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2016年8月 5日 (金)

スポーツ考

オリンピックが始まった。今回はロシア選手団のドーピング問題が直前に起こり不可解な妥協的な解決となったり何かと話題に多いオリンピックである。これを機会にスポーツについて再考してみるといいのではないだろうか。読売新聞で特集をしている。8月3日付の記事で文化人類学者今福龍太氏が近代スポーツの歴史を振り返り、有益な提言もしているので要約してみる。

考えてみると昔人類には「スポーツ」なんてなかった。生活に密着して生活のために体を動かすという営みしかなかったはずだ。スポーツは、19世紀後半西欧の国家主義の台頭とともに生まれた。つまり西欧列強の世界侵略や植民地主義と無縁ではないということだ。スポーツは戦争の代替物であり、戦争による勝ち負けを、洗練した形で昇華させたものと言える。しかしというか、だからというか、スポーツの競技には敵対性の原理を持ち、勝者と敗者を分けるシステムがあり、勝敗原理に縛られている。

出典を忘れてしまったが、文化人類学者の記録をぼくは読んだことがある。西欧人から見たどこかの未開地でサッカーを現地の人に教えてやらせたところ、現地に人は、得点が多い方が勝ちというルールにとまどい、必ず相手と同点になるように相手に気を遣ってやるので西欧人の眼から見ると勝負にならなかった、でも現地の人は楽しそうにプレーしていたという記録だ。本当は人類の価値観は「勝ち・負け」だけでなく、「分かち合い・平等」という価値観を持った文化的集団も多いはずなのだ。

さて、今福氏によると、オリンピックは当初先進国のエリート階級の男性だけが参加できた。特権的な階級意識を確認する装置でもあったのだ。このように、オリンピックは偏狭なナショナリズムと結びつき、経済的な利益を体現する場となり、誘致に多額の費用が掛かる背後に膨大な利権が存在するようになった。なぜドーピングが起こるのかも、そうまでして勝利にこだわる、そして勝てば生み出される経済的価値があるからこそだ。薬物使用や商業主義などオリンピックは無垢ではないが、人々は過剰な正しさや純粋性を、スポーツだからこそ求める。これは幻想だろうし、近代の矛盾だと今福氏は指摘する。

ではスポーツに未来はないのか。今福氏は2つの可能性を指摘しとても興味深い。1つは勝敗原理の克服。これはスポーツの歴史そのものに対する反逆でもあり難しいが、勝敗原理が行き過ぎると、結局スポーツが政治と経済の道具になり果てる。しかし、身体運動の美や快楽は勝敗原理だけで実現できるものでなく、例えばサーフィンのようなスポーツは敵に打ち勝つことを本来目的にせず、自然物を相手に身体感覚を鍛えるスポーツである。こうした方向に未来のスポーツはあるという。

もう一つは、スポーツを家族や地域社会の連帯を作り出すコミュニケーションとして位置づけることだという。例として、ブラジルのサッカーは家庭や地域を結ぶ生涯スポーツ的なクラブが底辺にあることを挙げている。仙台で言えば楽天などのプロスポーツが、子ども野球教室などを開いていることなどもその例として、今後のスポーツの在り方を示唆しているのだろうか。それにしても、楽天の勝敗に一喜一憂しない、勝利至上主義からの脱却を、ファンとしてぼくも果たしたいと思う。何しろ一喜一憂していると大変ストレスのかかる負け方をしているので。

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