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2016年11月24日 (木)

チェルノブイリの祈り

スベトラーナ・アレシェービッチの「チェルノブリの祈り」。読んでいたら、地下鉄を降りる駅を乗り越してしまった。これは世界文学だ。ドストエフスキーと同じ世界が描かれている。だが勘違いしてもらっては困る。遠いロシアの地で起こった私たちとは無縁の出来事ではないのだ。まさに、私に、私たちに向かって書かれていたので、地下鉄の車内のアナウンスが聞こえてこないほど、ぼくはのめりこんでしまったのだ。

スベトラーナ・アレクシェービッチはベラルーシのジャーナリストだ。聞き書きという方法で、チェルノブイリの核発電事故を体験したたくさんの人から体験を聞き取った。体制を支えた官僚、政治家、核物理学者、医師、農民、立ち退き区域に勝手に戻り住んだ人たち、ホームレス、(健康な病気の)子どもたち、発電所の火事を消した人たち、動員された軍人、予備役兵たち、そして彼らの妻たち、300人くらいから話を聞き、そしてチェルノブイリの意味に圧倒され10年後にまとめることができたという。

なぜ、ぼくはこの多数の人たちの証言の断片が世界文学であり、ドストエフスキーだと感じたのだろうか。描かれた総体が、狂信・鈍重・体制服従・体制批判・聖性・祈り・愛による浄化・人間の罪深さ・愚かさ・純心・無垢・死・想像・罰・嘘・ためらい・逡巡・狐疑・大地・耕作・生産・戦争・歴史・運命こういったものを織りなしていたからだ。一人一人の証言は文庫本で言えばほんの1ページ前後だ。だが、全体で世界文学を作り上げている。こんな文学的手法もあったのかという新鮮な驚きも感じた。

どの部分もすべて紹介したいが、作者自身もインタビューされてその証言も載っている。

・この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブリを取り巻く世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。この未知なるもの、謎に触れた人々がどんな気持ちでいたか何を感じていたかということです。

・ひとは、あそこで自分自身のうちになにを知り、何を見抜き、何を発見したのでしょうか?自らの世界観に?この本は人々の気持ちを再現したものです。

・ここでは過去の経験は全く役に立たない。チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えてみたことがないからです。

・何かが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。何かを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。

・一人の人間によって語られる出来事はその人の運命ですが、大勢の人によって語られることはすでに歴史です。チェルノブイリは、私たちを一つの時代から別の時代へと移してしまったんです。

・何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している…

最後の引用箇所をぼくは深く受け止めた。フクシマで起こったことはこの本にすべて書かれてある。それなのに、ぼくは、ぼくたちはチェルノブイリは、技術の遅れた野蛮なソ連でこそ起きたものと思っていた。フクシマの核事故はまだ収束していない。まだフクシマの世界文学は書かれていない。さらには、センダイ、イカタ、カシワザキ、そして日本の核発電所が建設される予定のインドの地名で、また同じ苦悩が繰り返される。そのたびに人は「チェルノブイリの祈り」を引っ張り出してきて、「ああ、すべてのことはここに書かれている。私たちのことがもうすでに書かれている」と思わなくてはならないのだろうか。


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