてきた部分を埋め、国民の心情にプラスに働き、政治が右傾化する中、バランスが取れるよう引っ張り戻す働きをした」

「天皇に慰霊の旅を期待し任せてきたのは私たちの戦後が間違っていた。民主主義国家なら本来は政治が戦没者の追悼に責任を持つべき」

「象徴天皇は現実に必要ないと思うが、長い歴史にとともにあった天皇を現代においてなくしていいと思わない」

「皇太子の代になり皇室の姿が変われば国民の無関心が進むかも知らない。国民統合の象徴という憲法の文言も形骸化するかもしれない。天皇の在り方を政治家任せにするのでなく国民が真剣に考える時が来ている」

私も、今上天皇の非戦のお気持ちを大変かたじけなく思い、安倍首相に対抗する勢力の願いと思い、8月15日の敗戦の日のお言葉など大変注目して聞いてきたが、そもそもそういう役割をこれ以上続けて、御高齢の陛下に期待するのも酷なのだと思う。

もう一人の論者は上野千鶴子氏。
「8月の天皇のメッセージは憲法上問題がある。政治行為の制限からすると越権では。天皇制には反対しているが、天皇制は職業選択の自由も奪われ、行動の自由も制限され、男児出産の圧力にさらされ同情する」

「今上天皇が憲法順守を口にしたり、戦地を訪問したりすることで、国民は護憲・反戦というメッセージを受け取り、立憲主義者で平和主義という評価があるが、将来の天皇がどのような考えを持つかわからない。天皇の在り方が個人の性格で変わるのは困る」

「天皇制は権威主義の根源であり、自分たちの代表を自ら選ぶ民主主義に反している。日本は民主主義国家なのだからどうして共和制でないのか。国民統合の象徴入らない」

これまた上野氏らしい論だが、今の天皇が護憲・反戦でも、将来の天皇がどうなるかはわからないというのは、その通りの指摘だと思う。もちろん、私と同世代の皇太子様には、民主主義と平和を願ってくれる方だと期待するが、若い世代になればなるほど、自民党の支持率も高く、百田氏の小説や映画も人気があるのだから、将来天皇が政治利用されないとも限らない。そうならないためにも上野氏のように天皇制はない方がよい、という意見もなりたつのだろう。

天皇誕生日を機に、天皇制を考えてみようと思ったが、日本にとってはこれはとてつもなく大きな問題だ。


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2016年12月21日 (水)

究極の積読

30年前に中国の旅行し、上海の書店で「正史 三国志」(中華書局発行・全5巻)を購入し、重い荷物を担いで船で帰港した。原文を自力で読む自信はないので、ちくま学芸文庫の「正史 三国志」を傍らにおいて、原文と日本語訳を比べながら読んできた。そうは言ってももちろんこの30年間、ほとんど積んどく状態だったわけだが。ところが、ようやく原本全5巻のうち、3巻の魏書まで読み終わったのである。

中国人にとっても日本人にとっても、三国志の人気人物といえば、次の4巻にでてくる劉備玄徳と諸葛孔明だろうが、この魏書の最終巻もある意味で面白い。当然そこにはあの有名な卑弥呼の記述も出てくる。中国の記録に残っていなければわれわれは古代日本の様子はうかがい知れなかったのだ。卑弥呼はよくあの時代、はるばる海をわたって中国に使者を派遣したものだ。魏書の倭人伝には、卑弥呼が皇帝に献上した贈り物と、それに対する中国皇帝からの豪奢な返礼品が記載してある。大雑把に見積もれば1億円貢げば50億円くらい返礼してくれるわけだ。こんな国際秩序も確かに存在していたのだと歴史から学ぶことができる。こちらから貢ぐばかりで大国の思惑に振り回されるよりも、したたかな外交を考えるヒントになるのではないだろうか。

ひねくれもののぼくが「魏書」の3巻が好きな理由はほかにもある。ここには曹操や彼を助けて覇権を取らせた将軍たちのような英雄は出てこない。卑弥呼のような東夷の蕃人を記述した東夷伝や、魏王朝からは裏切り者、反乱者と呼ばれた者たちが出てくる。

東夷伝は当時の中国北部や韓半島、そして日本の韓半島寄りに住む民族やその風習などが知られて興味深い。それを読むと、おそらく「日本人」なんて、大陸や半島から渡ってきた人たちと古くから列島にいた人たちが混じりあってできたのだろうなと想像される。それをいま日本に住んでいるからという理由で、大陸や半島の人たちを差別的な意識で見ているのは滑稽なことだ。大きな尺度で見れば、東アジアの様々な民族や人種は「大同小異」といったところだろう。

魏志の最後に行くと建国の英雄は出てこない。魏王朝そのものも落ち目だ。権力は完全に司馬氏に握られその司馬氏の動向が不気味だ。この最後の巻で「裏切り者」のレッテルを張られているのは、実はそうした司馬氏の動向に反抗して、魏に対して義を立てる「愛国者」たちなのだ。だが、「愛国者」も見る視点が違えば「反乱者」なのだ。これは、本当にどこの国の歴史にも繰り返されてきた。司馬一族は、本当に抜かりなく、反乱者をつぶしていき、ついに魏王朝を乗っ取り晋王朝をたてる。ところがその司馬氏たちの伝は、三国志に載っていない。次期王朝の創始者及びその先祖は、次の正史「晋書」に記載されなければならないからだ。

次に「蜀書」及び「呉書」を読むのが楽しみである。しかし読了はいつになるのか。生きているうちには読み終えてみたいと思っているが、究極の積読である。


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2016年12月20日 (火)

流行語大賞を考える

今年一年はやったことばを年末に表彰する「流行語大賞」。その流行語大賞で「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞ランク入りしたことで、「日本人として悲しい」「はやらせたい人間は変態」と批判が噴出しているという。この騒動の紹介と考察が河北新報12月14日付の記事にあったので、紹介してみる。

批判の先頭に立ったのがタレントのつるの剛士さんと中国評論家の石平さんだ。つるのさんは「こんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。なんだか日本人としても親としてもとても悲しい気持ち」と発言し、彼の発言がおびただしく引用されたという。石さんは「普通の日本人の間では「日本死ね」のような言葉がはやった気配はない」「はやらせたい人がいるからノミネートされたわけだが、そういう人間はよほど変態」と批判したという。この言葉を選ぶ立場にあった俵万智さんが個人攻撃にあった。

擁護する立場としては、流行語大賞を主宰する自由国民社は「政権批判を偏向と決めつける向きがあるが、そうした言葉が流行語の中にあるのは当然。政権を名指しで批判することもできたが、あえて「日本死ね」と表現するなど、よく言葉を選んでいる」。また、「日本死ね」のブログが話題になることで厚生労働省が待機児童解消緊急対策を発表するなど、現実を動かした点を評価する識者のコメントも紹介している。

さてここまでがバランスよく問題の賛否を紹介したものだが、この記事の優れているのは一連の騒動から考察を引き出しているところだ。最低賃金引上げ活動をしている若者や識者の言葉を紹介しながら、今の日本の現実や雰囲気を映し出し引き出している。

「言葉遣いに対する批判をよく受けるが、それは本質から目をそらす行為だ。社会や政治の怠慢に目を向けず、訴えの言葉遣いばかりを批判するのはナンセンス」

「キレイでホワンとした心地いい言葉だけで世の中がよくなるのか。日本が好きならば、こんなひどい言葉を国民に言わしめている状況を恥じ、変えなければならない」

「日本死ね批判は、テレビに氾濫する日本礼賛の裏返し」

「政府批判をすることに「偏向」のレッテルを張ったり、物言えば唇寒しというのでは息苦しいし、つまらない。まっとうな政府批判は必要」

ここから見えてくる日本の現状。日本人は自信を失っている。自信がない人ほど外面を強がる。「日本人は優秀で、日本は優れている」という言葉を一秒たりとも聞いていないと、自信を喪失する。日本人は優れているので歴史上誤ったことはしたことがないと無謬性を信じたい。だが、日本人が別に優れていなくても、過ちを犯しても、それで日本人の価値がなくなるわけでもないし、愛国心がないとも言えない。押し付けられた愛国心は、自発的な愛国心に何倍も劣る。日本人にはいい点もあれば悪い点もあると考えれば、特にほかの民族を下に見るなんてこともしなくなるだろうし、歴史上の誤りをきちんと認めてこそ、大国アメリカやロシア、中国などの非人道的な犯罪に対してもきちんとものが言えるようになる。最後の段落は記事ではなく私の意見だったが、そうしてこそ本当の愛国だと思う。


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2016年12月15日 (木)

核発電の事故処理費用

核発電で生じた費用、例えば廃炉費用、事故処理費用、賠償費用、これは当然国民全体から徴収すると、経済産業省の官僚が決定した。この決定に、われわれは従順な国民なので特に違和感を感じなくてもよいわけであるが、河北新報の切り抜きの記事から問題点を指摘した部分を要約してみる。

11月15日付け「核心評論」(井田氏執筆)。廃炉費用は送電網の使用料に上乗せして、核発電とは無縁な新電力にも負担させるとの決定に対して、井田氏は
・核発電優遇政策であり大手電力会社優遇政策である。
・核発電の費用は所有する事業者が負担すべき。
・核発電の電気は嫌だと言って新電力を選んだ消費者までもが核発電関連の費用を払うことになる。
・この決定をしたのは、経産省が任意に選んだメンバーによる審議会だ。民主主義と自由経済の国では考えられない。
・安全への投資を怠り、総括原価方式(=かかった費用はすべて電気料金に上乗せする方式)により大きな利益を上げてきた大手電力会社が当然費用を負担すべき。

12月10日付の報道によると、フクシマの対応費用が想定から21兆円に倍増することに伴い、費用は電気料金上乗せで国民負担とするという決定もあった。当然国民負担すべきだという論点を支持する根拠としては、「今まで、核発電の電気の恩恵を受けてきたのは、お前たち国民だろう」という意見もあるだろうが、「では恩恵を受けていない未来の国民、これから生まれてくる人たち、これからこの国にやってくる人たちは?」という反論も考えられるだろう。

ぼくが興味があるのは官僚主義だ。官僚主義は人間の本性に根差し、古今東西に、そして政治にも企業にもどんな主義主張の国でもどこにだって普遍的に存在する。それは、ある体制の中で優秀な人、忠誠を尽くす人がなる。個人の責任や道義は問われない。軍用機の「墜落」を「不時着」のように表現し、固定化した言葉で世界を見る。感情は表に出さない。などが、歴史の本などを読んでいるとそこからわかる官僚主義だ。官僚主義は当然、個々の出来事に対して個人的な苦悩を感じることはないが、ぼくはフクシマの事故については、個人的な苦悩を感じる官僚や東電社員がいてほしいと思う。もちろんいてくれるのであろうが、ぼくが出会えないのか、報道機関やジャーナリストの方々の伝える努力が及ばないのか、今のところそういう方のことは詳しくわからない。いつも苦悩しているのはわたしたち、国や体制の庇護が及ばない者たちだという気がする。

スベトラーナ・アレクシエービッチ氏の「チェルノブイリの祈り」には、核発電後の苦悩する人たちがたくさん出てくる。そこには官僚への聞き書きも出て来る。ソ連の官僚主義もどこの国の官僚主義も本質的なところは変わらない。だが、ソ連の官僚主義はうまく行かずソ連は崩壊してしまった。我が国の官僚主義は優秀なので、絶対に我が国が崩壊することはないと、また同じような自国礼賛に陥らずに、チェルノブイリの人たちの苦悩を聞いてほしい。官僚だって苦悩しているのだと知れば、少しは私の心も慰められる。

官僚の証言

・他の人は沈黙しているが、私は言おう。あなた方は新聞に書いておられる。共産主義が国民をだまし、真実をかくしたのだと。しかしわれわれにはそうする義務があった。中央委員会や州委員会からの電報で、われわれは課題を与えられたのです。パニックを許すなと。

・われわれには義務があった…。全員がすぐにかくしたかどうか。誰も起きていることの規模を理解していませんでした。政治的利益が最優先されました。しかし、もし、感情抜き、政治抜きで語るなら…。認めなくてはなりません。起ったことをだれも信じていなかったと。学者でさえも信じることができなかったのです。

・もし当時私が、住民を通りに出してはならないといってごらんなさい。「メーデーをつぶしたいのか?」と言われ、政治事件ですよ。

・政治委員会の委員長が事故の翌日だか原発にやってきて、直ちに事故現場に案内してくれと要求したというんです。彼は説明される。黒鉛のかけらがごろごろしていて、放射線量が異常に高く高熱だからそこには行けませんと。「私は自分の目ですべて見ておく必要があるんだ」。彼は部下をどなりつけたんです。「夜、政治局で報告をしなきゃならんのだ」。そしてそんな時、私が言えますか?メーデーのデモ行進を取りやめようとできますか?(再び興奮し始める)新聞が書いている。住民が戸外にいるのに、われわれは地下シェルターに閉じこもっていただと!?私はこの太陽の下、壇上に2時間立っていましたぞ。なにもかぶらず、レインコートも着ずに。

・(沈黙の後で)私が犯罪者だというのなら、私の孫はなぜ…。孫は病気なんです。娘はあの春出産し、おくるみに包んだ赤ん坊を私たちのところに連れてきた。妻がいう「娘と孫を親戚に預けなくちゃ。ここからつれだしてちょうだい」。私は党地区委員会の第一書記でした。そんなことは絶対に出来んといいました。「私が、自分の娘と生まれたばかりの孫をよそに連れていけば、住民は何と思うかね?彼らはここに残っているんだ。」

・お忘れになったのですか、チェルノブイリ以前は原子力は平和な働き手と呼ばれ、われわれは原子力時代に生きていることを誇りに思っていたじゃありませんか。原子力の恐怖は記憶にありません。しかし、党の地区委員会の第一書記がどんなものだというのです。ふつうの大学を卒業したふつうの人間です。

・何か変だと感じるようになりました。われわれは核物理学研究所と契約し、土地の検査を依頼したんです。ところが、電話がかかってきた。「車を都合して、検査に出された土壌を引き取りに来てください」「御冗談を。ミンスクまで400キロもあるんですよ。土壌を引き取れっていうんですか?」思わず受話器を落としそうになりました。「まじめな話です。あなたがたのサンプルは通達に従って、放射性廃棄物埋設地に埋蔵しなくてはなりません」。いいですか?われわれはこの土壌を耕し種をまき、この土壌のうえでこの子どもたちが遊んでいるんです。

・あなたはお忘れなんですよ。当時、原子力発電所は未来だったのです。われわれは未来だったのですよ。…私は昔の人間なんです。犯罪者ではない。


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2016年12月12日 (月)

ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ 「ノルマ」

今日は3600円で気軽にロンドンのコベントガーデン歌劇場まで旅行をしてきた。演目はベッリーニ作曲の「ノルマ」。舞台はローマ帝国に占領されたガリア地方だが、インタビューで語っていた演出家も言っていたが、政治状況などが極めて現代的であるので、舞台は現代で演出されていた。つまり、帝国的な国力と軍事力を持った一国が、被占領地を支配し、被占領地の宗教や伝統といった人々の心の一番敏感なところを踏みにじる。被占領民は、卑屈な従属を受け入れるのか、誇りある独立をかけて立ち上がるのか心を迷わせる。

被占領民は森の神を信じるドルイード教徒たちというのも、時空を超えていま私たちが置かれている状況などを思い起こさせることもあったが、これは政治劇ではない。何より、ベッリーニの音楽が一分一秒のスキがなく美しい。間奏も伴奏も、もちろんすべてのアリアや合唱の旋律が。何より、主人公ノルマの苦悩と生き方が。ノルマは、被占領地の宗教団の首領だ。日本で言えば卑弥呼のように占いにたけ政治的にも自民族を率いていく。しかし、敵であるローマの総督と結ばれ、二人の子どもを設ける。そこで、彼女の女としての、母親としての、リーダーとしての、最後は、軍団長がノルマの父だとわかるので娘としての苦悩が一身に集まるのだ。ノルマは無実の若い女性に自分の罪をかぶせるような卑劣な女ではない。その気高さをソプラノのソーニャ・ヨンチェヴァが良く演じていた。彼女の凄い存在感に見とれてしまう。引き込まれてしまうとなかなかロンドンの劇場から現実の日本に帰ってくるのは難しい。

話の筋としては悲劇的な最期が待ち受けているのだが、親子の苦悩などにはつい感情移入してしまうので、涙なしには見れなかった。


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2016年12月 8日 (木)

核発電の倫理的な意味

宮城県の村井知事は、核物質で汚染された飼料用稲わらなどを、一般ごみと一緒に焼却しようとしている。私自身はこの施策に反対だ。理由は、放射性物質を拡散させることになり、健康被害が懸念されるからだ。私の対案は、まず第一に、汚染物質は発生元である東京電力核発電所に引き取ってもらいそこで管理する。第2案は、放射線の自然減衰を待ちそのまま保管することだ。「絆」を理由に、汚染地でないところに放射性物質を移動したり、拡散させたりすることは、本当の「絆」でも何でもないと私は思う。

国の施策が第一と核発電を許容・推進する立場の宮城県村井知事からすれば、私のような焼却に反対する立場の者は、核物質を不当に怖がる、科学的思考や根拠に欠けた、進歩や冨県政策に反対するどうしようもないわからずやだろう。そのどうしようもないものながら、核発電推進の論理を考える機会があったので、ここで考えてみたい。機会は「脱原発・風の会」が発行している「鳴り砂」という冊子に規制庁の核発電推進の考えが掲載されていて、それを読んだことだ。

規制委員は2016.6.29に「実用発電用原子炉にかかわる新基準の考え方」を発表した。それを要約すると、「世の中には車や飛行機など便利なものがある。便利ではあるがときに事故が起これば危険である。しかし、危険性がある程度人間によって管理でき、その危険性と便利さとを比べてみて、一応安全と考えて使っているのである。これを相対的安全性というのであり、我々の社会を支えているのはこの相対的安全性なのである。核発電所を容認するときに求められているのはこの相対的安全性なのであり、どのような異常事態が生じても放射性物質が外部に出ることは絶対にないといった達成不可能な安全ではない。核発電を再稼働するときは、社会がどの程度まで危険を容認するかを見定め、あとは専門家が判断すればよい」

立派な作文で私にはなかなかどう反論していいかわからない。核発電差し止め裁判でも、国側はこの論理でどんどん勝ちをおさめていくのだろう。同じ土俵では、反論のしようがないが、絶対に安全とは言えないもの、そして、いったん事故が起これば事故の規模も違うし、利得を受けていない者、生まれていない未来の世代の人たち、そういうものまでも傷つけてしまうことが許されるのかという、倫理的な観点からのみだろう。

ちなみにこのみやぎ脱原発・風の会で長らく中心的な役割を果たしてきた篠原さんが人権賞を受賞したことは象徴的なことだと思う。核発電は論理ではなくまさに倫理の問題なのだ。興味がある人は、ぜひ風の会の会員になってほしい。


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2016年12月 1日 (木)

外国人労働者の問題を考える

おとといの河北新報に、外国人実習生受け入れ団体が、実習生を国別の採点し、それをホームページに載せていたという記事を読み、外国人労働者問題について考えてみた。まず、実習生受け入れ制度というのがあり、時給数十円とか数百円という賃金で外国人を日本で働かせているのだ。これは現代の奴隷制度だと外国からは批判されても仕方ない。さて、そのようにしてやってくる外国人実習生を、受け入れ先の企業が、どれにしようかなと選びやすいように、くだんの受け入れ団体は、「心から弱者をいたわる気持ちがあるか」「年長者を尊重する国民性か」「学習能力が高いか」「日本に強いあこがれがあるか」などの項目で点数化し、国別で総合得点を付けていたということだ。

よく「いやなら帰れ」というヘイトスピーチがあるが、労働者不足で、この社会を成り立たせるために、外国からきてもらわなければならないのは日本の方ではないかと思う。外国人の方も、今は経済格差があり日本に行けば、正直言って金になると思うから来ているのであり、他国でもっと金を出すと言えばきっとそちらの方へ流れていくだろう。

加えて、日本に対するあこがれの気持ちを持ってきてくれる人もいるのは事実だろう。平和で豊かで民主的で自由な国というあこがれ。でも、その憧れだっていつまで続くかはわからない。10月22日付のの河北にはフィリピン人のマリエッタ・ダビドさんの記事もあった。彼女は、約4年務めた介護施設に対して未払い賃金の支払いを求め裁判で係争中だ。彼女の手取りは月7万だったという。日本人に対してこのような仕打ちをするだろうか。彼女の言葉に胸を突かれる。「ルールを守る国だと思っていたのに」。日本に行けば法律がしっかりしていて、どんな人でもその法律に守ってもらえる、そんな憧れが打ち砕かれたのだ。

外国の人にあこがれてきてもらえるようになるには、世界でどこよりも人権が守られている国、差別がない国、そういうところで堂々と胸を張って先進国だと言得てこそだと思う。


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