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2016年11月28日 (月)

この世界の片隅に

こうの史代さんの「この世界の片隅に」を見た。いい映画だった。そして、昨日の日曜日、小さな映画館だったが、各回とも満員。この映画に足を運ぶ人がこんなに多いなんて、まだまだ日本も捨てたものでないと希望が湧いた

映画は戦前から戦中、戦後の広島の呉が舞台だ。呉と言えば軍港、戦艦大和の母港でもある。軍事は国事、国事は機密なので、軍港側が見える車両の窓は降ろさなくてはならない。絵をかくのが好きな主人公が港の様子をスケッチしていたら憲兵さんに捕まった。映画では詳しい説明はされていないけど、現在も同じ「秘密保護法」がある日本では、若い人にも、どうしてああいうシーンが出てくるのか知ってもらいたい。

「世界の片隅に」というタイトルも、こうのさんが描いてきた世界を表していると同時に、強い意志と抗議の力を感じた。本当はわたしたちが暮らしている、畑の隅に雑草やタンポポが生えているようなこういう世界が大事なのだし、大事にしたいのだ。主人公のすずさんも、はたからはぼんやりものと思われても、そういう世界を大事にして生きている。でも、そういう世界はいつも「中央」や「中心事」によって踏みにじられるのだ。ぼくは、そういう小さな世界の片隅の住人だし、その世界を踏みにじろうとする人たちに何とか抵抗して抗議の声を挙げたい。


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2016年11月24日 (木)

チェルノブイリの祈り

スベトラーナ・アレシェービッチの「チェルノブリの祈り」。読んでいたら、地下鉄を降りる駅を乗り越してしまった。これは世界文学だ。ドストエフスキーと同じ世界が描かれている。だが勘違いしてもらっては困る。遠いロシアの地で起こった私たちとは無縁の出来事ではないのだ。まさに、私に、私たちに向かって書かれていたので、地下鉄の車内のアナウンスが聞こえてこないほど、ぼくはのめりこんでしまったのだ。

スベトラーナ・アレクシェービッチはベラルーシのジャーナリストだ。聞き書きという方法で、チェルノブイリの核発電事故を体験したたくさんの人から体験を聞き取った。体制を支えた官僚、政治家、核物理学者、医師、農民、立ち退き区域に勝手に戻り住んだ人たち、ホームレス、(健康な病気の)子どもたち、発電所の火事を消した人たち、動員された軍人、予備役兵たち、そして彼らの妻たち、300人くらいから話を聞き、そしてチェルノブイリの意味に圧倒され10年後にまとめることができたという。

なぜ、ぼくはこの多数の人たちの証言の断片が世界文学であり、ドストエフスキーだと感じたのだろうか。描かれた総体が、狂信・鈍重・体制服従・体制批判・聖性・祈り・愛による浄化・人間の罪深さ・愚かさ・純心・無垢・死・想像・罰・嘘・ためらい・逡巡・狐疑・大地・耕作・生産・戦争・歴史・運命こういったものを織りなしていたからだ。一人一人の証言は文庫本で言えばほんの1ページ前後だ。だが、全体で世界文学を作り上げている。こんな文学的手法もあったのかという新鮮な驚きも感じた。

どの部分もすべて紹介したいが、作者自身もインタビューされてその証言も載っている。

・この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブリを取り巻く世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。この未知なるもの、謎に触れた人々がどんな気持ちでいたか何を感じていたかということです。

・ひとは、あそこで自分自身のうちになにを知り、何を見抜き、何を発見したのでしょうか?自らの世界観に?この本は人々の気持ちを再現したものです。

・ここでは過去の経験は全く役に立たない。チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えてみたことがないからです。

・何かが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。何かを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。

・一人の人間によって語られる出来事はその人の運命ですが、大勢の人によって語られることはすでに歴史です。チェルノブイリは、私たちを一つの時代から別の時代へと移してしまったんです。

・何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している…

最後の引用箇所をぼくは深く受け止めた。フクシマで起こったことはこの本にすべて書かれてある。それなのに、ぼくは、ぼくたちはチェルノブイリは、技術の遅れた野蛮なソ連でこそ起きたものと思っていた。フクシマの核事故はまだ収束していない。まだフクシマの世界文学は書かれていない。さらには、センダイ、イカタ、カシワザキ、そして日本の核発電所が建設される予定のインドの地名で、また同じ苦悩が繰り返される。そのたびに人は「チェルノブイリの祈り」を引っ張り出してきて、「ああ、すべてのことはここに書かれている。私たちのことがもうすでに書かれている」と思わなくてはならないのだろうか。


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2016年11月20日 (日)

シン・ゴジラ

「シン・ゴジラ」という映画の評判がいいらしい。子どものころ夢中になったあの「ゴジラ」かなと思いつつ、「新」となってどのように変化したゴジラなのだろうか、懐かしさからは見たいけれど、昔のイメージを壊されてがっかりするのも残念とも思いつつ、結局まだ見ないでいたところ、今日の河北新報の日曜書評欄に「草食系のための対米自立論」が掲載された。

ポイントとしては、アメリカは自国の利益しか考えていない。フクシマ核発電の事故では、「トモダチ作戦」を展開しつつも日本国家の喪失も想定した非情な国家利益優先姿勢が、日本国民の米国への疑心暗鬼を生み、有事の際の自主自立を描いた映画「シン・ゴジラ」の大ヒットを生んだ、というものだ。なるほど、「シン・ゴジラ」について記者から質問された菅官房長官が憮然としていたのはそういうわけだったのかと、つながりが見えてきた。

自国の利益を最優先する、それは当然である。それが『愛国心』というものだろう。しかし、それが朋友関係や人間関係の中で本当に信頼すべき友となるかは別だ。私たち東洋には孔子や孟子がいて、そういう人倫関係を一生懸命考え実行し、それに感銘を受けた弟子や後世の者たちがそれを綿々と伝えてきた。自国の利益のみを最優先する西洋流の外交や考えが、世界にどこまで通用するのだろうか。そしてそんなアメリカに身も心も委ねきることは本当にできるのだろうか。日本国の利益第一を考える愛国者であれば、むしろアメリカにすべてを奉げるよりも、二股、三つ股かけて、中国やロシア、韓国・北朝鮮ともうまくやり、最終的に日本の伝統文化や自立を守るべきではないかと考えてしまう。

自民党の安倍首相はロシアプーチン大統領との会談を山口県で開くという。愛国者の安倍さんの頭には、当然山口県=長州の偉人吉田松陰があることだろう。維新の大功労者松陰には、中国の孟子がいなければ松下村塾も革命的思想も両方生まれなかっただろう。そしてアメリカがいなかったら、獄中で死ぬこともなかっただろう。松陰を突き動かしたのは、アメリカの脅威、つまり東洋的な道徳的力よりもはるかに強力に見える黒船に代表される科学的軍事力を備えたアメリカだった。彼の後半生はこの強大なアメリカにどう対抗するかを考えることに費やされた。それが、朝鮮や満州の獲得構想につながったとしても、当時の時代状況の中でアメリカの強大な脅威に対してどうやって国の存続と自立を達成するかの彼なりの構想だったわけだ。

そのアメリカに対して、いま盲目的に従属し、美しい沖縄の自然を差し出し、国民の自立した安全な生活がアメリカの私企業によって好きなままに支配される通商条約に進んで国民を差し出そうとしている。自国の国益を売り、他国に貢献する行為に思えてならない。そこまでして他国に尽くすのは、見返りがその人たちだけにあるから、つまり他国の代理人=エージェントという説もあながち荒唐無稽なネット上の噂話でないと思えてくる。


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2016年11月17日 (木)

トリスタンとイゾルデ

ニューヨークメトロポリタン歌劇場の新しいシーズンが始まった。その第1弾がワーグナーのトリスタンとイゾルデ。ワーグナーの楽劇はいつか見たいと思っていたが、ついに念願がかなった。何しろ長時間公演なので見る機会もなかったが、この5時間は本当に見ごたえがあった。ラストはイゾルデがあの有名な「愛の死」の無限旋律を歌うのだが、この部分だけをつまみ食い的に聞いたのではやはりだめなのだ。そこに至るまでの5時間があってこその、悲劇的な大破局なのだ。

台本はアイルランドの姫イゾルデが婚約者を殺した男トリスタンを愛するという話だ。加害者の男を愛するなんて非常に現代的なテーマにもつながるのかと思ったが、愛することになるきっかけは魔法の妙薬。ケルト文化を持つアイルランドが不思議な魔法の国と思われていたことから生まれたのだろうか。内容はとても中世的な話で、ヨーロッパが近代化する前には、「暗黒」の中性が近代化がたかが100年足らずの歴史に対して、2000年近くの厚みを持った重層をなしているヨーロッパ史が反映したものだろうか。しかし、その中世的な内容を、演出がシュールに近代的に描いている。メトロポリタン歌劇場の、現代の観客に訴えるオペラという方針も感じられる。

内容は3幕。どの幕も長大でじっくり歌って聞かせるが、やはり最後の破局に至るには全部必要なんだなと思う。「愛の死」のテーマが何度も登場するし、やはりワーグナーの音楽はいいなと思う。映画では俗人に描かれることも多いワーグナーだが、同時代人もその音楽の才能にほれ込んだのだろう。イゾルデ役のニーナ・ステンメが素晴らしかった。オペラの最高の舞台に選ばれる、ということはスーパースターだ。スーパースターは人をうならせるものをやはり持っている。
ちなみにニューヨークまでの飛行機代も現地滞在費もかからない。映画館で観れるライブ・ビューイングが公開中なので、それを見に行く。


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2016年11月10日 (木)

2番じゃダメですか

次期アメリカ大統領にトランプ氏は決まった。日本でも大きな関心を持って報じられたのは、日本の運命は日本自身で決められず、宗主国のアメリカにかかっているというのが私たちにも本能的にわかっているからだろう。

トランプ氏が選挙中に述べていた公約が本当に実現したら?ぼくは勝手な想像をしてみる。1つは、同盟国に対する費用負担増だ。歴史に興味があるぼくは、ローマ帝国時代を思い出す。帝国の皇帝の役目は、ローマ市民に「パンとサーカス」を提供することだ。それによって市民の支持を取り付けられたが、負担は属州が担った。負担に耐えかねた属州では反乱が起こるようになり、ローマ帝国はやがて衰退分裂に向かった。永遠に続くとおもわれた「ローマの平和」も続かなかった。「アメリカの平和」にも陰りが出て世界情勢の流動化のきっかけになるのだろうか。

2つ目は、駐留軍の撤退だ。これをチャンスととらえて結党以来の悲願を達成するチャンスにするという日本側の対応もあるのではないだろうか。アメリカ軍がいなくなれば、その空白を埋め合わせるためにすることは、すなわち、国防軍の創設、および核武装、および憲法改正だ。歴史に名を残す偉大な政治家に変貌しつつある安倍総理の本心はどうなのだろうか。

さて、ぼく個人は日本の核武装にも国防軍の創設にも反対しているので、ここからは非国民的な夢想を述べる。アメリカがこの地域にいなくなった後、軍備力強化なんていう道に走りお金をつかって国民生活を窮乏させるよりは、中国や韓国・北朝鮮と仲良くなってはだめなのだろうか。(もちろん、独裁国家や共産国家とは無理という意見が日本では大半だということは理解できるのだが)。

その昔、冊封(さっぷう)制度というのが東アジアにはあった。中国を頂点とする国際秩序で、日本はその中で韓国と同等か、3番目くらいの地位にいた。この制度は中国を1番に立てなければいけないが、そこは東アジアらしい建前だけの話で、日本からあいさつに行けば、その何百倍ものお土産を持たせて返してくれる、日本にとっては実益の上がる制度だったのだ。お互いに軍事的緊張をするよりは、冊封(さっぷう)制度に入っていれば、無駄な軍拡競争などしなくていいし、その分民生や福祉・医療に必要なお金を回せる。

もちろんこれは中国王朝が、黄金の安定期で余裕がないとダメな話ではあるが、軍備増強して核武装して一番でいようとするよりも、2番、3番に甘んじても、国民が幸せに暮らせれば、ぼくはそれでいいのかなと思う。これから日本は、下り坂だ。高度経済成長時代に作ったインフラすら、自国民では維持することができず、道路のあちこちに穴があき、橋や鉄道も古くなっていく。自然災害はこの先も日本列島に来るだろうし、「想定外」という名の「人災」が子供や孫たちに負担や処理を迫るだろう。冊封(さっぷう)体制に入り、資金や人材を受け入れて、問題を処理しつつそれなりに生きていく道も、ないことはないと考える。


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2016年11月 6日 (日)

生活保護の是非をめぐる論点

弱者をやり玉に挙げて、自国民のプライドをくすぐり、とかく勇ましい発言をして大衆的人気を博する政治家が世界中で出ている現象というのは、何か根底に共通するものがあるのかもしれない。宗主国アメリカでトランプ氏が大統領になればどれだけの貢物をしなければいけないのか、少し恐ろしい気がする。さて、生活保護費を削れという主張は、民衆に迎合されやすく日本のポピュリストトといわれれる政治家が、大衆の支持を集めてきた手法の一部である。大衆も「自由主義」「市場万能主義」が大好きだ。「生活保護」をめぐる論点整理に役立つ記事の切り抜きを取ってあったので、要約してみる。(2016年6月29日付「河北新報」より)

きっかけ…2015年12月、大分県内の自治体が、生活保護受給者がパチンコ店に通っていたことを理由に保護を一時停止する処分をした。国の指導もあり、自治体はこの措置を中止しているが、自治体当局にはよくぞやってくれたという市民から多数の「激励」が寄せられている。

反対の論点…
・パチンコをやっているだけで受給停止は法的根拠がなく、不適切。
・パチンコ店の利用は市民として日常的な行動で、自由を制限する不合理な差別。
・生活保護受給者だからと言って日常生活を見張られ行動を制限されることもおかしい。
・保護費の使い方は自由。生活を節約して残ったお金で遊ぶのは自由。
・生活保護なんだから、映画は行くな、肉は食べるなとエスカレートしそう。
・生活保護だからと言って人権を制限したりすれば、受給停止処分を自治体が恣意的に行えば、必要な人が生活保護を受けられなくなる。
・必要な人に生活保護がいきわたらなければ、窃盗・強盗・自殺などが出かねず、結果的に社会が不安定になる。
・受給者がパチンコに行くのは、孤独でそこしか場所がないという面があり、そうした事情も考えるべきだ。
・年金や児童手当にも税金が投入されているのだから、受給停止措置は制限する対象が際限なく広がりかねない。

賛成の論点…
・生活保護を受けている人がパチンコなんてもってのほか。
・パチンコに行くなら働け。
・生活保護受給者が受け取る金の原資は税金で、そのお金をパチンコなどに使われるのはたまったものではない。
・生活保護法の規定に「受給者は常に能力に応じて勤労に励み、生活の維持向上に努めなければならない」とある。
・生活保護は財源が税金だから、人権を制限してもよい。

記事では、反対の論点がやや多く紹介されていたので、このようにややアンバランスになった。後は自分で考え、自分で決めて、自分で行動できる民主主義社会の成員がこの論点をさらに考えていくべきだろう。


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2016年11月 3日 (木)

スポーツで学べること

体育を大学で学ぼうとする人たちの入学試験に小論文が課されることがある。スポーツに関する小論文をいざ学ぼうとしても、なかなか素材がなくて困る。もともとスポーツが好きな人が受験するのだろうし自分でもスポーツをしてきた経験がある人が多いが、自分の経験だけで何かを言おうと思えば、いわゆる「経験論」となりそれが普遍的な意義を持つかは判断しずらい。素材がなくて困っている人に河北新報10月17日付の元陸上選手の為末大氏が書いた論考をまとめてみる。

氏はスポーツでは「潜在的な自分」を扱える選手が強く、メダリストとはそういう人だと述べ、潜在的な自分=自分が知らない自分について考えていく。そのきっかけは、こういう実験だ。生理学者のベンジャミン・リベット氏が人間の意思決定に関する実験を行った。手を動かすタイミングと、動かそうと意図したタイミングのずれは0.2秒である。当然意図して、そして動くという順序である。しかし、その意図する前0.3秒に、脳で準備電位が測定されることから、為末氏は「脳の中に自分の知らない自分がいる」、と考えるようになった。

スポーツと「自分の知らない自分」との関係はどうだろうか。例えば、運動の練習をしていて、今日は気分がのらなくて練習に行きたくないなと考えることはよくある。しかし、家でそう考えていても、実際に練習場に行ったときには別の気分になることもある。だからスポーツとはまずやってみることであり、いまの自分がずっとそうである自分でないことをスポーツを通して知ることができる。

またスポーツではコントロールできないものは考えず、コントロールできるものに意識を向けるという考え方をする。しかし、実際人間は意識していない周りの環境に知らないうちに影響を受けていて、その具体例として日本人の歩き方とアメリカ人の歩き方の違いを為末氏は指摘している。歩き阿多というのも無意識的に集団から影響を受けるのだそうだ。(これは海外から帰ってきたとき日本人が整然とまるで何かに操られるように歩いていてショックを受けた、ぼく自身の経験とも一致する)。そこで、自分の知らない自分に出会う方法の一つとして成長するスポーツ選手は、少し高めの環境に身を置き、適応することで自らを成長させていくという。

さて、スポーツを通しての見知らぬ自分との付き合い方、小論文や自分の思考の参考になったでしょうか。


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