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2016年9月30日 (金)

英語学習は早いほど良いのか

表題は岩波新書から出ているバトラー後藤裕子氏が書いた研究書だ(正確にはこれまでの研究を一般読者のためにわかりやすく整理、紹介してくれて、政治家や官僚が一生懸命になって推し進めている英語の早期教育、― 政治家ばかりでなく保護者や押しなべて世の中全般 ― が果たして科学的・学問的にどのような根拠があるのかを検討し、読者自身が考えてみてほしいという書だ)

ぼくは英語の早期教育ということに関心があってこれを購買したのではなく、第2言語学習において教える立場として参考になるべきことはないかと思ってのことだ。というのも、私自身外国語や日本語を教えていて、結局昔ながらの「読書百遍意おのずから通る」という教育も真実だと思う半面、科学的根拠のある効率的な学習法で学生を指導してあげられないかと思っているからだ。だいたい語学学習は、自分の成功体験をもって絶対として、こういう学習法がいいと勧めがちだが、果たしてそれはほかの人にも当てはまるのか。ぼく自身も読解の授業で学生から質問されて「それは文脈から判断できる」とか「たくさん読めばわかるようになる」と答えてしまうことがあるが、そしてそれは反面真実なのであるが、本人がたくさん読んでわかるようになるのであれば、自主学習が一番であり、指導者なんていらないのではないだろうか。そんな問題意識で改めて言語習得について勉強しているところだ。

さて、本書を読んで興味深く感じたのは、実はそういう問題意識とは全く関係ないところだ。筆者も本筋とは関係なくさりげなく書いたところだと思う。本文37ページに「若い日本人女性の声は、英語、スウェーデン語、オランダ語をを話す女性と比べると、ずっと高い」とあったところだ。というのも、この頃年のせいか、若い女性の声が聞こえづらいなと思っていたところだったからだ。ご存知のように、人間は年を取ると鼓膜が固くなりあまりうまく振動しなくなる。だからお年寄りは耳が悪い。若い人は様々な周波数の音を聞き取れる柔軟な耳を持っている。自分が、若い女性の声が聞きづらいと思っていたのは、年のせいだけでなく、本当に日本人の若い女性の声はピッチが高かったのだと、妙に納得したのだ。

日本語はそもそも男女の声のピッチの差がほかの言語圏と比べて大変高いのだそうだ。そしてこれは日本社会の中で高い声が「女性らしさ」の象徴として認識されているからだという学説を紹介していた。ぼくも経験的に、外国旅行をした時、日本人女性が年よりも若く、悪く言えば幼くみられていること、kawaiiとみられていることを知っている。おそらく、日本社会が彼女たちに可愛く見えるような圧力を知らず知らずのうちにかけていて、彼女たちはそれに適応しているのだろう。そして、きっとフェミニストによれば、こうして日本女性の自立は妨げられ、女性の地位は低いということになるのだろう。最後は、ぼくの憶測で書いたが、今社会科学系の研究でも、自然科学と同じように適切に実験環境を整えてあげれば、きちんとしたデータが取れて、イデオロギーにとらわれた偏った研究になることは少ない。女性の声が高いかどうかは機械で計れるのだから、自然科学と同じく観察結果を出発点とできる。そのあと結果をどう解釈するかはまた別の問題になるのだろうが。

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2016年9月27日 (火)

自衛隊員に敬意を

安倍首相が国会で所信表明演説中に、「自衛隊員に敬意を」と呼びかけ、全員総立ちで拍手で賛同した。国民の3分の2以上の支持を集めた政権与党のこの行動に対し、こんなふうに言論の自由が許されているうちに少し感じたことをメモしておく。

お国のために頑張る軍人さんをほめたたえるという志向や雰囲気には違和感を覚える。もちろん、自衛隊員は国家のために頑張っておられる。それを否定するつもりはない。だが、国家のために頑張っているのは、彼ら・彼女たちだけでなく、普通の我々が当たり前に働いたり勉強したりしていることだって直接的ではないにせよこの国を支えていることになるだろうし、外国で非軍事的な平和活動に携わっている非政府組織の人たちや、もしくは文化活動に携わり民族や国家間の友好関係を作り出そうとしている人たちだって長い目で見て日本国国家に尽くし国民のために頑張っていると思うのだが、そういう人たちの存在には目を向けず、軍事関係だけを重視するのは違和感がある。

軍を礼賛し軍神を作り出す。もしこんな雰囲気が世を覆い誰も違和感を口に出せなくなった時、もし外国での軍事行動で自衛隊員が負傷したり死亡することがあればどうなるだろう。軍神の母は、「息子を外国にいかせたくなかった」「私の息子を返してくれ」なんて口に出すこともできなくなるだろう。軍関係者だけが偉くなり絶対視されるようになれば、逆に「ひきこもり」や「病人」のような国家有為の人材ではない人たちのような人はこの社会でどのように暮らしていけばいいのだろうか。と、そんなことを感じた少数意見の持ち主であった。

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2016年9月25日 (日)

読書感想文マニュアル論争

高校生に文章を「書く」ことを教える仕事をしている関係で9月23日付朝日新聞の「読書感想文マニュアル論争」に興味を持った。小学校の長期休みでよく出た宿題、読書感想文を書く。もちろん全国にはこの宿題を大変苦手に思っている生徒たちも多い。そこで、読書感想文の書き方を「マニュアル化」して配った学校が現れたところ、文章を書くことのマニュアル化をめぐって論争が起きたということを紹介し、読者の反応をまとめたものだ。

読書感想文については、私自身も、実にいやな宿題だったという思いがある。読書は楽しい。でも楽しいままで終わればいいのに、なぜまたさらにその感想を書くかなくちゃならないのだろう。小学生の頃、漠然とそう思っていたような気がする。その後、大野進さんの「日本語練習帳」(岩波新書)が大ヒットし日本語ブームが起きた。ぼくも仕事がらその本を読んでみて、大野さんが「読書感想文」に対してものすごく批判的であり、感想文はやめて「要約」をさせた方がよい、その方が読解力も上がるというのを読んで、なるほどと共感していた。大野さんによれば、大学で「要約」の授業をやると学生たちも生き生きと取り組み、その後大変力がついたと感謝されるという。ぼくはこれを読んで、その後はもっぱら学生たちには「要約」を勉強法として勧めている。

ただぼくは、書くのが苦手な生徒さんに対しては「型」を覚えるのも悪くないと勧めている。何も書けないよりもまずは型に沿っていれば書けるからだし、内容は後から力を付けていけば充実させることができるからだ。もちろん、これは当の生徒さんの状況や実力にもよるので、それこそ一律の「型」にはまった指導はできないと思うが。

さて「朝日」から賛否の論点を求めてみると、
・賛成派…「いやいや書かされているよりは、マニュアルを整備して、制限された状況で伝えるべきことを文章化する訓練として感想文をとらえた方が有益」「多くの子どもが苦手意識を持っているので、型を教えるのは安心して書くために必要」「型にそって書けば画一化するが、子どもが本を読み自分の力で書いたことをまず評価すべき」「まず書いてみて、それを出発点として、その後書き方の工夫をすればよい」

・反対派…「課題を表面的に処理し、形だけ整った文章を書く弊害をあとに残す」「小学校から高校まで、書くことをもっと系統的に学ばせるべき」「目先に要求に負けてマニュアル化するのは、現代の教育に共通する問題点」「マニュアルの必要はないが、子どもに「書き方」は教えるべき」

・感想文を課すこと自体に反対…「本を読み終えた後の余韻を味わうのが楽しいのに、感想文で結論を急がせる必要はない」「どうしても感想文を課すのであれば、他人と同じにならないように感想文を書いてくることと指示を出し、他者の感想と比べて、発想に違いを学ばせるとよい」

さて、あなたはどっち?

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2016年9月18日 (日)

君死に給うことなかれ

青森県の自衛隊がいよいよ南スーダンに派遣されようとしている。自衛隊、特に東北の若者は、あの震災の経験から災害援助のために国民に尽くす自衛隊員の姿を見て、あこがれの自衛隊員になろうと志したものが多い。だが、自分とは縁もゆかりもない国に、自分の意志とは無関係に上官の命令1つで行かされ、まったく今まで知りもしなかった人たちとやむを得ず殺し殺されるという関係になろうとは夢にも思っていなかったはずだ。

この東北の若者が置かれる状況にどんな大義があるというのだろうか。戦前の軍国主義体制にあこがれる政治家たちの自己満足や自己陶酔なのだとしたら、それを他人に押し付けるのは許されることなのだろうか。宮城県出身の桜井議員が国会で安倍さんの著書を見て安倍さんが「若者の血を流す」「血を奉げる」という思想の持ち主だということを指摘した。親が大事に育てた他人の息子の命を勝手に奉げることが許されるのだろうか。

核発電所の事故では、被害者の東北人にかん口令及び自主規制が敷かれ、自分たち自身が声を上げることは出来なかったし、今もできない状況に置かれている。今、自衛隊員の家族たちも非常に苦しい立場に置かれている。絶対に、南スーダン派遣問題については発言できないことになっている。父母たちに代わって、非国民、弱虫と言われようと、「君死に給うことなかれ」と声を挙げたいと思う。

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2016年9月15日 (木)

服従

今の日本ではリベラルの評判がすこぶる悪い。それはなぜかと考えていたら、河北新報日曜日の書評欄に脳学者の中野信子氏が、ミシェル・ウエルベックの「服従」について書いた書評に出会った。

「服従」は極めて衝撃的な作品として話題になったので知っている人も多いだろう。ストーリーは、フランスで極右政権が誕生する。しかしその後にイスラム政権が誕生するというストーリーの近未来小説である。空想小説でありながら、移民排斥を叫び国民の人気を得て政権を奪取する極右政党や、増え続けるイスラム圏の移民という現実が実際に存在するだけに、「服従」のストーリーは決して荒唐無稽なものでなく、将来ごくごくあり得る現実の未来という気がする。

そして中野氏が注目しているのは、この小説の中で、イスラム政権下で、イスラム教に改宗した学者が登場し、『O譲の物語』を引用しながら、自己による意思決定を放棄し、巨大な存在の意志に服従する甘美な喜びを語っているところだ。中野氏は、「服従」の作者が学者がいかに世の中に迎合していくかを皮肉を込めて書いているその描写を称賛し、日本でも現に見慣れた光景だと指摘する。

脳科学者らしい中野氏の指摘は、服従することは実は「脳」にとっても快感だということだ。人間の脳は「信じる方が気持ちがいい」ように出来ているのだという。人間の脳は自分で判断を行うことが負担で、それを苦痛に感じるという特徴を持っているのだという。なるほど、誰か強いリーダーがいて外に敵を作り勇ましい発言をすればするほど、人は考えなくなりリーダーに引きずられていくというわけだ。アメリカでトランプ大統領の誕生という可能性も出てきたし、フランスやヨーロッパでも「極右」は伸びているし、日本でも世界的な潮流から変わりはない。

左のリベラルは、個人の自由や個人の選択を重んじ、右は、個人の意思を放棄し強いリーダーシップの中に包摂されてその中で幸福を感じる。戦後の日本では「個人の自由」や「個人の尊厳」などとんでもないものをアメリカから押し付けられたが、こういうものを放棄し、女は男に、家族は家長に、国民は首領にまとめられるのが理想の日本国憲法だというのが、自民党改憲草案だ。国民も自分で決めるのは疲れるので全部リーダー1人に決めてもらいたいわけだ。そこには脳科学的には、個人の判断を放棄して服従する脳の快感があったわけだ。これでは、こんな時代に「自由」だとか「個人の尊厳」だとか「多様性」だとかを主張するリベラル派が不人気なわけだ。

 
『服従』という小説の怖さは、極右政権の後に宗教政権が来るとしていることだ。これは本当にフランスだけの話ではない。強いリーダーが倒れた後で、宗教政権が誕生し、宗教団体の教祖や会長のお言葉に国民全体が、喜悦して絶対服従の喜びに浸る時代が来ないとも限らない。中野氏はこう書評を結ぶ。「信じたいという人間の認知のセキュリティーホールを巧みについて、誰が勝者となるのだろうか」(つまり誰が、どのリーダーが大衆に一番巧みに訴えかけて、次世代の世界を、日本を支配しようとしているのか、ということだ)

ミシェル・ウェルベックの『服従』、わたしの読みたいリストに入れておこう。

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2016年9月11日 (日)

困窮発言に批判

河北新報9月5日付の記事の切り抜きをとってある。概要はこうだ。NHKのニュースが子供の貧困問題を取り扱った。番組の中で女子高生が自分の困窮体験を語り、経済的理由で進学をあきらめたという厳しい生活ぶりを紹介した。だが番組の放送後、「本当に貧困なのか」「趣味をあきらめたら進学できたのでは」という書き込みがインターネットに流れ始め、本人の個人情報を暴露して中傷する者まで現れた。

河北の記事では、こうした反応に対する反応まで拾っており、奨学金を借りて東京都内の私立大学に通う学生の「貧困だと、文化的にも精神的にも豊かになることを許されないのですか」「奨学金で学校に行くなら、勉強とアルバイトだけしていればいい、サークルに入らず、身なりを気にせず、目の前のことを精いっぱいやっていろと言われているのと同じ」という声を紹介している。

そして識者の解説として、この問題の背後には貧困に「絶対的貧困」と「相対的貧困」の2種類があり、日本では飢餓線上の絶対的貧困は少なく、社会の平均的な水準と相対比較したときの「相対的貧困」が多く、この「相対的貧困」が理解されていないために冒頭の女子高生への攻撃がおきたという趣旨のことを載せている。

わたしも教材を作るため日本の貧困問題について少し調べてみたことがあるが、日本では子供の相対的貧困率は6人に1人の割合で、立派な貧困大国なのだ。いわゆる先進国と言われている国の中ではアメリカに次ぐ第2位の高率で、本来ならば自慢できる数字ではないが、アメリカも日本も自己責任に基づく自由経済を重視する国である。そして国民も政策や政権を強く支持するのであれば、貧困問題の解決はこのまま自己責任に任せられ甘えている人間はネットで攻撃される、ということだろう。
橋下さんや安倍さんや自民党が人気を博し国民の強い支持を獲得してきた流れを振り返ってみると「生活保護受給問題」がある。不正受給は絶対に許さないという正義が、国民の共感と特にインターネット上からは強い支持を得、人気を博してきた。いま国民は強さや正義にあこがれ、不正や弱者には容赦しない。これほどまでに、「リベラル(自由・平等・博愛)」や知性が胡散臭い目で見られ見捨てられている時もない。(自分はその時代に生きたわけではなく体験していないので知らないが、あえて言うならやはりヒトラーが政権を取ろうとして破竹の勢いで国民の支持を得ていた時代に近いのだろうか)。人の話は聞かず、自分の思い込みを力強く、何度も繰り返せばそれが、国民の心に響く。ネット上では喝さいを浴びる。知的な論考などは、スピード感のないたわごと、現実味のない一蹴すべきこと。後世の歴史家は、この時代を振り返ってどのように時代描写するのだろうか。

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2016年9月 8日 (木)

『言語の脳科学』(酒井邦嘉)中公新書

興味ある言語学の分野で研究を兼ねて読んだ本。忘れないうちにメモを。この本は酒井氏が、チョムスキーが唱えた「普遍文法」を脳科学的に証明するために書いた本だ。チョムスキーが唱える「普遍文法」が果たして存在するのか。今までのいわゆる文系的アプローチではその存在を証明するのは難しい。しかし、測定機械の発達により、人間の脳の中でどのようなことが起こっているのか、直接に観察することが可能になってきて、今「脳科学」は急速に進歩している分野だ。「普遍文法」が人間に存在することを脳科学的に証明しようとして、酒井氏が実際に取り組んだ実験の結果などを紹介するとともに、これまでの言語学の発展を概観的に解説してくれている良書だった。

まず、チョムスキーとは何者か?言語学の大家のアメリカの学者である。酒井氏はボストンに留学しあこがれのチョムスキーに会い、言語学研究に方向を変えたのだという。そして、チョムスキーの理論には論敵や反対派も多いが、それを脳科学的に証明したいのだという。チョムスキーの仕事がどれくらいすごいことか言えば、物理の分野でのコペルニクスと同じで、パラダイム=発想の枠組みを180度転換したのだという。しかし、あまりマスコミに取り上げられない。よって一般人には名前が知られていない。

その理由は、チョムスキーがアメリカの政策に批判的なリベラルな知識人で、専門のほかに政治的な発言を積極的にする人物だということにある。チョムスキーはベトナム戦争に反対した反戦知識人であるし、いまでも、アメリカの沖縄基地に反対するマイケル・ムーアなどとともに数少ないアメリカ人でもある。よって、日本のマスコミもお上の目を恐れてチョムスキーのことはあまり取り上げない。

チョムスキーの言語学の理論では「生成文法」と「普遍文法」がある。生成文法とは、人間は(特に子供)は、文法的=論理的に考える能力がはじめっからそなわっていて、文法を自ら生み出し適用していく、という主張だ。例えば、言葉を習いたての子供には「言い間違い」がある。英語のネイティブの子どもにも、動詞の過去形を作る際に不規則動詞にさえも-edをつけてしまう間違いがあるのだそうだ。それを親が間違うたびに直してやって正しい英語が話せるようになる。(日本人の英語学習者もこの話を聞くと少し安心するだろう)だが、この-edをつけるミスというのは、-edを付ければ過去形になるというルールをごく少数の例から類推して適用しているわけで、実はすごい能力なのだ。

ここから、人間は親や周りの人から言語を習い習得するのではなく、はじめから言語的な能力を持って生まれてくるから言語を習得できる。そういう人間に普遍な言語を獲得するための普遍的なものがあると主張した。それが普遍文法であり、これまでの常識を180度転換したコペルニクス的発見だと言うゆえんなのだ。

酒井氏は脳科学的に、普遍文法が人間の脳のどの場所にあるのかを探そうとする。今は、脳の血流量の変化を記録する装置があるので、かなり詳細に脳で起こっている出来事は客観的にわかるのだ。ぼく自身の興味あることとしては、普遍文法が存在したほうがいいと思うしそれが証明されて、地球が太陽の周りを回っているのが常識になったように、常識になってほしいと思う。なぜなら、普遍文法は、「違い」を強調するのではなく、「同じ」を強調する理論だからだ。韓国語、中国語、日本語と母語に違いはあるが、言語獲得能力は人間に普遍なものであれば、違いを強調するよりは、同じところに目が向くのではないだろうか。普遍文法を唱えたチョムスキーがリベラルだというのもうなづける。

もう一つ、興味があるのは普遍文法と第2言語習得との関係だ。誰でも母語は獲得できる。だが、ほとんど世界で普遍的に第2言語の習得には苦労する。特に大人は。思うに、普遍文法というのは、かなり大まかで大雑把なもので、母語の特徴を獲得することで、つまり1回の発動でその効果は終わってしまい、第2言語を習得するときは効果を発揮しにくいものなのではないか。だとしたら、効果的

な外国語学習の方法というのは科学的にあるのだろうか。そんなことを研究したいと思っている。

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2016年9月 4日 (日)

今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書)

第2外国語を、科学的根拠に基づいて効果的に教える方法はないものだろうか。そういう関心から「言語学」に関する本を読み資料を集めている。今井むつみ氏の「ことばと思考」は面白かった。

この書は、ウォーフ仮説が正しいのかどうかをさぐる。ウォーフというのは著名な言語学者で「話す言葉が違うと認識している世界が違う」という仮説を立てた人だ。言葉というのは、世界に名前を付けていくことだ。名詞のような具体物から動作を表す言葉や抽象概念まで人間は言葉を用いて呼んでいく。そしてこの呼び名をつけるということが、世界を分類して区切りをつけていくことなのだが、この世界の区切り方が民族によって、言語によって異なるのだ。

日本人が「雪」としか呼ばないことを、エスキモーの人は雪の降り方によってもっと細かく名付けていく。「細雪」のように「雪」の複合語ではなく、それぞれ独立した普通語で付けていくのだ。となると、日本人に見えない雪の区別が彼らには見えることになり、違った世界を見ていることになるのだ。ウォーフ仮説は、ここから「異なった文化に属する人どうしは、わかりあえない」という方向へも行ってしまう危険性があるが、今井氏が心理学や言語学において科学的な実証研究を検討し、そして自らも行った結果、言語の違いによって世界の見え方・捉え方が変わってくるというウォーフ仮説はおおむね正しいらしい。

では、この世はわかりあえない人どうしの憎悪発言、憎悪犯罪、戦争、いさかいに満ちてしまうのか。この書で一番感銘を受けたのは、なぜ人は外国語を学ぶべきなのかを述べたところだ。言語は人に視点を与え、ふつうの人は母語の視点に縛られる。しかし、外国語を学ぶということは、その言葉を話す人たちの文化、思考、ものの見方も学ぶということだ。外国語を学べば、自民族のものの見方が絶対であるという偏狭で幼い思考の枠組みから外に出られるし、自民族自体の枠組みも外から客観的に眺められる。

外国語は外交官や商社マンなど一部のエリートがやればいいのであって、一般の人(特に子供たち)に外国語学習を押し付けるのは負担になるという考えもある。しかし、外国語学習は歴史学習と同様に、相対的なものの見方を与えてくれるのであれば、すべての人は何らかの第2外国語を学習するのも悪くはない。それは何も英語学習に限らない。韓国語や中国語だっていいわけだ。

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