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2016年10月27日 (木)

自民党の強さの秘密

小学校の道徳の教科書で読んでなぜか忘れられない話がある。幕末の話だ。文明開化に向かう時期、明治政府は西洋から郵便制度を導入しようとする。しかし、それを飛脚たちが反対する。自分たちの仕事を奪われるからだ。逓信省の大臣(初代大臣だと前島密だったのだろうか)と飛脚組合の代表の話し合いがもたれる。大臣は、飛脚の代表に、諄々と近代化が国民全体の利益になると説き聞かせ、ついに飛脚代表も納得して、大臣の前にちょんまげを切り置く。という話だ。

この話のモラルは何か、政府が小学生に刷り込もうとしたことは何であったか忘れてしまったが、全体の、大きな、未来の幸福や大義のためには、個人的な利害は顧みないということだろう。世の中全体の利益を阻害してまで、個人的な利得に縋りつくのは潔いことではないという話なのだろう。

今の日本は過渡期だ。大きな力を持っていたが時代から必要とされなくなろうとしているものがいくつかある。そういうものの一つに大企業の労組を中心とした昔ながらの労働運動とそれを背景にする政党があるのではないだろうか。もちろん、労働者の権利や福祉を守る労働組合は必要だ。だが、自分たちの既得権利だけを守りそこから漏れている労働者たちや世の中の問題には目が届かない組合では、進歩に抗する抵抗勢力だ。自民党が政治の世界で安定した勢力でいられる大きな要因のひとつが、こうした組合と政党の存在だ。


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2016年10月20日 (木)

上田紀行氏の論考「ノーベル賞の陰に」

河北新聞10月18日付の上田紀行氏の論考は、2つのことを指摘していて考えさせられたので、紹介したい。

1つはノーベル賞を受賞した大隅氏が指摘した日本の基礎研究離れだ。大隅氏は近年の科学研究と支援の在り方に警鐘を鳴らし、現在政府からは「役に立つ」研究ばかり求められ、将来を見据え長期的に科学をサポートしてほしいと訴えた。上田氏は、この背景に政府が昔のように大学に予算を出さず、競争の名のもとに、研究資金獲得をやらせ、その結果短期的にすぐ効果が上がる研究ばかりが多くなったという背景を指摘している。ノーベル賞受賞で日の目を見る研究というのは、20年、30年前に小さな芽を出しそれをコツコツやってきた人がいるからこそだ。科学や研究の在り方は、我々国民は主権者としてどのようにお金が使われれば納得するのか、全員が考える義務があるのではないだろうか。

もうひとつの指摘は、その研究を支える大学がいま、地元の出身の若者しか入らなくなっていてそれを危惧しているというものだ。これはどういうことかというと、地方の大学などでは、卒業後、地元で教員や公務員になるため、地元志向の強い子が地元の大学に進むということは昔からあった。だが、東京の大学というのは、東京へのあこがれもあって全国から様々な背景を持った若者たちが集まっていた。しかし、いま東京の国立や私立の著名大学では、首都圏出身の若者の占有率が増えていて、首都圏の進学校出身者のための大学になっているということを上田氏は指摘している。

ここにどういう問題点があるか?未知への憧れが真理の探求を支えていたが、その未知へのあこがれが消え、自分の地域から出ないのであれば、社会を支える根源的な活力である個々人のインスピレーションが枯渇するのではないかという。こういう固定された日本の教育ではダイナミズムがないのは明らかだ。生まれ育った地域を離れて学ぼうとする学生を支援すべきだと上田氏は言う。

この東京の大学には首都圏の若者しか行けないという現象の背景にはもちろん経済格差の進行など日本の社会の現状が反映されているだろう。上田氏の指摘は非常に示唆に富んでいると考えた。上田氏は2つの指摘をまとめて「基礎研究をおろそかにしては科学の発展はなく、社会の基礎となる教育をないがしろにしては私たちの未来はない。短期的な利得にとらわれず、真理への憧れを育てる息の長い視野を持つこと」と結んでいる。

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2016年10月16日 (日)

維持する力 その2

既成を維持する力に貢献しているものとして、やはり大きいのは「教育」だ。教育は、今ある枠組みを疑ってはいけないと教えていて、これも日本の現状維持、何も変わらない日本の維持に役立ち、結果的に政治の世界では、地方をはじめ中央でも自民党政治という長年の既成勢力が4分の3以上の絶対的支配をほとんど達成するのに大いに役立っている。枠組みを疑わないおとなしい国民なので、彼らは何をやっても許されるのだ。

そんなふうに考えたのは、10月4日付けの河北新報に掲載された演出家の鴻上尚史さんの「枠組みを疑う」という随想を読んだからだ。鴻上さんは演劇関係の仕事をしていて、昔の演劇人はハチャメチャな人が多く、よい意味でも悪い意味でも「自分が普通であること」を激しく嫌悪する若者が多くいたと書いていた。

今の若者の特徴をエピソードを挙げて説明している。その一つは、芝居で使う釣竿を若いスタッフが100円ショップで手に入れてきた。テープをまいて芝居にふさわしい外見にしたのはいいが、芝居で使うのに使い勝手がいまいちよくない。どうしたものかと悩んでいる若いスタッフに、鴻上さんが「短く切ったら」とアドバイスをしたら、「そんなことをしていいんですか?」という反応が返ってきた。

もう一つのエピソード。芝居では装置や小道具を置く場所を正しくするために印をつける。東京公演の後で地方公演をするときにも、東京でしたのと同じ位置に印をつけようと必死になる。鴻上さんいわく。東京公演でふさわしい位置であっても地方の劇場ではそれぞれにふさわしい新しい位置が生じるはずなのに。

これらのエピソードから鴻上さんは、最近の若いスタッフは「枠組み全体」を疑うという思考をほとんどしないと指摘する。彼らは与えられた「枠組み」は当然の前提で、それをまじめに受け入れたうえで、その中で自分が何ができるかを考えているようだという。そこから鴻上さんは、枠組み自体を1回も問わないまま前提を受け入れて思考する生徒が正しい生徒だと学校で教えられ続けてきたからそうなったと想像する。もちろん表現のためには、面白くもなく陳腐なものしか出来上がらない。

もちろんこういう若者を批判する権利はぼくにもほかの誰にもない。そういう若者を育ててきたのは、ぼくをはじめ大人たちで、一番反省すべき悪いのは大人だろう。枠組みを疑わない若者たちの間で安倍首相や自民党の人気は当然高い。

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2016年10月13日 (木)

維持する力

この前、池上彰さんの番組を見ていてふと思ったこと。池上さんは、政治や経済のニュースの背景などわかりやすく解説してくれる。そのなかで、「日本のマスコミは選挙中は選挙の報道は控える」ことや「源泉徴収」の仕組みや歴史についての話が出ていた。この話を聞いていて日ごろ疑問に思っていた、自民党や安倍政権はなぜ地方でも中央でも国民から多くの支持を集めているのか、他の政治的勢力を寄せ付けないほどなぜこれほどまでに強いのかという疑問の答えの一端が少しわかった気がした。

良くも悪くも日本人気質ということもあるだろうが、日本人は変化を好まないし、現状維持を望み、昔からそこにある既成のものを尊重する。自民党が何かわけがあって強いと言うよりも、もしかしたらすでにそこにある既成のものという点が、保守的な国民気質に合っているのかもしれない。もちろん、その永遠の現状が長く続くようにしている現在の要因は、公平という名のもとに選挙中はなるべく選挙の話題に触れないようにして、何が問題であるかということに国民の関心が向かないようにするマスコミの報道姿勢も寄与しているのだろう。

もう一つ、永遠に選挙で自民党を勝ち続けるようにさせているのは「源泉徴収制度」だ。池上さんも番組で言っていたが、給与から自動的に税金を徴収するこの仕組みでは納税者意識は育たない。税金を納めて、主権者である自分たちの代わりに政治を行うよう委託しているのだという主権者意識も育たないだろう。番組で初めて知ったのだが、既成勢力に便利なこの制度は、日本がアメリカや中国などと戦争している1940年代に戦費を確実に徴収するために始めた制度で、ドイツに学んだやり方なのだそうだ。確か、「ナチスに学べ」というのをモットーとしている政党もあった。

私の場合、非正規国民なので、この源泉徴収制度はとっていない。確定申告制度で、1年間の自分の収入を把握して税務署に申告し、その中から税金を自分で納めに行く。今月は宮城県の市県民税を納めなくてはならない月だ。他県と比べるだけの資料が手元にないが、感覚的には宮城県の市県民税はとても高い気がする。だから、自分が納めた税金の中から、議員さんが「妻のためにマッサージチェアを買ってあげる」「愛人が住むマンション代を払ってあげる」「親族企業に1200万円分パソコンを発注する」という案件については、もう少し税金の使い方に敏感な人を自分たちの代表として代わりに選出したいという気になる。女の人を愛する気持ちは大いに敬意を表したいと思うが。

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2016年10月 6日 (木)

愛は技能

ふと仕事中に思ったこと。英文を読んでもらってartというところを解釈させるところを出題したのだが、ほとんどの学生が「芸術」と解していた。可算名詞だから本当は「技術、技能」と解すべきなのだが。(文脈からもそう解せるのだが)。私が受験勉強した数十年前のときは、ラッセルなどの教養人が書いた人生論のようなものをたくさん読ませられ、artが可算名詞の時と不可算名詞の時に意味を変えるのは受験生の常識ともいえることだったが、考えてみるといま学生が読まなくてはいけない文章はそういう教養とか人生論ではなく、現実社会に即した様々な分野の話題で、これはこれで教えている自分まで大変啓発されるのだが、artなんていう言葉は確かにめったに出会うものではない。だから今の学生は見たこともないし知る機会もなかったのかなと思ったりした。

英文の出典はユングが書いた愛をめぐる考察だ。ユングは、愛は技能の一種であってだから努力も必要であるし、学ぶこともできると言っているのだ。古い本からの出典だなと思いきや、実はこれ大学入試では結構人気があって、いまでも複数の大学でしばしば出題されているのだ。大学の先生も自分が若いころ読んで感銘を受け、ぜひ若い人にも読んでほしいと思っているからだろうか。今度の授業で、精神分析の始祖はフロイトで、その親分から右派と左派が分かれて、政治じゃないのに左右に分かれるなんてフロイトはどれだけすごいんだろうということや、そのフロイトからたもとを分かったのがユングだよと教えてやろう。そしてフロイトやユングくらいは読んでおきなよ、と偉そうに言ってみようと思う。

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